葉山の散歩道(8) −一色地区ー 11,07,29 葉山町は1郡1町の珍しい町である。三浦郡には葉山町しか存在しない。かっての横須賀町や 三崎町、逗子町が市に昇格して三浦郡から独立し葉山町だけが三浦郡に残ってしまった。では 三浦郡はいつ出来たのか、葉山町はいつ出来たのか。少し遡って考察してみる。維新直後の明 治4年(1871)廃藩置県が断行されて第一次府県統合が行われた。藩は廃止され75府県が誕 生して国・郡を単位とする府県の統治が始まった。郡の誕生である。しかしまだ緒に就いたばか りで「国」も存続していて全国一律とはなっていない。この地は相模国三浦郡と称した。「三浦」の 地名の歴史は古いが説明は割愛する。明治11年(1878)の郡区町村編成法の制定でようやく 全国一律の郡制が確立して、名実共に神奈川県三浦郡が誕生している。このときの三浦郡は3 町12村だった。まだ葉山村とはいわず、葉山村の母体となる堀内、一色、長柄、木古庭、上山 口、下山口の6ヶ村が組み込まれている。その後府県の整理統合があり、明治23年(1890) 府県制が施行され現在の45府県になっている。 では葉山町(村)はいつ出来たのか、地名の由来は何なのか。そもそも葉山はじめ三浦一帯 を支配した遠国大名や、天領と代官支配の時代まで遡るが、それは次回の紹介とする。 さて散歩道に戻る。一色は堀内と接する私の毎朝の左回りの散歩道である。堀内地区と交錯 しているので一色のいくつかは既に紹介した。 1、実教寺 我が家から徒歩1分の町役場と花の木公園を過ぎて左手の小道を登ると実教寺がある。 日蓮宗、腰懸山。日蓮上人が鎌倉に行く途中、この地にあった路傍の石に腰懸けて休んだとい う。大永年間(1521)その旧蹟にこの寺院が建立された。境内に古将の墓(御用邸建設の時 に発見されて移設した。)がある。元禄9年銘の庚申塔もある。 2、平松地蔵 かってこの地の平松の塚上に見事な松があったが、明治の初めに枯れ朽ちてしまった。その 古松の根でお地蔵尊を2体刻み、1体はここに、もう1体はアジサイ公園の近くに祀られている。 3、道端の庚申塔 この散歩道には3箇所の庚申塔が道端にある。以前は見過ごしていたが文化財研究会に入 会してからはよく観察する様になった。約400年も昔の地元住民の信仰の証である。 @平松の庚申塔・・・旧道の生垣の脇に佇む4体の庚申塔で元禄8年(1695)の銘が彫られて いる。A夜泣石脇の庚申塔・・・やはり旧道の途中にある庚申塔で3猿も刻まれている。延宝5 年(1677)作。B一色前田の庚申塔・・・青面金剛が邪鬼を踏みつけた像が刻まれた庚申塔。 4、玉蔵院、森山神社、御用邸、しおさい公園、近代美術館葉山 この5ヶ所の地名は一色だが、堀内の散歩道と交錯しているので堀内の散歩道で紹介済み。 旧高松宮別邸跡に2003年秋にオープンした近代美術館には。海岸を見下ろす瀟洒なレスト ランがある。 5、小村寿太郎終焉の碑 近代美術館の斜め前に、日露戦争終結のポーツマス条約の立役者、小村寿太郎が退任後 3ヶ月の療養生活を送り亡くなった借家があり、門脇に故郷宮崎に向かって石碑が建てられ ている。 6、桂太郎、高橋是清、山本権兵衛、後藤新平、諸宮家の別荘跡 「堀内」の項で紹介済み。 7、一色公園 近代美術館の隣で金子堅太郎の最初の別荘があった場所。戦後、町の公園になり町民の 憩いの場になっている。私の朝の散歩の休憩の場で、相模湾と富士山などの山々を眺める 絶景ポイントである。 8、山口蓬春記念館 小村寿太郎終焉の碑のすぐ傍に山口蓬春記念館がある。葉山で晩年を過ごした日本画家 山口蓬春の邸宅が記念館になっている。アトリエや作品、庭園が見事。 9、芝崎海岸と周辺地域 この辺りは転石海岸といって、握りこぶしより大きい石が敷き詰められたようになっている。 日光に当たる転石の表側は海藻を中心とした光を好む生物の生活空間となっており、その 裏側は、日光を嫌う動物の隠れ場所になっていて、相模湾の海洋生物の貴重な宝庫である。 昭和天皇が貝の新種を発見された場所でもある。 この海岸を左に見てひたすら歩くと森戸海岸に着く。元町の商店街を右に曲がって図書館ど おりを通り我が家に帰るのが私の日課。所要時間は約1,5時間、9000歩の散歩道である。 この散歩道のどこが堀内でどこが一色かを理解するのはなかなか困難である。 一色地区の案内終わり。 |