吉村昭 「三陸海岸大津波」         11,05,29

   3・11の東日本大震災があってからこの本は書店で静かなブームになっているらしい。
  私の蔵書にこの本がある。改めて読んでみると、明治以来の大津波と今回の津波には類似点が
  多く、まるで今度の大津波の襲来の記述かと思われるほど被災者の証言が酷似している。

   吉村昭は昭和45年に「海の壁」と題して三陸大津波を題材にした小説を書き、後に「三陸海岸
  大津波」と改題して文庫本にしている。私の蔵書はこの文庫本である。吉村昭は他の小説でも
  そうだが、徹底した事前調査をすることで知られている。この著書を書く20年以上も前から三陸
  海岸の北部にあたる久慈から、南へ羅賀、島ノ越、宮古、山田、釜石、大船渡、気仙沼、女川と
  泊まり歩いて取材を重ねて津波について実地調査をしている。現存する貴重な資料を丹念に読み、
  生存者から生々しい証言を聞き取りこの記録小説を書いた。

   この本は徹頭徹尾「記録する」ことに徹している。情緒的な解釈など一切無い。圧倒的な事実の
  積み重ねだけなので単なる小説ではなく「記録文学」または「記録小説」と言うべきものである。

   三陸地方は昔から絶えず津波に襲われていて、記録があるだけで、貞観11年(869年)の地震
  を初めとして天正14年(1586年)、慶長、慶安、貞享、元禄、享保、宝暦、天明、天保、安政、明治、
  大正、昭和と連綿として大小の津波に襲われている。大津波が何故こうも東北沿岸を襲うのか、
  地形的な特徴を吉村昭は次のように適切に表現しているのでその一節を拝借する。

   「三陸海岸に津波の来襲回数が多いのは海岸特有の地形によるものである。北は青森の八戸
  から南は宮城県牡鹿半島にいたる三陸沿岸は、リアス式海岸として日本でも最も複雑な切り込み
  のおびただしい海岸線として知られている。

   その特有な地形を形作っている原因は、東北地方の背骨とも言うべき北上山脈が三陸海岸に
  せり出しているからである。山脈がそのまま不意に海に落ち込んでいる。山脈から触手のようにの
  びた支脈が半島になって海上に突き出し、自然の斧で切断されたような大断崖が随所に屹立して
  海と対峙している。海岸には山肌が迫り、鋭く入り込んだ湾の奥まったわずかな浜に軒を連ねる
  家々が辛うじて海岸にしがみついているように見える。沖合いは世界有数の地震多発地帯でしかも
  深海であるため地震によって発生したエネルギーは衰えずそのまま海水に伝達する。そして大陸
  棚の上を何の抵抗もなく伝わって海岸線へと向かう。

   三陸沿岸の鋸の歯状に入り込んだ湾はV字形をなして太平洋に向いている。このような湾の常
  として、海底は湾口から奥に入るにしたがって急に浅くなっている。巨大なエネルギーを秘めた海水
  が、湾口から入り込むと奥に進むにつれて急速に海水は膨れ上がり、凄まじい大津波となる。
  つまり三陸沿岸は、大津波に襲われる条件が地形的に十分備わっているのである。」

   吉村昭はこの本で、明治29年と昭和8年の地震と大津波、昭和35年のチリ地震大津波、この
  三つの津波の前兆、被害、救援の様子を詳細に記録している。彼の迫真の文章を借用してエキス
  をまとめ直してみよう。

  1、前兆
   明治29年6月、この年三陸沿岸一帯には著しい漁獲が見られた。その漁獲量は次第に途方も
  ない量となった。本マグロの大群が海岸に押し寄せ定置網の中で渦を巻き、岸では取れすぎて処置
  に困り、川をせき止めて収容するほどだった。マグロ以外にも鰯やカツオが処置に困惑するほど
  取れたという。その異常な豊漁は40年前の安政3年以来のものだった。その年には三陸沿岸に大津
  波が襲来しており、いわばこの豊漁は大津波襲来の不吉な前兆ともいえた。

   そのほかに、久しく絶えていた鰻の豊漁、潮流の乱れなどの異変が見られた。陸地では井戸水が
  各地で白や青に変色し減水する異変が起きた。一部の古老はこの異変に大津波の予兆を感じたが
  多くの人々は豊漁に喜び浸っていた。

