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 白い豹が白い衣を纏った神官と生け贄の乙女を乗せて丘の上をひっそりと上っていく。古代都市アキウトゥミク(Akiutkmik)では年に一度月神を祀った祭壇に乙女の生け贄を捧げる儀式が行われた。
 白い花を髪に飾った乙女が祭壇の前に進むと、神官は頭を垂れて後ろへ下がる。銀の飾りをつけた白豹は神官に宥められて銀色の目を閉じ、地面にその身を伏せた。
 生け贄の乙女は祭壇に上り膝を折ると、太古の白い石でできた短剣を取り出した。その短剣の名はエディアナ(ediana)。月が生まれた時に自らの一部を裂いて残したと伝えられる石を穿ち、刻んで作られたもの。
 乙女は短剣を掴み喉にその刃を突き立てた。伝承によると、不思議な事にその祭壇で流される血は常に透き通り、祭壇の周囲の草も赤く染まる事は決してなかったという。
 
 古代都市アキウトゥミクの富の源は錆びを知らない銀にあった。神官達は錆びない銀を王に上納し、手厚い保護を受けていた。
 建物は白い石を使って建てられ、道路はやはり白い石で舗装された。人々の衣服は黒か灰色、茶色と決められ、派手な色彩は咎められた。神官と巫女のみが白を纏った。
 人々は静寂をもって美徳とした。表情は乏しく、声を荒げて怒鳴ったり、声をたてて笑ったりする者はいなかった。都市の住民は神殿の維持の為に働く者が殆どだった。野外の作業をするものは殆どなく、必要な場合は日に焼けぬよう顔や手を覆って作業を行った。
 月神への捧げ物を納めるため他の都市から多くの人々がアキウトゥミクへとやってきたが、人々は静寂が支配する都市に長く滞在する事を喜ばなかった。
 人々はアキウトゥミクの事を”美しく不吉な都市”と呼んだ。また、死の気配が濃い都市、とも。

 月神の神殿は神聖な場所とされ、人々の立ち入りは厳しく禁じられていたが、遠くからでも純白の美しい神殿を一目見たいと思う者は後を絶たなかった。
 神殿の中枢では数々の不思議が起きると信じられていた。錆びない銀もその一つで、神官達が銀を月神に捧げ、祈ると錆びない銀に変わると信じられていた。
 また月の光を浴びた動物が口を利く、重い石がひとりでに浮き上がる、などとも。
 月神の神殿では多くの動物が飼われていたが、世話は神官や巫女の役目で人々の目に触れることは無かった。
 毎日大量の餌が運び込まれるので、動物がいる事は周知の事実だったが、動物の姿は見えず、また声も外に伝わってくる事はなかったので人々は”アキウトゥミクでは動物ですら静寂を重んじる”と噂した。

 アキウトゥミクの栄光と静寂は永遠に続くかとさえ思われた。しかし潮が満ちてまた引くようにその栄光もある日終わりを告げた。
 太陽神を奉じる国が急激に勢力を広げ始めたのだった。月神が静寂と知識を重んじたのに対し、太陽神は賑やかさと武を好んだ。
 太陽神を奉じる者達は初めは礼を尽くして月神の知識を求めに来た。だが、次第に知識に対する対価が高いと言い出し、月神を奉じる者を非難し始めた。
 些細な事から戦争が始まった。太陽神を奉じる国が思った程、月神を奉じる国を打ち負かす事は簡単ではなかったが、アキウトゥミクを庇護していた王が戦場で倒れると独自の軍隊を持たない神殿は太陽神の軍の前に為す術もなかった。

