時は流れずの表紙写真
『時は流れず』(大森荘蔵著 青土社)への批判的書評





金哲顕

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   目 次

         


はじめに

『時は流れず』は1994年から96年にかけて雑誌『現代思想』に掲載された七つの論稿と、95年に『岩波講座 現代社会学』第三巻に掲載された一論稿の、都合八つの論稿によって構成されている。これらはそれぞれ独立した論文であるが、『時は流れず』においては、テーマ別に過去論を含む時間論・他我論・意識論の三つのグループに分けられていて、そのテーマ順で配列されている。それによって客観(過去・実在・他者)の側から主観(心・意識)の側へと進みながら、哲学の根本問題である主観−客観問題をトータルに浮き彫りにし、最後に究極問題である意識の本質を論じることによってこの根本問題に決着を与えようと意図している。

 大森哲学にはおおむね以下の四つの伝統的哲学が含まれている。

(1)ヒュームの知覚主義哲学
(2)カント哲学(とくに物自体論)
(3)プラグマティズム(実用哲学)─プラグマティズムはイギリス経験論とダーウィンの進化論的淘汰説の合体したもの
(4)論理実証主義の分析哲学的意味論(とくにウィトゲンシュタイン)

これらの哲学にはそれらに固有の欠点や弱点がそれぞれにあり、それらはそのまま大森哲学にも受け継がれている。

それにまた、これらの哲学は相互に調和しない哲学なので、大森哲学には折衷哲学一般によく見られるような矛盾・齟齬・不調和・核心問題の無視・論争相手あるいは自分の論理に対する意図的歪曲などが至るところに発見されることになる。以下にそれを第一章からほとんど逐条的に批判しながら具体的に示していく。

まず第一章からはじめて各章を追いながら大森氏の文章を順次引用し、必要なら、カギ括弧内の引用原文の中では丸括弧の文章で、カギ括弧とカギ括弧との中間では括弧のない通常の文章で、その前後の彼の文章の要約を挿入する。

その場合、批判の便宜のために各引用文(要約文を含む)に(1)(2)… (a)(b)…などの、原文にはない分類番号をつける。批判は各節の末尾に「注」をつけ、その「注」のところでこの色の文章で逐条的に展開する。「注」における(1)(2)… (a)(b)…などの分類番号は、先の引用文や要約文のそれに対応している。

批判の要点

批判の要点は大森哲学におけるヒュームの知覚主義の欠点を示すところにある。というのも、大森哲学はおおむねヒューム哲学のプラグマティズム版といったものだからである。

ヒューム哲学の本質的欠点はそのまま大森哲学にも受け継がれている。その欠点とは「いま生身で知覚されているもののみが存在する」という思想だ。つまり、「現在の知覚を離れたものは、過去であれ、物陰にあるものであれ、ミクロの世界であれ、法則という抽象物であれ、心(自分の心を含む)であれ、すべて存在しない」という思想である。

これは「いま私に知覚されているもののみが存在する」というバークリーの思想よりもさらに徹底した知覚主義である。バークリーの場合、客観的実在は存在しなくても、知覚する主体としての「私」という自我は存在しているが、ヒュームの場合、その自我さえ存在しない。ヒュームは、「自我とは一瞬も留まることを知らない知覚経験の集合的な流れにすぎない」とする。だから知覚の主体は存在せず、ただ知覚されている状態のみがあるわけである。

したがって、「いま生身の私が知覚しているもののみが存在する」と言えないだけでなく、「いま生身で私に知覚されているもののみがある」ともいえない。(知覚する主体としての)主語の「私」を一切排除して、「いま生身で知覚されているもののみが存在する」と言わなくてはならない。

それはあたかも中枢神経系の未発達な、自己意識の全くない帆立貝やクラゲの感覚状態、あるいは放心状態の人間の感覚状態を表現しているかのようにみえる。ところが知覚主義者の自我のないそうした知覚でも、山なら山、机なら机というように、我々が見ている世界がそっくり知覚されているのである。

そしてこのような原初的な知覚、ヒュームのいう人間の受け取る最初の「単純な感覚的印象」だけが確かな情報であり、自余のことどもは人間言語の創作物にすぎないとされる。

このヒューム哲学はほとんどそのまま大森氏に復唱されている。だからヒュームが拡大鏡で見たミクロの世界の実在性を否定するように、大森氏も原子や素粒子の存在を「それはすでに人間言語によって加工された世界だ」として否定する。過去も現在知覚されているものでないから実在せず、過去から現在へと因果的に存続している客観的世界や宇宙といったものも存在しない。なににしろ、いま知覚されているものの他は何も存在しないのである。

知覚から独立した客観的実在が存在しないとなれば、知覚はいつも誰かの知覚だから、するとさしあたりまず誰かの知覚の中だけに全てが存在することになる。つまり、全ては自分の知覚によって成り立っていることになり、したがって知覚主義は、(たとえ自我の存在を否定してはいても)、現実的には結局、バークリー風の独我論になる。

こうした知覚主義の根本問題は、知覚の起源を説明できないことにある。知覚は厳然と存在する。それは知覚主義者も認めている。しかし「なぜ知覚が起きるか」は彼らに説明できない。なぜなら知覚によって全てが成り立っており、知覚が一番最初に存在するものだからだ。

我々にとっては、知覚は感覚器官(脳と神経端末)と感覚対象(物質世界)との相互作用である。これは自明なのだが、全ては知覚の束の流れだとする知覚主義者には、感覚器官を備えた身体と、感覚器官が感覚する物質世界も、単なる幻影なのである。もし幻影でないことを認めれば知覚の外に知覚から独立して存在するものを認めることになり、ただちに知覚主義は崩壊する。

彼らは「知覚以外に我々が実在を把握する術はないし、全ての情報は知覚から得たものだから知覚が全てであり、決して知覚の外に出てはいけない」と警告する。知覚は出発点であり、また同時に到達点でもある。彼らはあくまで知覚の中にのみ留まる。そうすると独我論が結果するが、それにはあまり頓着しない。

「知覚が全てであり今現在知覚されているもののみが存在する」というのであれば、独我論者の自分が生れる前には宇宙は存在しなかったことになる。たとえここで知覚を「経験」と言い換え、経験を個人から社会や人類全体に拡張するという大森荘蔵氏の論理的飛躍を見逃すとしても、それでは今度は人類が地上に現れる以前には宇宙は存在しなかったという結論になる。すると、それでは大森氏や人類は進化の過程を経ずに現在の体で突然天から舞い降りてきたかのように出現したことになってしまう。これがこうした知覚主義者のもう一つの根本問題である。

我々が感覚器官と感覚対象との相互作用で知覚していることは、ヒュームのいう「単純な感覚的印象」と同じぐらいの直接的な知覚的現実なのに、彼らはそれを認めようとしない。それを認めれば知覚の起源が説明できるようになり、知覚主義はおしまいになるからだ。

彼らには、「それではあなたは脳や神経端末なくして感覚できるか?」「あなたは自分の思想をあれこれ述べているが、あなたは脳なしでも考えることができるか?」と問いたい。さらに、「あなたが生れる前、あるいは人類が出現する前には、宇宙は存在しなかったか?」「あなたは進化の過程を経ずに突然いまの体で出現したのか?」と追及したい。

それにしてもなぜ知覚にのみ固執しようとするのであろうか? たしかに知覚を通して全ての情報が得られる。しかし一般にAを通してBが得られるとしても、必ずしもBがAに依存するいわれはない。にもかかわらず、なぜB(宇宙の情報)はA(感覚)に依存するという結論を下すのだろう? 

さらに様々な自然法則というものが客観的に実在する。それは宇宙の究極理論のメタ理論としてはまだ確定していないが、局部的には確定している。局部的に確定しているからこそ、それが実験室で再現され、それを応用したものが工場で日々生産されている。

こうした自然法則を理解しないと「自然を理解した」とはいえない。ところが感覚だけでは法則を捉えられない。法則を捉えるためには、雑多な情報にすぎない感覚への反省が必要なのだ。感覚だけでなく反省も対象把握のための人間能力であり、どちらも自然に対する人間の触覚なのである。反省はいわば媒介的触覚なのだ。

ところが知覚主義者はヒュームのように感覚の直接性に誤りのなさを見、反省の媒介性に誤りの余地を見る。前者に「事実」を見、後者に「加工」を見る。たしかに反省の間接性には誤りや加工の入る余地がある。しかしそのことは反省がいつも加工や誤りであることを意味するものではない。

後者は加工でない事実、つまり客観法則の認識にもつながっている。だから、誤った反省こそが排除されるべきものであって、反省一般が排除されてはいけない。

誤りといえば直接的な感覚にはいつも「錯覚」が付きまとっている。そのような感覚のみに依存すると、いつまでたっても錯覚から逃れられない。錯覚であったかどうかを判断できるのは反省によるからである。だいいち、「単純な感覚的印象」とはいってもすでにいつも脳内で加工済みなのである。だからこそ「錯覚」が起きる。あたかも感覚だけが加工から免れているように思い做すのは大きな誤りである。

錯覚から自由になれず、また法則を捉える能力もない感覚のみに、なぜ頼ろうとするのだろう? 我々に知覚の起源について他に納得できる説明がなければ、知覚主義者がその立場を固守しようとする理由も少しは納得できる。だが、自分の視覚や触覚を通して日常的にこのようにはっきりした知覚の起源が自分の直接体験としてあるのに、(「自分や人類が存在する前には宇宙は存在しなかった」という奇妙な結論を避けられない状態のままで)、その直接体験を一切認めようとしない理由が全く分からない。


ともあれ大森荘蔵氏の文章を逐条的にたどってみて、彼にこれらに対する納得できるそれなりの論理があるのかどうか見てみよう。なお引用文や要約文のあとの【 】括弧内は青土社出版の『時は流れず』の引用ページである。また引用文のアンダーラインは原文の傍点の代用である。

第一章 物語りとしての過去

一 想起の命題性

(1)「想起の体験のなかでのみ、過去であることの意味、『過ぎ去った』ということの意味が身をもって体験される」【20】。

(2)そのとき、「想起とは過去の知覚体験の再現または再生であり、そのためにその知覚経験は記憶のなかに保持されていなければならない」【21】という先入観をまず第一に排除しなくてはならない。

(3)「昨日の食事や歯痛を思い出すときに、その美味のかけらもなく痛みのかけらもないだろう。そして思い出すとは『うまかった』、『痛かった』という過去形命題であることを承認するだろう。先入主を排除すれば、想起とは命題的であって知覚的でないことがくもりなくあらわれてくるのである。」【21】

(4)「およそ過去性、すなわち『過去であること』を表現する知覚風景などはありえないことに気づくべきである。いかなる知覚風景も現在風景であって、過去性などとは無縁なのである。……純粋な命題集合である小説や物語りこそ、過去の類比としてはこの上ないものである。」【22】
[注1]
(1)はすでに誤りである。想起なるものはむろん自分の過去の知覚経験だけを想起する。ところが過去一般は自分の経験とは無関係に存在するから、過去であることの意味を自分の想起体験からのみ導出しては、間違うことになる。大森氏のように自分の想起体験からのみ過去の意味を導出すると、過去は自分の個人的体験と切り離せなくなり、自分の経験から独立した過去は存在しないことになるからだ。

(2)は(大森氏は「クオリア」なる術語を使わないが)、いわゆる「クオリア」について述べているといえる。クオリアとはその時々の主観の生々しい知覚であり、その知覚は他者に伝えられない。たとえば私の見た赤いりんごの「赤」の微妙なニュアンスは、私のその時の心的肉体的諸条件下における知覚であり、その時限りのものであって、他者には伝えられない。

ここの大森氏の文脈で言い直すと、他者は普通の他者でなく、いわば「過去の私」に対する「現在の私」なのである。そこで、「過去のクオリアは、『過去の私』にとってはすでに他者である『現在の私』には伝えられない」というように大森氏の文章を書き換えることができるだろう。「過去のクオリアが現在に想起されるとき、クオリア性は失われて単なる過去命題という言語になっている」と大森氏は言いたいわけである。

現在と過去とを、知覚(クオリア)と命題(言語)という本質的に異質なものによって区別し、「知覚は事実、命題は架空」として、過去を架空の命題の中に解消するわけである。

ここでは、たとえ過去の自分と現在の自分との間ではあっても、普通の他者に伝える場合と同様に「主観の知覚体験を伝える方法は言語しかない」という暗黙の前提が想定されている。ところがそうではない。知覚は他者と共有できるのである。『脳のなかの幽霊』で大脳病理学者のラマチャンドランは同じ知覚を他者と共有できる「磁気ヘルメット」について述べている。

そのことに大森氏も気づいているのか、第七章「主客対置と意識の廃棄」のところで、

「なるほど生理学者や認知心理学者は、この大脳の状態が立体のあらゆる情報を含んでいて、それらをSrとSlから計算したりコンピューターのなかに実験的に構成できることを示した(例えばランダムドット図形や立体視装置)。しかし問題は、SrとSlが我々生き身の人間の視覚経験を産出、しかもオートメ的に産出できるかということである。経験とは痛い経験そのものでの堪えがたい痛さそのものであって、痛みの情報などではない。」(191ページ)

と述べている。しかし
ずっと後で引用した彼の文章からも分かるようにラマチャンドランのいう磁気ヘルメットは痛みも共有できるのである。つまりクオリアは他者に伝えることができる。当然過去の自分から現在の自分にも伝えることができる。その場合、過去の自分の大脳上の磁気ヘルメットに流れた知覚情報を記録しておき、それを現在の自分の大脳上の磁気ヘルメットに流しさえすれば良いわけだ。

もし過去の想起が単なる言語にすぎず、現在知覚と質的な区別が厳としてあるなら、どんな方法でも過去の知覚は伝えられない、つまり大森氏の主張のように「知覚とはいつも現在知覚でしかない」が、磁気ヘルメットで過去の知覚を現在そのまま知覚できるのであれば、知覚には過去知覚も存在するわけである。

(3)したがって、想起とは過去の知覚体験の再現または再生なのである。たとえ過去の知覚が一度大脳の記憶システムのなかで記号化されたとしても、(磁気ヘルメットに流れる先の記録情報がデジタルであろうとなかろうと構わないように)、それは過去知覚を否定するものではない。つまり過去知覚の存在を知覚(クオリア)か命題(言語)かの二者択一で決定する大森氏の論理は間違いなのだ。

そして、百歩譲って大森氏の言うように仮に「想起とは命題的であって知覚的でない」としても、それが理由で、想起された過去が言語のように架空のものであるとは結論できないわけである。

(4))以上から、「およそ過去性、すなわち『過去であること』を表現する知覚風景などはありえない」とか、「いかなる知覚風景も現在風景であって、過去性などとは無縁なのである」とか、「純粋な命題集合である小説や物語りこそ、過去の類比としてはこの上ないものである」とかいう論理が全くの誤りであることが分かるだろう。

二 過去の真理性

(1)「こうして想起された命題集合としての過去は当然真偽が云々できる過去である。なぜなら、命題こそがほかの何よりも第一義的に真や偽であるべきものだからである。 そして過去命題の真偽の判定には何の問題もないようにみえる。……想起される命題の多くにおのずからそなわる『真実性』は、知覚の現場でのこうであってそれ以外ではありえないという知覚事実の『真実性』と対応し……それ以上の問答を無用にする所与真実性なのである。」【23】

(2)しかし「この『真実性』は単に当事者の主観的所与にすぎず、それを過去命題の真理性の判定基準にすると社会生活に大混乱が起こることが必定だからである。およそ複数の当事者の間で合意ということがありえないだろうからである。ここで社会的合意を維持するために過去の真理性という一つの基本的概念が製作されるに至った。」【24】

(3)「だからこの真理概念は何か深い哲学的根拠に基づいて作られたというようなものではなく、あくまで実用を旨として社会的合意の下で作られた概念であって、(政治制度や商習慣のように)一つの社会制度と言っても間違いはない。……したがってこの真理概念の効能や不備の議論も認識論や論理学といった高踏的場面でなされるよりは、家庭争議や民事刑事といった実際生活においてなされるべきものである。」【24】

(4)「その実用の典型的用法として裁判所での証言調べを観察することは当然の成り行きであろう。その観察結果をまとめれば、
   (a)証言の一致。すなわち複数の人の想起命題の一致、少なくともその整合。
   (b)想起命題の自然法則、心理法則、経済法則等の法則との合致。つまり命題内容が法則はずれでない。
   (c)物証。物理的世界の現在に円滑に接続する。
 だいたいこんなところだろう。こういう真理概念が、現代社会が現在実用中のものであって、われわれすべてが長年の間の使用を経験してきたうえで十分承知している過去真理なのである。」【25】

(5)「この真理概念よって真とされる過去命題を系統的に接続すれば一つの物語りができあがる。この物語りこそ、われわれが想起による過去と呼ぶものにほかならない。過去とは過去物語りなのである。しかし、それは虚構としての小説とは違って、真なる過去物語りなのである。……(その点で)過去物語りは小説とかけ離れて、むしろ数学の世界に近づくのである。」【25】
[注2]
(1)実在する過去がない場合、その真偽を判定する客観的基準は存在しないから、命題だからといって真偽が判定できるとはいえない。命題に真偽があるのは、命題の背後に、その命題に一対一で対応する客観的実在が存在するからである。

「知覚の現場でのこうであってそれ以外ではありえないという知覚事実の『真実性』」が存在するのも、その客観的実在の唯一性のためである。もし過去が唯一の客観的実在でなく、想起が過去の真実性の基準であれば、それが個人の想起であれ(2)(3)の社会の合意による想起であれ、あるときは実用性があるといって受け入れられたり、ないといって取り除けられたりする、本質的にいつも蓋然的な、その場やその時限りの単なる意見の一致にすぎなくなる。そのような真理が(5)でいう数学的真理とどこが似ているのだろう?

(2)例えば私は昨日庭にコインを埋めた。それを今掘り出し、昨日コインをそこに埋めた過去の事実性をこの眼で確かめた。昨日庭にコインを埋めたという過去が単なる命題でも記号でもないからこそ、コインが今そこに埋められた状態のままで掘り起こされたわけである。この私的な過去の客観的事実性や真理性はなにも社会に認めてもらえなくても自分はちゃんと知っている。また一般に社会が合意する過去も、こうした私的な過去と同様の唯一の客観的事実だからこそ、社会的合意が容易になされるわけである。決してその逆ではない。

(3)過去の真理性はなにも社会の実用性に左右されるものではない。真理発見の過程で実用性が機能する場合があるのは確かだが、それは客観的真理が発見される機縁や機会となっているにすぎない。だから自然に対する真理概念や真理基準は社会制度ではない。なぜなら自然は人間がそこから生み出された母体として、人間より先に存在し、人間から独立しているからである。人間の自然に対する真理概念は、したがって人間が存在しなくても通用するようなものなのだ。そこには人間社会の実用性とは異なる宇宙論的な深い哲学的問題があり、認識論や論理学が不可欠である。

(4)そもそも証言の一致・諸法則との一致・物証が存在するのはなぜだろうか? 数千年数万年の人類社会での淘汰によって得られたものだとする大森氏説よりは、唯一の客観的事実が存在するからだとする普通の説の方が明らかに有利ではないだろうか? つまり淘汰に耐えて社会に認められたのも、それが唯一の客観的実在の判断基準だからなのである。

実用による社会的合意は社会のモラルや法律や様々な文化的価値についてはたしかに意味がある。つまり人間が後天的に作り出した世界つまり社会における諸現象の場合にはある程度適用できる。だが自然の事実に対しては社会の合意など二次的なものである。ある自然物や自然現象が実験室で再現されれば、その唯一の客観的事実性が知られたのであり、それが真理であることは社会的実用性と無関係である。

つまり証言の一致・諸法則との一致・物証が法廷での真理基準になっているのは、そもそもそれらが唯一の客観的事実の判定基準であるからである。法廷が先なのではなく客観的事実が先なのだ。法廷の裁判官も検事も弁護士も陪審員も、客観的事実は唯一であるという意味で有罪無罪の判断を下している。決して社会的合意で決まる実用の真理基準で下しているわけではない。

そもそも(b)にあるように自然の諸法則に合致しなければ真理でないなら、それはすでに人間の実用によるものでないことが真理概念の中に含まれているわけである。自然の諸法則は使い道によって結果としては人間の有益になるが、そもそも人間の実用性のために存在するわけではないからだ。

(5)客観的真理基準を認めずそれを単なる実用的な社会制度とするなら、科学的作業なるものは「過去とは過去物語りなのである」という具合に、すべてただの物語になってしまう。なぜなら科学的に研究されている対象は研究時点ですでに全て過去になっている諸事実だからだ。

とはいえ、いくらなんでも過去は小説的フィクションと同一だとはいえないから、大森氏は「それは虚構としての小説とは違って、真なる過去物語りなのである。……(真であるというその点で)過去物語りは小説とかけ離れて、むしろ数学の世界に近づくのである」などと付け加えている。だが唯一の客観的実在による判断基準がないのに、どうしてそれが「真なる過去」だといえるのだろう? 一体このような実用的過去のどこが数学と似ているのか?

