作者自己紹介
KOSYO「コーショー」と呼ばれています。
住所
三重県四日市
年齢
不詳
ルックス
若かりし頃の写真です。
(今も余り変わっていないと人はいいます)
インド・ネパールとのかかわり
コーショー旅日記で後日記入します。

コーショー旅日記


    旅の始まり
 インドに行こう!1975年、無謀な旅が始まった。
大学4年になった時、友人MとMUとで海外旅行、それも観光ではなく冒険旅行をしようという事になった。
 大阪住まいのMとMUは、当時ソ連のナホトカからシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに行く計画だ。
しかし下宿生の私には日々の食事に窮する身としては、予算が足りない。

神戸港からナホトカに出航するMとMU

 大阪のタウン誌{プレイガイドジャーナル」に載っていた「JISU日本国際学生連盟」のデイスカウント航空券の広告を見て、予算的にヨーロッパは無理にしても、インドまでなら行けそうだと思った。
 さっそく大阪梅田の「JISU」のオフィースに行き情報集めをおこなった。まず国際学生証を作ってもらった。これがあると、海外で学割が使えるからだ。
 そしてそのオフィースに置いてあった旅行者が書き込むノートに1ページだけネパールからインドへ陸路の話が書いてあった。
 よし、陸路で国境を越えよう。何をするかが1つ決まった。
しかし情報が少な過ぎる。本屋で売られているインドのガイドブックには、僕のしようとしている安(貧乏)旅行の情報は全く無い。それでも何とかそれらしい本を見つけて、計画を練った。
 タイのバンコックで航空券を買うと安いらしい。
バンコックまでの安い片道航空券を捜していて「スカイメートクラブ」という会社?を見つけたので訪ねてみた。
 その事務所にはメガネをかけた、わたしより数才年上の青年がいた。
「バンコックの安い片道航空券がほしいのですが・・・」
「どこの学生?」
「K大です」
「後輩やないか、ほな3000円安くしたろ」
 そんなやり取りから私の旅が始まった。
そして、このメガネをかけた先輩が後の「インド・ネパール精神世界の集い」の首謀者であり、私の勤めることとなった「TIC(ツーリストインフォーメーションセンター)」社長のNさんである。
 また、友人Mが後にHISに次いで日本で2番目大きなディスカウント航空券会社「マップ」の社長である。
 そして、「今まで無かったすごいガイドブックを作ろう」と言った私の一言から、この無謀な計画が始まった。
  
エアーサイアム
1週間後「エアーサイアム」というタイ国の航空会社の東京→バンコックの片道ティケットを受けとった。
「エアーサイアム・・・」初めて聞く名前だ。大丈夫?「タイの王族がやってる航空会社やねん。SASスカンジナビア航空がバックについてるから大丈夫大丈夫」とNさんは言った。(確かにその当時は大丈夫であった、がしかし、数年後この会社は倒産した)。
「帰ってきたら遊びに来いよ」とNさんは言って私と別れた。

   
初めての海外旅行
初めて乗る飛行機、さらに始めての海外旅行。で一人旅。それに行き先がバンコックで、目的地はインド。片道切符で、ホテルなどの宿泊予約も無いままだ。
バンコックの飛行場に着いても誰も迎えに来るでもない。
しかし私はお構い無しにボーイング社のジャンボ旅客機に乗り込んだ。
無知ほど強い物は無い。何についてもそうだが、物事はやってみて初めて良し悪しがわかるのだ。
初めの一歩が無ければ二歩目も無い。とにかくやってみる事。それが大事だと思う。
 私は満員のジャンボ機の中ほどの席で、外が見えない。飛行機が離陸してシートベルトを外す許可が出ると、すぐ通路に出て窓から外を眺めた。窓の外は、青い空と白い雲と青い海があるだけだった(今から思えは当たり前なのだが・・・・UFOや戦闘機が飛んでたら怖いよね)。
 それ以後は私は空港のカウンターでティケットを受け取る時必ずニヤァザウインドウと言って窓際の席をリクエストするようになった。(席が空いていれば結構窓側の席にしてもらえる事が多い)
とにかく何でもやってみる事、言ってみる事。やらずに文句を言うなである。

