葉山の散歩道(8) −下山口ー 11,11,11 葉山町は、いかにも”葉山”らしい景色の海岸地区と、のどかな田園風景の山側地区に大別される。 海岸地区は堀内、一色という風光明媚な景勝地で華やかな歴史に包まれている。一方、山側は上山 口、下山口、木古庭地区で、緑豊かな木々や段々畑や棚田などのどかな風情を醸し出している土地 である。では下山口を案内しよう。 1、新善光寺 逗子駅から御用邸に至るいわゆる行幸道路を進んで、途中で左折して衣笠方面に行くと新善光寺 がある。浄土宗、創建は弘治2年(1556)だが、建仁年代(1201〜03)に頼朝の妻政子が信州善光寺 如来を写し取り、鎌倉の名越で信仰し、その後に新善光寺として当地に創建したと伝えられている由 緒ある寺である。下山口の文化財めぐりはここから始まるが、実は新善光寺は上山口に属している。 2、平兼盛の墓 平安の末期、村上天皇の時代、史上有名な天徳内裏歌合せで、平兼盛と壬生忠見の対決があった。 「忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問うまで」。百人一首に出てくる平兼盛の有名な 一首。これに対する返歌が壬生忠見の歌で、「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思い そめしか」であった。双方とも抜群の秀歌だったので判者が勝敗をつけかねていたところ、御簾の中 の村上天皇が密やかに兼盛の歌を口ずさまれたので、判者は兼盛の勝ちに決めたといわれている。 壬生忠見は失望落胆して不食の病となり亡くなったといわれている。この平兼盛の墓が下山口の「平 の里」にある。ただしこの墓が本物かどうかには異論がある。 3、水源地 峰山の北麓にあり、石の間から湧き出る清水の量が多く、水質も宮内庁に認められ大正2年にこの 地の持ち主から買い上げられ御用邸の水源地になった。敷地は4600坪もある。その後水質が変化し て現在の御用邸の水は水道水になっている。 4、吾妻社 祭神は日本武尊。尊が東征の折、古東海道筋であったこの地を通過されたと推定されている。現在 は不動堂になっている。葉山には吾妻社が2か所あり、もう一つは長柄小学校の登り口にある。 5、茅山荘 元荏原製作所社長畠山氏邸。ここではしばしば俳句の会が開かれ高浜虚子もそのメンバーの一人 だった。邸内には能舞台や茶室などがあり、春は桜、秋はモミジが素晴らしい。「婢(ひ)下僕 はしり 出迎え 花の荘」。虚子が句会に出席のためこの家を訪れると、女中さんや下僕の人が出迎えてくれ、 辺りには一面桜の花が咲き誇っている。とうたった俳句である。 「萩咲くや 葉山通いの 仕舞い馬 車」。仕舞い馬車とは今でいう終電車。句会が終わって逗子駅まで最終馬車に乗り、鎌倉の自宅に帰 宅する様を俳句にしている。葉山ゆかりの俳人は虚子のほかに西東三鬼がいる。 6、神明社 御用邸の斜め前。秋谷方面に進むと神明社がある。古書に「村の鎮守なり。寛文中(1661〜72)再 建す。」とある。社域にある天明元年(1781)銘の庚申塔は葉山町最大のものである。 7、万福寺 神明社の隣り。浄土宗。創建は明応元年(1781)下山口の領主、鎌介公が自己の邸宅をことごとく 院に寄進して大伽藍を建立し鎌倉光明寺より資誉源誓上人を招いて開山と仰いだ。義経が勧請文 を書いた万福寺は鎌倉・腰越の万福寺で葉山の万福寺とは無関係である。 8、葉山公園 御用邸に隣接した公園。南御用邸の馬場があったところで、松樹茂り、眼下に相模湾が拡がり、長 者ケ崎から遠く江の島・富士・箱根に大島まで見渡せる風光絶佳な憩いの場である。私の朝の散歩 ルートの一つ。 9、長者ケ崎 大崩れの古戦場を南にして、波濤岩を噛む長者ケ崎の風景は観る人をして飽きさせない。ここから 眺める夕映えはまさに絶景であり、葉山八景のひとつに「長者ケ崎の夕照」として入っている。 ・・・下山口終わり・・・ |