町民大学・第5回講義;横浜開港場と豚屋火事。   12,03,15

     日時;3月12日、講師;関東学院大学名誉教授、小林 照夫氏

    早いもので町民大学講義も最終回となった。小林教授の名講義の後閉講式があり、関東学院大学文学部
   教授、佐藤茂樹氏の閉校挨拶ですべて終了した。

   ー講義の要旨ー
    たった4隻の黒船の来航によって長い鎖国の夢を絶たれ、幕府は日米和親条約(1854・嘉永7年)、日米修好
   通商条約(1858・安政5年)と立て続けに米国と条約を結び、英国、ロシア、フランス、オランダとも同様の条約を
   結んだ。いわゆる安政5か国条約である。この前後のくだりは幕末から維新の沢山の出来事があるので省略す
   るが、和親条約で箱館(のちの函館)と下田の2港を開港し、通商条約で神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫など
   が開港した。本講義は@横浜開港と外人居留地、A攘夷運動と関門の設置、B港崎遊郭と横浜浮世絵、C豚
   屋火事と「関内の内の論理」の崩壊、の順序の講義だった。

    @ 横浜港は実は開港地は神奈川湊の予定だった。 しかし東海道沿いに位置する神奈川を開港すると外国
   人との間にトラブルの発生する恐れがあった為、隣接した寒村の横浜に変更され、1859年(安政6年)の開港に
   至った。当時の横浜村は101戸しかない寒村だったという。横浜は水深があり、大型の外国船が入港するには
   申し分無かったが、一帯は開発のし易い新田地帯であり、後に市街地として急速な発展を遂げる要素が満たさ
   れていた為、開港されると、アメリカと同様の条約を締結したオランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国との交
   流も相次いで始まり、横浜は貿易港としての町独特の様相を呈していった。
    横浜が開港した後にまず初めに現在の山下町に位置するところに山下居留地が4年ほどで完成し、その後に
   横浜居留地、山手居留地などが幕府により造成されていった。居留地は外国人が自由に活動できるエリアだが、
   条約によって旅行などは居留地から10里四方に制限されていた。

    A 幕末から開港直後にかけて生麦事件を始め外国人の殺傷事件が多発した。居留地での日本人との諍い
   を避けるため横浜開港場の周囲は掘割と川で区切り、開港場への出入りに利用された橋に関門を設置した。
   関門は子安・台町・芝生・暗闇坂・吉田橋に設置され、後に大岡川、中村川を結ぶ掘割ができ、吉田橋が鉄骨
   化された。西の橋、前田橋、谷戸橋にも関門が設置された。関門の内側を「関内」といいその外側を「関外」とい
   ったが、近代化が進むにつれ、関門も廃止されて「関内」・「関外」という区分けも無くなり、関内という名だけが
   残った。これが関内という名前の由来と言われている。横浜に関内という地名は無い。 現在ではそういう名称
   の駅があるのみで、その界隈を関内と呼んでいるだけである。また大岡川と中村川を結ぶ掘割り(運河)も埋
   め立てられて高速道路になり昔の面影はない。吉田橋や前田橋なども地名が残っているが橋の面影はない。
    私の学生時代には運河を渡る吉田橋を渡り、関外にあたる伊勢佐木町に繰り出したものだがこれも昔話で
   ある。

    B オランダ領事の要請で、関内の港崎(みよざき)今の横浜公園スタジアム周辺に港崎遊郭が設けられた。
   品川宿の岩槻屋佐吉が泥地を埋め立てて開業した「岩亀楼」はじめ遊女屋には公娼(羅紗面)の鑑札保持者
   は500名を超え、素人のもぐり羅紗面は2000名を超えたという。当時遊郭の模様や外国人の日常生活を扱
   った横浜浮世絵が外国で人気を博した。横浜浮世絵は文明開化も題材になり、蒸気機関車、蒸気船、人力車、
   鉄道馬車、洋風建築、灯台など文明開化が進む横浜の様子も描かれている。日本の茶器類が欧米に流出し
   た際に、包装紙に横浜浮世絵を使い現地に送ったところ、陶器よりも包装紙の横浜浮世絵が人気を得たとい
   う逸話も伝わっている。