   6月15日午後7時32分に弱震を記録。およそ20分後、海水は徐々に引きはじめ、ある湾では1000
  m以上も海水が引いて干潟と化した。沖合いでは砲撃と思しき不気味な音響が聞こえ、怪しげな火閃
  がみられた。音響と怪火は巨大な波の壁から生じたものだった。凄まじい轟音が沿岸一帯を圧し、
  黒々とした波の壁はせり上がって屹立した峰と化した。

   飛沫を上げながら突き進んだ水の峰は凄まじい轟音とともにいっせいに崩れて村落に襲い掛かった。
  津波は約6分の間隔で襲来、翌朝まで大小数十回に及んだ。津波の高さは平均10〜15mといわれ
  るが、岩手県田野畑村の当時の生存者の証言によれば海から50mも高い丘まで津波が押し寄せた
  と証言している。

   昭和8年3月3日、午前2時32分、大地震が起きた。震源地は明治29年と同じ釜石東方200キロの
  海底だった。地震後30分で津波が襲来し、三陸沿岸はまたも大打撃を受けた。この津波来襲にも
  明治29年と同様、各種の前兆が見られた。そのひとつが井戸水の減少、渇水又は混濁である。

   また同様に沿岸各地で例年にない大豊漁、ことに鰯の大軍が群れをなして海岸に殺到し、漁村は
  大漁に沸いた。また大量のあわびの死骸や無数の海草が海岸をうずめるほど漂着した。また稲妻
  のような怪火の発光現象も各地で目撃され、大砲の砲撃に似た音響も各地で観測され、すべては
  明治29年と同様の津波の前触れ現象であった。

   3月3日午前2時といえば真冬の深夜である。沿岸の住民には冬季と晴天の日には津波は来ない
  という古くからの言い伝えがあった。海水が徐々に引きはじめ湾内の岩や石が凄まじい音響を立て
  て海水と共に沖に向かって転がり始め、たちまちのうちに湾内の海底は干潟のように広々と露出した。

   沖合いの海面は不気味に盛り上がりそして壮大な水の壁となると、初めはゆっくりと、やがて速度
  を増して海岸へと突進し始めた。津波は3回から6回まで繰り返し沿岸を襲い、多くの人々や家が津波
  に圧殺され沖合いに引きさらわれた。津波は、屏風を立てたようにやってきたもの、山のように盛り
  上がってきたもの、重なり合うようにやってきたもの、の3種に分類され、形態はそれぞれの地で異な
  るものの一大轟音とともに三陸沿岸の各地に襲いかかった。強烈な引き波に人家や人や橋、漁船
  などが根こそぎ海にさらわれた跡地は、瓦礫や死体が無残に散らばる荒涼たる姿に変わったので
  ある。

   昭和35年5月21日、南米チリで大地震がおき大津波が太平洋を渡り、5月24日午前4時ごろ三陸
  沿岸を来襲した。この津波は明治29年、昭和8年の大津波とは根本的に異なった奇妙な津波だった。

   地震がなかったのである。さらに津波の前兆である大漁、井戸水の減水・渇水、遠雷あるいは大砲
  の砲撃音のような音響も聞こえない。つまり津波に伴う必須の条件と考えられているものが皆無だっ
  たのである。

   午前4時20分ごろ海は本格的に異常な様相を見せ始めた。不気味な引き潮が急速に増して湾は
  たちまちのうちに広い干潟と化していった。津波の寄せ方は明治29年、昭和8年と全く異なっていた。
  過去の津波のように高々と聳え立って突き進んでくるのではなく、海面がゆっくりと襲来するものだった。

   ある漁師は「海水がふくれあがってのっこのっことやってきた」と語っている。この津波は三陸海岸
  全域を襲い、特に大船渡地方に大被害をもたらした。気象庁の致命的な過失は、チリ津波が三陸
  沿岸に達するまでには22時間30分という長い時間的余裕があったにも拘らずその間津波の襲来を
  予知することも警告することも全くしなかった事である。

  2、被害
   明治29年・宮城・死者3,452名、流出家屋3,152戸、青森・死者343名、岩手・死者22,565名、流出
  家屋6,156戸。岩手県南部の気仙郡では人口32,609名中死者6,748名、21%が死亡、釜石町の
  人口6,557名中5,000名が死亡。無数の人家とともに警察署、郵便局も流出して町はほぼ全滅状態。
  村落は荒地と化し、家々は跡形もなく消え失せた。