  
バンコックの最初の夜
タイペイとホンコンを経由し夜9時過ぎになってバンコック国際空港に到着した。
さて、どうしよう?夜に知らない町に行くのは危険だ。特にバンコックはドロボウが多いらしい。
タクシーの客引きらが乗らないかとしつこく寄ってくるが、ノーサンキューと断って、飛行場のロビーで夜を明かす事にした。
 初めての外国で心細く、うとうとするが荷物が盗られないかと心配で眠れない。ようやくあたりが明るくなり、5時には空港関係者が何人も出入りして少しづつにぎやかになってきた。
係員らしき人を捕まえて「ホヤリズ、バスストップ、ツウ、バンコックステーション」と聞いてバンコック市駅行きのバス停を教えてもらった。
 そのバス停からバスに乗りた。
バスは南方系の緑の葉の茂る林を左横に、もう片方は鉄道の続く簡易アスファルトのような道を走っていく。
途中満員列車のデッキに人がぶら下がっているのが見えた。駅が近づいてスピードが遅くなるとその乗客たちは勝手にバラバラと線路に降りだした。
もちろん乗車券は買っているだろうが、降りるのは勝手なのだろう。これがバンコックのやり方なのだろう。
 道路のわきに大きな看板が見える。世界の有名会社にまじって、HONDA、TOYOTA、SONY、SEIKO、ORINPAS、CANONなど日本の会社の看板を見かけると何か少し心強くなる気がする。
とちゅう制服をきた女子校生たちが大勢登校のため歩いていくのが見える。ワイワイと話しながら、どの国でも一緒だなと思った。
 1時間ほど乗って、ようやくバンコック市内に入りバンコック駅に到着した。
そこから出発前に下調べをした情報を元に、また市バスに乗り、宿泊予定の「マレーシアホテル」に向かった。

    
マレーシアホテル
このホテルは当時タイにおける日本人旅行者のアジア旅行の情報交換の場所として知られていた。
それでこのホテルに泊まる事にしたのです。チェックインして落ち着くと、プールも着いているのでさそく泳いだ。
 このホテルにはいろんな日本人の旅行者が泊まっていた。みんなはよく1階のロビーで集まっておもしろかった話や情報交換のような話をしていた。
蝶を集めて世界中を旅行している夫婦とは、アフリカの草原で何キロも先にまるで金属が光るようにキラキラと蝶が飛ぶのが見えると急いでジープをとばして採りに行く話とか、またこのホテルで奥さんの指輪が外出中に無くなっていたのでメイドが怪しいんじゃないかといろんな話をしました。また、フランスの国営ラジオし出演し、尺八を吹いた音楽家とか。はたまた、南米旅行中クーデターが起こり、ピストルを頭の突きつけられ、もうダメかと思ったが、この国から出て行けと言われ放り出されて、難民と一緒に歩いて冬のアンデス山脈を越えて命からがら逃げてきた人とか。どことなく怪しげな貿易商とか・・・いろんな人が泊まっていました。

    
バンコックでの生活
 食事は中華レストランにしたが、お米が長いロングライスなので、日本のねちゃっとしたご飯ではない。パサパサで食べると「穀物」という味がした。4〜5日インド行きのディスカウントティケットを捜すために滞在したが、この食事のせいで体の体臭がかわってゆくのが分かった。
 バンコック中心街に日本の「アートコーヒー」があるので寄ってみた。コーヒーが日本と同じ値段だったが、タイのコーヒーショップで飲むと10杯ぐらい飲めるのじゃないかと思った。
ただ、ここには日本の新聞と週刊誌とマンガが置いてあるので、しばらく日本を離れていた人にはありがたい店だと思う。事実私もインドからの帰りにここに入り浸って丸一日、本を読んでいた。
また、日本のデパート「タイ大丸」があるので、本格的な「すし」や和食や麺類が食べれるので、長期旅行者にはバンコックはありがたい街だ。
 ただし、盗難が多いので気をつけなければならない。実は私も街中でスリに財布をすられた。美人女性とぶつかって気を取られた一瞬に彼女の仲間が全く分からないようにすってしまう。
私の友人(誰とは言わない)などは、美女にホテルに誘われて、部屋の中でジュースを飲んだら記憶が無くなって、気がつくと荷物も全て無くなっていた。
またある友人は、美女と思ってホテルに行ったら美男だった・・・という事もあった。全て実話である。

