ミミズの戯言15、−囲碁遍歴その3         10,09,10

   昭和27年、読売新聞社の企画で呉清源×藤澤庫之助(のち朋斎)の打ち込み10番碁が行われ、
  囲碁ファンが熱狂的にその行く末を見守った。読売新聞は、この連載で発行部数を飛躍的に伸ばして
  一流新聞の仲間入りをしたと言われている。当時私は中学3年生。巨人ファンだった私は、母が購読
  してくれた読売新聞を、野球欄だけでなく隅々まで読み漁る新聞少年でもあった。囲碁ファンでもあっ
  た私にとって、呉×藤澤十番碁の棋譜が新聞に連載されることは、正に干天の慈雨とでもいうべき贈
  り物であった。囲碁は好きだが我が家には碁盤が無い。毎朝配達される新聞を胸をわくわくさせて開
  いては、途中経過を刻々と伝える紙面の棋譜を見つめ、打ち順を丹念に記憶しては登校した。華麗に
  打ちまわす呉清源、重厚にがっちりと固める藤澤。あたかも義経と弁慶のような二人の妙技に魅了さ
  れて、授業中に棋譜を思い出しては思いに耽り、授業など上の空のひと時もあった。

   呉清源9段は、台湾でその才能を見いだされて来日し、数々の十番碁を戦ってその悉くを破った稀
  有の大棋士である。特に藤澤庫之助9段との2回の十番碁は圧巻で、お互いの名誉をかけて壮絶な
  死闘が繰りひろげられた。藤澤9段は日本棋院の庇護の下にあったが、呉9段は当時何の庇護もな
  く、打ち込まれれば即棋士生命を失いかねない状況にあった。結果は呉9段の圧勝、藤澤9段が定
  先に打ち込まれた時点で「十番碁」は中止され、これを最後に「十番碁」はその後一度も行われてい
  ない。

   翌28年にも行われた2度目の十番碁の棋譜と観戦記者の観戦記に魅せれてから、次第に私は対
  局するよりも新聞のプロ棋士の棋譜を鑑賞したり、後年はお城碁を並べることが好きになっていった。
   昭和28年、私は高校に進学したが、寄宿した母の実家の家業の手伝いやら学業やらもあって、ほ
  ぼ2年間は対局からは縁遠いブランクが続いた。棋力は正確ではないが田舎1級のままだったと思
  われる。しかし不思議なことに、打たなくても知らず知らずのうちに少しずつ棋力は上がっていったら
  しい。

   1954年(昭和29年)は記憶に残る大事件があった年だった。いわゆる洞爺丸沈没事件が9月に
  勃発した。台風15号のあおりで函館から青森に向かった洞爺丸が沈没して1000名を越える犠牲
  者を出した海難事故である。時に私は高校2年生。奇しくも3泊4日の北海道修学旅行の青森発の
  船が、事故直前の洞爺丸だった。地下の3等船室の薄暗い大部屋、売店の若い売り子、仲間との
  トランプ遊び、負けた私達数人が罰金代わりにと買い求めた1本のサイダーと借りたコップの数10
  数個。コップの数で口論した売り子とのやりとり。あの全てが数ヵ月後に海の藻屑と消えてしまった。

   青函連絡船、青森〜函館間の所要時間は4時間半である。3等船室で私は「ガンマさん」こと数学
  教師のI先生に呼び止められ、囲碁のお相手を務めることになった。そのいきさつは忘れた。2〜3目
  置いて指導を受けたと記憶しているが、何せ3等船室、揺れが激しくて囲碁どころではない。早々に
  船酔いしてダウンして囲碁は中盤で取りやめになった。

   本題はここから。函館で下船し、第一日目の旅館(湯の川温泉)に到着し、割り当てられた部屋で
  友人と歓談していたら、やにわに件のガンマ先生が入室して「佐々木!続きをやるぞ!」と一喝され
  てあわてて先生の部屋におそるおそる入室した。すかさず先生が碁盤を取り出すや否や、すらすら
  と数十手を碁盤の上に再現して見せ、「お前の手番だ。」とおもむろにおっしゃられた。驚いたの何の、
  プロでもあるまいし、あの3等船室での地獄の雰囲気で中断した棋譜を、すらすらと並べるとはさす
  が数学の先生。なんという先生の記憶力だろうと舌を巻いて驚嘆したものであった。勿論先生の完
  勝だったことだろう。結果は忘れてしまったが、あの強烈な印象は消えることは無い。いつか私もそ
  のようになりたいと強く思ったことだけは覚えている。

   高校2年間で祖父母の家を退去して実家に戻り、1年間は汽車通学をした。進路をいろいろ考えた
  り準備したりする1年間だったので、囲碁とは全くご無沙汰で、気晴らしに数回懐かしい碁会所に顔
  を出す程度でこれといった思い出はない。好敵手だった広川弘禅風の小狸さんの顔を見ることも無
  かった。2年ぶりということもあって初段格で打たされたと記憶しているが、あれ以来町の碁会所とは
  無縁である。


  追記;
   和服姿の町の名士に打たれた「天元の一石」に対する私の応手のお尋ねについて。(今津先生)
  残念ですがどんな応手をしたかの記憶はありません。なにせその頃はおそらく2〜3級ぐらいの腕前
  だったでしょうから面食らってろくな応手しかできなかったことでしょう。覚えているのは、相手は老
  練、百戦練磨のつわものだったので、縦横に打ちまわされて完敗だったと記憶しています。


                     次回は高校恩師との奇遇と囲碁の話。