   海には家屋・漁船の破片や根こそぎさらわれた樹木が芥のように充満した。死体が至る所に転が
  っていた。さかさまに上半身を没している死体、破壊された家屋の木材や岩石に押しつぶされた死体、
  呆然と眺めているだけの住民達。腐乱した死体は流木の上に一まとめにして載せられ重油をまい
  て焼かれた。肉親を探してあてどもなく歩く人たち、精神異常を起こして意味もなく笑う老女や、黙り
  続ける男達。

   岩手県下の漁船の90%が津波で流出し、漁具もほとんど失われ、漁民は仕事を再開する手がか
  りも得られなかった。復旧作業は徐々に進められたが、漁船・漁具を失った各漁村ではその後3年間
  漁業も休止され、貧困の中で呻吟した。

     作文・つなみ   
  「私は、わたしのおとうさんもたしかに死んだだろうと思いますと、なみだが出てまいりました。
  下へおりていって死んだ人をみましたら、私のお友だちでした。私は、その死んだ人に手をかけて、
  みきさん、と声をかけますと、口から、あわが出てきました。」          尋三 大沢うめ

  (田老村で被災した人々の体験記録、中でも小学生の作文が多く残っている。死者と一定の距離
  を置いて身を切るようにして綴られた子供たちの作文は、たどたどしい故に真実を語っている。)

   昭和8年・宮城、岩手、青森3県で死者2995名、流出・倒壊消失家屋11537戸。明治29年同様、
  岩手県が最大で、宮城、青森が続いた。東閉伊郡田老村は最も悲惨を極めた。明治29年には
  田老、乙部両村336戸すべてが23m余の高さを持つ津波に襲われて全滅し、犠牲者1859名、
  生存者わずかに36名だったが、わずか37年後の昭和8年に、またも津波の猛威によって破壊さ
  れた。田老・乙部は数個の民家を残すのみで村落すべてが流出し、死者911名、流出人家は550
  戸中500戸、一家全滅66戸333名で絶家となった。

   道路、橋脚、堤防などは跡形も無く破壊され、漁船909艘が流出した。津波は6,7波まで続き、
  村の背後に逃げた村民の上から秒速160mの速さで上からのしかかってきたという。

   昭和35年・チリ地震に伴う大津波の被害は、防潮堤などの施設のために人命の損失は明治
  29年、昭和8年の大津波を下回ったが、3県で死者105名、岩手県下で死者61名、罹災所帯6832
  戸にも及んだ。

  3、救援・対策・教訓
   明治29年の津波があってから、高台に住居を建てるよう県からの強い要請もあり、高所への
  移転が目立ったが、年月がたち津波の記憶が薄れるにつれて逆戻りする傾向が強まった。

   漁業者にとって家が高所にあることは日常生活のうえで不便が多い。つまり稀にしかやってこな
  い津波のために日常生活を犠牲には出来ないと考える人々が多かったのである。一方、昭和8年
  の大津波以降、各被災県が中心になって住宅問題以外に、防潮堤、防潮林、避難道路などの
  整備が図られ、被災地各地では津波来襲を想定した避難訓練が頻繁に行われた。

  「地震津波の心得」なるパンフレットも配られた。
   1、緩慢な長い大揺れの地震は津波が来る前触れである。少なくとも1時間は辛抱して気を
     つけよ。
   2、遠雷あるいは大砲のような音がしたら津波の来る恐れがある。
   3、津波は激しい引き潮をもって始まるのを通例とするから潮の動きに注意せよ。
   4、津波の時には家財には目をくれず高いところに身一つで逃れよ。
   5、船に乗っていて岸から2〜3百メートル離れていたら沖に逃げたほうが安全である。
   などなどである。

   津波被害の防止対策の代表的な例が下閉伊郡田老町である。田老町は明治29年に死者
  1859名、昭和8年に911名と2度の津波来襲で最大の被害を受けた被災地だった。津波田老
  (太郎)という名称が町に冠されるほど危険な土地であったが住民は先祖以来のこの地を離
  れなかった。

   昭和8年以降、町の人たちは積極的に津波防止の対策を打ってきた。津波の翌年から海岸
  線に防潮堤の建設を初め、戦争で中断したものの、昭和33年3月にいたって全長1350m、
  上幅3m、根幅最大25m、海面からの高さ最大10,7mという類を見ない大防潮堤を完成させ
  た。この防潮堤の完成によってチリ津波の折には死者もなく家屋の被害も皆無だったのである。
  さらに広い避難道路、避難所、防潮林、警報器も完備し、避難訓練も欠かさず行われた。

