星亮一 「奥羽越列藩同盟」      11,08,03

   夏の甲子園大会の地方予選が大詰めになり出場校がほぼ出揃った。今年の予選は
  東日本大震災の被災者を励ます「激励」と「希望」を旗印にしている高校が多い。岩手
  の古豪を自負する我が母校は近年どうも振るわない。今年もたしか準々決勝で敗退の
  憂き目に遭ってしまったようだ。高校野球の思い出は沢山あるが、とりわけ私の育った
  田舎町で毎年行われた東北6県の野球大会が今でも懐かしい。試合が終われば互い
  に健闘を称えあう球児の姿は微笑ましかった。敵も味方もないスポーツの清清しさだ。

   しかしわずか140年前、その東北の隣り合わせの県同士、恨みも憎しみもない隣人
  同士が、戊辰戦争のあおりを受けて血で血を洗う激しい戦争をしたこと、そして多くの人
  命が失われた悲劇の歴史がここ東北の地で起きたことなど、今の若者はほとんど知ら
  ない。現代は、大震災や大津波などの自然災害を嘆きつつも隣人同士の悲劇的な殺し
  合いなど知らない平和な社会なのである。

   星亮一氏。私の母校の高校の2年先輩の作家である。彼が書いた中公新書の「奥羽
  越列藩同盟」を読んだ。奥羽越列藩同盟は実に複雑で判りにくい。
   京都守護職として朝廷を守り薩長の跋扈を封じた会津藩、江戸市中取締りとして江戸
  薩摩邸焼き討ち事件を担当した庄内藩の両藩は、薩長・後の新政府の怨嗟を買っていた。
   
   慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の主力になった両藩は、「討幕」の詔勅
  と「錦旗」を手に入れた新政府軍から「朝敵」と認定され討伐の対象になる。両藩は「会
  ・庄同盟」を結び連携して新政府に対抗する。両藩に呼応して仙台・米沢藩は奥羽諸藩
  を白石に糾合し、会津・庄内両藩の赦免嘆願を目的とする奥羽25藩による「奥羽列藩
  同盟」を結成する。
   慶応4年5月、長岡藩を中心とする北越6藩の「北越同盟」が合流して、計31藩による
  「奥羽列藩同盟」に拡大する。

   赦免嘆願が拒否された後は、孝明天皇の弟・輪王寺宮公現法親王を担ぎ、新たな政
  権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化したといわれている。しかし31藩す
  べてが薩長新政府との戦闘に賛成したわけでもなく、主導的役割を果たす仙台藩に対
  する反撥など、同盟諸藩の思惑は複雑で入り乱れていた模様である。
  つまり同盟締結の経緯も目的も、その後の脱退分裂の経緯も、諸説紛々といっていい。

   同盟を結んだ藩は陸奥国(奥州)出羽国(羽州)後に越後国(越州)の31藩で、会津、
  庄内の両藩は「会・庄同盟」の当事者なので加盟していない。加盟した主な藩は、仙台、
  米沢、山形、福島、南部、一関、盛岡、久保田(秋田)、弘前、新庄、長岡、新発田藩
  など奥羽越ほぼすべての藩に及んだ。

   列藩同盟の最期は悲惨であった。優勢な幕府軍(官軍)の命を受けて次第に同盟から
  離反する藩が現れた。久保田(秋田)藩、弘前藩、新庄藩、北越の新発田藩などである。
  これらの藩は幕府軍の命に逆らえず遂にかっての味方の同盟軍との裏切りの戦いに
  突入する。まるで関が原の小早川秀秋のような身の変わり方であった。

   新政府軍側の久保田(秋田)藩と同盟軍側の庄内藩・南部藩の血みどろの戦い(秋田
  戦争)、津軽藩の突然の南部藩侵入(津軽戦争)、北越では長岡・米沢藩と寝返った新
  発田軍との戦い、など奥羽・北越各地でかっての列藩同盟軍同士の激闘が繰り広げら
  れ、遂に列藩同盟軍は各地で敗北し降伏する。

   会津・庄内両藩は悲惨な最期を迎える。同盟軍の責任ある参謀は捕らえられ斬首さ
  れる。南部藩家老楢山佐渡、仙台藩主席家老但木成行、家老で列藩同盟の主導的役
  割を担った玉虫左太夫も極刑刎首された。長岡藩主席家老河合継之助は戦死した。

   列藩諸藩に対する処分は厳しく、仙台、庄内、盛岡、長岡各藩は藩主の交代、削封、
  転封、参謀の処刑など奥羽越に深い傷跡を残した。仙台藩は62万石から28万石に減
  封、盛岡藩は旧仙台領の白石13万石に転封、一関藩は3万石から2万7000石に減封
  されている。特に会津藩は旧南部藩の地、下北半島の斗南藩3万石を与えられたが、
  この地は極寒不毛の地で、会津藩士と家族は筆舌に尽くせない苦労を強いられる。
  石光真人著「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書ー」に詳しく載っている。今か
  らわずか140年前の出来事である。

   歴史の渦中にあった各藩の実力者達は、藩の生き残りという「利」と、武士道の「義」
  の狭間で悩み苦しみつつ進路を決断し、ある藩は同盟に殉じ、ある藩は同盟を脱退
  して勝者の官軍に組することになった。その判断の是非を私には問うことが出来ない。

   ただ、南部藩士で後に平民宰相となる原敬が、戊辰戦争殉難者50年祭にあたり、
  南部藩の家老、楢山佐渡が割腹した盛岡の報恩寺に於いて、「顧みるに、昔日もまた
  今日の如く、国民誰か朝廷に弓引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ、勝て
  ば官軍、負ければ賊軍との俗謡あり。・・・・」と高らかに祭文を読み上げ、南部藩は
  朝敵でも賊軍でもないと宣言して楢山佐渡の汚名をそそぎ、薩長藩閥政治に痛烈な
  批判を加えた事が南部藩の血を引く私にとっては溜飲の下がる実に痛快事であった。

   改めて思う。奥羽越列藩同盟は実に複雑で判りにくい。著者の力作の「奥羽越列藩
  同盟」を繰り返し読んでもなかなか全貌を理解するのは難しい。列藩の集合・分裂を、
  「利」と「義」の選択としてのみ理解していいのかすら判らない。
   かって浅田次郎の著書「壬生義士伝」で、南部武士の「義」について所見を述べたこ
  とがあるが、人の運命ならともあれ藩の運命を「義」のみで選択できるとは思えない。
  やはり輪王寺宮公現法親王(孝明天皇の弟)を東武天皇に戴き、鳥羽伏見の戦いで
  破れた会津藩主を盟主にした「東日本政府」の樹立という壮大な「夢」に殉死したと
  理解すべきなのだろうか。義を重んじた南部藩家老楢山佐渡や、「東日本政府」の構
  想を立案したといわれる仙台藩の思想家・大槻磐渓(一関・中里出身)に秘めたる心
  境を尋ねてみたい。

   ともあれ鳥羽伏見から始まる戊辰戦争と奥羽越列藩同盟崩壊の歴史は、膨大な謎
  を秘めた東北の一大歴史物語である。