   
ネパールへ
ロイヤルネパール航空のネパールのカトマンズ行きの安いティケットがあったので、カトマンズに行くことにした。
 ここから先の旅行話は本文で見ていただく事にして、これからは私と「インド・ネパール精神世界の旅」とのできごとを書く事にします。

   
バンコックに帰る
 ネパールからインドをめぐり3ヵ月後バンコックに着いたときは、もうすぐ日本だと感じたものです。勝手知ったるバンコックでは、駅前の架橋の南洋旅社(ホテルの意味)に泊まりました。日本人は私一人でしたが、料金は安いし旅慣れしているので気になりません。
 さっそくバスに乗り街中のタイ大丸デパートに行きました。すし、てんぷら、そば、ラーメンetc懐かしい日本食の店ががずらりと並んでいます。しかし値段が高い、日本と同じ金額がします。一品800円…という事はインドでは26ルピー程。昨日まで一食3ルピー(90円)の食事に5ルピー(150円)のホテルに泊まっていた身にしてみれば大金ですが、奮発してすしを食べました。日本のしっとりした御飯はおいしかった。その後、アートコーヒーに行って日本の新聞と週刊誌とマンガを3か月分を一日中読んでいました。ホテルに帰って近くの食堂で夕食を取り、寝ようかなと思っていたら、ホテルオヤジが女性を連れてきて「女性はいらんかね?安くしとくよ!」と言う。もちろん場末のコールガールで今夜は客に有り付けなかったのでしかたなくここに連れてきた訳なので、美人ではない。18ドルでどうだと言うので8ドルまでまけさせた。そしたら次の日の夜もその次の日の夜もオヤジは女性を連れてきた。さすがにこれ以上はお金が無くなるのでお断りした。
 昼間は市内観光のバスに乗り有名な寺院などを見て回ったり、タイ大丸でショッピングをしたり、そんなこんなで数日を過ごした。

   
帰国
 7月に出発して10月に帰国しました。Tシャツ姿で出発したのが、帰国のときは日焼けした顔にアフガンコートを着込みバックパック(リュック)を担いだ姿は少々異様だったようです。羽田(当時は成田はまだ開港していませんでした)から大阪への帰りはハイウエーバスを使いましたが、途中のドライブインでカレーを食べてみましたが、甘ったるくてかつお節の味がしました。
 インドを旅行した者は社会復帰に旅行日数の倍の時間がかかると言われていましたが、それはただのおおげさな誇張でもあるし、そしてある意味では本当だと思いました。と言うよりある意味では二度と復帰できないのかもしれません。何かに気付いてしまった(知ってしまった)らもう知らなかった昔には戻れないと思います。それをどう利用するかは本人の考え次第でしょう。人間は地位や貧富の差があったとしても世界中の人々と上下は無く同等であり対等であり、その気になればどのような国でも生きていけるという気がしました。

  
TICに行く
 大阪に帰り、チケットを買ったスカイメートクラブに挨拶に行くと大阪オフィースは無くなっており京都に移転していました。名前もTICツーリストインフォーメションセンターに変わっていました。京都のTICにはツルノさんがいて、温かく迎えてくれました。社長のNさんは新設した東京オフィースに行かれていました。

  
東京
 翌年大学も無事卒業し、私は東京の田園調布の会社に就職しました。休みの日には六本木の秀和レジデンスにあるTICによく遊びに行きました。そこでたまにインドに行く旅行客に会うと、色々なアドバイスをしてあげたりしていました。社長のNさんは仕事が終わると一緒に食事に連れて行ってくれたりしました。
 その年Nさんはエジプト航空を使った東京⇔ボンベイ間の格安インドツアーを企画し「インド・ネパール精神世界の旅」と名前を付けました。それまではただのインドツアーとかインド旅行と言われていたのが、新たな意味を持ち始めたのでした。いよいよ「インド・ネパール精神世界の集い」の始まりです。
 やがて年末の近づいたある日、Nさんに「うちの会社に来てくれ」と言われました。大阪のプレイガイドジャーナル社の募集したネパールツアーの添乗員をやってくれとの事。色々と悩んだ末結局TICに入社する事にしました。
 プレイガイドジャーナルとは、当時大阪の
イベント情報やアルバイト情報などの画期的なタウン誌で(今の「ぴあ」のはしり)でした。中の「バイトくん」という4コママンガを画いていたのが「タブチくん」「となりの山田君」の”いしいひさいち”さんでしたし、その他大阪の新鋭の作家や、多くのミュージシャンが紙面作りに参加していました。そしてTICも大阪にオフィースを出していました。                          