大森氏は、真理基準の定義において小説・社会制度・自然という三つの領域をあまり厳密に区別しない。社会制度は人類の実用による一種のフィクションであり、そのフィクションである社会制度によって自然の真理基準も決定されるとしているからだ。大森氏にとって唯一明確な事実は現在知覚の事実性だけである。それが過去の記憶として想起されても、まだ少しはその事実性が残っているわけである。

三 数学の真理

(1)「想起される過去命題には『そうであってそれ以外ではありえない』という『真実性』が伴っているが、数学的命題の一部にも(3+2=5などのように)「それ以外ではありえない」という真実性が伴っている」【26】。また、このようないわば「直覚的明証性」とは別に、数学にはユークリッド幾何学におけるような演繹による「証明可能性」もある。それと同様に、「想起命題の場合にも、(先の)自ら命題に備わる天然の真実性に対して制度的な真理性が制定されている」【26】。

(2)「想起命題の真実性の場合は……直覚的明証性を素直に呑みこんで、それ以上余計な手を加えないことである。……それに対して、いま一方の制度的真理概念のほうは、原始の適用場面である個人的想起を遥かに超えて世界史や(たとえばビッグバン理論や生物進化史など)宇宙史にまで拡大適用されている。そこで使用されている真理概念は先の想起命題に関しての三項目を満たしているのがわかるだろう。すなわち、(その)三項目のいずれかまたはその複合が、例えば超新星爆発の機構や新発見化石の進化系統上の位置決めをめぐってかわされる甲論乙駁のなかの争点であることは、一べつすればわかることである。」【28】
[注3]
(1)数学の直覚的明証性および証明可能性とが、知覚の天然の真実性および制度的な真理性といかにも対応しているかのような言明が誤りなのはいうまでもない。大森氏は数学とのこうした単なる類比によって、みずから展開する論理の数学的確実性を読者に印象付けることを狙っているわけである。

(2)大森氏によれば直接知覚されない過去の出来事である世界史も宇宙史も、すべて物語にすぎない。だからこそ、そこでの理論が実用的真理概念の三つの項目の確認をめぐって甲論乙駁されているとする。

しかし宇宙科学者や進化論学者などはなにも社会的実用上の真理概念の三項目の確認をめぐって甲論乙駁しているわけではなく、社会が存在しなくても成り立つ唯一の客観的事実を求めて、そのための真理基準をめぐって甲論乙駁しているのである。それは科学理論がたとえ今は仮説であろうとも、いつかその客観的真実性が認められる時が来るという想定で行われている。科学理論の淘汰は実用新案の淘汰とは違う。実用性がなくても真理は真理なのである。

四 過去の実在性 

(1)「過去とは……制度的真理性を持つ物語りである。だがその物語りで物語られる過去とは果たして実在するものなのか。……実在ということで何が意味されてきたか尋ねてみると、それは全く空漠として見る影もないことに気づくことになる。そこで今度は、実在、(一切の実在は過去から現在へ存続しているものとされているから)、特に過去の実在ということで何を意味したいのか、そしていったい何を意味できるのかを問うことになる。」【29〜30】

(2)「例えばいま私はだいぶ以前の借金を想起する。(一致した証言や物証などもあり)前に述べた制度的真理の三項目が満たされているのでこの借金は真であり、私は否応なしに借金を返さざるをえない。……このような実生活での状況が「実在」、「過去の実在」ということの意味を与えているのである。もし好むならそれを過去実在の実用的定義、実践的定義、そのほかそれに類する言い方をしてもよい。要点は、少なくともわれわれが使用している過去実在の意味は(想起内容に対する真偽判断の社会的淘汰を通して)実生活のなかで製作される、ということである。」【30】 


(3)「この過去実在の実用的意味とは異なった、あるいはそれを超えるような実在の別な意味を人類がかつて製作したことはない、と私には思われる。多くの人、特に例えば素朴実在論を信奉すると自称する人たちは、(知覚から独立な)何か超越的な過去が存在してそれが想起に真理性を与え根拠を与えるものだと信じているようにみえる。」【31】

(4)「この実用的過去実在の意味は制度的真理概念に全面的に依存している。そしてこの真理概念は、整合性と対応という真理の二つのタイプでは整合タイプに属することはその三項目からみて明白だろう。つまり何か超越的実在があってそれに対応(表現)するというのではなく、過去物語りの内部での整合性によって定義される真理概念なのである。」【32】
[注4]
(1)ここでの過去の実在性の意味は次節「真としての実在」の中で明かされるので、そこで批判を加えたい。

(2)個人的にも社会的にも過去実在の意味をこのように理解している者はほとんどいないといっていい。例えば、自分が埋めたコインが土の中から出てくれば、社会が認めなくても、それで人々はコインを埋めた過去の実在性を確信する。借金も社会が認めるから過去の事実となるのでなく、過去の事実だからこそ、社会の認めるところとなるのだ。すでに過去が想起経験に依存しないことを示しておいた。したがって想起経験に対する(実用目的の)社会的合意に過去が依存しないことも明らかである。

だいたい過去が存在しないのに、どうして何かが淘汰されて社会制度にまで成長できるのか、いかにして真理判断の社会実用的淘汰の歴史の中で社会的真理基準なるものが打ち立てられていくのか、さっぱり理解できない。

客観的実在としての過去がなければ客観的実在としての社会も存在し得ない。すると社会的実用なるものも存在しない。大森氏にとって過去が存在しないのは、知覚が全てで、しかも個人的なものだからであるが、するとそこには個人しかなく、はじめから社会など存立し得ないのである。つまり知覚主義と社会的実用主義とは原理的に矛盾する。それを接合している哲学はそれだけでも根本的に誤った哲学である。

(3)「過去実在の実用的意味とは異なった実在の別な意味を人類がかつて製作したことはない」というのは、全人類のあらゆる経験に背く主張である。これはつまり全人類が考えている実在観は誤りであり、自分の発見した方が正しいという言明にほかならない。

むろん人類の大方の実在観は素朴実在論であり、知覚の彼方に物質世界が存在すると考えてきた。だから、大森氏は、この考え方は全人類の錯覚であるということを主張しているわけである。実は実用的実在であるものを、全人類は素朴実在論的実在として錯覚してきたということだ。

ところで「超越的な過去」という言葉の意味は、「知覚を超えて知覚から独立に存在している過去」という意味である。だがしかし、もし知覚から独立して存在するものがなければ、自分あるいは人類がまだ出現していなかった時の過去は実在しないことになり、自分あるいは人類は、あるとき進化の過程を経ずにいまある完成した有様で忽然と天から降るように出現したことにならざるを得ない。このような馬鹿げたことはあり得ないから、知覚から独立な超越的な過去が存在して、それが想起に真理性を与え、根拠を与えているのである。

(4)したがって真理は整合性ではなく対応性に属する。整合性というのは数学的公理系や論理学やゲーム理論など、つまり論理的言語世界を除けば、ほとんどの場合、客観的実在との対応性から出てくるものなのだ。

むろん過去が単なる物語でしかなければ、そこでは対応する客観的実在をはじめから否定しているので、整合性だけが真理基準となるだろう。だが過去は客観的実在として現在の客観的実在性を支えているのである。

ヒュームは自我や世界や因果法則の実在性を否定したが、それは彼の知覚主義による過ちで、現在は過去の結果、過去は現在の原因なのである。例えば自分が存在するのは父母が過去に行った性交渉の結果だ。過去が客観的実在として存在しないなら、現在の自分も実は客観的に実在していないということになる。架空の過去、人間が作ったただの命題や言語である過去が、厳然たる実在である現在の原因になりうるだろうか?

五 真としての実在

(1)「(過去の客観的実在性が原因で現在の客観的実在性があるというのが実在論だから)、実在論がおよそ実在論であるためには、過去から現在を貫く一貫性が要求されることに知らぬふりをすることは許されない」【33】。

(2)「過去の実在性とは何かと一応の問いをたてるとき、人がとかく陥るのは現在の知覚世界の実在性で一応代用しておこうという横着な態度である。現在世界の実在性ならばとにかく何かと了解されているのだから、その実在性を過去の方にずらせばそれが過去世界の実在性になるだろう、という軽率な考え方で事がすむだろうというのである。……しかし過去想起は、知覚経験とは全然種類を異にして命題的であり言語的であるという根本の違いを承認するかぎり、現在知覚世界の横すべりでは話にならないことは明白である。」【33】

(3)「ちなみに、この現在世界を横すべりさせるという考えは、われわれすべてを呪縛してきたあの「時間の流れ」という根源的な比喩から出てきている誤認だと思うが、……簡単に言うと、非時間的な固定的世界列車が時間のレールの上を走るという安直な比喩は、毒性の強い麻薬中毒だということである。」【34】

(4)「過去を現在で代用できるという誤解が人を強く捕らえて放さないのは、過去の実在性を何か過去世界が仁王立ちをしているように想像してしまうからではあるまいか。」【34】

(5)「(過去とは過去物語りであり、)過去物語りは物体的ではなくて言語命題であることに眼の焦点を固定してみよう。すると、それらの命題の真理性こそ実在性願望を満たす唯一のものであることがだんだんに納得がゆく姿をとってあらわれてくるだろう。『昨日Aから電話があった』という命題が真であることこそ、Aが実在し、電話が実在し、そしてAの電話という事態が実在することではなかろうか。」【35】

(6)「要は、想起命題の真理性という物体的抵抗と重量を欠いた抽象的条件が過去実在の意味願望を充足するという事実認識に達することである。……そしてこの真理性こそ、先に述べたように人間社会のなかで公式に製作されて制度的に運用されている実用的概念であり、所得税とか収賄罪とかいうことの意味と同様に、われわれ庶民に親しくもあり若干いやらしいところのある概念なのである。」【35】
[注5]
(1)はまさにその通りである。

(2)はまさに誤りである。すでに
[注1]の磁気ヘルメットによるクオリア共有体験のところで、想起が仮に言語であっても過去知覚はあり得るし、たとえ万一想起が言語でしかなくても、だからといってそれで過去の客観的実在性が否定されることにはならないことを証明しておいた。磁気ヘルメットに流れる知覚情報がデジタルで記録されていてもいなくてもいい。また脳内の記憶がデジタルであってもなくても問題はないからである。ということは、想起は単なる言語想起ではなく、やはり過去知覚の想起でもあるわけだ。つまり想起に言語と知覚という絶対的な区別を持ちこむこと自体が誤りなのである。

だから想起において人々は何も現在の客観的実在性を過去に持ちこんでいるわけではない。そこでは「横すべり」など一切必要がない。だから「横すべり」は存在しない。横すべりがあるように見えたのは大森氏の錯覚だったわけである。

(3)「横すべり」が大森氏の錯覚であれば、そこに「時間の流れ」の比喩論を持ちこむのも錯誤だろう。大森氏の「時間の流れ」論については第四章「時は流れず」のところで詳しく批判したい。そこでは「アキレスと亀」のあの有名なゼノンのパラドクスが「時の流れ」の幻覚性を示す例証として誤って利用されている。その第四章で私は量子力学や微分積分の見地から大森氏を批判することになるだろう。

(4)誰も「過去を現在で代用している」という意識を持ってはいない。つまりそういう誤解が人を捕らえているのではない。正しく客観的実在としての過去を想起している。過去が仁王立ちしているのは事実であり、想像ではない。我々は過去を変更できず、過去には全く手を出せない。

(5)W・ジェイムズは『プラグマティズム』(岩波文庫 桝田啓三郎訳 61ページ)で、「観念というものはそれを信ずることがわれわれの生活にとって有益であるかぎりにおいて『真』である」と述べている。これはそのまま大森哲学の類でもあるが、これではどのような観念(命題)でも実用的に有益でありさえすれば真理になる。極端な例では、いわしの頭を神と信じて有益ならば、いわしの頭は神となるわけだ。これは「社会的ご都合主義」といえるものであり、こういう真理観が蔓延すれば、ついには個人的な勝手主義がまかり通ることになる。

大森氏とは反対に、過去の真理性は命題によらず事実による。事実かどうかが真理基準であり、人間の作った命題の実用的一致が真理基準なのではない。昨日の電話の真理性は(コインの埋蔵と同様)命題によらず事実による。過去が過去の客観的実在性を否定する過去命題にすぎないならば、その命題がたとえ社会的実用において真であろうと、過去は客観的には存在しないことになり、とうてい「その命題が真であることこそ、Aが実在し、電話が実在し、そしてAの電話という事態が実在することではなかろうか」と言うわけにはいかなくなる。

ここで大森氏は「Aが実在し、電話が実在し、そしてAの電話という事態が実在する」などと、「実在」という言葉を繰り返し使っているが、これは非常に紛らわしい。以後、ふんだんに使用されるが、これは真の意味での「実在」でなく、実用的な意味での実在なのである。「実在」の本意は「事
」であるが、大森氏はそれを「用存」の「実在」として使っている。本当は「実在」という言葉を客観的実在だけに使ってほしいが、どういうわけか大森氏は「実在」をプラグマティックにたびたび使用する。読者もこのレトリックにご警戒いただきたい。

(6)については、すでにその「想起命題の真理性」という大森氏の真理概念の誤りを(5)などで指摘した。


第二章 殺人の製作 過去製作の一断片

一 科学とミステリー

(1)「探偵小説やミステリーの興味はこの連続的経過の末端に位置する死体から逆にたどって殺人という過去を発見していく紆余曲折にある。しかしそれを『過去の発見』とか『過去の掘り起こし』と呼ぶことのなかに、すでに一つの哲学がかくされていはしないだろうか。つまり、殺人という過去の事件が実在したことには何の疑いもなく、それを様々な方法で捜査してゆくのが探偵の仕事だという「始めに殺人ありき」の哲学が殺人物語りのそもそもの大前提になっていはしないだろうか。この『過去の実在』の大前提こそどんな二足三文のミステリーですらあの尊い自然科学と共有する哲学なのである。」【40〜41】

(2)「科学の法則の売りものはその(どこでも、いつでもの)普遍性にあるが、それゆえに科学の法則性に注意が奪われると、科学もまた(一度かぎりの出来事の連続であるビッグバン歴史宇宙に対する研究として)『日付のある物語り』であるという点が見逃されがちになる。しかし科学の局部的法則ではなしにその綜合的な全局に目を向けるならば、(生物進化論や宇宙進化史など)、その『物語り性』は誰の目にもかくれようがない。(またミクロの世界でも)いま流行の分子生物学はそのほとんどの場面で分子原子レベルでのミクロの物語りである。……(細胞内外の分子の反応過程・DNAによるたんぱく質合成過程・神経伝達物質の往来過程など)これらを物語りといわないでは何といえるだろう。これらの物語には確かに日付は入っていない。しかし(実際にはどれかの日付けの出来事として起きるから)それは履歴書用紙の日付け欄のように特定の日付けを任意に記入してよいようにあけてあるだけである。」【41〜42】

(3)「この科学の物語り性を見落としたのが、前世紀のビンデルバントその他の新カント派であった。彼らは歴史の個性的記述性に対して自然科学の法則性を対比させて、一部の人々をまどわせる誤りを犯した。しかし科学もまた歴史に劣らず個性記述的な物語りであることに変わりはない。その法則性の外見は、記入用紙のフォームの見せかけにすぎない。」【42〜43】

(4)「科学とミステリーがともに物語りであるかぎり、その物語りが物語る当のものである過去の実在を前提しないわけにはいかない。……この前提は、科学や殺人以前に人間の生活全体の基盤となっている最も強固な確信であることに間違いはない。……ところがこの前提は、ひと息で吹き飛ばされるほどに不安定な支持しか持っていない。このことはすでにカント哲学のなかにあらわになっている。」【43〜44】
[注6]
(1)についてはその通りである。

(2)法則的普遍性を認めれば客観的実在を認めることになり、全てを物語りとして見ることができなくなる。そういうわけで法則の存在を否定しなくてはならないが、その根拠として歴史性が持ち出される。歴史は一度かぎりの出来事であり日付けのあるものであって、すなわち「物語り」にすぎないというわけである。もし宇宙が一度かぎりの歴史を展開しているのであれば、すべての法則は歴史的となり、科学は歴史性を持ち、したがって大森氏によれば「物語り」となる。

大森氏においては歴史性と物語り性は同じ意味となっている。つまり大森氏は「客観的な歴史の経過」と「人間の創作としての物語り」を区別せず、「物語り」という語の中に両者を含ませている。そうすると歴史は全て人間の創作・製作した物語りとなる。どうしてこうなるのか? 

それは大森氏説では実在するものは今知覚されてあるものでしかなく、現在の知覚を離れては何も実在しないからである。つまり過去とは過去の知覚の(命題的)想起に他ならないから、想起から独立した客観的実在としての過去は存在しない。となれば過去の歴史は人間の創作・製作した歴史物語りにすぎなくなる。そういうわけで客観的な歴史と人間の創作・製作した歴史物語りとは区別できないものとなるのである。

しかし大森氏説とは違い、知覚を離れて客観的に実在するものがあるし、また想起から独立して存在する過去もあるから、歴史性イコール物語り性ではない。また、法則性と歴史性が矛盾するわけでもない。ビッグバン宇宙(自然)の歴史法則(一般相対性理論の基礎方程式に対するフリードマン解による膨張宇宙とその後の相転移の過程を表わす方程式の存在など)はある程度はっきりしているし、生物進化の歴史法則やさらに社会の歴史法則というものも存在するかもしれない。「法則性と歴史性は矛盾する」というのは、そう主張する大森氏自身、みずから批判した新カント派の個性記述的歴史観に支配されているからであろう。

(3)新カント派が例えばリッケルトの『自然科学と文化科学』に見られるように、自然科学を法則的、歴史科学や社会科学を含む文化科学を個性的だとしたのは、大森氏が自然科学から法則性をたんなる外見やフォームとして取り除いて歴史科学と同じ質のものとし、ともに「物語り」にしてしまうのと比べれば、比較のならないほど正しいといえる。宇宙(自然)はたとえ歴史であろうと法則性のもとにある。

宇宙の全局を見ればその歴史性が確かに見える。とはいえ、それで宇宙進化史や生物進化論が物語りになるわけではない。歴史性と物語り性とを混同して同一視するから、歴史の中にある宇宙が物語りに見えるだけなのだ。むろん宇宙進化史も生物進化論も最終的に全てが隅々まではっきり確定したわけではないが、それは仮説的過程にあるだけのことで、いずれは事実として確定する性質のものであり、決して仮説イコール物語りではない。仮説は事実を背後に持つが、物語りは命題を背後に持つだけである。

同じことは細胞内外の分子の反応過程・DNAによるたんぱく質合成過程・神経伝達物質の往来過程などについてもいえる。大森氏が宇宙進化史や生物進化論を否定するのは、それが過去の客観的事実として主張されているからであるが、大森氏がミクロの世界の事実性を否定するのは、肉眼ではその世界が知覚できないからである。次節「物自体と過去自体」に出てくるが、知覚主義者にはどういうわけか拡大鏡による映像は言語的了解であって実物の相似形ではないのである。

(4)「科学とミステリーがともに物語りであるかぎり」という文章は誤りである。科学は物語ではない。客観的実在の唯一の真理を求める仮説的過程だ。大森氏のいう「カント哲学における客観的実在観の不安定さ論」についての批判は次節に譲る。

ニ 物自体と過去自体

(1)「過去の実在の信念とは、……言うまでもなくそれは過去に起こったことの実在、その件が疑いもなく起こったことの確信であろう。……しかしその確信を証拠立てるものは何であろうか。ほかでもない、それはその確信そのものであってそれ以外の証拠は何もない、と答えるほかはない。……(通常の理解では)想起とはこの想起以前にそれ自体想起と独立に存在した過去があってこその想起であって、……換言すれば、過去は想起体験とは独立に(超越的に)、想起に先・行(アプリオリ)して存在する、そしてそれなしには想起体験が理解できないという意味で想起の説明原理である。こういう形で過去実在の確信を述べるとき、この確信と、カントの意味での『物自体』との類似性または並行性がまぎれもなく浮かび上がる。」【44〜45】

(2)「カントの物自体の核心は、知覚体験そのものに内在して「触発」によって現象として知覚風景を生ぜしめるものであった。それに平行して想起体験に内在して想起内容を経験させる当のものが過去実在ではあるまいか。この知覚→物自体と想起→過去実在との並行性が、ドイツの新カント派を含むおびただしい数のカント哲学者によって指摘されることのなかったのはまことに不思議である。……そこでここでは……過去実在を「過去自体」と呼びかえることにする。こう呼ぶことでカントが物自体について述べたこと、特に否定的に述べたことが、過去自体についても語りうることを明示したいのである。」【45〜46】

(3)「まず最初に示したいのは、物自体はカントにとって『感性的直観の対象』ではなく『知性的(intelligible)直観』、すなわちただ『思考される』『可想的存在(noumenon)』にすぎなかったことである。それと全く同様に、想起の内容もまた知覚的(perceive)ではなくて『思われる(conceive)』ものであることである。」【46】

(4)「ある風景や情景(例えば人殺しの情景)を想起する(思い出す)とき、われわれはともすればそれが色や形や音をそなえた知覚風景であると思いがちである。だが事実はそれと違って想起されるのは言語的命題の一群なのである。……この同伴する風景らしいものは実は知覚的な想像なのであって、真の想起である言語的命題群の挿し絵であり図解なのである。」【46】

(5)「そこでこの理解を助けるために、本質的には言語的であるのに、それに伴う知覚的図解の想像的な映像にまどわされてそれが主体であるように思い違えがちな経験を挙げておきたい。それは、バークリーやヒュームがしばしば取りあげた『感知できないほど小さな』物、……の形を理解するときの経験である。われわれは光学顕微鏡や電子顕微鏡で見える(感知できる)姿をそのままその対象の拡大した映像だとして……理解している。しかし本物は目に見えないほど微小なのだから、その形を知覚的に見ることはできないのであって、顕微鏡の映像と比較することもできないはずであり、したがってそれが本物の形の相似的拡大形だと言うことも不可能なはずである。われわれは複雑な理論的考察(例えば顕微鏡の光学理論やX線解析理論)によってそれらの実験的映像が本物の相似拡大形だと考えているのである。この考えは当然言語的になされるのだから、微小物、例えばDNAの形が二重ラセンであるとは言語的了解であり、二重ラセンの映像や立体模型の知覚風景はこの言語的了解(思考的了解)を助けるための図解にほかならない。」【47】

(6)「しかし想起での知覚的図解を想起内容としたい誘惑が根絶することはないだろう。それでこの知覚的図解は過去性そのものを図解することはできないことをあらためて示したい。たとえば『昨日雨が降った』という想起を知覚風景で図解しようとすれば、誰しもが雨降り風景を使うだろう。だがその雨降りの風景は雨が降りつつある風景、つまり(そのときの)現在進行形の風景ではないだろうか。『雨が降った』という過去の知覚風景などはどこを探しても見当たらないだろう。……何であれ過去性を知覚的に描写することは不可能なのである。過去性の図解などはありえないのである。われわれはやむなく現在風景を代用して過去を図解するほかはない。」【48〜49】

(7)「ではいったい過去性はどのようにして理解されるのか。それこそほかでもない、動詞の過去形の了解によってである。つまりそれは言語的了解によってである。この過去性の言語的了解……は人間生活のなかでの無数の言語的使用のなかで形成されてきたはずである。……こうした生活のなかでの過去形の使用によっていつしか芽生えた『過去の意味』が強化されてゆき明確にされてゆく、そして誤用や不適切な使用を排除してゆく過程でその意味は整えられていったであろう。現在われわれが毎日毎時実用している過去形命題の意味は、こうした人間社会での意味製作の成果なのである。……こうして、想起とは過去形による言語的理解にほかならないという私の主張が補強されたと思う。」【49】

(8)「カントは、時間空間は感性の規定として物自体の規定ではないことを強調するが、過去自体もまた言語的にのみ理解されるのならば、時空という感性的規定と無縁であることが当然となる。(カントの)物自体は『現象の根底に存在する』ところの現象の根拠であるが、『それについては何ごとも言えない』、『何ごとかを綜合的に言いうる……これはまったく不可能』、というのがその考えである。想起経験の内容とは独立に存在する(意識とは独立に─レーニン)と考えられる過去自体については当然何事も語りえないだろうが、もしこの過去自体が存在しなければそもそも想起ということがありえないとわれわれは考えていはしまいか。その意味で過去自体は想起内容の根拠なのである。」【50】

(9)「しかし過去の経験の薄められた残影のようなコピイを経験することが想起であるとの思いは、ほとんどすべての人にある。だがこの思いは、上に述べた知覚的図解に目をくらまされて誤導された思いではないだろうかと思われる。……しかしそれは知覚的図解にすぎないのである。……知覚風景とは違って、(想起はすでに言語となってしまっていて知覚情報の具体性はなく)、その情景は細部を見つめたり声のふるえの細部に耳をそばだてることができないことは、夢の想起と全く同様なのである。」【51】

(10)「想起経験で想起内容の知覚的図解に誤導されて過去自体という誤認が生れたのにぴったり対応して、知覚経験での知覚風景のの持つ鮮明で重量感のある存在感に誤導されて、物自体という経験に先・行する(アプリオリ)何ものかの思いが生れたのではあるまいか。……(カントは)素朴実在論を拒否して、その代わり意識(主観)の内部で、しかもその意識を超越する実在世界(物自体)を(現象界として)構成する。この(カントの)意図の前提として、素朴実在論がまずもって廃棄されて新しい実在構築の更地が整地されねばならない。それが物自体の拒否である。この大すじに従えば、物自体の拒否は当然過去自体の拒否をも伴わねばならない。」【52】
[注7]
(1)過去の客観的実在性は無数の現実が証拠立てている。たとえば大森氏は彼の父母がかつて性的交渉を行った事実が客観的事実であるからこそ、現在、客観的実在として存在しているのである。現在の諸物が客観的実在であるのは、過去の諸物の客観的実在性の結果なのだ。でなければ現在の諸物の客観的実在性はどのようにして生じたのだろう? 過去の客観的実在性を否定するものは結局現在のそれも否定し、カントの「物自体」さえ否定することになる。すると我々の見ているこの世界は一体全体ただの夢なのだろうか? 誰が夢見ているのだろう? その夢はなぜ起きているのか?

