町民大学・第4回講義;「戦国大名北条氏とその文書」 12,03,05 日時;3月5日、 講師;県立歴史博物館専門学芸員 鳥居 和郎氏 啓蟄(けいちつ)だというのに春未だしの寒さで今日は氷雨が肌に冷たい。しかし受講者はこの雨の中でも 70名全員出席とのこと。知識欲旺盛なのか、暇を持て余しての出席なのか、いうまでもなく前者なのであろう。 葉山のインテリ老人集団ここにありといったところか。 ー講義の要旨ー 今日の講義は古文書の形状と名称、花押(かおう)と印判の歴史についてであった。古文書学という分野が あって、日本やヨーロッパでは古文書の体系的な研究が盛んである。 古文書の料紙は麻紙、楮紙(ちょし)、雁皮紙(がんぴし)、壇紙に分類される。料紙の形状も様々で、基本 的な形式は堅紙(たてがみ)というA4よりやや幅の広い大きさの用紙である。あとはこの堅紙を横半分に ふたつ折りにした折紙(おりがみ)、横半分に切った切紙(きりがみ)、縦に切った堅切紙(たてきりがみ)、長 文の場合に紙を繋ぐ継紙(つぎがみ)などがある。封書の折り方にも作法があり、宛先の名前の場所に折り 目がつかないよう、相手に無礼にならないように配慮した折り方をする。 文書の様式を時代を追って考察すると、@奈良時代の文書(公式用文書)、平安時代の文書(公家用文書)、 鎌倉時代の文書(武家用文書)、室町時代の文書(武家用文書)、戦国時代の文書(武家用文書)に分類さ れ、それぞれに特徴ある文書形式となっている。 中世の武家文書といえば、花押(かおう)のイメージがある。代表的なものは頼朝の花押である。これが戦 国時代になると、東国の戦国大名の間では「印」を捺した文書が流行した。神奈川県にゆかりのある戦国大 名北条氏は、印判の使用を制度化した最初の大名である。 公式文書には署名の他に必ず花押か印判のどちらが用いられている。署名だけでは公式文書にならない。 歴史的にみると、奈良時代の公式文書には印判が使われ、平安末期になると次第に印判が消えて花押が 登場した。鎌倉時代に入り、亀山上皇によって公式文書(武家様文書)の記載様式が定められ、院中の礼式 集として編纂された「弘安礼節」の中の「弘安書札」が武家用文書の規範となったが、下文、御教書、下知状、 奉書などの公式文書には署名と将軍の花押によってその文書は権威づけられるようになった。 文書形式、また作成にかかる書札礼の知識や配慮を行うことは大名にとって必須のことであった。 戦国時代に入ると公式文書には印判の使用が行われるようになり、花押のある文書と、印判の文書の両 方がみられるようになる。大名の花押による文書を「判物」といい、印を捺した文書を「印判状」という。 戦国時代は合戦の歴史と云ってよいが、合戦は最終手段であって合戦を避けるために様々な外交が繰り 広げられ、敵味方の大名間で盛んに公式文書のやり取りがあった。他に連絡方法のない戦国大名にとって 「文書」は命綱・生命線だった。偽文を避けるための花押は重要な本物の証明だった。 花押には、草書体、二合体、一字体、鳥を模った別用体、明朝体があって大名家ごとに工夫が凝らされて いる。例えば足利将軍家の花押は歴代将軍みな類似した花押であり、北条氏も歴代類似した花押を用いて いる。さらに各将軍とも年代によって少しずつ花押の形を変えている。これは偽文防止の知恵と解釈されて いる。 因みに頼朝の花押は二合体で、頼と朝の扁(へん)を合体した文様となっている。 花押は実名の署名と同様だから、当初は実名を自書するか花押を署するかのどちらかで、両者を併記す ることはなかった。しかし花押ではその筆記者の判別が困難な場合もあり次第に平安末期から実名と花押 を連記するようになった。武家の公印として初めて制度的に「印判」を使用したのは戦国大名北条氏である。 有名なのが永生15年(1518)10月8日付けの虎朱印状で、印は縦横7,5センチの方印の上に蹲る虎を配 している。公文書に朱印を捺すことは画期的な出来事だったに違いない。この虎の印判は天正18年(1590) の北条氏滅亡まで72年間にわたり家印として使用された。 北条氏が印判を使用した目的は次の3つと考えられている。 @ 権力の集中化・一元化。A 早雲から氏綱への代替わりをにらんだ北条家と家臣の上下関係の強化。 B 印判状制度の採用による行政的効率化。である。 なかでも行政が多岐にわたると公式文書にいちいち花押を記すことは大名北条氏にとって負担が多すぎ、 印判なら家臣に任せることが出来るので負担が格段に少ない。公式に準じた文書を見ると、北条家の文書 には30を超える印判が使用されている。数多くの文書発行がなされたのであろう。判が逆さまに押されたり、 横に押されたりした文書もあり、文書発行の忙しさが想像できて微笑ましい。 ー感想ー 恥ずかしいことだが、「古文書学」という学問分野が洋の東西を問わず存在することすら知らなかったので、 図らずもまた新しい世界を知ることになった。古文書というと、古臭いカビの生えた文書を首をひねりながら 解読する年寄りの集団というイメージしかなかったので、これからは見方を改めることにする。葉山町郷土 史研究会には古文書部会があって、葉山の古文書の解読と歴史解明の研究をしている。その努力を多と しながらも、解読には大変な知識がいるのでこれに深く関わることは避けている。 それにしても現代は過去を引きずり、過去からの因習を受け継ぎながら存在しているということを改めて 実感させられた。日本の公式文書の世界は昔と少しも変わらない。例えば役所に出す文書も民間企業の 文書も署名だけでは通じない世界になっている。何故か必ず3文判が要る。重要な文書には実印がいる。 直筆だけでは信用されない世界は、遠く奈良・平安・鎌倉・戦国・江戸の時代と少しも変わらない。欧米が 自筆サインを唯一重視しているのと根本的に違うのは何故であろうか。 花押も廃れたかと思うとどっこいまだ生きている。どこの企業でも稟議書には最上位の役員の承認印か サインがいるが、わが出身会社のトップは判読困難な花押を使う人が多かった。承認欄に赤鉛筆で麗々し く書かれた頼朝の花押のようなトップの花押を見て、「ハハー」と恐れ入ったものである。ある大トップの役 員は二通りの花押を用いていて、「承認」と「不承認」を使い分けていた。「不承認」の花押を見て、戦々恐 々役員室にご高説を伺いに出頭したものである。その後実は私も真似をして花押ごときサインを用いて自 分らしさを表現したものである。 まだある。新内閣誕生の時の新大臣の認証書類、総辞職の時の退任書類には署名の他に花押を用い るのが慣習なのだそうである。花押など知らない若い新大臣は就任と同時に、識者に教わり自分の花押 をどのようにするかをにわか勉強し、花押の筆跡を懸命に訓練するらしい。古くて新しいしきたりは内閣に も根強く生き残っているとの事だった。 面白いことを教わった。歴史は今もその痕跡を現代に残している。これが今日の収穫であった。 |