  
ネパールツアー
 その年の年末、なんだかんだと訳ありげな(大阪でいろいろな活動をされている)18人の客を連れてネパールツアーに出発しました。 
その時の私は、なにしろバリバリのインド帰りでしたから、言う事に迫力があったせいか、全員私の言う事をよく聞いてくれました。
 
 
 オプション・マリファナツアー?
 翌日「マリファナを吸いたい」という希望がたくさんあったので、それならいっそうの事しょうもない事をせずに最初からベスト体験をしてもらおうという事で「プレジャールーム・ツアー」を企画しました。
 1976年当時は、ヒッピーやフラワーチルドレンなどのブームもあって、映画では「イージーライダー」や「アリスのレストラン」などのマリファナを扱った作品も結構ありましたし、海外や国内のミュージシャンもやっていた時代でしたので、そういう要望が出たのでしょう。 マリファナに関心のある人はほって置くと勝手にいろんなことをやりだすので、トラブルを起したりしやすく、かえって危険です。それなら最初から私の見えるところから教えた方が安全だと思ったわけです。
 食事の済んだ夜、フリークストリートの奥にある「プレジャールーム」というマルファナ専門店に十数人を連れて出かけました。勝手知ったるカトマンズの街ですので歩いて出かけました。その店は昔のロック喫茶のような店で、JBLの大型スピーカーにSONYのステレオデッキでロックの曲をガンガン流しています。そしてその店でマリファナをパイプで吸わせてくれるのですが、その他にその店のメニューが何と「マリファナ・ティー」「マリファナケーキ」 「マリファナパイ」などと、食べる事もできるのです。パイプで吸う場合はマリファナはそのまますぐに効いてきて軽いハイになるのですが、食べた場合は胃から吸収されるため、しばらくたってから一度にドンと体中に効いてくるのです。慣れていないと戻したり、悪酔いをして大変なバッドトリップをする場合があります。
 私はそのことを皆に詳しく説明して、食べる場合はケーキー1個を丸ごと食べるのではなく1/3ぐらいづつ食べるようにさせました。それでも慣れていない人は変な方向にトリップするので、私が軌道修正をしてバッドトリップしないようにするわけです。 
 音楽に酔いしれる人、大声で笑い出す人、じっと黙りこんで自分の世界に浸る人、などさまざまです。 2時間ほどハッピートリップを楽しんでから、全員を連れてホテルに帰りました。その帰り道でも自分がどこにいるか分からなくなった人や、大声で騒ぐ女の人やらでさまざまでした。ともかく全員無事にホテルの部屋までお送りしてその日のパーティーはおひらきになりました。翌日から彼らは、以前にまして私の言うことを良くきいてくれるように様になりました。これでいいのかな?
 そうして、第一回プレイガイドジャーナルネパールツアーは盛況の内に無事終わる事ができました。   

   
マネージャー
 その頃TICにはUさんというスタッフがいて、旅行業の他に「久保田真琴と夕焼け楽団」というロックバンドのマネージャーもしていました。かなりの実力派でエリッククラプトンの東京公演の前座を務めたり「ハワイアンチャンプール」というレコードアルバムも出していました。後に喜那庄吉で有名になった「ハイサおじさん」という沖縄サウンドを最初に広げたバンドです。後にその他に横須賀の「オレンジカウンティーブラザーズ」というバンドのマネージャーも掛け持ちですることになりました。さらにその後、細野晴臣さんのマネージャーもやらないかという問い合わせもありましたが、手一杯でお断りしました。
その当時の細野晴臣さんの曲はシンセサイザーミュージックといわれていて、まだテクノポップという名前はありませんでした。曲自体が静かな曲が多かったので、正直な話、私は彼等の演奏を聞いて眠てしまった事がありました。その後YMOを結成しテクノポップで世界的に有名になるとは思てもみませんでした。もちろん細野晴臣さん達は以前の「ハッピーエンド」時代から大好きでしたが…。もしその時マネージャーを引き受けていたらどうなっていたでしょう…?
 とにかくその頃のTICはとてもユニークな会社でした。

