町民大学第2回講義 「幕末の代官・江川太郎左衛門」 12,02,21

    日時;2月20日、講師;関東学院大学、早稲田大学非常勤講師・三澤 勝己氏

  ー講義の要旨ー
    伊豆韮山の世襲の代官だった第36代江川太郎左衛門英龍の人となりや業績についての講義だった。
   今も伊豆韮山にある江川屋敷は広大な敷地を持つ豪邸で国の重要文化財に指定されている。享和元
   年(1801)に伊豆国の韮山屋敷に生まれ35歳で家督を相続して代官に就任している。江川太郎左衛門
   の業績は多彩で、代官としての治世の他に、幕府の海防掛としての業績、韮山塾を開校して後進の指
   導をした教育者としても知られている。韮山代官としての支配地は広く、武蔵国、相模国、伊豆国、駿河
   国、甲斐国の5か国5万4千石(のち26万石)におよぶ幕府直轄領(天領)を管轄した。代官の日常は、
   衣服は礼服以外はすべて木綿物で通し、食事の惣菜は質素で、酒はいかなる時でも1日2合を越えな
   かったという。水戸斉昭のような大名の招待を受けた時でも、この量を守るという徹底ぶりであったらしい。

    代官として積極的に支配地を巡検し、当時手代さえもめったに渡島しない危険極まりない孤島の小笠
   原にも見分に出かけている。次第に頭角をあらわして幕末には代官の傍ら幕府の海防掛に任じられ、
   よく知られるように@西洋砲術導入、A反射炉建設、B台場築造、という先駆的な業績を残した。

    嘉永6年(1853)ペリーを司令官とするアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に来航、合衆国大統領フィルモア
   の親書を受け取ることを幕府に要求した。蒸気船2隻を含む4隻の黒船には大小合わせて63門もの艦
   載砲が装備されていたが、当時江戸湾を防備する各藩の砲は威力・射程距離共に遠く及ばず、江戸城
   と江戸の市街はペリー艦隊の脅威にはほとんど無防備でさらされる事態だった。江川太郎左衛門は代
   官としての立場から、数多く来航する外国船に対してどのようにして海岸線、特に江戸湾を守るかにつ
   いてトータルな海防構想を練り上げていたので、自らの考えである江戸湾に台場(砲台)を築くことを進
   言し、突貫工事でその任に当たった。台場は11か所の築造を計画したが完成は5か所、半完成が2か
   所で残りは未着工に終わった。御殿山からレインボーブリッジ周辺にかけて今も第1番から7番までの
   台場跡がありその面影を残している。

    また国産の大砲の製造の必要性に早くから着目して、幕府の許可を得て韮山に私費で反射炉を建造
   した。建屋には、反射炉のほか、鋳台、鍛冶小屋、型乾燥小屋などが完備していた。伊豆長岡には今も
   反射炉が現存していて当時をしのばせている。神道無念流の免許皆伝の腕前を持ち西洋砲術にたけ
   た彼は、42歳の時、韮山塾を開校し西洋砲術の指南と後進の指導に当たった。質実を旨とするこの塾
   は現在の県立韮山高校の起源である。西洋砲術、反射炉建設、台場築造、これらはいずれも西洋の
   進んだ科学技術(軍事技術)の導入・国産化を目指したもので、明治維新後の日本の軍備近代化の基
   礎のひとつになった。

   ー感想ー
    当時の代官の役割は現在でもあまり明らかではないようだ。我々が知っているのはせいぜいドラマの
   水戸黄門の場面に出てくるシーンで、菓子折りの下の小判を見て「越後屋、お主も悪よのう。」のセリフ
   をいう悪代官である。韮山代官・江川太郎左衛門はこんな悪代官ではなく善政を施し領民に慕われた
   代官だったらしい。
    幕末の一時期、わが葉山町は相模国葉山村として韮山県に属し、江川太郎左衛門の支配下にあった
   と町史に記されている。葉山の漁民・農民も「お代官様」と崇め奉ったのであろう。
    代官、海防、教育者(砲術指南)の3つの顔を持つ人物だが、日本で初めてパン造りをした元祖として
   も知られている。

    台場の築造については、吉村明の小説「黒船」に詳しく載っている。一例をあげれば、台場築造の為
   に35万坪の赤土を品川の八ツ山と御殿山から運搬し、人夫は270万人、東海道の交通を遮断し大名も
   迂回させている。台場の石垣と砲台を築くために 伊豆半島や根府川、真鶴、三浦半島から石を切り
   出して船で運んだ。石材を品川沖まで運ぶには多くの船を必要とし、上方から江戸に向かう廻船、江戸
   湾の荷船などは御用船として運送に徴用された。構築費用は莫大で大砲の鋳造費も含めると第1番か
   ら6番までで90万両を超えている。財源は主に江戸、大阪、堺、の町人の上納(寄付)で賄ったが、お国
   の一大事とあって積極的に協力したようだ。

    数年前に一緒に仕事をしたTグループの仲間たち10数人で伊豆の旅をしたが、その時韮山の江川邸、
   長岡の反射炉、頼朝が流された韮山の蛭ヶ小島を見物してきた。ぼんやりとした記憶しか残っていない
   が、多少の予備知識もできたので、いつか再度見物に行けたら江川太郎左衛門の記憶ももっと鮮明に
   なることだろう。