ミミズの戯言18、−囲碁遍歴その6    10,09,15

    尾上町の一件以来、棋力は停滞して進歩しないことに悩む時期がしばらく続いた。いわゆるスランプ
   である。同室の先輩Bさんとの1年間の連夜の対局も棋力向上には結びつかない。原因ははっきりして
   いた。そもそもの習い初めが筋悪の囲碁で、力碁だったのが致命的だった。特に不足していたのは、1
   に序盤の定石選択、2に中盤の手筋だった。囲碁のスタイルを変えないことには上達はおぼつかない。
   着手に迷いが生じ、どこに打ったらいいか判らない。囲碁が苦しくなる。次第に対局が怖くなり、対局を
   敬遠するようになった。スランプと空白は断続的だが学生時代の後半から永くしばらく続く。

    学生時代の後半は囲碁どころではなかった。天下の大騒動、安保の渦中の真っ只中で、私は学内・
   寮内の火中の栗を拾う役割を担っていた。指導教授が講座派の論客だったこともあって議論や行動を
   共にした。
    50年前の1960年(昭和35年)6月15日、私は同僚学生数百人とともに国会議事堂南門前にいた。
   あの運命的なM・Kさんが圧死した日である。当時勇ましいインターだけでなく、「おけいの歌」といううら
   寂しい歌が密かに口ずさまれていた。彼女を追悼する左翼学生が輪になって退廃的な歌を小さな声で
   歌っていた。

    「おけいはふたつだ、2階のあんちゃんにおぶさって、祭りで買ってもらった般若の面、かぶったまん
   まで眠れば、朝まで般若の子です。」 2番「おけいは3つだ、しるべの家の暗い部屋、みんなそろった
   晩の飯に、おっかは行商、あんちゃは工場、おとっちゃんは牢屋。」 3番「おけいは4つだ、小さいな
   がらもプロレタリアだ、あんちゃも牢屋、みんなに別れて里子にやられ、拳銃とこん棒の絵を見れば、
   ポリ公バカと言ったっけ。」

    囲碁の対局からは遠ざかっていたが、囲碁史を彩る書籍を紐解いたり、歴史的な対局場を訪ねたり
   して、細々と囲碁との関係は続いていた。鎌倉の学生寮にいたこともあって建長寺をはじめ多くのお寺
   廻りをした。名月院の和尚などは気さくな方で、寺の暖炉で酒を酌み交わしたり秋の「寮祭」にも遊び
   に来てくれた。

    東北の田舎育ちの人間にとって、建長寺・円覚寺など鎌倉の名刹は日本史で初めて習うものだが、
   私は当時から別の意味でその名前を知っていた。昭和初期、囲碁界の常識を覆す「新布石」を研究
   した呉・木谷の若き僚友が、雌雄を決すべく「鎌倉十番碁」を打った最初の場所が建長寺だったから
   である。後年、私は義父母の菩提寺でもある建長寺を訪れ、第一局が打たれた竜王殿の心字池に
   面した「上間の間」で、当時の碁盤を前にして記念の写真を撮って貰っている。この呉・木谷十番碁も
   呉清源当時七段の圧勝だった。

    大豪・木谷実は呉清源との新布石研究や十番碁のほかに、世襲制の最後の名人”本因坊秀哉”の
   引退碁の相手を務めたことや、後年平塚で木谷塾を開き、錚々たる若手プロ棋士を育てたことで知
   られている。

    「姿勢は凛として崩れなかった。もう名人は静かだった。そして無言のまま駄目を1つつめた瞬間、
   立会いの小野田六段が、「5目でございますか」「ええ5目」と名人はつぶやき・・不敗の名人は引退
   碁に敗れた。」

    世襲制最後の名人本因坊秀哉の引退碁を観戦した文豪川端康成が、勝負の非情さと勝負師の
   散り際を見事に描写した名著、「名人」の一節です。木谷七段は小説の中で勝負の鬼大竹七段とし
   て登場している。

    数年前、平塚の木谷道場のあった自宅を訪問し、ご子息と令嬢にお会いして遺品の碁盤・碁石と、
   川端康成から届いた手紙を拝見した。小説「名人」に、大竹の時間つなぎの一着があたら引退碁を
   汚したと書かれた事から、一時期、木谷は川端と不穏な仲になったが、後日和解して鶴巻温泉で手
   打ちをしている。非礼をわびる川端の貴重な手紙だった。文学界と棋界の最高峰に立つ両巨峰の、
   確執の真実を語る歴史の証言者は既になく、ただあるのは美しい万葉仮名で書かれた流麗・達筆
   な川端の毛筆の手紙だけである。

    囲碁を打つことも忘れた激動の学生生活最後の大学4年、スランプと空白の囲碁遍歴に運命的
   な出会いが訪れる。それは次回以降。
 
                  ー次回は、もう1つの顔、バイト学生