(2)カントの先験的主観の哲学では、時間・空間・因果律は、(時間と空間は感性において、因果律は悟性のカテゴリーにおいて)、主観の先天的な認識の枠組みだとする。つまり時間・空間・因果律はわれわれの物質世界に属するものでなく認識する主観の方に先天的に属するものであり、主観のその枠組が認識において対象に被せられるからこそ、あたかも物質世界に時間・空間・因果律が属しているかのようになるのだ、とカントは考える。すると対象は時間・空間・因果律のないものになり、われわれにはその正体が不明になる。それをカントは「物自体」と呼んだ。

その「物自体」が時間・空間・因果律という主観の先天的な枠組みの中に現れたのがこの現象界(物理世界)であるとされる。つまり、「物自体」が我々主観の感覚を刺激して時間・空間を枠としたさまざまな知覚情報が得られ、それらの知覚情報を主観内の悟性のカテゴリーが整理して因果法則を持った物理世界が構成されるとするわけである。だからカントにとってはたとえ不明ではあっても、感覚の起源として、物自体の概念はその哲学の基礎だ。

しかしよく考えてみよう。むしろ逆に時間・空間・因果律はわれわれの物質空間に属するものではないだろうか? でなければ主観はどこからそういう首尾一貫した、客観世界に非常に適合的な認識の枠組みを得てきたのだろう? 神が与えたのか? それとも偶然空から舞い降りてきたものなのか? 

これらの認識の枠組みは生物進化の過程で動物が環境適応という名の一種の環境認識を遂行する過程を歩むうちに勝ち取られてきたものだろう。つまり環境世界の枠組みがいつしか内化して認識主観の枠組みとなったわけである。進化論が現れるずっと以前のカントはそういう生物進化の過程を知らなかったから、聖書的な天地創造神話の影響を陰に陽に受けて、それをいわば「アダムのような出来上がりの人間にもとからある先天的なもの」としたわけだ。

だから、得体の知れない「物自体」があるというカント哲学は、それによってみずからの誤りを示している。人間を含む生物(主観)は環境(客観)の中で環境の一部として生れ、環境適応しながら生存・進化してきたから、環境(客観)をちゃんと認識しているわけである。つまり認識においても生活においても主観と客観世界を質的に分ける障壁は存在しない。だから生物は正体不明の「物自体」に囲まれているのではない。もしそうなら全生物は一日ですっかり絶滅してしまうことだろう。

ということは、大森氏の立脚点であるカント哲学そのものが誤りなのである。したがって「物自体」と「過去自体」を平行させるなど、カント哲学との平行論で大森氏が何を語ろうと、それは真実でない。ところが大森氏のこのカント哲学との平行論そのものさえ誤っているのである。

というのも、「過去自体」は時間の枠組みを前提とする。時間はカント哲学では主観の側にあって、正体不明の対象である「物自体」の側にはない。つまり「物自体」が客観側にあるに対して「過去自体」は主観側にあるべきものである。カント哲学においては両者は原理的に混同できない全く別の世界に属するのである。ところが、大森氏が「過去自体」と言う場合、それは「物自体」と同様、客観側にあるとして論を進めているわけである。それゆえ大森哲学はその出発点で誤っている。

したがって大森氏が、「この知覚→物自体と想起→過去実在との並行性が、ドイツの新カント派を含むおびただしい数のカント哲学者によって指摘されることのなかったのはまことに不思議である」と言っているのは、カント哲学に対する自分の底知れない無知を示すものに他ならない。カント哲学を理解すれば「過去自体(過去実在)」というような概念など決してひねり出せないからである。

(3)カントにとって「物自体」は経験知にならない正体不明のものだという意味で「可想的存在」だったが、その概念が否定されたことはない。それは我々の感覚を触発する不可避的なものなのである。大森氏は「可想的存在」を<noumenon>という語で示しているが、カントはこの<noumenon>という語で「物自体」を示すと同時に、それを「本体」の意味にも使っている。(ちなみに、「物自体」はのちの『実践理性批判』において神や自由や魂などの世界として想定されるほどのものなのだ。)

つまりヒュームなどの知覚主義者が答え得なかった「知覚の起源」についてカントは「物自体」でそれなりにちゃんと説明しているわけである。認識の可能性を追及したカントはその点を非常に強く意識していた。だから「可想的」な「物自体」は大森氏の言うような「思われる(conceive)もの」としての想起の内容と平行するものでなく、両者は全く次元が違うものである。「思われるもの」は感覚を触発する必要などないからだ。だから(3)の記述ではカント哲学を自分の都合に合わせて勝手に曲解したのである。

そういうわけだから(10)では、カント哲学の真意が「物自体」の否定でなければならないと勝手に主張し、それによって「物自体」と平行させられた「過去自体」まで否定できる根拠としたわけだ。どれもこれも大森氏の勝手な我田引水のカント解釈である。カント哲学自体が間違っているのに、その上そのカント解釈が間違っていては、大森氏は二重に間違っているわけである。(10)についてはその段落で再び触れる。

(4)想起は言語であって知覚でないという説は[注1]の(2)〜(5)と[注5]の(2)(3)ですでに批判しておいた。知覚風景を想起するときに伴う知覚像はやはり過去知覚の薄いコピーなのである。それは決して言語命題としての想起の補助的な図解などではない。

(5)は私にショックを与えた。目に見えないほど微小なものを拡大鏡でみた世界は単なる言語であって実物の相似形でないというのは余りにもいただけない。するとどうして肉眼で見たもののみが実物といえるのか? なぜ肉眼が実物判断の基準となるのか? そもそも肉体も物質世界も客観的実在でないとしながら、どうして肉眼に固執するのか? 

肉眼は倍率1倍の生体顕微鏡である。1倍が5倍となり、5倍が肉眼能力の限界を超す10倍になったとしても、そこには倍率に依存しない物質の連続性がある。それともある倍率から突然知覚が言語化するのであろうか? 9倍までは知覚で10倍からは突然言語になるのだろうか?

たとえばいま目の前に、肉眼で見えない0.1ミリと、肉眼で見える0.2ミリの微小物AとBがあるとする。同じ10倍の拡大鏡Cで同時に見ると、同じ視野の中で、肉眼で見えないAは見えて言語になり、肉眼で見えるBは見えたままなので知覚のままとなる。こんな馬鹿な話はない。だから言語化など倍率と全く関係ないのである。つまり微小物の顕微鏡的拡大像は実物の拡大像なのだ。

(6)知覚とはいつもその時の知覚だから、むろん思い起こす過去の知覚像はいつもその時の現在進行形の知覚である。現在進行形の「現在知覚」が時の流れに伴って一瞬一瞬新しい「現在知覚」に連続的に移ってゆき、そのようにして過去の知覚内容が継続して形成される。だから想起される過去の内容が「現在知覚」だからといって、それだけの理由でそれが過去の知覚風景でないとはいえない。過去の「現在知覚」が現在の「現在知覚」と時間的に区別されればいいだけの話である。「現在知覚」は「現在」知覚だから、「過去」化できないというのは、単なる言葉のトリックに過ぎない。つまり過去の「現在知覚」はまさしく過去知覚なのだ。想起の際、過去性を図解する必要はない。過去性は(図解となるべき)知覚やその想起からくるのでなく時間の経過から来るからである。

さて、これではやはり十分な理由とはならないと大森氏にも分かるから、別にいわゆる「クオリア」が提出される。過去知覚を否定する主な論拠は、「クオリア」とここで紹介された「現在知覚」という語についての論も含む「代用論」であるが、これらについては既に全て論破しておいた。

(7)過去性は言語生活以前に生物の体内時計が判断している。言語を知らない山犬も「あそこは以前虎がいたから行かない」などといったかたちで、過去と現在をそれなりに区別している。巣作りをしている鳥たちは未来を意識しながら生きている。つまり時の感覚がそれぞれの生物にそれなりにある。人間の場合はなおさらだ。なにも過去についての言語的訓練や社会のコンセンサスなど必要ない。それは生物として教えられる必要のない自明のことである。でないと生物は環境適応して生きては行けない。

(8)すでに見たように「物自体」と「過去自体」とを平行視するのは間違いである。「物自体」に時空の規定がなくてもそれはは単なる命題でなく感覚を触発すべきものなのだ。大森氏は過去そのものを「過去自体」と名づけて「物自体」と平行視する土台を作ったが、それは言葉のトリックのためにすぎない。

過去知覚と切り離されたうえで(知覚から独立して存在するものはないとする)感覚主義に取り込まれると、過去自体は単なる言語となる他ないが、知覚主義そのものが間違いだから、過去は言語でなく客観的実在である。だから過去には感性的な時空規定が存在する。

それをあたかも「物自体」と「過去自体」とは平行視できるとして、「物自体」が時空規定を持たないように「過去自体」も時空規定を持たないと、カントの論理を不当に横滑りさせているわけである。

それは、「物自体」が未知の根底であるように「過去自体」も何事も語りえないものだという彼の論述にも現れている。しかし宇宙史や人類史の過去はおおよそ知られているし、自分の個人的な過去ならもっと明確に知られていて、「物自体」の内容がいかにしても知られないのとは大違いだ。だから「物自体」が現象の根拠で「過去自体」は想起内容の根拠だ、といったかたちの平行視も、本質的には言語トリックにすぎない。

(9)これはすでにクオリアの磁気ヘルメットなどによる再現性で論破しておいた。想起は過去知覚のコピーである。

(10)「過去自体」は想起とは無縁だから、想起から「過去自体」という観念が生れたわけではない。過去の客観的事実性から過去の客観的実在性(過去自体・過去そのもの)という観念が正しく生れたのである。大森氏は「過去自体」が誤導によって生れたように「物自体」もそうではないかと想像し、いかにもカントの本意が物自体の否定にあったといわんばかりであるが、すでに述べたようにそのようなことは断じてなかった。「物自体」はカント哲学の命なのである。

ところで、仮に「物自体」が拒否されてもそれはカント哲学の否定にすぎない。そもそも環境は「物」」として生物に正しく認識されていて、未知なる「物自体」など存在しないのである。しかし大森氏のように「物自体」を客観的実在と同じ意味に使うなら、確かに物自体の拒否は当然過去自体の拒否をも伴うことになるだろう。なぜなら過去は客観的実在だからである。

三 科学的過去物語りの製作

(1)「私は、過去とは人間の製作したものだと言いたい(拙著『時間と自我』第2章「過去の製作」)。殺人事件の捜査とは殺人物語りの製作であるならば、それはまさに過去を製作することそのことになる。」【53】

(2)「科学的な過去製作の典型は宇宙論、地質学、人類進化などの歴史的研究領域から採るのが自然であろう。宇宙史→地球史→地球生物進化史→人類進化史→人類社会史→殺人事件史、というように全体からその部分へと下る流れをとってみれば、殺人もまた宇宙進化史の一小エピソードであることは明白であろう。」【53〜54】

「降雨という平凡な現象の気象学的説明をみれば、犯罪捜査に比べてどれほどの精度があるだろうか」【54】。殺人も気象学もあれこれの化石骨の解釈もビッグバン宇宙論も、「ともに現在手にとれる証拠にピタリとはまる過去の物語りを作りあげ、その物語りから導きだされる新しい推測を確かめる。……そこで使われるのは主として分類と帰納なのである。……通常は『帰納法』とよばれているのが、実は分類の一種であることに注意しておきたい。……科学物語りが要所要所で比較的に単純な分類と帰納に頼っている事情には変わりない」【55〜58】。プレートテクトニクスによる大陸や日本列島の形勢論も、「その作業の根本は分類と帰納であったと言えよう。……この壮大な仕事にくらべれば、なんともひんそうではんぱにみえるが、刑事たちが殺人事件の『解決』と呼ぶ御足労な仕事もまた主に分類と帰納によっての物語り作成という点では地球科学とさして違わない。」【59】

(3)「ここで注意したいのは、この数億年にわたり地球全域をカバーする長大な物語りの形成に当たって『過去自体』という概念の片鱗も顔を出していないことである。つまり、われわれの科学では過去物語りの製作には過去自体という物自体的概念は不要であり無関係なのである。それに変わってこの物語り製作の動機でもあり目的でもあったのは『現在との接続』であった。……この現在との接続こそ、この物語りが現在を『科学的に説明する』ことにほかならなかった。そのためには現在への接続のほかに、物語りの『整合性』が要求される。分類と帰納による概略の法則が物語りを通じて一貫して維持されていなければならない。この整合性は過去内部の整合性であることを忘れてはならない。」【61】

(4)これは殺人事件の解決である殺人物語りにも共通する。「ここでも過去自体を発見してゆくことではなく、過去を物語りで製作してゆくことが問題なのである。過去自体を発見する手段などどこにもないのである。」【62】
[注8]
(1)「過去は人間の製作したものだ」という言葉は、(2)から(4)によって説明され、最後に(5)で正しい結論とされる。確かに知覚主義者の言うように「いま知覚しているもののみが存在する」とか、「過去とは想起されたものだ」とかが正しい場合は、そうなるだろう。しかし知覚から独立するものがあること、想起されない過去もあることを認めるならば、決して過去は人間が作り出せないものであることが分かる。

殺人事件で刑事たちは殺人の事実を突き止めようとしている。むろん捜査の途中で様々な仮説を立てるだろう。それは唯一の事実へ至る過程の中では一種の製作のようではある。だが実在を背景とする仮説は、実在を背景としない製作とは違う。仮説は唯一の真実に至るまでの一時的な姿にすぎない。刑事たちもこのように信じて行動している。とはいえ、「過去自体は存在しない」とする立場では、過去は人間の創作・製作にならざるを得ない。

(2)大森氏のような知覚主義者には客観的実在は存在せず、したがって判断基準となる唯一の事実というものがないから、「定説・仮説・製作・創作」の間の区別がつかないようである。帰納法はたしかに個々の知覚事実から普遍的な法則を発見しようとする方法論だから、いつまでも個々の事実の持つ知覚的偶然性から自由になれない。個々の事実から万有引力が発見され、それによって太陽が東から昇ることが理解できたけれども、ヒュームなどが言うように、明日はもしかすると太陽は西から昇るかもしれない。というのも、帰納法には「論理的に演繹できる必然性」というものが備わっていないからである。もし太陽が東から昇るのが論理的に必然なら、太陽はいつも必然的に東から昇ることになるが、帰納法ではそれが証明できない。

とはいえ、これは経験主義者だけに通用する議論である。経験主義者は個々の直接的感覚(単純感覚)だけを信頼し、そこにのみ依存する。彼らの理解する感覚はそのときかぎりの個々のものでしかない。したがって物事の関係一般が見えなくなり、因果関係や法則も否定される。

だが、動物の知覚、とりわけ人間の知覚は単なる感覚でなく、そこにはいつもすでに反省の契機が働いているから、知覚するとき人間はいつも物事の関係も同時に感覚しているのである。物事の関係を同時に感覚すること、これが本来の「知覚」だ。そういう知覚の事実は日々の知覚による我々のリアルな体験である。したがって自然界に因果関係も法則も客観的に実在することが分かっている。そういうわけで、経験主義者でない我々には法則に感覚主義的な偶然性などないことが分かっていて、「明日は西から太陽が昇るかもしれない」などという杞憂はしない。もし太陽が明日西から昇ることがあっても、それもまたなんらかの自然法則によるものだと分かっているからである。

つまり「帰納法を使用するほかない科学は方法論的に本来曖昧なものであって、科学の作業は物語りだ」という大森氏の意見は、感覚主義的誤謬である。たとえ帰納法を分類法だと解釈しても、彼のその誤謬は変わらない。

(3)「過去自体」という概念など大森氏の着想した珍奇な概念にすぎないから誰もそのようなものに興味がないだけの話である。もし「過去自体」が過去の客観的実在性を意味するのなら、それはこれらの自然科学者たちにとって自明だから、そのようなものなどはじめから問題にならないのである。だから科学者たちは客観的実在を背景に持たない「製作」を日々行っているのでなく、仮説とその実証を日々求めているのだ。そして唯一の客観的事実と符合しなければならないからこそ「整合性」を求めている。この整合性は客観的事実と対応するべき「対応的整合性」であって、なにも大森氏が25ページで述べているようなプラグマティックな真理基準による実用本意の、命題内部だけの「整合性」ではない。これについては[注2]の(3)(4)などで批判しておいた。

(4)いや、物語り製作ではなく、唯一の客観的事実としての過去を発見していくことこそが肝心なのだ。「過去自体」を発見する手段は、それが過去の客観的事実性を意味するのであれば、ただあなたが父母から生れてこそ、そこにいるということに注意を振り向けるだけでいい。あなたの存在が確かなぶんだけ、あなたの父母の結婚や性的交渉も確かだったのだ。同じように、現在の宇宙が確かなだけ、その原因である過去の宇宙も確かだったのである。過去自体を発見する手段は至る所にある。それが見えないのは、あなたが知覚主義の妄説で盲目になっているからである。

四 製作された過去

[注9]
この節の内容は全てすでに述べられたものの繰り返しだから、省略する。

第三章 「後の祭り」を祈る 過去は物語り

「英米哲学界では有名なマイケル・ダメットの『酋長の踊り』という謎解きがある」【70】。ある青年が二日かかって狩場に行き、狩が済んで戻ってくる時になっているのに、村では酋長が彼の成功を祈ってなお踊りつづけている。「それはわれわれが堅持していると思っている『決定済みの過去の実在』という信念に走った一筋の亀裂ではあるまいか」【71】。この信念の底にはあの「過去自体」という思いがあると思うが、これは「カントが徹底的に批判したあの『物自体(Ding an sich)」の考えそのものか、少なくともそれと同類近縁のものである。カントの批判に同意する現代の人々は、当然「過去自体」の考えをも批判すべきなのに、これまでそれを怠ってきた。」【71】

[注10]
酋長の踊りはなにも「『決定済みの過去の実在』という信念に走った一筋の亀裂」などではない。酋長が踊るのは、青年の狩が時間的にはとっくに済んでいても、結果の分からない彼にとっては、主観的にまだ事柄が確定していないからにすぎない。むろんそこには、済んでしまった狩がもし失敗していたら、この踊りによって超越的な力が働いて過去を変え、成功したことになってほしい、という個人的な願いも込められてはいる。とはいえ、過去を変えたいという個人的な願望があることは、「過去とは人間が変えられる命題的なものだ」という意味ではない。

大森氏は「カントが徹底的に批判したあの『物自体(Ding an sich)』の考え」と述べているが、批判が否定の意味なら(どうもそうらしい)、いつどこでカントが「物自体」を批判(否定)したのだろう? 「物自体」はカント哲学の土台なのに、なんという無知なことをいうのだろうか。カントは批判哲学を展開したので、「物自体」もそこで批判されていると勘違いでもしているのだろうか?

70ページから75ページしかないこの短い章の内容はこれまでの単なる繰り返しにすぎないので、その他は省略する。


第四章 時は流れず 時間と運動の無縁

前文(注:原文にはこの前文の題目はないが、HP開設者の私が便宜上付けたものである) 

(1)「私はかつて『過去そのもの』、つまり過去というものが実在するという万古不易の常識に反逆することを試みた。……だがそれによって若干の展望は得られたが、視野は依然として暗い。なかんずく『現在』という概念の不可解と『時間の流れ』という暗黒の思いが依然として残っている。そこで私は第二の常識破りをここで試みることになった。その常識とは「時間と運動の連動」と言う常識(の欺瞞)である。」【78】

(2)「この欺瞞の底には、時間とは動態的(ダイナミック)なものだという事実誤認があるように思われる。実はその正反対で、時間とは静態的(スタティック)なものなのだ。とすれば時間と運動とは連関するどころか、反発しあう反極なのである。時間は静態的な座標軸であって、運動とは何の縁もない。時間とは過去と未来のみを含む時間順序の座標なのである。いっぽう運動とは現在経験に固有な現象なのである。現在とはまさにヘラクレイトスのパンタレイ、万物流転の世界なのである。だから(現在や経験に属す運動は)過去と未来の時間順序としての時間とは水と油なのである。」【79】

(3)「それだからこそ現在を何かの形で時間に内蔵させようとする考えは必ず奇怪なパラドックス……を生むのである。そういうパラドックス…の最たるものが『時間の流れ』という……常識である。それは、およそすべての運動は現在経験のみの現象であることを見落として、元来は運動とは無縁である時間のなかにそれを持ち込んだ大混乱の産物であるとしか思えない。」【79〜80】

[注11]
時間がどうして運動と無関係な静態的な座標軸なのか、大森氏のその具体的な論理が分からなければ批判はできない。その論理は第一節から続くので、批判はそこから始めたい。

一 過去と未来の時間軸

(1)「(時間は先後の比較関係に基づく各時点によって構成される線形の順序において理解される、と数学者や論理学者はいうが)、まず『AはBよりも先』という時間的先後関係に立つAやBはいったい何なのだろう。常識ではAやBは何かの『事件(event)」であろう。……だがこの客観的事件が生起する客観的世界とは、実は人間の知覚経験と行動経験とをベースにして製作された言語的思考的世界である。……それゆえ線形順序としての時間が成り立つのは、第一義的には知覚と行動の経験であるとしていいだろう。」【81】

(2)「だが知覚経験も行動経験もともに『現在経験』であることは明白である。……だがこの現在経験の間に時間的先後を付するときには、それらの現在経験はすでにもはや現在ではなく過ぎ去った現在経験である。つまり現在ただいま経験中の現在経験ではなくて、過去として想起される現在経験なのである。」【81〜82】

(3)「(だが想起されるものは命題であって知覚ではない。美味いも痛いも再現できない。)ある現在経験が過去形の言語命題として経験される、それが想起経験なのである。(だから命題としてはそれは初体験のものであって、知覚の再現でない。)」【82〜83】

(4)「二つの現在経験の時間的先後を判定する場合にも比較されるのは、実は二つの過去形命題なのである。……このように過去命題を以前以後の順序で配列する可能性を担ったものが時間座標軸の過去部分にほかならない。当然それと平行的に未来部分があることは自然だろう。ただ想起経験に代わって予期、予想と意図の経験があらわれる。予想され意図される事柄が言語命題であることは、想起の場合よりも一層わかりやすいだろう。それらの事柄を時間順序で配列する可能性を担うのが時間軸の未来部分であることは説明するまでもあるまい。以上のことから過去と未来の時間座標軸が製作されたことになる。この過去と未来をつないで一本の無限直線で表示するのは全く自然のなりゆきである。だがこの表示には過去と未来の時間軸は含まれるが、まだ現在経験そのものの時間的位置は登場していない。」【83〜84】
[注12]
(1)数直線として表わされた時間軸論については次節以降で論評する。さて、ここには、「想起が過去を作り出す→知覚経験が時間を作り出す」という大森氏の図式がある。したがって想起されない過去はあり得ないし、「過去も時間も、想起や知覚つまり人間が作り出すものである」ということである。これでは想起する人間が出現する以前には宇宙は存在しないことになるし、この妄説に対してはすでに批判を済ませてある。

(2)はそれだけでは正しい。

(3)「クオリア」について述べたところで明らかなように、想起は命題でなく知覚の一種の弱い再現であるから、大森氏は間違っている。

(4)二つの現在経験の時間的先後を判定する際に比較されるのは、実在性を伴わない命題でなく、二つの現在経験の記憶である。この段落で大森氏は平たく言えば「想起が過去を生み出すように、予想が未来を生み出す」と主張している。だが、これは知覚主義的誤謬である。知覚主義者が「いま知覚されているもののみが存在する」というのは、すなわち「知覚が全てをあらしめている」ということだ。もしそうであれば、想起が過去を、予想が未来をあらしめてもおかしくはない。だが、想起されなくても過去は存在するし、予想する人間がいなくても未来は存在する。人類が出現する前に太陽系が存在したように、人類が全て死滅した後でも太陽系は存在している。過去と未来の太陽系の実在性、つまり宇宙の実在は想起とも予想とも無関係だ。

