ミミズの戯言23 他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス。11,02,23

   表題の言葉は明治28年の日清戦争の後、やむなく三国干渉を受けて遼東半島の権益を放棄する
  講和条約を締結した、当時の外務大臣陸奥宗光の言葉である。困難な外交交渉の中で国益のため
  に常に最善を尽くしてきたという自負を込めた最後の言葉が「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」であった。

   この言葉を本の題名にして若泉 敬が告白書を書いている。1972年の沖縄返還で当時の佐藤栄
  作首相の密使だった国際政治学者・若泉 敬が1997年に著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を著
  わし、米国側と核再持ち込みの「密約」(シークレットアグリーメント)があったことを暴露した。その後
  外務省は密約書の存在を否定したり肯定したり真偽の程は曖昧だが、そのことは”ミミズの戯言”
  本論の本題ではない。

   昨年暮れに今津先生を囲む恒例の「賢人会」が横須賀の老舗料亭Kで開かれた。宴たけなわに
  なり普天間基地移設問題が話題になった時、A新聞社の前政治部長のNさんが、敬愛し私淑した
  若泉 敬氏の思い出や沖縄とのかかわりを話してくれ賢人会らしい話題で盛り上がった。

   1945年の敗戦の6年後に日本は講和条約を締結して国際社会に復帰したが、沖縄が本土に返還
  されたのは1972年、「アメリカの沖縄」が「日本の沖縄」になるには実に27年もの歳月を要した。

  沖縄の本土復帰が異常に遅れたのは戦後の国際政治情勢の影響が大きかった。朝鮮戦争、米ソ
  冷戦、ベトナム戦争など米国にとって、沖縄の軍事基地としての重要性は増大するばかりであり、
  日本が戦争を放棄している限り、米国は沖縄を手放すわけには行かなかった。日本国民の悲願だ
  った沖縄の本土復帰は、佐藤栄作内閣とアメリカはニクソン政権の時代に実現した。

   「核抜き」「本土なみ」、という基本条件で復帰したのであった。この交渉で日本側の密使を務めた
  のが、賢人会で話題になった若泉 敬(元京都産業大学教授)氏だった。佐藤栄作とニクソン、若泉
  敬とキッシンジャー、この二組のペアが密接に連携を取り秘密交渉のすえ、いわゆる「密約」を結び
  沖縄返還は成立した。その密約とは何か、「核抜き、本土並み」という大義名分の裏に、「有事の際
  の核持込み」と「繊維輸出規制問題の日本の譲歩」がそれであった。

   若泉氏は、「日本の沖縄」になれば将来必ず基地問題は日本に有利に展開し解決に向かう。との
  信念で密約覚悟の返還交渉を成立させた。しかし沖縄返還後、国の施策は経済振興策に特化し、
  基地問題は棚上げされたままで、沖縄には未だに広大な米軍基地が存在し、住民の平穏な生活は
  回復されていない。
  
   沖縄の持つ地政学的な重要性が米軍基地の存続に繋がっているのだが、重要な転換点は第1
  に日米安保条約締結の時、第2に60年の安保改定の時、第3に沖縄返還の時、この3つの通過点
  でいずれも日米両国は米軍基地の沖縄存続と極東地域防衛の戦略的互恵関係を強固なものに
  してきた。沖縄県民の犠牲と我慢を強いることを黙認して・・・・。

   キッシンジャー補佐官を相手に密使として活躍し、長く密約の存在を秘してきながら、若泉氏は
  25年間の沈黙を破って表記の著書を世に明らかにした。核を巡る「密約」に手を染めたことや、
  「日本の繊維輸出規制問題」を復帰の取引材料として扱われたことへの自責の念からである。
  米軍基地が存在するが為の沖縄の苦しみは「日本の沖縄」になることで少なくとも解決に向かう筈
  だった。なのに少しも好転しないことに対する結果責任、「密約」の隠蔽という歴史に対して負って
  いる重い「結果責任」から自裁を決意するに至る。

   若泉氏は96年に鯖江市の自宅で亡くなったが、国政を預かる日本の政治家達を「愚者の天国」
  といったそうだ。命がけで日本の平和・安全・防衛・外交・を将来にわたって考え行動する政治家
  の不在を嘆いての発言である。氏が著書で投じた一石は重い。 氏が亡くなって6年、基地移転問
  題で揺れる政権与党は未だにその課題を引きずっていて答えを出せないでいる。世界の潮流が
  激動する中で、迷走を続ける民主党政権に、国民とマスコミの批判を浴びながらも真に日本の将
  来を見据えて外交交渉に当たった日清戦争の陸奥、日露戦争の小村などの力量のある政治家が
  いるとは思えない。まことに危ないかな日本である。

   2月21日夜TBSテレビ・激動の昭和”総理の密使〜核密約42年目の真実”をご覧になった方も
  多かろう。核の密約を巡る日米4人の首相と外交官の息詰まる外交交渉は見ごたえのある見せ場
  の連続だった。