明治150年記念(大磯邸周遊公開)。     18,11,18

  温暖で風光明媚な湘南海岸には明治の元勲達が次々にモダンな別荘を建てた。
 代表的な土地が大磯と葉山である。明治20年、横浜~国府津間の東海道線が大磯駅に停車
 できるようになると、便の良さから大磯の別荘建築に拍車がかかり、多くの政財界人がこの地
 を海水浴を兼ねた静養地とした。

  今年は明治維新(1868年)から150年、大磯町では「明治150年大磯庭園記念公開」と称して
 普段は非公開の明治の元勲たちの別荘を公開している。

  40年も前に、協力会社のグループで大磯の吉田茂邸を見学し,由緒ある食堂で会食したこと
 がある。10年前に惜しくも不審火で母屋が全焼してしまい今は再建されているが訪れたことは
 ない。又、JASSの企画で安田財閥の領袖、安田善次郎の別荘を見学したこともあるが、今回
 ようやく今まで非公開だった伊藤博文邸、陸奥宗光邸、大隈重信邸、西園寺公望邸、を訪れる
 機会を得た。

  伊藤博文邸;
  明治20年ごろ伊藤博文の別邸は小田原にあり、「滄浪閣」と呼ばれていた。その後白砂松林
 の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決め、
 明治29年、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名づけた。

  建物は日本間と洋間が3つあり、日本間は10畳と8畳に仕切ってある。明治天皇の下賜品で
 ある絵襖が飾られている。床の間に古びた碁盤と碁石が置かれていて傍らの書には、「囲碁を
 やれなくなったら、死んだほうがよい。」と書かれていた。

  お世辞にも立派とは言えない碁盤と碁石なので、当時の本物なのかどうかは疑わしい。また
 棋力がどの程度だったのかも判らない。

  本人直筆の掛け軸が見事だった。関東大震災で一部被災したが復旧して往時の家屋その
 まま残る貴重な建物である。よく整備された庭園が素晴らしい。


      

  陸奥宗光邸;
  明治27年に別邸として建築され、関東大震災で大破したが、その後修復された。三方を縁側
 で囲まれ、モダンな和室が海に向かっていて、中廊下には木目の美しい立派な屋久杉の棚が
 目に付く。陸奥邸の玄関には「聴漁荘」と書かれた立派な扁額が飾ってある。海の音を聴くとも、
 漁民の声を聴くともとれる「聴漁荘」という名前が大変気に入った。

  床の間には横山大観が庭石に座って描いたといわれる直筆の滝の絵が掛けてある。

   
  

  病床にあった陸奥が晩年の明治25年ごろから書き始めた回顧録 「蹇々録」(けんけんろく)
 は、ここの書斎で下書きし、隣室の書生部屋で書生が清書したという。2つの和室が印象的だ
 った。

  「蹇々録」は外務大臣陸奥宗光の時代の外交記録で、外務省の機密文書を引用しているた
 め長く非公開とされ、1929年(昭和4年)に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料で
 ある。

  1894年(明治27年)に朝鮮で起きた甲午農民戦争(東学党の乱)と日清戦争、1895年(明治
 28年)の三国干渉までの陸奥宗光自身の外交の経験・苦労・感想が書かれている。

  たとえば、日清戦争開戦の動機については、内村鑑三は当初、中国の不当な朝鮮支配を打
 破するための義戦であると唱え、日本の世論も概ねこれに一致していたが、「蹇々録」にはは
 っきりと日本の国益のための戦争であって義侠の精神はまったくないと書かれている。

  日清戦争は日本の勝利に終わり、陸奥宗光は全権大使として下関条約を締結し、清国から
 遼東半島を割譲させたが、間もなく三国干渉によって返還することになる。三国干渉について
 記した「余は何人を以て此局に当らしむるも亦決して
他策なかりしを信ぜむと欲す」という文
 章がよく知られている。

  第二次大戦後に沖縄返還交渉の密使を務めた若泉敬が、交渉の内幕を明かした著書のタ
 イトルにこの文章の結語を流用している。(ミミズの戯言23参照)。

  大隈重信邸;
  現邸宅は明治30年に別邸として建築され、貴重な神代杉をふんだんに使った「神代の間」が
 あり、調度品が飴色の鈍い光を放っていた。床の間には欅の1枚板と竹の床柱がある。

  社交家の大隈がよく宴を開いたといわれる大広間は「富士の間」と呼ばれる立派な和室で、
 ここからは富士がよく見えたらしいが、今では松の大木が眺望を妨げている。建物も庭園も
 素晴らしい。


  廊下を通るとガラス戸や障子に今では貴重な手加工の 「大正ガラス」がふんだんに使わて
 いるのに気が付く。手加工なので表面が歪んでいるのですぐに判る。

 西園寺公望邸;
  現在は非公開の為、外観のみ見学。モダンな洋館とシックな日本家屋が隣接している。伊藤
 博文の「滄浪閣」の隣にあるので「隣荘」とも呼ばれている。
   
    

  別荘群が立ち並んでいる東海道の松並木沿いは、別名「元勲通り」と呼ばれ、他にも吉田茂、
 山形有朋、樺山資紀,鍋島直大、岩崎弥之助、安田善次郎、等の別荘が並んでいる。
 「大磯庭園記念公開」のイベントが終了した後で近くの蕎麦屋で昼食を取り、久し振りに吉田茂
 邸を見学した。

  吉田茂邸;松籟荘、
  義父の吉田健三が明治17年に別邸を建ててから吉田茂が国内外の要人を招く迎賓館として
 新築し本邸として晩年まで過ごした屋敷。焼失する前に訪問した時の印象があるので、再建後
 の書斎兼寝室、外国の要人と会談した応接間や食堂、好んで作らせて舟形の風呂、などは当
 時の趣が薄い。入口の兜門や七賢堂だけが焼け残って当時をしのばせている。


   

  よく整備された広い庭園からは相模湾が見え、はるかサンフランシスコの方向を見つめる吉
 田茂の銅像が立っていた。ワンマン宰相と呼ばれ、良くも悪しくも戦後の日本をリードした大政
 治家だった。

  今回の大磯別邸見学ツアーは「大磯ボランティア協会」の人たちが大変な苦労をして、公開
 準備とガイド役を引き受けてくれていた。我が葉山町にも大磯ほどではないが御用邸をはじめ
 多くの明治の元老達の別荘跡が残っている。風光明媚さも大磯に勝るとも劣らない。

  大磯町同様の「別邸見学ツアー」が企画されれば、かってのガイド経験者として大変うれしい
 のだが、今の葉山町の現状ではとても実現は難しいことだろう。