二 過現未時間軸の製作

「こうして現在ただいまはいかなる過去よりも『より以後』であることになる。同様の考察からそれはまたいかなる未来よりも『より以前』ということになる。したがって、現在ただいまは時間軸上で過去部分の終端であり未来部分の先端として定位されるほかはない。……それでこのように定位された現在を、これから「境界現在」と呼ぶことにする。自然科学での最も基本的な慣習である、一本の無限直線を時間軸としてとり、その上に気ままに一点を打って現在とする、という(誤った)習慣は、この境界現在によって裏打ちされているのである。こうして過去と未来に境界現在を加えることで、線形順序としての時間座標軸が完成する。」【85】
[注13]
大森氏は「いま知覚しているもののみが存在する」という知覚主義の観点から現在を特別なものとみる。つまり現在のみが躍動的なのである。過去はもはやいわば死んだ固定的なたんなる想起命題にすぎない。そして未来も予想命題だとし、なんら説明もないまま「この過去と未来をつないで一本の無限直線で表示するのは全く自然のなりゆきである」と説明して、未来にも過去のそういう固定的な性質を与える。それで作り上げた(現在を除く)過去−未来の時間軸を彼は静態的だと主張するのである。この固定的な過去−未来の時間軸に編入された学問上の現在は「現在ただいまの現在」ではないから、彼は両者を区別するために、任意の点を理論的現在としても物理学的に成り立つ現在を「境界現在」という新語で表現したわけである。

ところが「酋長の踊り」のところで大森氏は過去の決定性を「過去自体」に基づくものとして否定し、過去の未決定性を主張していた。また未来はまだ何も決まっていないから、これも本来なら固定視してはいけないものだろう。にもかかわらず彼は過去−未来の時間軸を固定化したのである。これでは、ご都合主義と言われても文句は言えない。

特殊相対性理論ではローレンツ変換にみられるように、運動と時間・空間の尺度は相関している。時間と空間は系の速度によって相互に変換されるのである。運動体の系が光速に近づくにつれてこの変換効果が目立ってくる。大森氏はこの章の前文のところで「時間と運動とは連関するどころか、反発しあう反極なのである」と述べているが、事実はそれとは正反対に、時間はまさしく運動と相関しているわけだ。彼は知覚主義者として現在ただいまの知覚だけを重視するから、現代物理のこうした周知の基本さえ無視しなくてはならないわけである。

つまり大森氏は自分勝手に固定的な時間軸を作って敵側のものとし、「現在」と「境界現在」の二つを立てて、知覚主義を守ろうとしている。しかしどの過去もかつて全て現在であったがゆえに、またこの宇宙が存在する限りいずれ未来はすべて現在になるがゆえに、現在ただいまの現在も含めて、時間軸上のどの時点も同質なのである。現在はすべて大森氏のいう意味での「境界現在」なのだ。知覚主義者のいう特別な現在などどこにも存在しない。

三 過去・未来と運動の無関係

(1)「前節で述べた過現未の時間軸の製作には、一見して不自然で無理な点があることに誰でも気づくだろう。過去と未来からなる時間軸に現在ただいまという異質なものを無理に押しこんだ形跡は歴々としている。……現在ただいまの経験とは現在の知覚と行動の経験であり、自分が生きている生のさなかの経験として単なる時間順序の棒である時間軸などとは全くかけはなれた生き生きとした経験なのである。この生命に溢れた経験を死んだような時間軸上に無理に乗せようとしたので、境界現在と私が呼んだようなグロテスクな現在概念が生まれるようになった。」【86〜87】

(2)「こうして一方に運動と無縁な時間軸、そして他方に運動満載のパンタレイの現在経験、この対極的な両者の間には最大級の違和が生じないではいないことは誰にでも容易に想像がつくだろう。この違和を原因として第一に『時間の流れ』という巨大な錯誤が生まれ、第二にはアキレスと亀のパラドックスが引き起こされた、というのが私の考えである。両者ともに、現在経験のなかの余りにもあざやかな運動を、何かの形で誤って時間軸のなかに持ちこもうとしたところから生じたと考える。」【87〜88】

(3)「したがって第一に『時間の流れ』を否定し、第二にゼノンのパラドックスを清澄な展望にもたらして、その表面的な有害性を有益性に反転するためには、……『運動(変化)はただ現在経験にのみ所属するものであって、時間軸とは何の関係もない』という一つの根本的認識を主張してそれを堅持することが絶対に必要であり、それが最善の道になるだろう。この認識を別な表現で言うならば、『現在は過去・未来とは本質的に異質である』とも言えるだろう。」【88】
[注14]
(1)自分で不自然な固定的時間軸を作ってそれを勝手に敵側に押し付けたのだから、「不自然で無理だ」というこの非難は当たらない。それに、時間軸は相対性理論で見ると運動と相関していて、そこに仮に躍動的だという彼の現在を定位しても、躍動性に関しては特に異質なものにはならない。「境界現在」も運動と相関しているからである。

ところで、現在だけが生き生きとしているのでなく、大森氏が否定した過去もまた単なる命題ではなく生き生きとしている客観的事実の世界である。いずれブラックホールなど何らかのルートで過去へも行くことができるかもしれないが、そうなれば「過去は命題だ」ということが明白に否定されることになる。ブラックホールの「事象の地平線」の内部では時間と空間の役割が交代しているので、あるブラックホール解(例えば帯電回転体のブラックホールなど)ではそういうことも起こり得ることが証明されている。

(2)したがって、「死んだ時間軸に生きた現在を挿入したから『時間の流れ』という錯誤が生じ、ゼノンのパラドックスが生まれた」という大森氏の言葉はすべて虚しい。それについては次節で具体的に論究する。

(3)そういうわけで、『運動(変化)はただ現在経験にのみ所属するものであって、時間軸とは何の関係もない』とか、『現在は過去・未来とは本質的に異質である』という大森氏の思想は、ともにとんでもない誤りである。

ついでにいえば、一部の物理学者はアインシュタインの相対性理論における系ごとに異なる同時性の概念や時空四次元連続体としての宇宙のあり方から、全ては時空の幾何学で既存しており、運動系ごとに時空四次元連続体の同時面の切り口が異なっているので、過去・現在・未来は幻影にすぎないとする。これについてはそもそも物理の基本法則(基礎物理方程式)が時間対称(時間の方向に関わらず成立する性質)であることが大きな論拠とされている。

ある物理学者はあらゆる瞬間がいわばフィルムの一コマのように同時に相互無関係にランダムに現在していて、意識のなかでそれらが継起的に感覚され、あたかも時間があるかのように感じられるだけだとする。

しかしそうであればなぜ意識の中で因果律が成立するようにしか継起しないのかが説明できない。すでに現在する相互無関係な一コマ一コマが継起するなら確率的にはほとんどいつもランダムに継起することになり、それでは宇宙創成以来整然とした因果律下にある物理宇宙を説明できない。

それにまた確率論的不確定性を原理とする量子力学を考慮すれば、全てが時空の幾何学で一意に決まっているかのように思考するのはやはり一面的であることが分る。物理学的には、宇宙はあらゆる瞬間にあらゆるところで非決定論的に選択される無限に多様な出来事の全体なのだ。アインシュタインの幾何学的決定論は量子力学における確率論的偶然原理によって根本的な制約を受ける。

そもそも量子力学的現象は何もかもが確率的で「偶然」を原理とする。偶然の結果は繰り返しができず、すなわち不可逆である。また量子力学では同じ作用素でも作用の順序が違えば多くは異なる結果となり、これも不可逆性とつながる。現に2017年9月7日の報道によれば、東大物理工学専攻グループは多体系の量子力学に基づいて熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)を導出し、時間の不可逆性つまり「時間の矢」を量子力学だけから導き出した。

これは「あらゆる基礎物理方程式は時間対称なので時間は実在でない」と主張してきた物理学者たちの誤りを意味している。そもそも物理方程式は(複雑な環境を捨象した)理想的な単純系をもとに作られている。多体系ともなれば天文学における三体摂動問題でさえ非線形化して数値計算で解を求めるしか方法がない。

もしかするともっと複雑な多体系となれば、時間の不可逆性も考慮しなくてはならなくなるかもしれず、複雑な多体系になればなるほど時間が顕在化してくるのかもしれない。だからこそ(環境も対象分子も混在した)統計力学のような無限ともいえる多体系で、熱力学第二法則という時間の不可逆性が姿を現してくるのではないか?

例えば理想的な単純系である真空中の振り子は永遠に同じ動きを続けそこに過去も未来もないが、現実世界である大気中では空気抵抗でだんだん振幅が小さくなるのでここには時間がある。確かに振り子の法則を求めるには一切の外部因子を除いて理想的な単純実験系を構築する必要はあるけれども、それで得られた法則を全ての外部因子を含む宇宙に適用して「時間は存在しない」などと判断してはいけないわけである。

もともと現実世界は単純系でなくいわば無限の多体系だから、時間の実在する現実世界こそが真実なのだ。基礎物理方程式が導き出された理想的な単純系は、時間の存在する現実世界とは違うのである。つまり基礎物理方程式を立てるとき宇宙を単純系に抽象したので基礎物理方程式が時間対称なものとなり、あたかも時間が存在しなくてもいいように見えたのだといえよう。

2015年現在、130億光年先のガンマー線バーストの観測によって物理法則が130億年前の宇宙と現在の宇宙とで完全に同じかどうかが突き止められようとしている。もし130億光年先のガンマー線バーストのときに同所同時に発した(経路の全く同じ)エネルギーの異なる二つの光子のうち、エネルギーの小さな光子が先に着き大きな光子が3秒ほど遅れて着けば、これは現在の我々の物理法則(たとえば光速度不変の法則)に対する時間の優越性の証、すなわち時間の実在性の実証となる。なぜなら時間の流れの中で物理法則(光速度)が変化したことになるからである。

現在、多宇宙自生論を唱える学者のなかには、我々の宇宙がビッグバンによって創成する前から時間があって、その時間の中で我々の宇宙も創成し、いずれ訪れるかもしれない我々の宇宙の消滅後もこの時間は延々と続くとする者や、あくまで全体としての時間対称性にこだわって、エントロピーが増大する我々の宇宙が創成したとき同時に時間の向きが逆の(エントロピーが減少する)宇宙も創生されたとする者もいる。

四 「時間の流れ」の錯誤

(1)「現在は時間のたつにつれて過去になる、このそれ自身は経験的に全く正しい事実を、だから現在は過去へ漸次移動してゆくのだと曲解してしまう。そしてそれこそ時の流れだと誤認してしまうのである。しかし、現在がやがて過去になるとは、……実は、過去となっているのは過去になった『かつての現在』であるという自明の事実の単なる裏返しではなかろうか。確かに過去とはその意味からして『かつての現在』であってそれ以外のものではない。ここから、いま生きているこの現在ただいまもやがて『かつての現在』としての過去になる、ただこれだけことにすぎない。この単純な事実を見誤って、現在ただいまが『かつての現在』へと移行、ないし運動する、と思いこんでしまうのだ。」【89〜90】(注:青字化はHP開設者による)

(2)「(未来から現在への運動もこれとほぼ同様な誤解であり)、こうして未来→現在→過去という運動が信条に近い信念として人々を捕らえることになった。そこからこの信念が一般化されて時間軸上の点運動に拡大されてゆくにはさして手間はかからない。しかしこの時間直線上の点運動という観念には、軽視できない幾何学のパラドックスが含まれていることに気づいた人は稀である。そのパラドックスはかつて私が『点運動のパラドックス』と呼んだものである。」【90〜91】

(3)「点Xが位置Aからそれと異なる位置Bに動く、これが点運動の基本形である。だが位置とは点でしかありえないのだから、点Xが位置Aにあるとは点Xイコール点Aということでしかありえない。同様に点XイコールBということにならざるをえず、その結果、異なる二点AとBとが同一という矛盾を生じる。ここでXが椅子とか机とかの物体であれば何の問題もないのだが、Xを幾何学的な点とするかぎりは、位置と同一にならざるをえないということが一目瞭然であろう。だが人が時間軸上の現在点や境界現在を考えているかぎりは、この点運動の逆理を犯さざるをえないのである。……(ひしひしと体験される時の経過を)よく反省してみれば、それは実は経験内容の変化というパンタレイに属する体験の一種であって、時間の運動などではないことに気づくだろう。」【91〜92】

(4)「さらに最悪のケースとして、……時間という名詞形にひきずられて何か時間と呼ばれるもの(entity)があってそれが流れてゆくのだという、現在ではほぼ絶滅したはずの古い古い考えである。もちろん現代にはそのような『もの』があるはずはなく、『時間』とは広範な時間関係の総体を総括的に指す包括的名詞(umbrella word)にほかならぬことはほぼ確立された常識である。……はじめに述べたように、……運動と無縁な静態的時間軸の運動の欠落をこの現在経験の運動まがいによって埋めようとするときに『時の流れ』の錯誤が発生するのである。……運動と無縁な過去・未来と、運動に満ちた現在という対極的に異質なものを一本の時間軸に統一して過現未と接続した時間の製作そのもののなかに、『時の流れ』の錯誤の種子が胚胎しているのである。」【92〜93】
[注15]
(1)ここでは「単なる裏返し」であるという彼の解釈が、「ただこれだけのこと」という結論の根拠になっている。だから、それが「単なる裏返し」かどうか検討しなくてはならない。確かに「過去とは過去命題である」と主張するなら、過去は言葉だけの世界にすぎず、それならば「単なる裏返し」で済むことだろう。だが、過去は言語命題ではなく客観的実在だから、「単なる裏返し」では済まないし、したがって「ただこれだけのこと」だという結論も出てこない。というわけで、現在は過去へ漸次移動してゆくのである。

(2)「未来→現在→過去」時間観が信条に近い信念としてこれまで人類を呪縛してきて今も支配的なら、大森氏のプラグマティズム(実用淘汰主義)の立場で考えれば、その間違いの時間軸観こそが、まさしく淘汰に勝ち残った真理ではないだろうか?といいたくなる。この時間観は実用淘汰の観点からは否定できない真理ではないだろうか? なぜプラグマティズムを主張する大森氏はこれを否定できるのだろう?

(3)このいわゆる「点運動のパラドックス」なるものは実はパラドックスではない。AとBは、時間をあらわす数直線上での、時刻を表わす定点である。この数直線は、時間の各点としてのこのような定点の無限集合で、それが時間だ。したがって時間はあらゆる数値を変数として持つものだ。

つまり定点の集合としての時間と、時刻としての各定点とは次元が異なる。時間は直線だが、各点は点にすぎないからである。時間は各定点を積分したもの、各定点は時間を微分したものと言っていい。(実際の時間でなく今大森氏によって問題とされている)時間の数直線上での時間とは「幅のある時」であり、時刻とは「幅のない時」としてのA点とかB点のことである。時間の数直線上での時間と時刻とを混同してならない。時間も時刻も英語ではどちらもtimeだからややもすれば混同してしまうが、混同すると点と線の区別がつかず大森氏のような誤解に陥る。実際はいかなる瞬間といえども幅があり、時の「点」なるものとしての時刻は実在しないが、これは今の数直線問題とは直接関係がない。

具体的に述べると、大森氏の言っているXとは時間、もしくは時間なるものにつけた符号名である。そのXが定点AにあればAの値を持ち、定点BにあればBの値を持つということにすぎない。だから前者をX、後者をXで表わすことができる。時間あるいはその符号名であるXだけをみるとXもXもXだから、X=A、X=B、したがってA=Bという矛盾に陥るが、それは事柄の次元や階型を無視した誤りであり、ゼノンのパラドックスと同様の言葉の上でのトリックである。そもそも時間=Aとか時間=Bとかいう次元の話なんかではない。これでは線=点ということになってしまうか、時間符号名X=各数値、になってしまう。ここで起きていることはA=Bではなく、X≠Xということにすぎない。

だから大森氏が「Xが点でなく三次元体の椅子とか机とかの物体であれば何の問題もない」というのも論点が外れているわけである。Xは始めから時間あるいはその符号である「幅のある時」であって、時刻としての点などではないからだ。

さて、確かに大森氏の言うように「(ひしひしと
体験される時の経過の体験だけを)よく反省してみれば、それは実は経験内容の変化というパンタレイに属する体験の一種であって、(体験外の)時間の運動などではないことに気づくだろう」が、しかし明らかに体験されない時の経過も存在するから、時の経過が時間の運動であることに我々は気づかざるを得ないのである。

(4)時間は、たとえ「包括的」であっても単なる名詞ではない。直接的知覚以外は全て言語にしてしまう知覚主義者の目で見るから、時間は名詞になってしまうのである。だから、それが「包括的名詞にほかならぬことはほぼ確立された常識である」と言えるわけがない。時間は客観的実在である。でなければ時間の関数である宇宙の一切は一体何なのであろう? 思考も感覚も時間あってのことではないか? むろん人間の身体を含むあらゆる自然物・自然現象もそうである。時間が非命題つまり客観的事実として存在しないとするなら、これらの全ても客観的事実でないことになるだろう。

たしかにニュートン的な固定した「絶対時間」は存在しない。しかし運動のあるところ時間が伴っている。運動には速度があり、速度は空間的距離を時間で割ったものだからである。したがって運動と時間とはどちらが先だというものでなく、共に存在していて、時間は物理状態に影響されるだけなのだ。相対論では物理系によって時間は空間と共に伸縮したり歪んだりする。反物質による反世界では時間は我々の世界とは逆方向に流れている。エントロピー増大の法則と時間の矢とはむろん関係している。

こうした観点から見ると、時間は運動が存在するときにはいつも存在していて、宇宙の物理状態によって、局所的にあるいは全局的に、いわば過流になったり、ブラウン運動をしたり、円運動をしたり、伸縮したり、歪んだり、逆行したりしながらも客観的に存在するわけである。だから時間は系によって、見える角度が異なるか、姿が変わる、というに過ぎない。その系ではいつもその姿の時間があるというのは、時間の客観的実在性の証であろう。

客観的に実在するということは、ニュートンの「絶対時間」のように、いつでもどこでも同じ姿で存在するということとは違う。我々は宇宙のほんの一部である地球上に、ほんの一時的に生存するが、それでも客観的実在である。「絶対時間」が存在しないと時間の客観的実在性が失われ、時間そのものがないように思いなす傾向があるが、そうではない。

さて、時間がこのように物理状態と不可分だから「運動と無縁な静態的時間軸」などあり得よう筈がない。したがって、一般に時間軸に「運動に満ちた現在」を挿入しても、決して「時の流れ」が錯誤として生み出されることもない。そもそも時間は運動と共に客観的に存在するから、「時の流れ」は客観的事実なのである。

五 ゼノンの逆理と時間軸

(1)「ゼノンの逆理、なかんずくアキレスと亀の逆理(─アキレスは先行する亀に永久に追いつけない。なぜならアキレスが亀のいた所に到着したときには、すでにいくらかは亀がそこから前進しており、これが永久に続くからである─)の歴史は長い。(ゼノン以来)その解決に挑んだ哲学者や数学者の数は夥しいが、ついぞそれに成功したという声は現在なお聞こえていない。それには理由がある。……その……発生源は、時間の流れの発生源と同一の場所、すなわち過去未来の時間軸と現在経験との見分けの難しい異質性にあると私には思われる。」【94】

(2)「まず運動とは現在経験のなかに直接所与として無数の形で与えられている。知覚の五官のなかで運動は直覚的に感じ取られるし、運動に特異的に反応する脳細胞も発見されている。さらに自分の身体運動を直接に体験している。こうした明白で疑問の余地のない運動を体験運動と呼んでおく。だがいまこうして私が体験運動を考えたり語ったりしているときに語られ考えられているのは、現在運動ではなく過去になった運動であることは、少し反省してみればすぐわかることである。だが過去になった運動とは想起された運動にほかならず、……したがってそれは言語命題なのであって、当然何らかの運動ではありえない。……想起されるときには(点Xの運動は位置と時刻の)直行座標軸上で一つの連続曲線によって表示されるだろう。……この軌跡は生きた運動ではなくて、過ぎ去った運動であり、『空間化』されてしまった運動なのである。」【95〜96】

(3)「アキレスの逆理を述べたゼノンの議論が向けられているのは、アキレスと亀の運動軌跡であって、現在経験のなかで展開する追いかけ運動ではないこと、このことは誰もが文句なしに承認するだろう。……一刻前に亀がいた位置、そこにアキレスが到達した時の亀の前進位置、こうした逆理の言葉が語っているのは、(すでに済んでしまったものとして想定されている)競争運動の軌跡であることは明白で疑いの余地はあるまい。そしてゼノンが証明したことは、その軌跡が、(亀に追いつくことができるだけでなく、追い越すこともできるという現実との)矛盾に導くゆえにその軌跡は不可能だ、ということにとどまる。そこから決して『現在経験の直接所与としての競争運動』が矛盾だとか不可能だと結論はできないのである。」【97】

(4)「運動を過去として想起し、それを軌跡として表現した途端に矛盾に陥る、それはゼノンの説くとおりである。……この私の解釈は、私が以前に到達した結論、『幾何学的に表現するかぎりという条件つきで運動は不可能』(運動を点時刻で表現する先の時間の数直線論)、と一致する。……つまりゼノンの逆理によって矛盾の傷を負うのは、実はこの点時刻表現なのである。(その原因は)現在経験を境界現在として時間軸上に定位して過去・現在・未来を貫通する線型時間軸を製作したことにある。」【97】

(5)「しかしここで忘れてならないのは、この時間軸の製作がそのまま直ちに点時刻表示に導いて『二点ABのあいだの無限箇の点を通過し終える』というアキレスの矛盾にはまるということではないことである。日常的な想起経験では、点時刻などではなくて遥かにルースでファジイな過去運動が想起される。……このファジイ性によって日常運動はすべてゼノンの逆理の適用から免れているのである。だが自然科学的思考は初めからこの安全地帯から出て点時刻表示という精密表示を採用した。……そうだとすれば、科学がゼノンの逆理から逃れるすべはない、と見定めるべきであろう。」【98】

[注16]
(1)現在ただいまの現在と、いわゆる「境界現在」とは本質的に同じであることはすでに証明したから、たとえアキレスのパラドックスに正しい根拠があるとしても、それと、固定的だとされた過去−未来の時間軸とは無関係である。しかもあとで示すように、アキレスのパラドックスは現実と矛盾するだけでなく、そこには論理的にも正しい根拠がない。

(2)大森氏はここでは脳や知覚器官としての身体の存在を前提した言い方をしている。だが、それなら、知覚器官が外部の物的対象を知覚している、と認めなくてはならない。そうすれば、知覚から独立した客観的世界があることに正しく導かれるだろう。

さて、大森氏が「過去になった運動とは想起された運動にほかならず」というのは知覚主義的な誤りである。想起されないでいる過去の運動も無限にあるからだ。したがって過去になった運動は(想起命題という)単なる言語命題ではない。当然何らかの運動そのものだったものだ。

それに、直行座標軸上の運動軌跡は過ぎ去った運動だけに帰されるわけではない。これからの運動の予知もその軌跡によって行うことがある。そういう意味でこの軌跡は生きた現実を捉えうる。現在ただいまの生々しい感覚だけにとらわれず、現在ただいまの感覚も過去の感覚と質的に違わないとし、現在と過去の客観的実在性を認め、現在ただいまのリアル性を過去にも未来にも見るのである。

(3)ゼノンは、(「宇宙の実体は『存在そのもの』で、それは唯一・不変不動・不生不滅だ」とした)パルメニデスの弟子として、運動そのものを否定するためにこのパラドックスを考案した。ゼノンの証明したのは運動の否定なのだ。ところが、大森氏は「運動は現在のもの、軌跡は過去のもの」と分け、「ゼノンが軌跡を否定しても、それは運動を否定したことにはならない」と詭弁を弄している。

大森氏の言う「ゼノンが証明したのは、その軌跡は不可能だということだ」の意味は何であろう? 現実と矛盾するゼノン自身の軌跡の論法が不可能だということだろうか? そうではないのだ。ゼノンは「現実の方が間違いで、軌跡の方が正しい」と主張しているのである。ゼノンは大森解釈のように「その軌跡は不可能だ」と言っているのでなく、むしろ「その軌跡の方が正しい」といっているのだ。したがって大森氏は自分の知覚主義的な「現在経験」を守るためにゼノンのパラドックスを捻じ曲げて利用している。それはカントにおける「物自体」を捻じ曲げて「過去自体」と同類のものとしたのと同じトリックである。

(4)ゼノンは軌跡と関係させてパラドックスを提示しているのではない。ゼノンのパラドックスは事実に矛盾するだけでなく論理にも矛盾するのである。つまり軌跡とは無関係に、それ自身の論理がそのままで矛盾している。

大森氏の幾何学的表現による条件付き運動不可能説とは、X≠Xと混同したあのA=Bのことである。時間の数直線上で異なるはずのA点とB点がA=Bなら、時間も運動もありえないことになるからだ。

だからゼノンの逆理はなんら線型時間軸に傷を負わせる能力はない。ゼノンの逆理の誤りは次の(5)で示す。

(5)ゼノンの逆理の前提は「数直線で表わされる距離は無限の点に分割できる」という想定である。大森氏もそういう見方をしている。しかしこの想定が事実かどうかは分からない。エネルギーに量子があるように、空間にも局所場となる微小な単位があるのかもしれない。もし空間に量子的な微小単位があれば距離の無限分割論は崩壊し、ゼノンの逆理の正当性も崩壊する。

空間にそうした単位はたぶんあると思われる。たとえば遷移による量子飛躍は空間的連続性の事実上の止揚だとも言えるし、また相対論的量子力学における「プランク長」はどうだろう? 

