ミミズの戯言17、−囲碁遍歴その5ー 10,09,13 横浜尾上町の保科道場は私の囲碁遍歴が新たな展開をみせる舞台となった。紆余曲折の末、人生 の転機を求めた私は昭和33年から学生生活の拠点を横浜に求め、生活の拠点を古都・鎌倉の学生 寮に定めていた。 保科道場は、囲碁愛好者が多く強豪が揃っていることで知られている一大道場である。田舎初段の レッテルがどれだけ通用するのか、4年程囲碁から遠ざかっていたとはいえ私なりの自負もある。道場 に入って入場料を払う。金額は忘れてしまったが100円だったろうか。ここからが独特のシステムがあ って、対局するごとに星取表に○×をつけ、×の合計に50円(?)を掛けて料金を支払う。仮に5回負 ければ250円を支払うことになる。勝ち進めば料金は入場料だけというシステムだった。当時学生の アルバイト料は一日300円が相場。貧乏学生の私は負ける訳には行かない。負ければ相当の痛手 になる。 意を決して段位は初段でスタートした。幸運にも初日、2日目と連勝して入場料だけの負担で済み、 これはいい武者修行になるとしばらく道場荒らしのような事をやった。1ヶ月ほどして、見知らぬ対局 者が現れ、私に4目置けという。不思議な思いがしたが、言うとおりにして打ち進め中盤に差し掛かっ た時、これで終了と言われた。そして「学生さん、次回からは3段で打ってください。」といわれた。この 方はどうも道場の師範代格の人で、連日入場料だけで勝ち続けている私に、お灸を据えるつもりだっ たようだ。 この一件があって怯んだか、3段の手合いの対局は負けが込んで次第に支払い金額が大きくなっ た。やはり実力は2段か弱い3段が相場のようだ。負けてバイト料金がすべて消えてしまうのでは食っ ていけない。次第に足が遠のき、結局半年程で保科道場とは縁が切れることになった。しかし田舎初 段が天下の横浜で、免状こそないとはいえ、堂々と3段格で打ったということは大きな自信になった。 鎌倉の学生寮はすべて寮生によって運営される完全自治寮だった。貧乏学生である事が入寮条件 というユニークな寮だったから、型破りな学生で溢れていた。寮生は全部で300名。寮の逸話は語り つくせない。「俺は大学の卒業生ではない。卒寮生だ。」と豪語する豪傑は数知れない。私が入寮した 時の5人部屋の歓迎コンパでは、沖縄出身の空手の少林寺流の達人Kさんが裏山で締めてきたとい うほやほやの「赤犬のすき焼き」だった。2階の部屋の窓からはよく歓迎のシャワーが降り注いできた。 5人部屋の長老は鹿児島出身で5浪のBさん。5浪といっても学校の先生を辞めて再入学した苦労 人。なんでも鹿児島には奥さんがおられるらしい。薩摩隼人には珍しい実に温厚な人で田舎者の私を 大変かわいがってくれた。横浜の野毛で初めて餃子やハンバーグを食べてその美味しさに仰天した のもBさんの引率によるものだった。 大変な勉強家で博識なBさんは囲碁が強かった。私が黒でBさんが卒業するまで1年間、同部屋な のでほぼ毎夜碁を打って星取表に勝敗をつけたが、遂に最後まで白を持つことはなかった。二人で 空前絶後の「詰め碁」の大傑作を作ったのもこの頃だし、お城碁を並べたり、囲碁史を研究したのも Bさんの影響が大きかった。 ある夏の夜、いつものように街の銭湯の帰りに夜の酒のつまみを買い求め、Bさんと対局を始めた。 対局に夢中で、ソーセージをぼりぼりかじっていたが、終局後猛烈に腹が痛み出し、救急車でK病院 に入院する羽目になった。病名は擬似腸チフス。ソーセージが原因らしい。後日退院して院長に聞い たら、擬似でよかった。学生寮のすべてを消毒する大事件になるところだったと、厳重に忠告された。 以来、あの丸くて長い大きな赤いソーセージは口にしていない。 Bさんは大学囲碁部に在籍していて私を何度も勧誘したが、苦学生でバイトが忙しかったこと、寮の 要職にあったこと、60年安保の風波が起きつつあった時期などと重なり、とても囲碁部などと悠長な ことに時間を潰すことが出来ず、最後までお断りをした。Bさんは卒業後、神奈川県庁に奉職され、ご 家族を横浜に呼ばれたらしいが、その後消息は聞いていない。 ー次回はスランプと空白ー |