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 小さな池から一筋の小川がさらさらと流れ出て、その小川と池が分かれるちょうど境目にまだ若い桜の木が生えていました。優しい色合いの美しい花をつけています。七分咲くらいでしょうか。まだ風に落ちる花びらの数も少なくその淡い雲をまとったような姿を静かに池に映しています。
 その木の下で赤鬼と青鬼が酒盛りをしていました。赤鬼はあから顔の大柄な鬼で、乱れ放題の短い髪の間から体躯に見合った大きな角がにょきっと生えています。対照的に青鬼は青ざめた顔を持ち、鬼にしては小柄でした。櫛削られた長い髪の間から細く鋭い角が生えています。
 ござの上には大きな酒徳利が何本か置かれ、鬼達は大振りな朱の杯に酒を注いで飲みながら静かに桜を眺めていました。
「そろそろ神々が花見をする刻限ではないのか、青」
 赤鬼が杯の酒をぐいっと一気に飲み干してそう言いました。青鬼は桜から目を離さずにちびりちびりと酒を飲んでいましたが、こう答えました。
「刻限かもしれぬな」
 赤鬼は呆れたように首を横に振ると、徳利から杯に酒を注ぎました。
「お前も頑固な奴だな。毎年毎年よく飽きもせずに同じ事を繰り返すものよ。鬼が神々の邪魔などできぬ。近づかぬのが一番だ」
「俺はこの桜を気に入っている。神々が来るからといって花見を中断するつもりはない」
 青鬼はそう答えました。
「赤、そういうお前は何故ここに居る」
「普段澄ましているお前がひっくり返るのを見物しに来ている」
 赤鬼はそう答えました。
「去年は歯痛、一昨年は頭痛を起こしてひっくり返っていたな」
「去年の歯痛は酷かった」
 青鬼は澄ました顔で頷きました。
「頭痛や腹痛なら心構えができていたのだが、歯痛は初めてだった。神の奏でる楽の音にはどうにも慣れる事ができぬな」
「俺は頭痛や腹痛は起こさないのだが、ただただ恐ろしくってたまらぬ」
 赤鬼は空になった杯に酒を注ぎ足しました。
「花はもう十分見た。ここはさっさと切り上げて人を喰いに行こう。今、人の世は戦乱で荒れている。好きなだけ喰えるぞ」
「そうだな」
 青鬼は生返事をしてまた杯から酒を少し飲みました。
「以前は俺が宝生院家の縁の者で妻子を佐原照光に殺された恨みで鬼になった、と言えばわかる人間も居たのだが最近は宝生院の名も佐原の名も知らぬ者ばかりだ。つまらぬ事よ」
「昔の事だからな。もう百年にもなるのではないか」
「百年か」
 青鬼は人から鬼になったばかりの事を思い出しました。やはり鬼になったばかりの赤鬼と一緒にある寺に押し入った時の事です。奥の部屋に一人の坊さんが壁に向き合って座禅を組んでいました。鬼が部屋に入ってきてもピクリともしません。痩せた坊さんで食べてもつまらなさそうだったので別の部屋に獲物を探しに行こうと青鬼が後ろを通り過ぎた時です。
「赤は二百年、青は百年」
 低い声でぼそりと呟く声が聞こえました。青鬼は驚いて振り返りましたが、坊さんは先程と変わらず生きているのか死んでいるのかも定かではない様子で壁に向かっています。空耳かと思って青鬼はそのまま部屋を出て行きました。
「俺は百年も神々と喧嘩をしていたのだな」
「青、お前は喧嘩をしていたつもりだったのか。俺はただただ逃げていたつもりだったのだがな」
 赤鬼は杯を置いて耳を澄ませました。
「聞こえるか。神々の奏でる楽の音だ」
 青鬼も耳を澄ませました。
「俺にはまだ聞こえぬ」
 赤鬼も青鬼もそのまま静かに耳を澄ませていました。やがて青鬼にも微かな楽の音が聞こえるようになりました。
「今年は頭痛か、歯痛か。どちらにせよ立ち退くつもりはないぞ」
 だんだんと楽の音は近づいてきます。赤鬼は体がぶるぶると震えてきました。
「俺は、やはり神々が怖い」
 そう言って赤鬼は立ち上がり、走り去りました。青鬼はそのまま耳を澄ませていました。いつもより痛みが来るのが随分と遅いようです。音はどんどん近づき、楽の音に混じって神々の笑い声が微かに聞こえてきます。青鬼はこみ上げてくる不安を紛らわせようと杯に手を伸ばしました。
 青鬼が杯に手を触れるか触れないかのうちに、ポン、と軽い音がして青鬼の体は一匹の魚に変じました。ござの上で何回かピチピチと跳ねた後、何とか池に飛び込みます。魚は池に入ると気持ちよさそうにスイスイと泳ぎ始めました。池を横断してみたり、桜の花びらを吸い込んではまた口から出してみたり、不思議そうに池の底の石を口でつっついてみたりしていましたが、しばらくしてもっと広い場所に行こうと思いついたのか小川を威勢良く下っていきました。
 池のほとりに金色の雲に乗って賑やかな楽の音と共に神々が降りてきました。年に一度の花見の始まりです。月の光に照らされて桜の花は冴え冴えとした美しさを増し、その花は微かに燐光を放っているようにも見えました。


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