  
「インド・ネパール精神世界の旅」春の陣
 1月に帰国してすぐに「インド・ネパール精神世界の旅」春の陣の準備が始まりました。プロデューサーのAさんの紹介で横尾忠則さんに「インド・ネパール精神世界の旅」ポスターを画いていただきました(確かウン百万でした)。たかが出来たての小さな旅行会社がツアーのポスターに横尾忠則さんを使うなどとは、社長のNさんの実行力には感心させられました。(ちなみに2作目のポスターは漫画家の真崎守さんに画いていただきました)。
 当時、雑誌の「宝島」で広告を入れていました。それで「宝島」の関係者がオフィスによく遊びに来られました。

    




 今回のツアーは初めてJAL便を使い、ニューデリーまでの往復としました。いままでの安かろうサービスも悪かろうといったエジプト航空便などと違い、価格の安いインドツアーとは全くちがうツアーに生まれ変わりました。春の陣だけで400人以上が参加しました。

 
 コーショー、ビザを作る
 通常インドのビザ取得するにはインド大使館に申請してから2週間ほどかかる。インド大使館には日本人の男性と女性の2人の職員とインド人の大使の3人でビザを作っていた。
 私はツアー出発日の3週間前からツアー客のビザ申請をするために九段にあるインド大使館に毎日のようにかよっていた。その頃は毎回4〜5枚だったのが、ツアー締め切り日になると申し込みが集中し一度にビザ申請が重なり、なんと300枚のビザを申請する事になってしまった。しかも出発まで後10日しかないではないか。

  
ビザが間に合わない
 翌朝一番でインド大使館に行き職員に300枚ものビザを見せたら彼らは「すごい数ね」と驚いていた。この時までは彼らはまだ笑顔であった。しかし私が「出発までに後9日しかありません」と言うと彼らの笑顔は消え、しばらく言葉が出てこない。ようやく女性職員が「無理よ!とても無理よ。だってビザ申請しているのはあなた所だけじゃなくて、他にも毎日たくさん来てるのよ!」と悲鳴をあげた。
 しかし出発日は決まっており今からJAL便の変更はできない。「なんとかお願いします。そうでないとこ、のお客様がインドに行けなくなってしまうんです。」と必死で頼み込んだ。
女性職員はとりあえず大使に話はしてみますと言って大使の部屋に入っていった。しばらくして出てきた彼女は「大使は出発日を遅らせろと言っています。」と言った。もちろん今さらそんな事は出来るわけが無い。「そこを何とか」と再度頼むと「私たちではどうにも出来ません。直接大使にお話してみてください。」と言われたので、大使の部屋に職員の誘導で入らせてもらった。

  
Go out!出て行け!
 はじめて見るインド大使は割と若くてスマートで頭の切れそうな人であった。私は必死で英語で訳を説明して何とか出発までに全員のビザが出来るようお願いをした。しかし大使は英語でクールに言った。「そもそもこれほど多くのビザはもっと余裕をもって申請すべきである。こちらがビザは1週間ほどで出来ると言っても、それはあくまでも通常の数通の枚数であって、これほど多くの枚数を想定していない。したがってできないものはできない。」理屈好きな典型的なインド人らしく理路整然とした返事であった。
 それでは困るので何とかお願いしますと何度も食い下がったが、しまいに大使は腹を立てて「ゴーアウト!(出て行け)」と怒鳴った。こうなってはしかたがない。これ以上怒らせると後が無くなるので、とりあえずその日はお客から預かった200枚のパスポートとビザ申請書とを持ってインド大使館を出た。
 会社に戻って訳を説明すると社長のNさんは困った顔をして「何とかならんか?」と私にたずねた。私は「明日、再度やって見ます。」と答えた。私にはきっとできるという思いがあった。若かったからそう思えたのか、インドで体験してきた感覚がそう思わせるのか、とにかく確証も無いくせに何とかなるといった感覚を持っていた。

