ミミズの戯言19、−囲碁遍歴その7−        10,09,17

    学生時代は随分アルバイトをした。学費も生活費も遊興費もすべてバイトと奨学金で賄った。別に
  珍しくもない。回りの寮生を見渡せばそんな学生はざらにいた。国立大学だからやれたことだった。
  それには学生寮に住むことが必須の条件だった。寮には通称「アル対」ことアルバイト対策委員会が
  あって横浜、鎌倉だけでなく県内各所の企業や個人から「バイト求む」の求人希望が届いてきた。寮
  生は「アル対」に日参してより有利なバイト先を選び、授業との兼ね合いをつけて稼ぎに出かけた。
  (人気のある好条件のバイトは抽選だった。)
   大船の撮影所ではエキストラや台本の複写、鎌倉文士宅の草むしり、某化学薬品会社の書類清書
  や掃除、等など話せばキリがない。日当300円が相場で、終わって寮に帰り、銭湯(松の湯)に行き
  タバコを買って、通いなれた飯屋(さくらや)でおばさんの作る定番の焼き飯(チャーハンではない)と
  ビールを飲めば稼ぎは全部なくなった。

   日当800円という羨望のバイト「watch man」というのがあった。横浜港に陸揚げされる荷物を黒人
  が荷卸するのだが、不正がないように、又サボらないように24時間船内のいすに座ってウォッチす
  るバイトだった。少し危険が伴い、黒人がこちらを向いてにやっと笑うと、決まって何かを見逃せと言
  うサインだった。タバコを吸うから少し見逃せというのが多かった。徹夜の長時間労働だったが日当
  800円は魅力だった。帰りには決まって野毛辺りで怪しげな焼き鳥、ホッピーで仲間と気炎を上げた。

   学生らしいバイトで今も昔も変わらないのが家庭教師だった。それも夕飯の有り無しが魅力を決め
  た。勿論夕飯付きがベスト。私は在学4年間で、鶴見、横浜、鎌倉、逗子の小中高の学生を6人も
  教えたが、うち5人は夕飯付きだった。寮の飯はタイ米でポサポサしてどうにも不味い。東北の美味
  しい米に慣れた者にとっては耐えられない。バイト先で夕飯に与かる事は質、量、加えて経済的に
  一石三鳥だった。週2〜3回の訪問での食事は久しく忘れていた家庭の味を思い出し、望郷の念に
  駆られたものである。

   学業を放置したわけではないがその面はいたって平凡で、バイト、寮務、たまに麻雀や囲碁や居
  酒屋。最後の頃は安保・安保の集会やデモで明け暮れたような日々だった。学業の世界や運動部
  や文化部での華々しい語り草がないのが無念である。

   大学3年後半、友人G君が家庭教師をしていた家庭の知り合いが家庭教師を求めているというの
  で、G君は私に白羽の矢を立てた。当時一人の子供を教えていたので「掛け持ち」は厭だったし、そ
  ろそろ卒論、就職と目白押しだったので、体よく断った。しかししばらくしてG君は再度しつこく私に詰
  め寄るので、根負けしてその家庭に伺うことにした。夕飯をご馳走になったが、美味しい焼き魚と豚
  肉のしょうが焼きが出た。ひもじい学生だったから、肉と魚が一緒に食えるのに魂消てしまった。そ
  れで1も2もない。簡単に術中に嵌って「掛け持ち」を承諾してしまった。

   食事が終わった頃、この家の主人Yさんが帰宅して「私」は品定めをされた。初めての面接だが、
  どうやら合格らしい。お酒をご馳走になって趣味の話になった。「敵」は囲碁の話を滔滔としゃべり
  始めて止まらない。適当に相槌をうっていたら「君は囲碁は?」という。「少しかじった程度。」と答
  えたら「一局やろう。」という。その場は無難に収めたが、2〜3度訪問するうちにとうとう捕まった。

   互いに棋力が判らないので、私が黒を握った。スランプと空白の3年間があったので久し振りの
  石の感触だった。やはり着手に自信がない。着手が乱れるのが明らかにわかる。「敵」は相当の
  打ち手だった。結局無残に投了。この家の主は上機嫌でもう一局、と所望したがその時はなんとか
  御免蒙った。しかし負けたとはいえ気分は爽快だった。その後終生の好敵手になるとはその時は
  露ほども思わなかった。

   これが縁で、その後卒業し就職してもYさん宅を頻繁に訪問し、Yさんの囲碁のお相手をするよう
  になり家族同様に親しくなった。人生には運命の赤い糸があるのだろうか。このYさんこそ何を隠
  そう、その後30有余年、陰になり日向になって薫陶を頂いた私の妻の実父である。運命的な出会
  いは寮の友達G君のしつこい引き合わせだったことによる。後年同窓会でG君にその話をしたら
  目を丸くして祝福されたことを思い出す。

                    ー次回は免状取得と強豪との出会い。