    C 慶応2年(1866)、末広町で豚肉を扱う豚屋鉄五郎宅(今の横浜市役所付近)より出火し、港崎遊郭へ燃
   え広がり、遊女400人以上が焼死、さらに外国人居留地や日本人街もほぼ焼き尽くした。運上所、改所、官公
   庁が立ち並ぶ日本人街の3分の2、英国一番館などの居留地4分の1を焼失したという。この大火により横浜の
   様相は一変する。まず遊郭跡地は避難場所も兼ねた洋式公園(現横浜公園)となり、町屋は洋風石造へと建
   て替えられて、関内は欧風の近代都市へ改造されていった。現存する横浜の歴史的建造物はこの豚屋火事
   が契機で建てられたものである。幅60フィート(約16m)の道路3本(馬車道、海岸通り、吉田橋〜西の端)や、
   幅120フィート(約36m)の中央通り(現日本大通り)も造られた。また山手地区への居留地の拡充、外人墓地
   の拡張も行われた。
    一方、遊郭は関外の吉田新田に吉原遊郭として復活、明治4年(1871)再び火災で焼失し翌年高島遊郭に
   なり、その後3度目の火災で真金町、永楽町に移転し赤線廃止まで永真遊郭として栄えた。遊郭の関外移転
   や外人居留地の移転・拡充は実質的な関内(関門の内)の論理の崩壊であった。遊郭で遊ぶ外国人は自由
   に関門から外に出入りし関門の意味を為さない。関門は廃止され、「関内」の名前だけがわずかに名残をとど
   めるだけになった。キングの塔、クイーンの塔、ジャックの塔など現存する横浜の歴史的建造物の誕生と、関
   門の廃止のきっかけは、1866年の「豚屋鉄五郎宅の火事」であった。


   ー感想ー
    50年前の学生時代に4年間通った横浜は懐かしい思い出の詰まった都市だが、市街地周辺は当時の面影
   がほとんどない。桜木町から馬車道、尾上町、吉田橋を渡って伊勢佐木町には懐かしい市電が走り、伊勢
   佐木町や元町には流行の先端を行く品々を並べる瀟洒な店が軒を並べていた。夜になると怪しげなバーで
   はジャズが奏でられ、黒人兵士が腰をくねくねさせてハマジル(横浜ジルバ)を踊っていた。異国情緒のプン
   プンする街だった。当時の名残をわずかに残すのは野毛の居酒屋が並ぶ歓楽街だけである。今横浜を闊歩
   する若い人達は吉田橋や前田橋が川に掛かっていたなどは信じられないだろうし、市電すら知らないだろう。

    横浜開港の歴史の講義を聴きながら昔を思い出していたが、そういえばあまり開港の歴史を知らないことを
   改めて思い知らされた。鎌倉の寺社巡りをした時もそうだったが、ただ漫然と見てきて、「どこそれに行ってき
   た。」と見聞を話すだけでは味もそっけもない。寺ひとつ、仏像ひとつ、建造物ひとつ、その当時の背景や由来
   を知って見るのと知らないで見るのとでは、見る価値が大きく違う。味わい深さが違うのである。

    鎌倉検定という資格認定試験がある。鎌倉の文化、歴史、史跡、神社、寺院、祭りと暮らし、文学、文士、自
   然、観光など鎌倉に関するあらゆることについての知識を問う検定試験で、3級から2級、1級とある。3級・2
   級は志願者それぞれ500人ほどで合格率は70%程度だが、1級は難関で、受験資格は2級合格者のみで、
   受験者200人程度のうち合格率は10%、約20名しか認定されないという超難関である。
    先日町民大学講座の第1回「鎌倉密教」の講義があまりにも理解できなかったので、一緒に聴講した文化
   財研究会の友人3人で、おなじく聴講した仲間のM女子に補講をお願いしてようやく少しは理解できるように
   なった。内緒にしていたらしいが、M女子はこの鎌倉検定1級の資格を持ち、なんとその試験で合格者20名
   中トップで合格した俊才だとのことだった。どうりで鎌倉の歴史から現代にいたるあらゆることを知っていて、
   その場所まで知悉しておられる筈だ。内気で控えめなM女子の隠れた一面を知り満腔の敬意を払った。

    3級試験の内容を調べたら、とても太刀打ちできる試験ではなかったので1級はおろか3級すら受験は到底
   無理な事を思い知ったが、横浜にせよ鎌倉にせよ、自分の青春時代の思い出の詰まった場所なのに、何も
   知らずにただ漫然と歩き回っているだけで、薄っぺらな知識しかなく過ごした住民だったことが恥ずかしく、正
   に赤面の至りである。そんな感想を持った今回の町民大学講座だった。    ー終わりー