ミミズの戯言14 ー囲碁遍歴その2ー ![]() 囲碁遍歴から少し離れて子供時代を振り返ってみよう。小学生の私は、走ってはいつもビリ、泳い でも、釣りをやっても、山にキノコ取りに行っても、いつも友達に遅れをとる、少々グズでのろまな少年 だった。しかしそんなことに少しも拘泥しない屈託のない性格でもあった。当時はやった子供の遊びは、 めんこ(我が東北の田舎ではバッタと言った)、ビー球(同じくハジキ玉)だったが、これだけはめっぽう 強く、友達が買ってきた真新しいメンコや大小のビー球を瞬く間に巻き上げては、自宅の2階の宝箱 (みかん箱)に戦利品として大事に格納していたものである。 草野球も好きで、親父の残した皮袋入りの黄色いバットと、親戚がくれた左利き用のグローブに油を 塗っては後生大事に使い、少年野球にうつつを抜かしたものである。その少し昔には布の中に小石を 入れて芯にして布と糸でぐるぐる巻きにした手製の固いボールで三角ベースの野球をよくやった。貧乏 な我が家だったので、母親がズックの布で手製のグローブを作ってくれたのも懐かしい思い出である。 戦後、プロ野球が爆発的な人気となり、川上の赤バット、大下の青バット、南村の黒バット、藤村の 物干し竿などの異名がファンの人気をさらった。昭和25年ごろだったろうか、巨人vs南海戦で川崎投 手から放った川上選手の9回裏1死満塁カウント1−3からの逆転満塁ホームランを、我が家のボロ ラジオ(ダイヤルを右に回すと針が左に回るタイプで、いつもガーガーピーピーとしか聞こえなかった。) にかじりついてアナウンサーの声に耳をそばたて、スコアブックに書き入れていた私は、思わず飛び 上がって喜んだものだ。このスコアブックは私の大切な記念の宝物だった。当時、私はプロ野球、特 に巨人戦のスコアブックを克明に記録し、新聞の野球欄を丹念に読む巨人ファンの少年だった。当時 何冊あったろうか。記念のスコアブックがとうに紛失してしまったのが全く悔やまれる。 小学生ながら、大人でさえなかなか使わない難しい漢字や人名、熟語、表現方法などを覚えたの は、新聞のスポーツ欄と一面の政治記事、ラジオの野球放送のお陰だった。だからよく何学年でどの 漢字を覚えるなどというが、私にはその記憶がない。小学生で無意識のうちに自然に大抵の漢字は 自家薬籠中のものにしていたことになる。昭和25〜6年ごろの巨人軍の不動の先発メンバーや阪 神をはじめとする各チームの主力選手の名前はほとんど諳んじていた。例を上げればキリがないが、 例えば阪神の御園生投手の読み方は「みそのお」と読むし、当時プロ野球界で最も長い名前の選手 は秋田商業出身の東急セネタースの「赤根谷飛雄太郎」(あかねやひゅうたろう)だった。早稲田か ら鳴り物入りで南海に入団した新人蔭山和夫が、華々しく1番ショートでデビューして我がスコアブック に登場したのは昭和25年だったろうか。終戦直後の巨人の先発メンバーは1番センター呉昌征、2 番セカンド千葉茂、3番ライト中島冶康・・・と続くのもスラスラだった。ー雑学自慢ご免。ー 雑学自慢にもう1つ。小学校6年、親友のMちゃんと二人で、彼の親戚で東大印哲卒の学識豊かな 荒物屋のKさんに英語を習い始めた。いまでいう塾のハシリである。2年ほど猛特訓を受け、温厚な 先生の目を盗んではMちゃんといたずらをしながら、なんとか高校生レベルの英文法をほとんどマス ターした。冬にはストーブを囲みながら、”Once upon a time,”で始まる「トムソーヤーの冒険」を原 語の本で輪読・和訳させられた。多分中学1年だったろうか。学校では英語の時間に、”i am a boy”を習っていた頃なので、そのギャップにしばらく戸惑ったものだった。また、Kさんのお父上には 意味もわからず孔子の「論語」を素読させられた。「子曰く」は「し、のたまわく」だと厳しく指導された。 ー片田舎とはいえ学問熱心、教育熱心な風潮が漲ったいい町だった。ー 他人よりも少しスピードが鈍いノロマで、大人っぽい事に興味を持っっていた変な小学生が、ジジ くさい囲碁に出会って興味をそそられ、爺さんだけが集まる碁会所に通いだしたのも、今にして思え ば当然と言えば当然だったように思える。 ー 次号は高校時代の囲碁との関わり。ー −後日記ー ラジオの「今日は何の日」という番組を聞いていたら、昭和24年4月12日の今日は、「巨人軍川上 選手が南海戦で逆転満塁ホームランを打った日」と紹介していた。そうか、あれは昭和24年だった のか。それなら私は小学校4年生になったばかりだ。と少々感銘を受けた。・・・2012年4月12日記。 |