 悲しみに沈むアキウトゥミクに進軍してきた軍を率いていたのは、まだ若いが勇名の高いエルミアス将軍であった。古参の参謀が一人付き従い、時に無謀な行動に走りたがる将軍を補佐した。
 将軍はアキウトゥミクを包囲し、アキウトゥミクの富が持ち逃げされるのを防いだ。しかる後に神殿に使者を送り、抵抗せずに月神の富を全て差し出せば兵士に略奪はさせないと伝えた。
 神殿から使者が伝言を携えて帰ってきた。
”神殿の富は将軍に差しだそう。しかし、今日は年に一度の儀式の日。儀式が終わる刻限まで待っていただきたい”
 将軍は返事を聞いて怒りを露わにした。
「私は既に最後の戦いに勝ったのではないか。勝利者たる私を出迎えもせず、刻限まで待てとはなんという言い草だ」
 将軍は神殿まで直ちに自ら出向くと宣言した。参謀もこれを止めなかった。儀式を理由に月神の富を隠匿される事を恐れた為である。

 馬の蹄の音も高らかに将軍と側近は神殿に乗り込んだ。神官達は困惑を露わにしながらも、将軍を迎え、将軍を献上品を用意してある部屋に案内した。将軍は部屋に入りきらぬ程山と積まれた錆びぬ銀、真珠、白絹、書籍などを見て少なからず心を和らげた。
 しかし、参謀は献上品を見て首を横に振った。
「王への献上品に月神の宝刀を欠いてはなりませぬ。かの宝刀こそ月神の至宝」
そして神官に伝説の宝刀エディアナはどこかと尋ねた。神官はその問いに対し沈黙をもって答えた。
 いらだった将軍は剣を抜いて、神官に宝刀はどこかと尋ねた。神殿での流血は固く禁じられていたが故に、神官は渋々口を開いた。
「月神の儀式を行う為、白の丘に」
 それを聞いて参謀はすぐに白の丘に急ぐよう将軍に進言し、将軍もその言を受け入れた。

 将軍とその側近が白の丘に着いた時には、もう儀式は終わり神官達が祭壇の乙女の遺骸を無数の白い花びらで覆っている所だった。
「月神の宝刀はどこだ」
 将軍が神官達に尋ねたが、答えは返ってこなかった。いらだった将軍が重ねて問おうとすると、参謀が答えた。
「月神の宝刀は生け贄の儀式に使われます。おそらく宝刀は祭壇の上に」
 将軍は祭壇の前に進んだ。神官達は顔色を変えて必死に将軍を引き留めようとした。しかし、将軍の側近達は刃をもって神官達を祭壇から遠ざけた。

 かの宝刀エディアナは乙女の白い手に握られていた。無数の白い花びらに覆われた遺骸は美しくも不吉で神官の制止がなくとも触れるのをためらわれる類のものであったが、若き将軍の頭の中にあったのは月神の富を携えて意気揚々と都に凱旋する己の姿だけであった。
 将軍はためらわず乙女の手から宝刀をとりあげようとした。しかし死がもたらす硬直のため、将軍は宝刀を取り上げるために乙女の指を一本一本引きはがさなければならなかった。
 ようやく宝刀を手にした将軍はその戦利品を子細に眺めた。不思議と暖かみのある白い石で、美しい銀の粒子が表面に浮いている。柄には月を表す文様が深く刻まれているが、年月を経てひどく磨耗していた。
「これぞ月神の宝刀エディアナ」
 将軍はそう呟き、磨かれた刃にそって指を軽く滑らせた。エディアナの刃は将軍の考えよりはるかに鋭く、その指を噛んだ。将軍は軽く眉根をよせて自らの血の滴を眺めた。

月神の祭壇に赤い血が一滴滴り落る。

 月神を奉じる最大の王を打ち破った将軍エルミアスは、時をおかずにアキウトゥミクを包囲した。月神の神殿の富を我が物とする為である。しかし大規模な地震がおき、都市は地割れに飲み込まれた。都市を包囲していた軍勢も壊滅的な被害を受け散り散りになった。
 将軍の親友であり、智将と呼ばれたルシウス将軍はエルミアス軍壊滅の知らせを聞くと自らの持ち場を直ちに放棄し、アキウトゥミクへと急いだ。そして自軍をアキウトゥミクに一番近い都市へ駐留させ、エルミアス軍の生き残りを捜した。行方不明になったエルミアスの消息を尋ねる為であった。
 しかし、はかばかしい情報は得られなかった。仕方なくルシウス将軍は、単身アキウトゥミクに向かった。他の誰も月神の怒りを恐れてアキウトゥミクに近寄ろうとはしなかった為である。