またこれまで点粒子と見られてきた基本素粒子群が、互いに接触して距離ゼロになるとポテンシャルの分母がゼロとなって無限大に発散してしまうのを、時空10次元の超弦理論や時空11次元の超膜理論では点粒子でなくそれ自体大きさのある弦や膜だとしたおかげで分母がゼロにならず無限大発散問題を解決できたわけだが、このようにして物質や空間をあたかも点にまで無限分割できるかのように考えるのは現代物理学ではもはや成り立たない。

それに宇宙の70%を占めるとされるダークエネルギーのこともある。これは宇宙を加速膨張させる未知のエネルギーで、「真空のエネルギー」とも言われ、宇宙全体としては宇宙が膨張して増えた真空の体積分だけ増えるわけだが、それはあたかも真空に微小体積単位があってそれが増えるありさまである。

むろんこうしたことを想定しなくても、ゼノンの逆理は誤っている。

アキレスが亀のいた所に到達した時、すでになにほどか亀は進んでいる。そしてこれが永久に続いて、ついにアキレスは亀に追いつけない。だがしかし現実はそうでない。とすると、このパラドックスのどこかに論理的な欺瞞が隠されているわけである。

この欺瞞を暴くには距離ではなく時間を考えれば良い。事実ある瞬間にアキレスが亀に追いつくからである。最初に亀のいた所Aにアキレスが到着するまでT時間かかる。そこから次の所BまではTかかり、さらに同じように次の所CまではTかかり、……という具合にこれがずっと無限回続くが、A>B>C……(lim)→0だから、T>T>T……(lim)→0となり、最初のAが無限遠でないかぎり、全てを加算しても一つの有限値を取ることになる。つまり積分すると「何時何分」という具体的な値が出てくる。

それを仮に午前8時の出発時点から計って午前8時10分だとする。時間は現実には滞りなく流れているので、午前8時から午前8時10分を経て午前8時20分へと進んでいく。時間の観点から見ると、積分された8時10分が現実に来れば、アキレスはその時刻に亀に追いつくことになる。ところが、距離だけを見て思考のなかで無限分割してゆくと、あたかも思考のなかでは、無限の時間が経ってもアキレスは亀に追いつけないように思えてしまう。それは無限分割の思考にかかる時間と実際の追いつき時間を混同したからである。

だから日常運動がゼノンの逆理から免れているのは、ルースでファジイな時刻のためではない。そもそもゼノンの逆理など現実には存在しないからこそ、日常運動がゼノンの逆理から免れているのである。そういうわけで、自然科学的な時間軸設定の精密表示はなにも成立不可能なゼノンの逆理に捕らえられることもない。

だいたい自然科学的な時間表示を点時刻だと断定すること自体が誤りである。物理学では微分を使うが、たとえば瞬間速度の微分式(微小な時間で微小な距離を割ったもの)で示されているように、物理学における運動はあらゆる微小部分でも運動であり、時間についてもあらゆる微小な瞬間でも時間である。点時刻というのは、数学的な座標上の単なる便宜的な点表現にすぎず、実際には時間はいつも流れていて、いかなる瞬間といえども幅がある、とする。

たとえば数直線状で点が動くように表現するとしても、点が動いているかぎり、微小な線分になる。なぜなら、点の位置を決めるためにはある時刻を設定しなくてはならないが、(数学的にならともかく)物理的にどのように時を計っても点時刻にはならず必ず測定完了までの時の幅があり、したがってその時の幅の間、点は移動してしまう。すると物理的には測定対象の運動点は間延びした点、すなわち線分になるほかないわけである。それが積分されたものが運動の軌跡である。したがって軌跡は大森氏の言うように運動と無関係なものではなく、軌跡こそ運動の証なのだ。軌跡と運動が、それぞれ過去のものと現在のものとして矛盾するというのは知覚主義的誤りである。

六 ふりかえって

(1)「以上の検討を通じて(得られたものは)、第一は「現在」という把えがたい概念についてであり、第二はゼノンの逆理によってあぶり出された運動の点時刻表示の危険性である。この二点を検出する過程で本題である『時の流れ』の否定が成就されたと考える。」【99】

(2)『現在』という概念は(捉えどころがない。)私はこうしためくらましが生まれるからくりを何とか同定できたと思う。それは『現在経験』と『境界現在』との混同である。」【99〜100】

(3)「この二つの混同を意識的に排除する(には)、時間順序の軸である過去と未来とは全く異質なものとして現在を考える(必要がある。)具体的にいえば図Aのように過去現在未来を時間軸上に並べることをやめて、図Bのように現在経験のなかに過去と未来の時間軸を考えるという、これまでも多くの人が気づいた見方に移ることである。(でないと)、……そのとき人は『時の流れ』の錯誤にはまるのである。そこにまた『時間の方向』の妄想が寄生する。」【100〜101】

(4)「運動は現在経験にのみ帰属するのであって、過去と未来は運動とは無関係である。時間順序は静態的な構造であって、それが動く道理がない。ただ、想起において運動の軌跡表示が出現することだけが運動とのかかわりのすべてなのである。その軌跡表示が点時刻表示を誘発するところにゼノンの逆理が向けられたのである。」【101】
[注17]
(1)「時は流れず」を証明するためにこれまで言われてきたことを要約すれば、

@) 運動・変化は現在体験=現在に固有のもので、過去と未来によって構成される静態的な時間軸は運動と関係ない
A) この静態的時間軸に、動態的な現在を不当に挿入することで時間軸を運動化し、それで「時は流れる」となしている
B) ところがその数直線としての静態的時間軸には点時刻が不可欠で、それによって異なったA点とB点がA=Bという結果になり、時間の各点は全て同じになって、時の流れが説明できなくなる
C) また数直線上の点時刻の結果、ゼノンのパラドックスに捉えられる

これだけだ。これらはこれまで全て批判し尽くされたものである。大森氏には過去想起=過去だったように、現在体験=現在であるが、そもそも過去や現在は人間の想起や知覚体験に依存しないものだから、大森氏の把えた「現在」なるものが全く誤りであることは明らかである。時間軸が静態的だというのも誤りだし、点時刻論やゼノンの逆理の理解も誤りで、そのためそれらに依拠した時間軸批判も誤りだった。これらのすべてが誤りで、大森氏は『時間の流れ』を否定するのに完全に失敗している。

(2)『現在経験』と『境界現在』との混同など誰もしていない。というのも大森氏の言う知覚主義的な(現在経験=現在という等式の成り立つ)「現在経験」なるものは、ほとんど誰も認めていないからである。存在するのは、現在ただいまの現在を含めて、大森氏の言葉でいうところの「境界現在」だけである。だから「現在」という言葉以外にわざわざ「境界現在」という言葉を作る必要などない。現在が捉えどころがないのは知覚主義者に対してだけで、めくらましも彼らにしか起きていない。そのため解明しなくてはならない「めくらましのからくり」なるものも存在しない。

(3)誰もしていない混同を排除する必要などはない。時間軸と現在を異質なものとするのも誤りである。ここでいう図Aは、過去・現在・未来を一直線に並べた図であり、図Bはそれら全体を丸で囲み、丸全体を現在とする図である。大森氏にとって現在は現在経験つまり現在知覚であるから、丸によって囲まれた過去・現在・未来の全ては現在経験、すなわち誰かの現在ただいまの知覚の作り出すものとなるわけだ。こんな突飛なことをこれまでどれだけ多くの人が気づいたのか甚だ疑問である。「時の流れ」は錯誤でなく、「時は流れず」が錯誤なのだ。また時が客観的に存在するかぎり、「時間の方向」すなわち「時間の矢」も妄想などではない。

(4)全て誤りである。運動は過去にも現在にも未来にも帰属している。現在が客観的事実である過去から生まれて客観的実在であるように、未来もそういう現在から生まれて客観的実在である。客観的実在であるかぎり、過去も現在も未来も、運動に満ち溢れている。大森氏にとっては「時は流れず」なのに、彼の現在にどうして動きが帰属するのかさっぱり理解できない。時が流れるからこそ動きというものが可能なのではないだろうか? また知覚経験は生理的過程として時間の関数であり、したがって時間の流れに基づいているが、「時は流れず」では知覚経験一般が不可能ではないだろうか? 大森氏は知覚を無時間的に行うのだろうか? 

第五章 他我問題の落着

一 他我問題と類推説

(1)「私自身の色や痛みの経験については一切合切が明瞭で、そこに何の問題もない。ところが私は私以外の他人の色や痛み、そしてさらにそれに類する心的経験については(常識的・日常的には分かった積りでも、哲学的には)一切合切私には分からない。……(このことこそ)他我問題そのものにほかならない。……(『察しがつく』とはいうが)「察し」がどうして可能なのか、それを説明せよというのが哲学的要求なのであり、……哲学者には、その要求に答える方法が全然ないように思える、これが哲学者にとっての他我問題なのである。」【109】

(2)「(類推説で)例えば、自分の経験する赤色から他者の知覚する赤色を推し量るとしよう。しかしその類推の正誤を判定するには、その他者の赤色の経験を私が共有する必要があるが、それは絶対に不可能だろう。……そんな類推は(勝って気ままにやれる類推であり)もはや類推とはいえない代物である。」【110】
[注18]
(1)他者の心は日常的に分かっている程度で不便はないと思う。それをなぜ哲学問題にしようとするのか分からない。とはいえ、他我問題からいずれ自我問題へと続き、第七章と第八章では自我問題と関連して「意識」が批判の俎上にのぼらされ、主観ー客観図式批判論にまで発展するので、おろそかにはできない。

(2)ここではいわゆる「クオリア」が問題とされているが、他者のクオリアはラマチャンドランが『脳のなかの幽霊』で述べているように、磁気ヘルメットなどの開発で誰でもリアルタイムで共有できるようになるから、それで他者問題は終わりであろう。以後165ページまで延々と続く大森氏の他我問題論もつまらない内容であるが、大筋はのちの自我問題のためにたどってみたい。

二 行動主義の試み

(1)「他我問題のこの行きづまりの状況が心理学にも連動し……他我問題の困難を打開しようとして試みたのが、ワトソンに始まる行動主義心理学である。この心理学的行動主義のテーゼは、心理学が科学的客観的に対象とできるのは人間や動物の心的経験ではなくて、その客観的な観察が可能な『行動』の諸相に限られる。心理学が主題として語る人間や動物の心的経験は、行動を省略的にまとめて語る『媒介変数』にすぎず、理論的には消去可能な言語装置だと考えるべきである、と。」【112】

(2)「この哲学的行動主義の根幹は、他者の心的経験の意味をその行動の束として定義的に与えるところにある。……しかしこの行動主義は哲学的には満足させる答えではあっても、(普通人にとってはあくまで心のリアルな状態が問題なのであって、行動にあらわれたものから判断されるようなものとして心的状態があるのではない。)事実、この行動主義では、自他の心的経験の類似性という日常生活での事実が全く脱落していることが明らかである。」【113】
[注19]
(1)(2)物理的には覗き込めないブラックボックスとしての心を外側から判断できる通路として、行動を重視したものが行動主義であるが、これでは類推説よりさらに心的状態の認識から遠ざかってしまう。それに行動主義はクオリアを認識するという他我問題の根本に何も答えを与え得ない。

三 実生活への回帰

(1)「(他我問題に対する哲学者たちの千鳥足は、)哲学者たちがその実生活ではとっくにこの問題にけりをつけていることを忘れていることが、その原因なのである。……他我問題の解決があるとすれば単に実生活にもどるだけでいい。そしてふだん自分が他者命題に実生活のなかで与えている意味を自覚的に明確にすることである。」【114〜115】

(2)「実生活で実用されている他者の心的経験の意味をとり出してくる方法として『意味のシミュレーション』と私が呼ぶ仕方をとる。誰もが熟知している実生活での意味が社会的に製作されてきた過程を模擬的に再構成してみることによって、その意味を任意の視点から検討できるように呈示するという方法である。」【115】

(3)「実生活においても、事の最初には、(身体的・心的経験に関する、自分を主語にする無数の「私は……」という一人称命題とその関連命題だけがあって)、他者命題の意味は全くブランクであったろう。……(問題は)一人称命題とその関連命題のすべてにおいて二人称または三人称(合わせて他人称と呼ぶ)で置換する(自他変換命題)にどうやって了解可能な意味を与えるか、ということである。……類推説にせよ行動主義にせよ、……多くの哲学者の拒否が示すように、その正当化に失敗した。……(答えは)他人称命題の意味を対応する自称命題の意味に近似的にほぼ同一のものとして実生活の中で実際に使用してみることである。何の理由もなく、何の根拠もなくただ実際に試行するのである。」【115〜116】
[注20]
(1)(2)(3)自他変換命題とその了解可能性、などと難しい表現を使っているが、結局、「他我問題については根拠なしに人々の実用主義的常識に戻れば良い」というあまりにも安易な結論に落ち着く。それでは他者問題の根本であるクオリア問題が解決しないままで残ることになる。こんなことなら他我問題などそもそも仰々しく持ち出す必要などなかったのではないだろうか? げんに大森氏は108ページで「他我問題という空中楼閣」と表現している。

四 真理値連関の回路網

(1)「心的経験の意味は決して孤立しているのではなくて、物的世界と身的世界の大海のなかに浮遊している。たとえば『手が痛い』という一人称命題の真理値は『草刈で鎌の刃の使い方が悪かった』といった状況叙述文や、(後続する知覚のあれこれの)後続命題、『手が痛い』などの発語命題の真理値に経験的に連結している。この連結回路網は、(コンピュータの0と1のような)真と偽のニ値真理値の網の目であるので、真理値チップとでも呼べるであろう。……この真理値チップが他我問題の鍵であることが理解されよう。……この私の経験のなかでの真理値のチップを、他者の経験のなかに同型的に拡大しようというのが他我問題の課題なのである。」【118〜119】

(2)「それを言語の面に投影するのが自他変換と私が呼ぶ操作である。それは簡単なことで、(連結命題集合はカルナップの言う命題間の相互規定的な意味公理であるから)、原点である『私は手が痛い』という心的経験命題と、それに連結する真理値チップの命題すべてにおいて一人称単数の主語を、二人称その他の他人称に一斉に変換することである。」【119】
[注21]
(1)(2)論理実証主義の分析哲学的意味論がここで展開されているわけであるが、これはこれまで大森氏が言ってきたことを単に意味論の言葉で言い換えただけのものにすぎない。主語を一斉に変換することで何かがさらに明らかになるわけではないからだ。「主語」とか「真理値」とか「変換」とか言わなくても、そのぐらいのことなら日ごろ誰でも類推や行動観察などでやっている。

五 盲目的試行とその成否

「実生活は本能的盲目的に自他同一視を実行する。その実行の言語的側面が上述の自他変換による他人称命題の盲目的試行にほかならない。(自他変換命題は相手や社会の反応によって自然淘汰されていく。相手が肯定的な反応をすれば、その命題は成功し)、……こうして心的状態の他人称命題のすべてが集団的に強化され、確信的になってゆくだろう。それによって私は社会のなかで良好な対人関係のなかでより良く生きることができる。こうした(なんら哲学的根拠のない)幸運のフィードバックのなかで他人称命題の意味が(成功裏に)製作されるのである。……ここで哲学者がその意味にあらためて根拠を求めることから出発した、いわゆる「他我問題」は的はずれだと言わねばならない。」【122〜124】
[注22]
社会的実用によって淘汰されて生き残った概念は、哲学的根拠なしでも真理であるというようなプラグマティズムの知的無責任が通れば、そもそも人類社会に哲学など必要でなく、したがって哲学は実用の見地からみて存在する筈はなかったわけである。とはいえ哲学は現に存在している。それは唯一の客観的真理を求める人間本来の欲求から生まれたものであって、もともと社会的実用性とは異質のものだからである。

そもそも実用性そのものも、自然や社会や人間との適合性から来たものであろう。この実用的適合性は、主観の判断と対象との一致(真理)に根拠を持っている。自然と社会の客観的真実に適合していなければ実用性など生まれるわけがない。

もし社会が実用的見地から淘汰的に決定した命題が真理とされるとすれば、真理は社会公認の真理としていつも後追いの保守的なものとなり、歴史や社会を改革するものとはなり得ない。既存の支配的な観念・思想を批判することを通じてのみ、科学的真理が発見されてきた歴史的事実を顧みれば、こうしたプラグマティズムの安易な保守的真理観が誤りであるのは明瞭だと言えよう。

六 理論概念との相似

(1)「(こうした盲目的試行による意味製作のシミュレーションが)多くの哲学者には……無原則無根拠な思いつきにみえるだろうことは先刻承知している。しかしそのような外見とは裏腹に、このシミュレーションの手順が実は科学の理論体系が確立されてゆく過程とぴったり一致していることに注意したい。科学理論が形成され承認される過程の第一歩は、経験的実験や観測をその理論によって描写することにある。それは他人称命題によって他者の行動や状態を試行的盲目的に描写することにあたる。ここで科学理論による描写が盲目的でないことは当然であるが、その描写が試行的であることに変わりなく、そして試行であるかぎりそれが盲目的であろうとなかろうと事の次第に何の影響も与えない。次にその理論的描写から仮説演繹法的に無数の予言予想命題が演繹されて、それらの命題の真偽が経験的テストを受ける。それは、他人称命題と真理値連関している無数の命題(真理値チップ)が他者の行動と発話によってその当否が経験的にテストされることに対応することはいまさら言うまでもない。その結果、その理論と他者命題は、あるいは承認されあるいは否認されることも同じである。」【125〜126】

(2)「この科学理論とその相似性によって他我概念(精しくは、他者の感情、意図、思考その他の心的状態の概念)の意味が科学の理論概念(例えば、原子、電磁波、遺伝子等)の意味と共通する側面を持っていること、行きすぎた言い方をすれば、他者は理論概念であるとさえ言えることが明らかになったと思う。そして他者の意味が自我の意味に密接な相互的連関を持つことを思えば、自我もまた理論概念ではあるまいかという視点が生れてくる。【126】

(3)「(自我と他我は)、一言でいえば、声はすれども姿は見えず、という忍者風の動きをする。(自我を)捉えてしっかりとした言葉の縄で縛りたい哲学者はいつもはぐらかされて茫然とする。このことは、自我や他我が純粋に裸の姿のままで出現するような経験がないことから来ている。それを言語的に言えば、自我と他我は常に『……する』、『……と思う』といった命題のなかに主語としてしか出現せず、その主語が単独で裸のままであらわれることはない、ということである。……だが自我と他我のこの神出鬼没の振る舞いこそまさに理論概念のトレードマークではあるまいか。原子や電子が知覚経験の描写のなかに登場するのは、こみ入った命題のなかであるのが普通である。しかも通常はおびただしい数の素粒子の集団としてであって、単独にまざまざと姿をあらわすことはきわめて稀なのである。つまり、これこそ一個の素粒子を捕らえたと言えるような単純で鮮明な状況は経験のなかに出現することはなく、そうした状況を実験的に構成することもきわめて困難なのである。……このように単純素朴に名乗りをあげないのが理論概念の常であり、自我と他我もその韜晦性では立派に理論概念の域に達している。」【127〜128】

(4)「自我と他我という概念も、この科学的概念と全く同様な仕方で集団的判決を受ける。人間社会の登場した初期には……少なくとも現在よりもはるかに自信のない頼りなげな姿で、使用の度に変形するような意味であったと思われる。しかしそれらが長期間様々に変化する状況の中で、多数の人々の間で模索的に使用を積み重ねてゆく間に、……滑らかな生地に丸められていったと思われる。その過程は言語的にいえば、自我と他我を含む諸命題が人間社会の経験を適切に描写するか否かによる無数の取捨選択の過程である。……そのなかで他者の腹痛と自己の腹痛とのコントラストが鮮明になり、他方では他者の思考や感情等他者の意識と呼ばれる概念が発生して他者を主語とする意識描写命題の自在な使用が確立してゆくだろう。……これらの他者命題の意味を、いわば集団的に製作していくのは、(これまでの一命題収斂型の狭い帰納法でなく)、ルースで了見の広い(連結命題集合的に扱う型の)帰納法であった。」【130〜133】
[注23]
(1)「試行は、科学理論と、自我・他我の『意味のシミュレーション』に共通している」と大森氏が主張する場合、彼のその「試行」という言葉の本当の意味を忘れてはならない。これは客観的実在に基づく唯一の真理への試行でなく、「そもそも客観的実在など存在しないし、唯一の真理も存在しない。実用性のある命題こそ真理だ」とするプラグマティズムにおける「試行」なのだ。つまり実用性があるかどうかを試すだけの試行なのである。彼にとっては唯一の真理など存在しないから、「試行であるかぎりそれが盲目的であろうとなかろうと事の次第に何の影響も与えない」と言われることになる。

しかし科学者が実験するのは唯一の事実・唯一の真理に至るためである。科学者は仮説を立て、それを実験でテストするが、科学者は仮説の唯一真理性を求めてテストを行うのである。なにも客観的実在とは無関係な実用哲学流の、どうでもいい多義的な命題間の真理を求めているのではない。厳密な科学とルースを自認する知覚主義的な大森哲学の意味シミュレーションとは、根本的に異なるのだ。両者が似ているように主張するのは、カントの「物自体」やゼノンのパラドックスを曲解することによって自らの知覚主義的主張を彼らの権威で主張しようとした姿勢と全く同じである。ここでは自分の意味のシミュレーションと科学とを同類のものと主張して、自分のつまらない誤った思想に科学性を与えようとしているのである。

(2)科学理論と自我・他我の意味のシミュレーションとの間には本質的な意味で相似性などはない。そういう相似性から帰結する他我や自我の理論概念性というものも、あまり信用できない。

大森氏は他我から分析をはじめ、そこから他我と同質のものを自我に見たが、他我はどこまでも自我の対象として立てられるものだから、自我を把握するルートにはならない。われわれ自らが自我だからこそよく知っているその自我のルートから、自我を追求すべなのだ。自分の自我でさえ対象化して外から研究すれば、単なる研究対象としてあれこれの概念で記述されてしまう。そうなれば自我はあたかも概念のように見えるおそれも出てくることになるだろう。

ところが日々の実感通り、自我は意識と自己意識の主体であり、また感覚の主体、概念の駆使者なのだ。もし意識する主体があなたの中に存在しなければ一体誰があなたの中で意識しているのだろう? そしてあなたが概念を駆使して考えているとき、一体あなたの中の誰が考えているのか? 大森氏の言うように概念の駆使者としての自我は概念それ自体だろうか? ヒュームが「自我とは知覚の束の流れ」だと言うように、知覚の主体は知覚それ自体だろうか? 知覚の主体と知覚とは明らかに異なる。それでは一体あなたの中の誰が知覚しているのだろう? ヒュームのように自我を知覚の束だとするのも驚きだが、人がリアルに直接体験している自我を、概念として存在するものと自覚している人間がいるとは驚きである。すると大森氏自身の自我は概念そのものでしかないわけである。