  
私の提案
 インド人は理屈好きである。特に役人はその傾向が強い。したがって理に合わなけれは否定するが、理にかなえば承諾することが多い。それで私はプランを立てた。
 翌朝、インド大使館が開く前に大使館に行き、開館と同時に大使に面会させてもらった。
大使は迷惑そうに私に会った。私は静かな口調で言った。「たしかにこの時期にこれだけの枚数のビザ申請は、こちらの状況判断のミスである。それは100%私が悪い。しかしこのビザを申請している人たちはインドが好きで、実際にインドに行きたがっている人たちである。その人たちのインド行きを中止させるのはインドにとって大きなマイナスである。」とぶち上げた。インド大使は静かに私を見た。私は更に続けた。「たしかに、職員2人とあなたの3人では、これだけのビザを作成するのは無理かと思われる。それで提案だが私が毎日ビザの作成のお手伝いを出来ないだろうか?手伝わせてほしい。」と言った。大使はしばらく考えてから、困ったよう笑顔を見せて「OK」と言った。多少無理があっても理屈が通ればインド人はある程度譲歩してくれる。これは実際にインドで私の得た体験と知恵である。
 やった、こちらの作戦勝ち?である。その日から私は一日中インド大使館でビザ作りをすることとなった。社長のNさんに電話で報告すると「ようやった!頑張れ」との事であった。もちろん外部者が神聖なるビザを作るなどとは、インド大使館始まって以来の珍事である。職員達はあきれた顔をしたが「まあ、何とかなりそうね。良かったですね。」と苦笑いをした。

  
前代未聞!私がビザを作る
 ビザはまず男性職員がパスポートと申請書と代金の3つを受け取る。代金は女性職員が管理し、パスポートとビザ申請書は男性職員が間違えや不備などが無いかチェックする。問題なければ、今度は女性職員が申請者の名前やパスポート番号やその他をファイルに書き込み通し番号を付ける。今度はそれを男性職員がパスポートに在日インド政府大使館のビザスタンプを押し、その上に凹凸のある割り印を押す。そして発行日付を書き込む。それを女性職員が奥の部屋の大使に届ける。大使はそれに間違えが無いか確認して彼の自筆でサインをする。これで出来上がりです。
 私はまず、パスポートと申請書と代金をチェックした。それらを男性職員と女性職員とに配る。そして男性職員から返ってきたパスポートに、ビザのスタンプと割り印を押す。この割り印がうまく凹凸が出るように押さければならないので、結構力が要る。慣れないうちは10枚も押すと腕が疲れた。

  
ビザ作りの日々はダックスに乗って
 朝会社に出勤し、ビザの申請書類をカバンにつめて、愛用のホンダのダックスという50CCの原付バイクに乗り会社からインド大使館に向かう。東京は地下鉄などがたくさん走っているが、実はバイクが最も便利な移動手段である。渋滞にも無関係だし原付なので歩道や狭い路地も走れるし、裏道を覚えればこれほど便利なものは無い。
 インド大使館に着くと、まず申請に集まったパスポートと書類を整理する。だいぶ慣れてきたので、私の会社の物だけではなく他からの物も全て私が区分けする。それからいつもの手順でビザ作りが始まる。大使館の職員や大使とだいぶ仲良くなり、ティータイムにはおいしい紅茶が出るようになった。この時の大使は年齢が32歳と若いバリバリのやり手大使であったためこのような事も許してくれたのだと思う。私はビザ作成中に、インドで体験した私やお客のおもしろい話などをすると、職員や大使は大喜びであった。大使と話をしていていろいろと聞いてみると、まだ東京(日本)に来て間が無いので知り合いがいないと言う。それで私はインド好きな仲間男女数人と一緒に彼をディスコに連れて行った。彼も皆と楽しい話ができて喜んでくれた。もちろん支払いは彼は割勘を主張した。彼はほんとうに潔癖な人柄であった。良い大使に会えて幸いであった。彼も私にとってインドの先生であった。こんな風に私のインド大使館出張?の一週間が過ぎていった。人は誠意を持って接すればどのような国の人でもそれに答えてくれると思います。
 

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