   しかし、自然は人間の想像をはるかに超えた姿を見せる。防潮堤を例に取れば、田老町の
  壮大な防潮堤は、高さが海面から10,7mあるが、明治29年、昭和8年の津波では10m以上
  の波高を記録した場所である。田野畑村の古老の高台の家は明治29年の津波で海水が50m
  も這い上がり被害を受けた。津波はゆうに高さ10mをはるかに超していたことだろう。必ずしも
  絶対に安全な防潮堤とはいいがたい。しかしこの頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させ被害は
  かなり軽減されることは間違いない。

   明治39年、昭和8年、昭和35年の3度の津波を実際に経験した田野畑村の古老の言葉は
  印象深い。「津波は時世が変わってもなくならない。必ず襲ってくる。しかし今の人たちはいろ
  いろな方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったに無いと思う。」 ・・・・吉村昭は希望を
  持ってこう締めくくっている。

  4、読後感
   吉村昭の小説に特有の詳細な実地調査にもとづく津波の恐怖を余すところ記述しており、
  まるで今年の津波の惨事を髣髴させるような記録小説である。被災し親兄弟を失った遺族が
  瓦礫の中を捜し求める姿は、今も昔も変わらない痛ましい光景だったことだろう。

   代表的な過去3回の大津波と今回の津波のどこが違うのか私は知らないことが多い。
  第1は、果たして過去の津波のような予兆があったのかどうか。つまり大豊漁、遠雷、大砲の
  ような音響、井戸水の減水・変色・渇水、海水の干潟化、などの有無である。この比較の論評
  にはまだお目にかかっていない。

   第2は、今回の地震の桁違いの規模がはたして「想定外」という流行語で語り終えてよいもの
  かどうかである。予測不能とは、誰かが予めある想定値を便宜的に定めたそれ以上だったと
  いう事に他ならない。

   「自然は人間の想像をはるかに超えた姿を見せる。」と吉村昭も言っているが、「想定外」で
  責任をうやむやにするのは無責任で非科学的であろう。あの田老町の完璧だったはずの防
  潮堤がもろくも破壊されたことをどう評価するのだろうか。

   第3は職住分離と人間の性(さが)の事である。東日本大災害後、住居は高台に、職場は
  海岸に、という職住分離が盛んに議論されている。しかし120年も昔の明治29年の大津波で、
  国・県の指導の下で職住分離はすでに試みられている。しかし日常生活の不便さから次第に
  住民は沿岸生活に戻ってしまったという過去の事実がある。

   人間は悲しい性を持っている。「喉もと過ぎれば暑さを忘れる」 特に自分が体験しない古老
  の話は過去の老人の思い出話として聞き流す性癖がある。理屈は正しくとも、いつの間にか
  便利なほうを選んでしまう。効率至上を無意識に選ぶ人間の性である。

   職住分離を仮に実施したとしても決して元に戻せない強制力を持った歯止めがどうしても
  必要になる。ましてリアス式海岸特有の平地の少ない三陸沿岸である。容易なことではない。
  仮設住宅の建設が遅々として進まない理由もここにある。

   地震や津波を人間は制御できない。出来ることは災害を少なくする知恵だけである。今から
  120年後の人達に誇れる根本対策は何か。結局は人間の業(ごう)をどう制御するかに帰着し
  そうな気がする。

   吉村昭が最後に紹介した田野畑村の古老が、チリ地震の後に語った言葉は、人を信じる
  が故に悲しい響きを持っている。「津波は時世が変わってもなくならない。必ず襲ってくる。
  しかし今の人たちはいろいろな方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったに無いと思う。」

   確かに過去3度の津波の被害を比較すると被害は年々減少していた。死者を比較すると、
  明治29年が26,360名、昭和8年が2,995名、昭和35年が105名であった。

   にも拘らず古老の期待を裏切るように、3:11の大震災は三陸沿岸全域で死者15,256名、
  行方不明者8,565名(5月29日現在)となった。

   自然と人類の知恵比べは連綿として続く。今は亡き吉村昭はこの現実を見たらどのように
  慨嘆し、この小説の続編を書くのだろうか。

    百二十年に 三度も津波に襲われし 
              海やまの民よ 三陸酷(むご)し    ・・・・5月9日の朝日歌壇より