(3)意識や自己意識とともに「こころ」を形成する自我は脳の中にあるが、それは脳の機能・働きとしてあるのであって物質としてあるのではないから、「これだ」といって自我や意識や自己意識、すなわち「こころ」を脳から取り出して見せられる性質のものではない。物質とその機能とは異なるからである。例えば生命細胞を「これだ」といって取り出すことはできるが、細胞の機能である「生きるということ」、すなわち「生命」は、「これだ」といって取り出すことはできない。物質は取り出せるが、機能は物質のようには取り出せない。「こころ」は脳の物質とその構造が生み出す特殊な機能・働きなのである。

「物質のように取り出すことができなければ自我・意識・自己意識は存在しない」というのは、一つは「知覚から独立したものは存在しない」という知覚主義から出てくるものだろうが、物質でないものは知覚できないから、したがって知覚主義者には(ちょうど知覚できない法則は存在しないという彼らの主張のように)自我・意識・自己意識などは存在しないものとなる。

とはいえ、未だに「意識とは何か」という問題は解かれていない。また主体意識としての自我は脳内でどうして生まれるかも解決していない問題だ。それらについて私は『新しいパラダイム』の第五章「大脳の働きとしての『心』」、第六章「心と自由」、第七章「自由と量子論」で詳しく私説を展開しておいたが、興味のある読者はそちらをご参照いただきたい。

自我を大森氏のように言語的に表現して、「自我と他我は常に『……する』、『……と思う』といった命題のなかに主語としてしか出現せず」などと言うのは、自我を概念に仕立て上げているからである。自我はそのような命題の中に入りきるものではないし、命題の主語として言語として存在しているものでもない。むしろ命題は自我が作って駆使するのである。

大森氏は、捉えどころのない自我と他我は、あたかも「単離してこれだといって示せないところが素粒子とよく似ている」とし、そこから、「素粒子が単なる理論概念であるように自我と他我も理論概念だ」と推論しているが、科学的な分類も階型も無視したこのようなファジイで無責任な推論も、「無根拠でもいい。ただ試行あるのみ」と自ら主張する実用主義哲学の立場では許されるのだろうか? 一部が似ているからといって両者をすぐに同質視するのは、これまでもカントの「物自体」と彼の「過去自体」や、その他あちらこちらで見られた大森氏の態度だが、これは学問上の客観的真理を自分の個人的実用願望と混同したものにすぎない。

知覚主義者は(あのマッハもそうであるが)20世紀初頭、「原子は知覚できないから存在しない」と主張した。ところが原子は後に単離されてその実在が確認された。クォークの単離ははじめそのクォークの物理的性質によって本質的に困難だとされたが、最近になって単離されたクォークの存在を示す実験結果が発表されている。つまり原子がたんなる理論概念や命題でなく客観的実在であったように、素粒子もそうなのである。だが、「拡大鏡像も単なる言語であり、肉眼で知覚できないものは実在しない」とする彼らだから、素粒子や原子だけでなく、分子や高分子や個々のたんぱく質でさえ彼らにとっては実在ではないのだ。そのような彼らのひとりである大森氏が、「素粒子は理論概念で、それによく似た自我と他我も理論概念だ」とびっくりするような勝手なことを主張しても、ただ何の根拠もない思いつき的な個人的願望を開陳しているだけなのである。

(4)人間の自我は動物の自我の進化したもので、動物の自我は神経細胞の自我性から、神経細胞の自我性は神経細胞内部のDNAの自我性から生み出されたものである。そして意識に固有な、時空にとらわれない観念のあの自由さは、おそらく物理世界でそれに最もよく似た量子力学的な効果によるものであろう。たしかに自我意識の内容は人類進化や世界史の各段階で異なる。だが、自我性そのものは社会が教えなくても動物自身に遺伝的に本属するものだ。動物ではまだ自己が発見されずにいてただの意識であるものが、人間ではその高度な反省能力によって自己が発見され自覚されて自己意識となっているにすぎない。動物には自覚されない自我があり、人間には自覚された自我がある。

社会的に変わる自我意識の内容と、人間における動物性に帰属する自我性とは区別しなくてはならないが、どうやら大森氏は区別せず、自我性さえ社会的淘汰の産物であるかのように述べている。「自我も他我も理論概念だ」というのはそういう意味であろう。しかし動物の自我性は社会淘汰の産物ではなく、自然淘汰の産物なのだ。今問題にされているのは自我の実在性の問題だから、問題の本質は人間の自我がそこから由来した動物の自我性の方に存在している。動物から由来する自我性を認めることは、人類によって大森氏的に単なる命題と同一視されている自我の、非命題的な客観的実在性を認めることなのである。

七 他者の意味の現在

「こうして人類の実生活のなかで練られもまれて製作されてきた他者と自我の意味こそ、現在われわれが日常的に実用しているものにほかならない。哲学者が類推説とか行動主義に対して抱いてきた数々の疑問や批判は、この実生活のなかで目立たない形で処理済なのである。例えば、他者の意識を私が自分のものとして経験できないという自明の事実は、現在もなお実生活のなかで保持されている。」【134】

[注24]
結局、他我問題なるものは哲学者たちの空論だったというわけだ。むろん、他我問題の根本であるクオリア問題もなんら解決されずに終わる。

次の第六章「他我問題に決別」の内容はほとんど第五章の繰り返しなので、第六章に現れた初出の内容だけをたどることにする。

第六章 他我問題に決別

一 他我問題小史

[注25]
初出の内容がないので引用もコメントもしない。

ニ 成功しなかった試み、類推説と行動主義

「(心理的行動主義を意味論化すると、ウィトゲンシュタイン的な論理実証主義の命題論となる。)心理学の行動主義が事実のレベルであったのに対して哲学的行動主義は意味のレベルでの話であった。意味のレベルでの行動主義の最大の動機は、鉄壁の孤独を超えて他者の心的経験に対する意味を作成することであった。……その作成方法は……他者の心的経験、例えば腹痛経験に伴う行動(例えば呻くとか腹おさえ)の集合をもって『彼は腹が痛い』という他者命題の意味の定義とする。」【143】
[注26]
「論理的原子論」を主張した前期のウィトゲンシュタインは真理値の概念の創出者であり、実在把握のための唯一の言語的論理構造を主張したが、後期には目的に応じて多くの言語規則があり得るとし、どれもが使用される状況に応じて完結した意味の体系でありうるとした。後期のウィトゲンシュタインの説は実用を旨とするプラグマティズムに通じているが、これがファジイな大森哲学の生れ出た一つの源泉ではないかと想像される。

とはいえ、腹痛を命題集合で置き換えても、それは観察事実をただ言い換えただけであって何も明らかにはなっていない。命題集合でなにが定義されたのだろう? 単に命題が集められただけではないか。言い換えでともかく定義ができたら、それで意味が作成され、事態が理解できたのだろうか? 

三 フッサールの挫折

(1)「『他我問題に悩んだ哲学者としてウィトゲンシュタインをあげるならば、またフッサールの名を落すことはできない。……フッサール自身の言葉によって彼が目指したのは『孤独的自我の意識中における他我の構成の理論」であり、(つまり……)、心身統一態(としての自己)の統覚を、他者物体に<統覚的に移し入れて>、『私の身体機能と同様の機能をもつ身体として構成する』ことである。ところがこの<移し入れ>こそ自己を他者に<移植>することと呼んでウィトゲンシュタインが不可能事とした当の作業にほかならない。(自己と他者の「対化」と「感情移入」によるフッサールのこの長講釈は)、私には彼の試みの挫折を告げる。」【143〜147】

(2)「廣松(渉)はこの挫折の元を遡って『論理学研究』『イデーン』に表明されているフッサールの『意識の志向性』という根本概念にその最奥の病因を探りあてて診断を宣告している。『フッサールの認識論全般のアポリア、従って亦、彼の他我認識論の隘路が運命づけられているのである。これを以ってしては、事の原理上、独我論的な呪いの輪から脱出することは不可能である』(廣松、『フッサール現象学への視角』 1994 142頁)」【147】

[注27]
(1)(2)主観主義哲学の立場に立つフッサールは初めにわざわざ鉄壁の孤独の中に自己を置いたのだから、彼は原理的に他者に至れない。フッサールが挫折したのはその主観主義のためであって、意識から出発した研究のためではない。意識から出発してもそれを客観主義の立場から研究すれば、始めから自然があり社会があり人間がいて、生物学的同類であるからこそ共鳴的に理解できる他者とその心があるわけである。なにもわざわざフッサールのように他者の身体まで構成してその心とその状態を発見するまでもない。「対化と感情移入」論は結局そういうことを哲学用語で難しく述べただけのものだ。それをまたウィトゲンシュタインが「移し入れは移植で、それでは他者の心は理解できない」とするのも、自我と他者を自分の頭の中ではじめから異質なものと前提しているからである。実際は、移し入れでも移植でもなく、同類の動物心理的な共鳴なのである。

大森氏は廣松氏の文章を、あたかも意識にこだわったからフッサールが挫折したかのように、不当に引用している。廣松氏はフッサールの主観主義哲学の立場、すなわち独我論的立場を挫折の原因と主張しているのだ。その独我論は、「いま知覚しているもののみが存在する」という知覚主義者の大森氏の立場でもある。というのも、知覚はさしあたり誰かの知覚でしかなく、知覚主義では、自余の一切はその誰かの知覚に捉えられて存在する他ないからだ。すると知覚主義は事実上、独我論に帰着するしかないのである。
 

四 普通人の易行道

五 意味公理系による意味製作

六 他者命題の思考的意味

七 後顧の弁

[注28]
四・五・六・七には初出の内容がないので引用もコメントもしない。

第七章 主客対置と意識の廃棄

一 主客対置と「意識」の発症

(1)「主観−客観という対置概念は……ある種の悪性概念の病因になって……そこから『意識』という概念が発生し、今度はそこから養老孟司氏の言う『唯脳論』または『汎悩論』とも呼ぶべき奇怪な信仰が、脳生理学という科学的衣装をまとってこの世紀末を横行している……。この臆面もなく『脳が経験のすべてを決定する』という俗信のもとをたどると、意識という中継シナプスを通して主客対置の概念にたどりつくと私には思われる。」【170〜171】

(2)「(私は)『意味製作のシミュレーション』と名づけた進化論まがいの手法をとる。主客対置という一見してしち面倒臭い哲学的概念でもそのもとをたどれば、日常の実生活のなかで製作されてきたものだという見込みのなかで模擬してみる、という手法である。そうすればこのもともとは人間の実生活のなかで働いてきた主客対置の意味が、哲学的思いこみで不当に修飾され歪曲されて過剰に深刻にされ(たことを)察することができるだろう。」【171〜172】
[注29]
(1)養老氏の『唯脳論』に対する私の批判は『新しいパラダイム』の第四章「『唯脳論』という感覚主義」と第五章「大脳の働きとしての『心』」をご参照いただきたい。養老氏は「知覚される対象は感覚器官によって濾過され、脳によって加工されるので脳の外の世界ことは分からない」として、それを「なにか」という言葉で表現する。したがってそれがカント哲学でいう「物自体」と同類のものであることは言うまでもない。つまり養老氏の思想はカント哲学の神経生理学的表現である。だから養老氏は脳という物質を扱っているのではあるが、非常に独我論的な知覚主義・感覚主義になっている。その点では大森氏と同類であり、これは仲間喧嘩というところであろう。

(2)大森氏は、「主客対置は社会的実用の見地で製作され淘汰的に実用化されてきたものにすぎず、そもそも意識も自我も存在しないから、主客分裂による主客対置など実在しない」とする。大森氏はいつも対象や事態を「意味のシミュレーション」という社会実用淘汰論で説明し、それで対象や事態の起源や発生が全て説明し尽くされたとするが、それは知覚主義的に命題と客観的事実を同一視することによって、人類が対象を発見してきた経過と、対象や事態そのものとを混同しているからにほかならない。ここでもそれが現れている。

二 主客の原型、世界と心

(1)「言葉が社会的に作成されつつある時代の普通の生活人を想像してみよう。彼の知覚経験を支配するのは、バークリィが(『視覚新論』で)強調したように、何といっても視覚と触覚だろう。その視覚経験のなかで、現代のわれわれと全く同様に、私が『面体分岐』と呼んだ根本的な分岐があったことは確かである。その分岐とは『何が見えているか』、『何を見ているのか』という観点から根本的に二つの答えに分かれることである。そのひとつは山川草木とか鋤鍬刀剣等の道具類のような三次元立体の事物である。……しかしこれらの三次元事物には必然的に裏側や横側、それに内部というものがあり、それらが見えていないこともまた確かである。それに気づいたとき誰もが『見えているのは実は物の表面だ』と答えないまでも、この答えに同意するに違いない。この二つの答え、つまり自分たちに見えているのは事物である、あるいは知覚正面であるという分岐が、私が面体分岐と呼んだものである。」【172〜173】

(2)「知覚経験を根本的に二分するこの面体分岐こそ、後に主観−客観と呼ばれる対置概念の源泉であり、また原型である、と私には思われる。そして客観の原型として『世界』の意味、主観の原型として『心』または『内心』の意味がそこから製作されたということも、自然の流れではあるまいか。」【173】

(3)「(風景の拡大として「事物の総体としての世界」という意味が発生してくるが、その世界を構成する事物の)三次元立体という形態から空間形態幾何学的概念が発生して、やがてそれが三次元空間の概念にまで拡大されるというのも、うなずけるだろう。この三次元空間の意味が、物の総体としての世界の意味に重ねられて、現代の『宇宙』の概念に近似する『世界』の意味が仕上げられている。この世界のなかの一つの三次元物体として自分の身体が属することは言うまでもない。(この身体のある程度自由な空間移動活動によって)自分の全知覚経験を時間空間的に配列し整序することになる。世界という意味の最大の機能はこの経験の整序にある。この各人の整序された経験によって、異なる人々の間で『公共的に世界を語る』ことが可能になる。」【174】

(4)「こうして面体分岐の一方である事物が公共的世界の意味の製作に導いてゆくのに対して、いま一方の分岐である『物の表面』は『心』という私秘的(プライベート)概念の意味に向かってゆく。……私秘的な経験の総体として『心のなか』または『内心』という意味もいつしか芽生えて成長してゆくということは、容易に理解できるだろう。だが面体分岐の面分岐である知覚正面の経験がこの私秘性を持っていることはみやすい道理である。同じ事物を一緒に見ていても、見えている知覚正面はそれぞれ違っていて、見ている場所を交換すると相手の見ていた知覚正面が見えてくる、といった出来事が頻繁に繰り返されるうちに、知覚正面の経験が感情、意図や思いの経験と同様に私秘的な経験であるという確信が強くなってゆくだろう。そして私秘的な経験の総体が心のなかなのであれば、当然知覚正面の経験も『心のなか』の意味に含まれてゆくだろう。」【174〜175】

(5)「こうして知覚経験の根底を二分する面体分岐の体分岐(事物)は『世界』の意味の製作に導き、面分岐(知覚正面)のほうは『心のなか』の意味製作に導くことになる。ここまでの展開を振りかえってみれば、ただ単に経験を分類して部類分けにしただけであることは明瞭であろう。知覚経験を面体分岐によって二つに分け、次に公共性と私秘性という対比によってその体分岐を公共世界に、その面分岐を『心』に分属させた。ここでなされた分類は分類学でいう自然分類であって、いささかも人為的なところがない。……しかしそれはほんの見せかけで、……ここからそれ以後の人間のものの見方を根本的に歪めてしまったと思われる誤謬が二つ立て続けに起こるのである。」【175〜176】
[注30]
(1)大森氏がバークリーやヒュームの知覚主義に立っていることは、この『時は流れず』の中でたびたび彼らについて言及していることからも察せられる。ここでもそうで、大森氏はバークリーの『視覚新論』に続くものとして『新視覚新論』を著しているほどだ。つまり知覚主義の基本は視覚なのである。

たしかに人間の知覚情報の8から9割がたが視覚であることは間違いない。とはいえ、視覚だけでは対象を定めがたいので、それを補うためにも、聴覚や嗅覚や味覚や触覚などが発生あるいは進化してきたのだった。視覚が対象の情報を面に局限されることは視覚の不充分さを示すものである。だから動物は触覚による重さによって見えない部分のマスを知覚し、臭いをかぐことによって面の奥の見えない部分を察知するなどしているわけである。あたかも知覚が(視覚や一部の触覚のように)面だけに限られるかのように記述して、その面体分岐から「主客分岐」のような根本的な哲学的結論を引き出そうとしてはならない。たとえ知覚主義の哲学内であっても、この哲学的結論は根源的なものであるだけに、知覚の全域を考慮しなくてはならないからである。

それに、人々は視覚や触覚で面を知覚するとき、誰もそれと体とを分けはしない。五官を全て動員して、その面はその体の面だとして知覚している。X線やMRIで体内を調べるのもその一つだ。「いま肉眼で知覚しているものだけが存在する」という知覚主義者の立場からみれば、肉眼で知覚されている対象の表面だけが存在し、奥の体の方は存在しないことになるから、面と体とを分けざるを得ないわけである。「面体分岐」など全く無意味な造語である。

(2)「面体分岐」と主観−客観分岐とは全く無関係である。主観−客観分岐は、自然的歴史的諸条件の相違のため東洋より西洋で一層明確な形を取ったが、それは程度の差にすぎず、自分と世界との区別は洋の東西にかかわらず誰にでも自明なものである。それは生物とその環境との区別から由来するもので、細胞とその環境→生体とその環境→動物とその環境→人間とその環境という諸区別として発展し、人間の抽象的な言葉の概念能力によって主観−客観となったのである。だから主観−客観の区別は自然から来たものであって、人間の知覚の性質や社会的実用性などから来たものではない。

面体分岐から「世界」と「心」の意味が製作されたというのは、全く根拠のない妄説である。だいたい心が存在する前、知覚する人間が出現する以前に、すでに宇宙なる世界が存在していたからこそ、心と世界が別々になったのだ。後で出現した心と、先からあった世界とが区別されるのは、そういう客観的事実のゆえで、知覚とは何の関係もない。

人間は、過去から、父母から、世界から、生み出されて現在の自分が存在する事実を知っている。だから、自分とは別に、自分の心から独立して過去や父母や世界が存在していることを知っている。つまり、そもそも宇宙なる世界が知覚から独立して存在しているからこそ、心と世界、すなわち主観と客観は別々になっているわけである。それは大森氏が否定した過去の客観的実在性を人々が自明のものとして知っているからなのだ。大森氏のように過去の客観的実在性を否定すると、「面体分岐」のような無意味な造語までして主観−客観分岐を説明しなければならない羽目に陥るわけである。

(3)もし大森氏の言葉のように「世界という意味の最大の機能はこの経験の整序にあり、それが公共的な意味を持つ」のであれば、知覚よりも知覚を整序する世界の方に優越性があるとすべきであろう。つまり知覚が整然とした世界を知覚するのは、知覚それ自身によるのでなく世界の客観的秩序によるのだとしなくてはならない。しかし世界が客観的実在でなく、「世界という意味」という表現で言われるような単なる命題的意味であるなら、こういうトリッキーな言い方も許されるかもしれない。

(4)すでに述べたように心は世界より後に世界の中に出現したので、心は自分が世界とは違うことを知っているのである。主客対置は面体分岐などによるのではない。ここで大森氏が主張している「意味のシミュレーション」は全く情けないほど自分勝手な推論である。

(5)彼の思考図式をここでまとめてみよう。

  面→視覚知覚→内心→私秘的→自我→主観

  体→不可視覚→物→→公共的→世界→客観

この大森氏の人為的な思考図式による分類は、果たして自然分類であって、そこにいささかも人為的・作為的なところがないのであろうか。大森氏の言う二つの誤謬については次の段落で触れる。

三 「心の内外」の誤謬

(1)「その誤りの第一は、心の内と外という混乱した対比であり、誤りの第二は、その心に属する物の知覚正面という面分岐が、体分岐である事物の写像であるという根も葉もない虚構である。……(「心を閉ざす」「心を開く」という言い方からみれば、心を何か空き箱のような物入れ容器のように感じられようが)、しかし私秘性だけを徴表にして製作された『心』の意味には、容器に導くものは何もない。だから『心のなか(心の内)』はあってもそれに対する『心の外部』というものは存在しないのである。そこで心の内と外という対称を何とかして作りたい人性の欲求は、(面体分岐の体分岐から製作された公共的三次元世界から)『心の外部』を輸入するに至ったように思われる。」【176〜177】

(2)(その際、公共的三次元世界としての自分の身体の内と外の区別が無根拠に転用され、そこから)外界に対して『脳』を内部とするという最も粗雑な形の唯脳論が発生するだろう。(しかし)実際はおそらく妥協的な道、意味的な断層の食い違いがあるのを我慢して、内外対置を……公共的外界を外にしてそれに私秘的な心のなかを対置するのである。こうして製作された『外部世界−心中」という内外対置こそ客観−主観の原始的構造にほかならない……しかし世界−心の対置がやがて繭を破って主客対置の成虫に生育するには、その『心』が後に哲学語で『意識』と呼ばれることになる怪物的概念に変質してゆくことが必要であった。」【178〜179】
[注31]
(1)ヒュームは『人性論』第1篇第4部第6節「人格の同一性について」で、自我とは変転継起する様々な知覚の束もしくは集合にすぎないとし、「〔譬えて言えば、〕心とは一種の劇場である。そこでは、いくつもの知覚が次々に出現する。……(だが)〔厳密に言えば〕劇場の比較(誤解を招く怖れがあって、この比較)に惑わされてはならない。蓋し心を組成するものは、継起する知覚だけである。〔劇場のように〕数々の場面が演じられる場所の念或はその場所を構成する材料の念は、どんなに朧気であろうとないのである」(岩波文庫 大槻春彦訳)と述べている。ここで心の容器論を否定する大森氏の念頭にあるのはヒュームのこの文章であろう。

両者にみられる知覚主義は、心の客観的実在性を否定することによって、(心と対置せざるを得ない)外部世界の客観的実在性を否定する。知覚主義は僧侶のバークリーに見られるように、そもそも心から独立した客観的物質世界の実在性を否定し、全てを心の中に収斂させる唯物論打破の動機から始まったものだった。ところがヒュームではついに守るべきその心まで否定するに至った。とはいえ、感覚経験の集合は事実上誰かの知覚(いわゆる主観・心)におけるそれだから、ヒューム哲学も知覚主義によって客観的物質世界を否定することで唯物論を打破する機能を果しているわけである。いわば唯物論を打破するために「心」まで捨てたということだ。「心」を保持すると、その対置としての物質世界の客観的実在性を認めざるを得なくなるからである。

さて、心・自我を捨てるということは、そこで知覚が行われる劇場や容器のようなものを捨てるという意味であることが彼らの文章からわかる。それは物質的に、つまり生理学的に言えば、大脳における意識の存在を否定することである。大森氏が唯脳論を批判し、ヒュームが場所や材料を否定するのも、一つはそういう意味である。

だが、自我否定の根拠はこれに尽きるものではない。『脳のなかの幽霊』の中で大脳病理学者のラマチャンドランが自我を否定する仕方をみると、ただそういう物質的容器論だけが自我否定論の全てでないことが分かる。そこには精神的容器論も存在している。というより、自我が大脳に依存していようといまいと、そもそもそこで精神的な出来事が起きる精神的容器としての自我が否定されていたのだった。

一般に自我の実在性を否定する論法には、

@)自我という霊魂は存在しない
A)自我という物質は存在しない
B)自我という機能は存在しない

以上の三つがある。@)は科学時代の現代ではもはや問題にもならない。それにまた脳の機能であるものを実体として探そうとしている。A)は例えば「細胞の中を虱潰しに調べてみたが生命は発見できなかった」という類の論法で、そもそも誤った問題設定だ。以上の二つは脳の機能であるものを物質や霊魂体として探しているわけである。

