ミミズの戯言16、−囲碁遍歴その4−   10,09,12

    高校に入学した昭和28年4月、同じ時期に新任教師として赴任したのが早稲田の英文科を卒業し
   たてのほやほや教師Kさんだった。早速あだ名を献上し、以後は「カッパさん」として生徒の人気を集
   めた。彼の赴任の挨拶は傑作だった。謹厳な校長の紹介挨拶に続いて、おもむろに全生徒を前にし
   て壇上に立ち、「片っ端から東京の学校を志望したが受け入れられず、遂にこんな田舎の高校に赴
   任してしまった。」とカッパのようなどんぐり眼で屈託なくしゃべったものである。校長も生徒も口をあん
   ぐりとあけてしばし呆然となった。一瞬、漱石の坊ちゃん先生が一関に現れたかと思ったものだった。
    カッパさんは私の組の担任になり、以後3学年まで不思議に同じ組の担任をされ、私が卒業すると
   同時に退職して早稲田の大学院に進まれた。したがってカッパ先生と私は3年間、入学も卒業も組
   も一緒という、全くの同級生で頼りになる兄貴(7歳年上)のような関係にあった。

    仲間と一緒に先生の下宿に押しかけ、アルコールなどをちゃっかり失敬し深夜までダべり、ドサクサ
   紛れに英語の試験のヒントを問うたら、おもむろになにやら分厚い英語の本(どうもHuxleyの小説だ
   ったような気がする。)を渡され、「この中にヒントがある。」と例のどんぐり眼のまじめ顔で見つめられ
   た。一同へきえきして退散したのも懐かしい思い出である。
 
    それから話は30年も飛ぶ。20数年前のこと、会社の技術部の先輩Mさんが、私に「貴方は一関で
   すか、担任の先生はKではありませんか?」と聞かれた。吃驚してそうですと答えたら、なんとカッパ
   さんは会社の先輩Mさんの長野の実家の婿養子になって今では姓もKからMに変わっていたのだった。
   婿養子になって長野の校長になったことは知っていたが、まさか身近の仕事の先輩の義弟になった
   とは知らなかった。その奇遇に吃驚して慌てて便りを差し上げたのであった。しばらくして東京の学士
   会館で同級会をやったとき、先生と再会してその話になり、奇遇を喜んでしばらくはその話で持ちきり
   になった。先生は囲碁を余生の趣味として愉しんでいるというので、幹事の仲間がわざわざ部屋を取
   り、私と先生の対局をセットしてくれた。嬉しそうに石を置いては私を見つめ、懐かしげに思い出話を
   してくれる、今は髪も薄くなった老カッパさんに、私もついつい目こぼしをして先生の軍門に下ったの
   であった。

    その後、一関で行われた合同の同窓会でも、幹事は「カッパさんが来るので、お前は必ず出席せよ。
   そしてカッパさんのお相手をせよ。お前しかいない。」と厳命するようになった。以来カッパさんのお相
   手は私の役目に決まり、仲間がカラオケで高歌放吟しようが、部屋で麗しき乙女だった女性を交えて
   笑い転げようが、2次会ではトンと仲間に入れない同窓会になっている。黒人霊歌”Old man river"を
   肩を組んで歌った若々しいカッパさんも80歳。今は公民館長を退いて悠々自適の生活をなさっている。

    今年の正月の年賀状に、「●○はやっていますか?小生は少し上達したようです。次回の対局を楽
   しみにしています。」とあった。先生の棋力は名誉のため申し上げないが、棋力向上とは嬉しいことを
   おっしゃってくださる。お返しに30数年前に作った自作の「詰め碁」を送って棋力を試しているが、その
   返事はまだない。

               ー次回は大学生活と囲碁の話。