 瓦礫の山を通り抜けてルシウスは月神の神殿のあった場所へと向かった。エルミアス軍の生き残りの兵士が将軍は神殿に向かったと証言した為である。
 行ってみると巨大な神殿の屋根は落ち、立って残っている柱は殆ど無かった。その光景を見てルシウスは肩を落とした。エルミアスが生き残っているとは思えない。それにこの瓦礫の山では、死体を探すことも覚束ない。ルシウス将軍はしばらくその場に立ち尽くした。
 
 どれくらいの時間がたっだろうか。ルシウスは微かに聞こえるシュルシュルという音に身を強ばらせた。気がつくと白い鱗に銀色の目をした蛇が瓦礫の間を縫ってこちらにやってくる。
 ルシウスは剣の柄に手をかけたが、剣を抜くのを危うく思い止まった。月神に仕える動物は残らず白い体に銀の目を持つと聞いた事があったからである。更なる月神の怒りを買う事は得策では無いとルシウスは判断した。
 ルシウスがしばし蛇を睨んでいると、声をかけるものがあった。
「こちらに何のご用ですかな」
ルシウスが振り向くと、一人の老人が立っていた。
「私の名はルシウス。月神の怒りを買うのを承知で親友の消息を訪ねにきました。友の名はエルミアス」
 ルシウスは老人に石を投げられても不思議は無いと思っていたが、案に相違して老人は穏やかに応じた。
「こちらに来なさい」
ルシウスは老人の後を付いて歩き始めた。
 
 老人はしばらく歩くと一つの平らな白い石の台座を指し示した。台座は二つに折れ、乾いた血で黒く汚れていた。
「これはかつての月神の祭壇。エルミアス将軍が誤って自らの血で汚したもの」
「では、この血はエルミアスの流した血なのですか」
「この血は月神への生け贄の乙女が流したもの。ですが、貴方には到底わかりますまい」
そう言って老人は目を閉じた。
「将軍の血が祭壇に滴り落ちた瞬間に、清く透明に流れた生け贄の乙女の血が赤く変じたのです。エルミアス将軍は突然自分が赤い血の池のただ中に立っている事に気づき、思わず悲鳴を上げられました」
 老人はそこで言葉を切った。ルシウスは老人が先を続けるのを辛抱強く待った。
「そして、あの地震が起きました。堅牢な筈の石の都があっと言う間に崩れ、地割れに呑み込まれました。あの地震は月神の怒りそのもの」
老人は祭壇を悲しげにじっと眺めた。
「しかし、アキウトゥミク崩壊の恐怖は生け贄の乙女の血が赤く変じた時に私が感じた恐怖に比べれば、何ほどの事もありませんでした。この祭壇はアキウトゥミクそのものよりも遥か昔から月神の祭壇として、清く保たれていたものを・・・」
老人は首を振ってため息をついた。
「月神は慈悲深くも、その面を私達に向けている事を血の奇跡をもって私達に示して下さっていました。しかしもう月神の面は我々から背けられたのです。ルシウス将軍、あなたはもう月神の怒りを恐れる必要は全くないのです。もう月神は私達からその面を背けられたのですから」

 ルシウスは祭壇に近づいて辺りを見回したが、祭壇の他は何も見る事ができなかった。
「エルミアスの体は地に呑まれたのでしょうか」
「エルミアス将軍は月神の怒りを受けてその身を動物に変じました。そのような事は永い月神の伝承にも記されていません。そういう意味ではあの方は非常に類希な方ですな」
 ルシウスは老人の言葉に皮肉の棘を感じ、頃合いだと悟った。案内をしてくれた事に丁重に礼を言い、助けが必要かと聞くと、老人は黙って首を横に振り、その場を立ち去った。
 ルシウスが神殿後まで引き返すと、先程の白い蛇が後をついてきた。ルシウスはその蛇を伴い、かつては不思議な美しさに満ちていたアキウトゥミクの廃墟を後にした。


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