現代でも意味があるのはB)である。B)の立場で、自我は大脳の中にあるかないかが問われているのだ。それは、(機能としては非物質的という意味で)「精神的容器」としての自我が、果たして大脳の中にあるかないかという問題設定である。

さて、自我の徴表は私秘性だけというのが大森氏、自我は知覚の束、つまり知覚だけというのがヒュームであるが、これらの知覚主義者はそもそも客観的実在世界を認めないという根本的誤謬を犯しているから、彼らが「自我はない」と主張しても、なんら説得力はない。むしろ大脳病理学者のラマチャンドランに自我の存在を否定される方が、科学的根拠があるだけに衝撃的である。

ラマチャンドランが自我を否定するのにはヒンズー教的な文化背景が大きく作用しているが、表向きの論法は、「脳のちょっとした損傷で自我の根拠となる様々な機能が壊れるから、統一的で安定的な性質を持つとされる自我は単なる幻想である」というのが基本である。その他には、脳の中では彼が「ゾンビ」と呼ぶ、自我の意識的操作を受けない無数の自動装置が働いているということ、また自我なるものがあるなら、それが視覚を通して脳内のスクリーンに映し出される外部の映像を見ているということになるが、そうすると脳のどこかにスクリーンがあって、そこに像が表示されるという論理的錯誤が起きるということ、などが挙げられている。彼は102ページで次のように述べている。

「もしシャンペングラスの像が内部の神経スクリーンに表示されるとすれば、その像を見る小さな別人が脳のなかにいなくてはならない。それにこれでは解決にならない。その小人の頭のなかにも、表示された像を見る、さらに小さい別の小人が必要で、その小人の頭のなかにも……と際限なくつづくからだ。眼、像、小人と、いつまでもぐるぐるまわるだけで、知覚の問題を本当に解決することはできない。」

私はラマチャンドランの論法には説得力がないとして、『脳のなかの幽霊』に対する書評欄で詳しくその理由を述べた。それを略述すると、

第一に、ラマチャンドランは脳の異常状態で起きる事態から脳の本来的機能を判断しているが、脳の病的状態は脳の正常態でないのだから、脳の異常状態で起きている現象に対する知識はどこまでも正常な脳の理解のための補助的な知識にとどめなければならない、つまり、異常な脳で自我が揺らぐとしても、それで正常な脳内の確固とした自我の存在を否定することはできない。

第二に、(自動装置である抗体反応が生命の主体性と矛盾しないように、また自動装置である官僚組織の存在が政府の主体性と矛盾しないように)、脳が内部に無数の自動装置を持っていることはなんら脳内の自我の存在を否定するものでなく、生物が環境適応するため、つまり脳が環境認識効率を高めるために進化史的に内装した機能である。

第三に、ラマチャンドランの「小さな別人の脳の無限後退論」は反論にならない。というのも、彼は脳内に小人を想定する時、その小人にも脳があるかのように記述しているからである。そういう想定をすると、当然、脳の無限後退論が起きてしまう。しかし脳内の小人は一人であり、それが自我である。それはもはや物質ではなく、脳の機能としての自我なのだ。その自我はその自我性をもたらす物質的構造根拠を最終的には神経細胞内のDNAの自我性に持っているが、それはラマチャンドランの言う自我のなかのもう一つの自我というものではない。

DNAはその自我性を、二重鎖の鏡対称性に持っている。鏡がもう一つの鏡で自分を映し出すとき、そこに無限の反復的循環が起きるが、自分をもう一つの自分に映すDNAの鏡対称性が、永遠に自己が自己に帰るという自己目的性をもたらし、それが自己性を根拠づけているのである。そういう自己性が脳の神経細胞を経て情報化され、意識、自己意識、自我となる。

一般に自我を否定する場合、「自我とはいつも統一的で安定的なものでなくてはならない」という前提があって、「そういう性質のものは脳内に存在しない、したがって自我は存在しない」という論法が展開される。それは、「どこでもいつでも存在しないものは客観的実在でない」とか、「絶対時間のように、どこでもいつでも一様に流れていなければ時間でない」とか主張するのとよく似ている論法である。

すでに[注15]の(4)で説明したが、たとえあなたが宇宙の中で、ほんの一時的に、宇宙のほんの一部である地球上に、ほんのたまたま生きているとしても、それでもあなたが紛れもなく客観的実在であるように、いつでもどこでも存在するもののみが客観的実在なのではないし、、またニュートン的な「絶対時間」が存在しなければ時間というものが存在しないのでもない。

それと同様、自我や意識が脳内で揺れ動く特定の神経インパルスの流れにすぎないとしても、それでも脳という安定した構造がその神経インパルスに定常性を与えて、自我の安定性を支えており、脳と脳細胞の物質的・遺伝子的同一性が自我の統一性を与えているわけである。その自我が知覚を行い、情報を整理し、計画を立て、意志決定をし、喜怒哀楽している。それが日々我々が鮮明に自覚しているみずからの自我である。この自我は脳が死ねばむろん消失する一時的なものだが、それでも客観的に実在する自我なのだ。

(2)心と身体、心と世界の内外対置がプラグマティックな私秘性と公共性に基づくものでなく、またそういう対置が主観−客観対置の根拠でもないこともすでに明らかにした。大森氏の意識論については次の段落で論評する。

四 「心」から「意識」へ

(1)「(「心」が「意識」に変態してゆく)第一段階として『心』がまず『私の心』であることを顕在化しなければならない。意識というかぎり、それは何よりも『私の意識』でなければならぬからである。……ところが(この自明な)『私の心』が勢い余って妥当な一線を踏み越えて『内心』という意味を背負わされてしまうことがある。それは、……やがて「私の心』は私の身体の内部にある『内なる心』であると想定されることになって、身体の外にある外界に対する、身体内部(の頭蓋)にある『内心』として内外対置を完成させてしまうに至る。」【179〜180】

(2)「ここまでくればこの『私の心』に外部世界が写像ないし投影されるという考えが付け加えられて、それが哲学風な『意識』という名前で呼ばれるに至る事情は、誰の目にも一目瞭然であるだろう。……そこで『私の心』という実生活中の平凡な日常的な意味が変態して『意識』という奇怪な意味が生まれるのに中心的な役割を果たすのは知覚経験、それも外界の知覚経験であることは見やすい道理である。そしてその知覚経験には外界と内心という内外対極におあつらえ向きの面体分岐の構造がでんと構えている。」【180】

(3)「三次元物体、例えば椅子とか人体とか桜の樹とかという立体形の意味が、そのある視点からの『見え姿』である知覚正面の無限集合として製作されている。……だがこの正常な定義関係を病的に誤解、曲解するところに『意識』の意味が発生する。すなわち、ある立体形事物の知覚正面をその事物の写像(表象)であるとする曲解である。つまり、無限集合の要素のそれぞれをその集合の代表象であると誤解する。そしてその代表象を外的事物の『意識』であると考えるならば、ここに外部世界を意識する内的な意識という意味が誕生することは、むしろ自然の理であるといえよう。」【181】

(4)「主観−客観対置の二元論をとる哲学者はすべて、……外部世界が意識主観に投影または表象される(意識される)メカニズムが何かを問わざるをえなない。(そしてエピクロスのエイドロス説やデカルトの松果腺説などのような))現在では嘲笑されるのが当然のお粗末な答案をだしている。……現代生理学もこのデカルトの答弁の原型に忠実な、ただ一層細部に詳しい経路を探索中である。そしてデカルトの場合と全く同様に、では松果腺や大脳皮質の状態がいかにして表象その他の心的機構に転化するか、という最終的難所に当惑している。」【182】

(5)「だがこの超えがたい難所は、実は面体分岐の定義的関係を外界−意識という実在的で因果的関係に曲解する誤りが生んだ幻の難所なのである。……表象とは三次元立体の定義的要素にすぎず、そこに何かを問う問題は初めから存在しないのである。椅子という三次元立体の意味の要素としてのその知覚表象は初めからそこにあるのだから、そこに至る経路などは初めから無意味なのである。」【183】

(6)「主客分断は事実でない。(知覚も記憶も恐怖も意図も外界との関係だ。)要するに意識に属する(『私の心』に属する)経験はほとんどすべてに外部世界が参入しているのだから、感情や知覚が意識主観に内在することにはならない。外界から切り離されて意識内部に閉じ込められた経験などは、事実として皆無なのである。……すべてが初めから主客未分であり主客合一だった。この事実としての主客融合を見誤って主客分断の妄想を生んだのは、主客対置の考えだったのである。その……妄想の源となったのは、心的経験はすべて私の心のなかだけのことだと勘違いして、それに外部公共世界を対置した実生活での誤解である。……知覚経験を主観に映じた客観の像と考えた西洋哲学の根源的な誤りこそ、主客対置の犯した原罪である。」【184】

(7)「主客未分とか合一とか言うこと自身、すでに主客対置の呪縛に与している。主も客もない、一切の分断がまだ生じない原始の混沌こそわれわれの経験の始原である。……始原の闇のなかにまだらに濃淡が生まれる。……そこからやがて森羅万象が区分されてゆき、その薄暗がりのなかにそれらの事物の三次元立体が見えてくるとともに、その立体形に伴う面体分岐が気づかれるようになる。その面体分岐を誤解して生まれた主客対置に同伴して、『主観に映じた客観の像』という二元論の原罪が犯されたのである。」【185】

(8)われわれの経験には外界の事物が直接にじかに登場しているにもかかわらず、表象や観念という間接像を通してしかわれわれは世界に接触できない(という)この世界と自我との分けへだての発生源(説)がこの二元論の構図であり、ひいてはこの構図を生んだ主客対置なのである。(カントやフッサールはともに『表象を通して』事物を再構成し、それによってこの二元論を治療しようとしたが、その必要はない。)……ただ哲学的であることをやめ、面倒な主客対置などはどぶに投げ棄てて、日常の実生活にもどりさえすれば、懐かしい外界の事物が昔どおりにわれわれの手の届くところにちゃんとあるからである。家具や人体やペット動物、それらにわれわれは直接手に触れ直接視覚的に触れている。それらは表象でもなければ観念でもない。ましてやニューロンの発火などでは絶対にない。……われわれの日常経験の事実、生の事実なのである。」【185〜186】

[注32]
(1)誰も「心」を考える際、自分の心だけを考えはしない。父母や隣人の心だけでなく牛馬や鳥たちの心さえ考える。「心がまず私の心であることが顕在化しなくてはならない」というのは知覚主義者の誤りだ。というのも、私は私以外のものと対比してこそ私に発見されるからである。私の心は他者の心とともに顕在化する。始めから他者とその心の存在を人々は知っているから、自分の心の外部にある他者とその心および自然や社会の客観的実在性を知っている。なにも私の心→内心のコースを経て他者を含む外界の概念が形成され、内外対置を完成するのではない。

(2)心と世界は別だから、知覚としての意識は外界の反映なのである。知覚経験は正しく外界と意識とを区別している。それは大森流の作為的な「面体分岐」と関係するずっと以前に、それ自身として主客対置を正しく形成する。

(3)ここで大森氏は根本的な自己矛盾の誤りを犯している。そもそも面と体はそれぞれ可視と不可視という質的に全く違うものとして、面は内心・私秘的・自我・主観と、体は物・公共的・世界・客観と連なるものだった。つまり体は面をいくら集合しても形成できないという論理だったわけである。両者にいかなる掛け橋もないからこそ、それが主観−客観分離につながったのではなかったか? 

ところが今度は面の無限集合が体であるという。そして「意識」が単に面であるものを体の一部として意識するのは、無限集合とその要素的部分とを混同した結果だという。つまりこの「混同」を示すために一度は面と体とを原理的に異質としながら、今度は面と体の間には「親密な関係がある」(181頁)としたわけだ。面と体にそのような親密な関係があるなら、互いに敵対的なものとして「面体分岐」を主張しなくても良かったわけである。全く勝手な論法だと言う他ない。

意識は面の無限集合としての立体の一面を捉えているのではなく、もともと面から構成され得ない立体物の表面としてそれを捉えているのである。そもそもこの世の中の誰が面の集合として立体物を知覚しているのだろう? 一体この宇宙のどこに面から構成された立体物が存在するのか? だから意識は自分の外に実在する立体物の表面を知覚しているのだ。それを曲解だという方こそ曲解しているのである。

(4)外部世界が意識主観に投影される経路について最終的難所に当惑していると言いながら、同じ章の190ページでは、PETやMRIなど最新の器具の助けで外部の事物から内部の脳へ至る経路はどんどん精細になっていて、「そこには始めから問題はない」などと言っている。それに、知覚主義者には知覚が始めであり終わりだから知覚がどのようにして起きるのか、その起源について原理的に問うことさえできない。もし感覚器官が客観的対象を知覚していることを認めれば、知覚から独立した物質世界の存在を容認することになり、知覚主義はそこで崩壊するからである。にもかかわらずその起源のメカニズムを問う努力、つまり知覚器官と知覚対象との相互作用についての研究を嘲笑している。

(5)何も超えがたい本質的な難所などはない。もし難所があったとしてもそれは面対分岐とは全く関係なく、ただ、今のところ大脳生理学がその段階にまで進んでいないというにすぎない。つまりいずれ突破できる難所でしかない。

それに、「感覚の起源論など始めから無意味だ」という意味のことを言うのは、知覚主義では「感覚は始めからの所与だ」とするからである。経路などを認めれば感覚器官と感覚対象の実在性を認めざるを得なくなってしまうから、それを避けるために、感覚は無条件的な所与としての出発点になっている。そして表象を対象の表象ではなく人間の定義や言語にしてしまう。これは自分たちの非力や無能力を示すものに他ならないのに、「初めから無意味だ」と開き直っているわけである。

(6)ここで大森氏がいかに哲学を知らないかが露呈している。主客分断と二元論は別ものである。唯物論は一元論だが、意識と対象、主観と客観を区別している。つまり意識の外部に意識から独立するものがあるとする。それは世界が意識と同一視されて意識の産物とされるのを防ぐためである。だから知覚・記憶・恐怖・意図という主観の心的機能が外界と関係していることと、「主客分断は事実でない」という言明とは無関係である。主客分断を認める唯物論も、主観の心的機能が外界との関係であることを認めるからである。

大森氏はあたかも外界が存在し、それを知覚が経験しているかのように述べているが、結局、その外界も主客未分化・主客合一の外界でしかなく、そうなれば知覚から独立している外界などではないわけだ。とすると、結局、それは感覚内部の世界であって外界ではないことになる。したがって、(事実上、心と知覚がともに主観の働きであるため)、大森氏の言葉とは裏腹に、「心的経験はすべて私の心のなかだけのことだと勘違いしている」のは、主観主義的な知覚主義の立場で主客未分化・主客合一を説く大森氏自身なのである。かえって主客対置論者の方こそ、心的経験と対象世界とを「対置」という仕方で相互に関係させているのだ。むろん「知覚経験を主観に映じた客観の像と考えた西洋哲学」は正しい。そこに原罪など存在しない。

(7)主客未分や主客合一によって主客対置を否定すると、そこには混沌しか残らないことがこれでよく分かる。混沌は「いま知覚しているもののみが存在する」という知覚主義に特有のものだ。というのも、知覚主義者の今は過去や未来とは本質的に無関係で、今の知覚は一瞬過去や一瞬未来の知覚とつながらず、本当は同一対象に対する連続的な個々の知覚であるものも、同一対象に対する知覚であると判断できないからである。現にヒュームは連続的知覚を認めない。それを認めればその時かぎりの知覚から独立して持続的に存在する客観世界を認めることになるからである。となれば、その時々の雑多な知覚しかなく、混沌が始原となる。したがって知覚主義は混沌と矛盾する法則なるものはなんであれ決して認めないわけである。

(8)大森氏の現在経験が彼にとっていかに生き生きと躍動的であっても、過去も未来も命題としてしか存在せず、しかも時も流れていないのでは、それがどういうわけで生き生きとした懐かしい外界になりうるのか、さっぱり分からない。過去が命題だとしてその客観的実在性を否定するのは、今ある自分を育ててくれた人や物への忘恩忘却であり、また人は希望なくして生きられないが、希望すべき未来が命題でしかないなら、そこから希望なるものが生まれそうにない。直接的に触覚され視覚されている彼の現在だたいまの世界も独自の生きた外界ではないので、この「生の事実」はつまらない。

哲学をやめてしまうのは確かに魅力はあるが、それでは問題の放棄でしかなく、知的良心が疼いてしまう。

ところで、外界の事物が知覚でなければ、それは人間の表象か観念なのだろうか? それは人間の知覚からも表象からも観念からもニューロンの発火からも独立な外界の事物ではないだろうか? 

五 主客対置の後遺症としての脳

(1)「主客対置という二元論の構図が害を及ぼしたのは哲学だけではない。(ガリレイとデカルトの記録で明らかなように)、現代科学のいわば発祥の地である西ヨーロッパ一六世紀の科学革命自身が、この二元論の骨格を必要としたのであり、……そして現代の脳生理学こそ、この二元論の化身と言って差し支えあるまい。……主客対置という概念枠の主軸は『主観に映じた客観の像』である。哲学者はその映じるメカニズムについては探索能力を欠くゆえに、……そこで科学者が客観反映のメカニズムの科学的探求にとりかかるのは当然至極のことだった。」【187〜188】

(2)「この現代にまで続く科学作業もまた一貫して主客対置の思考枠で支配されている。われわれが外部にある事物と接触するには、その外部から内部である主観に流入する何かによってのみ可能だ、という哲学者を支配したのと同一のマスタープランである。……ではその外部から肉体の内部に流入するものは何であろうか。味や匂いの場合は固体・液体・気体状の物であり、耳に入るのは気体状の音であることは自然だろう。目に入るものを考えるのは少し難しい。眩しい光のような場合は「光」であろうが、さまざまな事物の識別的認識のためには例えばエピクロスの『映像』(エイドロン)のような工夫が必要であったことはうなずける。……そしてここに上に述べた面対分岐がおあつらえむきに登場する。……(網膜像では実像が倒立し縮小されているが、その後、機能主義によって像が実像と機能的に同型であれば良いということになり)……こうした事情の下で、面対分岐の意味関係を誤解して、客観的事物としての体分岐と主観像としての面分岐を採用するのは全く無理のない道筋であると思われる。」【188〜189】

(3)「しかし……脳生理学に開かれた展望は同時にその致命的な罠でもあった。外部にある事物の手がかりとして意識内部の像を考えることは同時にその像と事物とを分断してしまうことであり、実物の手がかりとしての像の機能を破壊してしまうことになる。こうして主観内部の像から外部客観の実物に至る道が不可能になってしまう。」【189〜190】

(4)「大脳皮質のある領域に『実物の像』に当たる脳神経の状態Sをいくらでも精細に描写することは、PET、MRIその他の最新の器具の助けでどんどん容易になってゆくだろう。……しかしこれは外部の事物から内部の脳への経路であって、そこには初めから問題はない。問題はその逆方向の経路、すなわち像である脳状態Sから外部の事物に至る経路なのである。この経路に沿った因果的連鎖を現代科学で考えることは不可能だろう。……なるほど生理学者や認知心理学者は、この脳の状態が立体のあらゆる情報を含んでいて、それらをSrとSlから計算したりコンピュータのなかに実験的に構成できることを、見事な実験で示した(例えばランダムドット図形や立体視装置)。しかし問題は、(コンピュータ内ではなく)、SrとSlがわれわれ生き身の人間の視覚経験を産出、しかもオートメ的に産出できるかということである。経験とは痛い経験での耐えがたい痛みそのものであって、痛みの情報などではない。何億ビットの情報があっても、痛覚ニューロンがいかに興奮しようとも、それらは痛みやかゆみの経験そのものではない。……脳から外界経験への道は遮断されて通行不能なのである。そして遮断したのは(主客対置を行った)われわれ自身にほかならない。」【190〜191】

[注33]
(1)大森氏が主観−客観図式を二元論と混同している誤りについてはすでに指摘した。脳生理学はなにも二元論などではない。脳の働きによって精神作用を説明しようとするから、どちらかといえば唯物論的な一元論の立場なのである。知覚主義という主観主義的哲学の立場にある大森氏にあっては、どういう形であれ客観的対象を認めるのは、主観的知覚とは別のものを導入することになるので、それで唯物論まで二元論と言っているのだが、哲学で言う本来の二元論は、精神的実体と物質的実体とを相互に無関係なものとして立てる立場を言うのである。二元論を攻撃するのは良いとしても、それを主観−客観図式と混同して、両者をともに攻撃するのは論理的誤謬である。ところで、主客対置は正しいので大脳生理学のアプローチもむろん正しい。

(2)知覚主義者の大森氏は感覚・知覚の起源を原理的に問えない立場にいる。つまり感覚対象と感覚器官との相互作用一般を無視し嘲笑する。そして、光にしろ音にしろ微粒子にしろ、外部の何にしろ、それが人間の感覚器官を刺激しているということを認めない。それを認めた途端、感覚とは独立して存在するものを容認する他なくなるからである。とはいえ、我々の五官による日常的な知覚体験をこのように否定する理由が何であるのかさっぱり理解できない。

そういう不自然な理屈をあらゆる無理を顧みずに主張しようとする目的は一体何なのであろう? 百年前までは唯物論から宗教を守るという動機はあったが、現在ではそういう動機も見当たらない。一部の物理学者の間では「人間の意識が宇宙をあらしめる」という量子力学の「強い人間原理」を主張しているケースもみられるが、それも「宇宙は人間を生み出すために存在する」という「弱い人間原理」や通常の唯物論的解釈と並ぶ一つの解釈にすぎず、その解釈を選択する哲学的動機は別にあるようである。おそらくそれは、「物質による意識の拘束をいかなる形でも認めたくない」という主観の絶対自由主義(究極のエゴイズム)の哲学的動機と思われるが、大森氏の場合もそうなのかもしれない。しかし人間の身体とその脳が物質であるかぎり、それは虚しい願望的空想にすぎない。

(3)「外部にある事物の手がかりとして意識内部の像を考えることは同時にその像と事物とを分断してしまうことだ」という意味は何なのだろう? それは「意識内部の像ばかり見てしまうから、外部の実物を見落とすことになる」という意味だろうか? もしそうなら一体大脳生理学者の誰がそのような見落としをするのだろう? 意識内部の像が意識外部の事物の像であるからこそ、その対応関係を大脳生理学者は研究しているのである。決して意識内部の像を研究することで、意識内部の深い井戸の中に落ち込むわけではない。

それに、一体「外部にある事物の手がかりとして意識内部の像を考える」者がこの世界のどこにいるのだろう? 逆に意識内部の像こそが、外部にある事物を手がかりにして構成された像ではないのか? 大森氏がこのような言い方をするのは、彼には知覚による主観の世界しか存在せず、外部にある事物は主観的知覚によって存立せしめられる二次的なものだからである。

そういうわけで、大脳生理学者は像と実物を分断してしまうこともなく、実物の手がかりとしての像(?)の機能を破壊してしまうこともない。「主観内部の像から外部客観の実物に至る道」については次の段落で論評する。

(4)「外部の事物から内部の脳への経路については初めから問題ない」というのは、おかしい。これは知覚主義の命運がかかった感覚の起源についての論だからである。つまり先に大森氏の無視し嘲笑した光・音・微粒子などによる感覚器官への刺激論なのだ。ところが大森氏は話の方向をここで一転して、脳から外部の事物への経路を問題視している。これはすなわち知覚は再現できないというあのクオリア問題である。第一章では、知覚が再現できないものだからこそ、過去は言語だとされ、その客観的実在性が否定されたのだった。

しかしこの問題はすでに[注1]などで論破しておいた。磁気ヘルメットでクオリアは再現できるのである。ここで『脳のなかの幽霊』(角川書店 山下篤子訳)からラマチャンドランの文章を引用してみよう。

「問題は私があなたに、つまり盲目の大科学者に、私のクオリア(赤を見るという体験)のことを告げるのに、話し言葉を使うしかないということだ。言葉で表現できない『体験』そのものは翻訳のときに失われてしまう。赤の実際の『赤さ』は永久にあなたに届かないままだ。だがもし私が、コミュニケーションの媒体としての話し言葉を省略し、私の脳のなかの色を処理する領域と、あなたの脳の色を処理する領域を、神経繊維で直接つないだらどうなるだろうか。……神経繊維は色の情報を、私の脳からあなたの脳のニューロンに、翻訳を介することなく直接にとどける。これはありそうもないシナリオだが、理論的に不可能なところはない。……このシナリオは、クオリアを理解するには超えられない障壁があるという、哲学者の議論を打破する。……現在では磁気刺激装置という(変動する強力な磁気で、神経組織をある程度の精度で活性化させる)装置で、彼らの脳の小さな部位を直接刺激することが可能である。」(292〜293ページ)

その磁気ヘルメットによれば、あるいは直接に神経繊維をつなげば、いずれ他者の、あるいは自分の過去の痛みも恐れもそのまま再現される。未来SF映画「トータルリコール」の中で主人公は現実と区別できないバーチャル世界での火星旅行を楽しもうとし、映画「マトリックス」では現実と区別できないバーチャル世界でのアクションが展開されるが、いずれそういうことも可能になるであろう。そうなれば脳から事物への経路もすでに解明されているわけである。だから「脳から外界経験への道は遮断されて通行不能なのである」という大森氏の結論は間違っている。磁気ヘルメット法や神経繊維連結法はまさに主客対置の科学的研究によって達成されるものだから、その遮断をむしろ克服しはすれ、遮断を帰結するものではない。

六 主客対置の破棄撤回

(1)「では主客対置を撤回すれば何が起こるというのか? 何も起こらない。もとの静穏な事態が復原されるだけである。……われわれの経験の所与としての面体分岐が明瞭に視界のなかにその姿をあらわす。そしてそこには脳生理学の治療不可能の宿痾であった外界物体の認識可能性が直下に見える。すなわち、知覚風景としての面分岐は立体的事物の意味である体分岐の構成要素として始めから意味されているゆえに、知覚風景を持つことは即ち立体事物を認識すること(の少なくとも一部)にほかならない。それゆえ、無理に外界から意識内部への作用流入を追及して脳の研究を始めたり、脳状態から外界への逆経路の不可能に悩んだり、簡単に言えば脳生理学の一切が不要になる。脳のことは一切全部忘れて静かな経験に安住できることになる。」【192】

(2)「(先人が二千年にわたって営々と築きあげた哲学と脳科学を徒労としないための)もくろみがひとつ私にはある。それは……主客対置から解放した原初的経験の上に重ねて脳生理学の知見を(「重ね書き」で)描きこむのである。……粗大で感覚的な原初的経験のマクロの描写の上に、細胞から原子や光子に至るミクロの科学的描写を重ねて描くのである。……実際、この重ね描きは、ここ三百年来の科学史の事実を圧縮して表現したものにほかならない。」【193〜194】

(3)「この重ね描きの構図では、脳から外界への経路などの問題は始めから起こらない。脳は初めから外界の一部として細部描写されているからである。さらにこの構図は、『自我』の概念から『意識』という不純な要素を追い出して本来の実生活的意味を復元するだろう。」【194〜195】

(4)「主客対置の文法的表現というべき『私はXを見る』といった主語−動詞−対語の三分節に惑わされて経験のなかにありもしない分断を持ちこむことをやめる。この三分節は多くの身体運動には適切であったが、それを心的経験にまで不当に拡大したところから西洋哲学の最大の災厄が生まれたと言えまいか。心的経験の全体をそのまま『私はXを見る』で表現して、それ以外の分断を拒否することが、実生活での『私』の意味に復原することであり、外部自然と私とが切れ目なしに地続きとなっている経験に、人為的な乱れを与えないことである。そしてこの無垢な経験を、実生活の言葉で描写した上に、科学者が獲得した科学的細部を描き加えたものが、上に述べた重ね描きにほかならない。」【195】

(5)「この重ね描きを採用するならば、脳による外界のオートメ産出という、この世にあり得ぬ怪物は消滅し、それとともに哲学の心身問題という遺伝病とも縁が切れるだろう。そして失うものはわずかである。主観−客観の対置、それから派生した意識という有害無益な概念だけが失われる。」【195〜196】
[注34]
(1)主客対置を撤回すれば、大森氏が185ページで言った「原始の混沌」に回帰する。そういう混沌の中で外界物体の認識可能性など見える筈がない。そうなれば静穏ではなく混乱が起きるだろう。

それに、大森氏は再び以前と違ったことを言っている。そもそも「面体分岐」からみて、面的な知覚風景と立体的事物とは質的に異なるものだった。その絶対的異質性が、私秘性と公共性、心と事物、自我と世界、主観と客観との区別の原因とされた。

それにまた、面は立体の面だという同語反復の定義で一体何が明らかになるのだろう? それが脳生理学のありもしない宿痾を癒し、主客対置を廃棄できる論理になるのだろうか? 

大森氏が、「無理に外界から意識内部への作用流入を追及して脳の研究を始めたり……」と言うのは、知覚主義者には知覚が根源的所与としてあり、それ以上遡ってなぜ知覚が起きるのか研究する必要はないという意味である。確かにそうなれば一切の脳生理学は不要になるであろうが、それでは脳や世界や人間について何も分からないまま無責任に放置することになる。 

(2)そもそも大森氏はすっかり誤解しているので、彼が「徒労」を心配してわざわざ処方箋を提案する必要などどこにもない。それは彼だけの杞憂に過ぎない。「重ね描き」というのは、とどのつまり原理的に異なるものどうしの折衷である。大森氏にとっては「混沌」が真実で、あとは全て言語であり科学物語りにすぎないのだ。つまり一切の科学的営為は混沌に付加された異質な付録にすぎないわけである。科学の歴史がこういう見方でこの三百年を進んできたとは到底思えない。

(3)「重ね描き」は、主観的知覚に、非客観的な単なる「物語り」と解釈された我々のこの物理的な世界を重ねたものだから、大森氏のこの物理的な世界は知覚の外に独立してある外界でない。むろん脳もそうである。だからあたかも外界の存在を認めているかのような大森氏のトリッキーな言い方には十分注意しなければならない。この外界は客観的な外界でなく、主観的知覚内部の「外界」なのである。

ということは、真の外界ではない。そういう脳が、初めから外界の一部として細部描写されていれば、初めから知覚の内部にしかなく、したがって内部の脳から内部の外界への経路があるだけだから、なるほど脳から外界への経路などの問題は起こらない。だが、それでは「何を言っても勝手」ということになってしまい、事実上脳生理学そのものが不必要にされるわけで、これではなんの問題の解決にもならない。またそういう勝手な脳生理学によって、どうして脳が初めから外界の一部として細部描写されてあるのか、さっぱり分からない。

(4)この文法論については次の第八章でさらに詳しく展開されているから、そこで論評する。

(5)「重ね描き」は大森氏によれば従来の科学的方法と伝統的に同じなので、それによっては心身問題や主客対置という遺伝病から自由になれない筈である。それに、磁気ヘルメットや神経繊維接続の方法によって、いずれ脳による外界のオートメ産出はこの世に実現する。

第八章 「意識」からの解放

一 意識の身元調査

[注35]
単なる導入部なのでコメントすべき内容がない。

二 世界−私、の分極と「意識」

(1)「何かの風景が見えているとき、(見ている私と見えている外部世界という)思いが歴然としてある。しかしこれがその私だと指させるわけではなく、『見る』とはこういうことだと言下に説明できるわけでもない。それなのに「私は……を見る」、「……が私に見える」という文法形式だけがひとり歴然としている。その歴然とした文法形式が表現するのが掴みどころのないカオス的経験であることを認めないわけにはゆかない。ではいったいどうしてこのカオス的経験を表現するのに主語−述語−目的語、と明確に三分節した命題形式が使われているのか。……私の憶測では、次のようになる。」【199〜200】

(2)「Xが見えている、というカオス的経験を生じさせる先行的動作がある。それは『Xに目を向ける』という身体動作であるが、『Xが見える』という経験を他人に伝達しようとする人が、その直接表現がまだ確立していないときにはこの先導的身体動作を表現する『私はXの方に目を向ける』という先導的表現で代用するということは充分考えられる。その後にカオス経験を単独に自前に表現する命題が近似的に製作されるときに、この先導命題の三分節構造に沿って『私はXを見る』(I see X)』という形を採ることになった。そしてこの憶測を、聴く嗅ぐその他の知覚モードに平行的に拡大する。」【200】

(3)「こうして三分節の近似表現が言語社会に普及していってほぼ確立したならば、そこから『私』という主語抽出が行われると考えるのが自然だろう。……その結果、身体動作と知覚表現との二つの主語抽出が平行的に生起して、身体動作のエージェントである『私』と知覚経験の主体としての『私』が並ぶことになる。しかし、……『見ながら手を組む』などといった、動作と知覚経験が同時的に接合した『ながら経験』は、……いわば『心と体』を融合させるほうに働く力が作用して心と体が離反するのを妨げるに違いない。その結果、身体動作の『私』と知覚経験の『私』とが融合して一人の『私』になるには、……数万年あれば充分だろう。この動作する私と知覚する私の融合に納得できるならば、知覚とそれ以外の思考、意図、感情といったコギト経験が統合されてコギト全般の『私』が抽出されて動作の私と一体になる、ということの納得も容易だろう。」【200〜201】

(4)こうして各種の人間経験の中にいわば陰伏的(インプリシット)に潜在していた自我が『私』という顕在的(エクスプリシット)主語として製作されるに至る。この主語としての『私』が経験に陰伏する自我極ともいうべき緊張を、近似的にではあるが顕在化して、頻繁で多様な使用を重ねてゆくとき、やがて私が『語り存在』と呼んだ、数学的存在(自然数、直線、円周率等)や理論的存在(遺伝子や原子核等)、それに社会的存在(政府、山口組、東芝、東大等)に類同する存在性を獲得するに至る。」【201】

(5)「さらにこの『私』という意味製作の線上に『心』というこれまた把握に苦しむ概念の意味製作がある。常識の意味する『心』は大体のところ、(デカルトの『コギト』と同じく)知覚、思考、感情、意図などの経験を含んでいる。この様々なコギト経験のグルーピングは何かの原理、心とはこういうものといった原理が先にあってそれに導かれて集められたものではないだろう。そんな原理などは誰も思いつかないからである。ただ無作為に自然にコギト経験が(おのずから類を以って)合流したもの(を)……『コギト』と呼び『心』と呼ぶことになった。いや、『心』のような単一の実体を思わせる呼び名はやめて『心的経験』、あるいはその意味での『コギト』と呼ぶほうが安全であろう。」【202〜203】

(6)「この『心的経験』にこそ、これまで二千年余りにわたって蓄積されてきた認識論の錯雑をきわめた概念装置を一挙に単純化し透明化する鍵が蔵されている。上に述べた『私』という自我極が主語抽出によってこの心的経験から顕在化するのに伴って、その極に対応する『世界』の極が水の流れのような自然さで顕在化してくる。……それが世界−自我の基軸的な分極にほかならない。……『私はXを見る』(I see X)』……という言語文によって表現されるとき、この世界−私、の分極が明白に定着されて、(もともとの主客未分状態の)この知覚風景をその分極線によって構造化する。『ここ−あそこ(向こう)』、『近い−遠い』といったパースペクティブもこの構造化された風景のなかでの副生物である。」【203】

(7)「これらの世界−自我分極とそれに伴う様々な展開は、哲学や科学以前の日常の実生活のなかで言語を指標としてなされてきたと思われる。その展開の始原となるのが心的経験であって、その始原的経験をいかに配列しいかに整序してゆくか、あるいは組織だてるかが哲学と科学の作業であるが、この作業もまた実際的日常的な人間生活のなかで生存する人間全員の参加のなかで始められた。現在哲学問題として哲学者を悩ませている、自我、時間、価値、死、等々はおそらくはこの実生活の初期にすでに製作された基本概念であると思われる。……したがって不可避の偏見になっている。それらの製作を人類の初期生活にまで遡って復元し修復することが現代哲学の業務ではなかろうか。『意識』という概念がいつ頃発生したかを知るすべはないが、その毒性の強さからしてかなり古く、農耕の始まりあたりまで遡るのではあるまいか。しかし、心的経験というその発祥と成長の場に戻してみると、この概念がいかに事態を歪めているかが歴然としている。」【204】

(8)「心的経験の基本的性格は上に述べた世界−自我分極を内蔵していることである。それを一面から言うと、心的経験は世界でもあり自我でもある、ということである。……だが世界−自我分極が主題化され顕在化される以前には、心的経験のなかでは自我と世界が分別し難く融合していることは事実である。意識という概念はこの事実を無視するというより逆にねじまげている。意識を自我の側に独占的にひきよせたうえに、世界の写像というありもしない二重写しをこじつけているからである。……意識という意味は自分で裁縫した自閉的拘束服ではあるまいか。そのなかに自分を閉じこめて世界への直通通路を遮断し、世界の写像ですべてをバーチャル化するという呪縛のシンボル概念のように思われる。」【205】
[注36]
(1)「これが私だ」と指させるものがなくても、それで私の客観的存在を否定できるものでないことは、[注31]の(1)に詳しく述べておいた。「見るとはこういうことだ」という視覚の生理学的過程も基本的にはほとんど解明されているといっていい。大森氏にとっては、見る、聴く、嗅ぐなどの知覚状態のとき知覚は主客未分で、自分も対象も混沌であるカオスであるようだが、それはいわば茫然自失状態によく似ている。

しかし、例えば視覚において、対象が、机なら机、椅子なら椅子という具合にはっきりしていてカオスでないのはどうしてだろう? 視覚においてはすでに対象間の明暗・色・形の区別が知覚されているのではないだろうか? 区別が知覚されているなら、それを「カオス」と呼ぶのは誤りだろう。

主語−述語−目的語の三分節には、すでに述べたように、「大脳の機能である心は物質世界の中に後から生み出された」という客観的根拠がある。

(2)瞬間的な視覚体験の時に、誰もまわりくどく身体方向的命題などでそれを代用することなどはしない。だから身体方向的命題が三分節文法構造発生の根拠とされているのは全くのナンセンスである。

それに、「近似的」とはどういう意味なのであろう? 何に近似的なのか? どうして「近似的」という表現を使うのか? それは世界の客観的真実と近似的なのか? それなら世界は客観的に実在するのか? だがそれは知覚主義が許さない。では世界が客観的に実在しないなら、近似的とは何に近似的なのか? そもそも対象がカオスなら、「近似的」ということなどあり得よう筈がない。だから「近似的」という言葉を大森氏が使う場合、主観的知覚と客観的世界とを無批判的に(主客未分論的に)妥協させているわけである。これは「外界」という語と同様、読者を迷わす言語トリックである。

(3)たとえ太古の昔だとしても、この世界の誰が、知覚の私と行動の私を平行体験しそれを「ながら体験」でわざわざ統合して一体化させているのだろう? 数万年もかけてそのような回りくどいことをする必要があるのは両者を不自然に分けた大森氏だけではないだろうか? 

(4)「自我」(私)がたとえ脳内で揺れ動く特定の神経インパルスの流れにすぎないとしても、客観的実在であることはすでに述べた。それは私がたとえ死んでいなくなってもあなたが依然として存在しているように、私の中にもあなたの中にも客観的に存在する。だからこそ陰伏的(インプリシット)に潜在していることもできるわけである。

ところで、自我が各種の人間経験の中に潜在しているのなら、そもそもそれはどういうわけで自我極として潜在するようになったのだろう? なぜ経験に自我極があるのか? どうして頻繁に使用を重ねると原子や政府のような存在性が得られるのだろう? 

どこにもないものは潜在してもいないし、顕在化することもない。 だから自我は自我極として、また自我極はなんらかのものとして客観的に存在するものなのである。

我々が客観的実在と見なしている原子や政府まで、大森氏にとっては『語り存在』なる言語命題でしかないが、とはいえ、自我にそれらに類同するほどの存在性を認めざるを得ないのは、自我の客観的実在性を証するものであろう。

(5)私は同一の人間として知覚し、思惟し、意志し、喜怒哀楽する。これは誰もがそうであろう。これがグルーピングの根拠だ。その他にどういう原理があるだろう? 「心とはこういうものだ」という何かの哲学的原理の有無の問題などではない。 大森氏が心を「コギト経験の無作為な合流」とするのは、ヒュームが自我を「流転する知覚の束」とするのとほぼ同じ意味である。ヒュームが自我の実体性を否定したように、大森氏も心の単一的実体性を否定する。

つまりヒュームはただ「知覚する」ということのみがあるとするわけであるが、そこでは「誰が知覚するのか」は問題視されない。知覚の主体は無視される。同じく大森氏においてもただ「知覚、思考、感情、意図などの経験をする」だけが存在し、「誰が知覚、思考、感情、意図などの経験をするのか」の問題は無視される。

しかし現実問題として誰かが知覚するのでなければ知覚という現象は起きない。知覚するということは誰かが知覚しているのである。そこには知覚している主体が存在する。知覚主義者も他の全ての人間と同様に、実は自分が知覚していることを知っている。知覚とは「自分の」体験事実なのだ。

ところが知覚主義者にとっては知覚が初めであり終わりであって、知覚には前提などなく、知覚を成り立たせるものは、それが自我であれ世界であれ、絶対に認められない。それにまた、心や自我のような非物体的なものは知覚不可能なので、そういう意味でもその客観的実在性が否定される。

だが、知覚には、感覚器官と感覚対象という前提があることは日々の知覚経験から誰にも自明である。また心は物質でなく大脳の機能であるからそもそも知覚できる性質のものではなく、それゆえ、「心は知覚できないものだから存在しない」という論理も破綻している。知覚主義者が心の客観的実在性を否定する論拠の全てが破綻しているわけである。

さて、たとえ知覚している主体としての自我が霊魂のような精神的実体でなく大脳内のある特定の定常的な神経インパルスの流れだとしても、そういう意味で客観的に自我は実在しているのだ。そのある特定の定常的な神経インパルスにどうして「私」という自覚が生まれるのかという問題は別に解かれるべき問題である。すでに述べたように、私はその問題の解決を神経細胞内のDNAの鏡対称的な二重鎖構造に基づく自我性に求めた。

大森氏が心を「心的経験」という言葉で置き換えるのは、客観的実在としての心を、主観的な知覚経験に解消させる目的からである。

(6)主観的な知覚であるカオスとしての「心的経験」の中に客観的実在である心を解消すれば、知覚主義者には一望千里ということになるのかもしれないが、それでは心も人間も世界も、全てカオスの闇に包まれてしまう。遠近感でさえも構造化された二次的な副生物というのでは話にもならない。心・人間・世界が明らかになるためには、主客未分や主客合一といったカオスの茫然自失状態から目を覚まし、自分と世界との明確な区別の中で人間と世界を観察しなければならない。

(7)人類には初め心や人間や世界が未知のためにカオスに見えた。しかしそれは「原初はカオスであった」と解釈する理由にならない。大森氏は命題と、(我々の言う)客観的実在とを区別しないから、原初のカオスも個人のカオス的現在知覚経験のことであり、この個人的な現在知覚経験以外のすべては、原子であれDNAであれ過去であれ未来であれ、全て命題として製作されたものになる。だが、命題と客観的実在とは異なるものであって、自我・時間、死、心、意識も製作されたものでなく客観的実在であり、したがってそれらはいささかも不可避の偏見でなく、客観的事実である。だから、なにか欺瞞の原因を解明するかのようにこれらの概念の起源を研究するのは、全く無意味である。

また、「意識」という哲学概念が発生したことと、何ものかを意識する場合の意識とを区別しなくてはならない。大森氏は命題と実在を混同するからいつも話がややこしくなるが、何ものかを意識する場合の意識は「意識」という概念が登場するずっと以前から、(おそらく大脳を有する動物の出現以来)、存在する。そういう意識の活動の中ですでに主客分岐が行われているのである。なにも「意識」という哲学概念が生じて以来、主客分岐が起きたのではない。大森氏は概念としての「意識」と事実としての意識とを混同し、そのことによって「意識は哲学が生み出したものだから存在するものでない」と結論し、意識の客観的実在性を否定しようとするが、これは言語トリックなのである。

(8)自我と世界が分極される以前はカオス的知覚経験しかない。それを大森氏は次の節で「個々の心的経験の霧中の物影のような不確かさ」(207ページ)と表現している。それは生まれたばかりの赤子の心的世界となんら変わらない。そこでは心的経験は主客未分で、世界でもあり自我でもある。しかし赤子の心的世界が真実なのではない。赤子はただ未熟なゆえに無知なだけなのだ。赤子は成長するにしたがって自分の個人的な心的経験と客観的な物質世界とを区別するようになり、世界が自分の個人的知覚経験から独立したものであることを知るようになる。つまり赤子は話すことができるずっと前に、物質世界に対する知覚像を世界の写像として理解する。だから主客分岐は言語活動と何の関係もない。

知覚主義者には直接的現在知覚経験しか存在しないから、全ては自分の知覚にすぎない。彼には本来の外部世界など存在しない。したがって、世界への直通通路を遮断し、世界をバーチャル化しているのは大森氏の方であろう。

三 経験の四次元整序、時間、空間

(1)「(太古の人間の)目に写る風景は世界−自我分極を表出していて、こちらに自分がいて向こうに様々な三次元事物が見えている。……その空間的配置はこれまでの彼の経験のなかの事物を取りこんだ統一的経験の『整序』の下にある。……こうした見事な統一的空間配置は神の仕業か人間理性の構築か、あるいはまた感性のオートメ製作か、それは誰にもわからない。」【206】

(2)「この所与(事実)としての空間的配置をさらに洗練して一層の整序を加えて、やがて『空間』と『幾何学』の意味を製作したのは、まぎれもなく歴代人間の知性であることは間違いない。経験のこの空間的整序のなかにすでに時間整序(なかんずく時間順序)が参入していることは歴然としている。……結局、人間の経験が秩序づけられて整序される四次元構造が空間と時間なのであり、この統一的整序なしでは、経験は個々バラバラに離散して生命を危うくすることは必定であろう。つまり、空間と時間は生きるために必須の経験統合の基本構造なのである。(そのなかに)世界−自我分極が明確に顕在化されて、……(同時に)他方では空虚な『過去』のなかにもひとつの物語りを製作する。」【207】
[注37]
(1)ここで「神の仕業か」というのはバークリーの立場、「人間理性の構築か」というのはカントの立場、「感性のオートメ製作か」というのはヒュームの立場である。つまり大森氏は知覚主義者や先験的主観主義者の立場でしか三次元事物の秩序を見ていない。つまりこの世界の秩序言いかえればこの物質宇宙はすべて主観の側の作り物という立場である。

(2)空間や幾何学の意味は人間知性が製作した、というのはそういう意味だ。しかしもしこの時空秩序が存在しないと経験がバラバラに離散して生命が危うくなるのであれば、この時空秩序は生命の秩序と無関係ではあり得ないし、生命の実在性と同じだけの実在性を持ち得ることになる。生命が単なる命題でなければ時空秩序も単なる命題ではないということだ。また生命が単なる命題なら、そのときは時空秩序がなければどうして生命が危うくなるのかその切実さがさっぱり理解できない。ところで、空虚な「過去」というのは第一章から第三章にかけて否定的に展開された「過去自体」のことである。

四 意識の発症

五 過去自体を見限る

六 想起経験統一による過去の製作

七 歴史製作と真理条件

八 過去物語り製作が科学

九 過去物語りの実在性

[注38]
以上の四から九までは第一章から第三章までの繰り返しである。

(了)