利己的遺伝子の表紙写真
『利己的な遺伝子』への批判的書評  

           (リチャード・ドーキンス著 日高・岸・羽田・垂水訳 紀伊国屋書店)




金哲顕

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目次

まずドーキンスの文章の引用を行い、次に段を落して(註)を付け、その(註)で、上の段落に引用した文章の批評を行う。引用文はカギ括弧でくくるが、カギ括弧の中の丸括弧の部分はドーキンスの文章を私が要約したものである。丸括弧で本文を要約したのは不必要な文章の長々とした引用を省くためである。要約文は私の責任であるが、そこにほとんど誤解や誤りはないだろう。

なお引用文の前に付いている(a)(b)(c)などは、批評を行う際にどの部分の文章に対する批評なのかをはっきりさせるために、分類上私が便宜的に付け加えたものである。また「・・・・」は本文の省略部分で、これも私が便宜的に利用した。さらに、訳本中の傍点は、引用文では下線で代用した。

この書評は1976年の初版に含まれていた第1章から第11章に対して行なわれ、1989年の第二版に追加された第12章と第13章は省いた。基本的には初版の部分に対する書評で十分尽くされているからである。

批評者の総括

生物界では個体の生存競争を通して淘汰が行われる。ドーキンスのこの著作では、その現象の本質を「種の淘汰」(群淘汰説)とみるのか、それとも「遺伝子断片の淘汰」とみるのか、という問題で争われている。

この著作は「利己的な遺伝子断片」の立場から行なわれた群淘汰説への批判書だといってもいい。 群淘汰説(「種にとって善」説)が福祉社会的なものだとすると、利己的遺伝子説は資本家社会的なものだといえる。個々の利己的遺伝子のコピーの拡大願望は、資本のあくなき拡大再生産と利潤追求に通じている。

群淘汰説と利己的遺伝子説の両者は、普遍主義か個物主義か、実在論か唯名論か、という中世のスコラ学的な対立とよく似た構造を持つ。遺伝学においてすべてを個物(たとえば個体あるいは個々の遺伝子断片)の立場からみれば、利己的遺伝子説(個体なら利己的個体説)のようなものが生まれるし、すべてを普遍(種)の立場からみれば、利他的な要素も含む群淘汰説のようなものが生まれよう。

遺伝子は生物にとって根源的なもの、普遍的なものなので、もし遺伝子からくる純粋な(つまり利他性の片鱗さえない)利己性というものがあれば、それは人間を含むどの動物種においても例外がないものでなくてはならない。たとえ利己的とはみえないもの、あるいは利他的とさえみえるものが種の視点から見えてきても、遺伝子の利己性理論の立場に立っているドーキンスは、それを、(人間の判定における、あるいは動物自身における、もっと正確には動物の当該遺伝子自身の)「錯誤」「誤り」だとしか判定できなくなってしまう。事実彼はそうしている。

しかし言語能力のある人間においては文化の力による遺伝子からの相対的独立が進んでいて、それがたとえば(利己的遺伝子説には甚だ不利な現象である)快楽目的の積極的自己断種・同性愛・妻や愛人を肉親より愛すること、などなどとして現れているし、さらに様々な利他的思想の出現とその実践が行われている。人類社会において利他的自己犠牲行為が一般に美しいものとして高く評価されることは、もし遺伝子が利己的で一切がそのために利己的でしかなかったのなら、まさに理解できないことになる。

進化過程における人間段階で、血縁とは無関係の、真の利他主義が現出したのであれば、それは人間への動物進化の過程とともに順次進化してきたものだとしなくてはならない。つまり利他主義は霊長類や人間だけの現象ではないと結論しなければならないだろう。「利他主義の萌芽はあらゆる動物に存在し、利他主義は全ての動物にそれぞれの割合で潜在している」として、いけないわけがあるだろうか?

およそ存在するものは全て弁証法的な両極を持つ。そういう両極を持ったものを一極だけで説明し尽くそうとするのには、そもそも無理がある。「感覚」と「理性」も、感覚で捉えられる「物質」と理性で捉えられる「法則」も、それぞれ弁証法的な両極関係にある。しかしたとえばヒュームなどの感覚主義的経験論哲学では感覚しか認めず、理性も、理性で捉えられる法則も、その存在を認めない。

また現代では構造主義と機能主義のあいだに激しい論争が存在するが、もともとものごとには初めから「構造」と「機能」が分かちがたく両極として存在しているのに、構造主義も機能主義も、それぞれ「相手はこちらから出た二次的なものだ」と、自分側の一極だけで説明を済まそうとする。最近の機能主義の典型の一つは「書評」にも挙げた「オートポイエーシス論」であるが、そこにも「構造」を無視したための欠陥が帰結している。

それと同様に、ドーキンスの遺伝子利己主義説にも、種や利他を無視したゆえの、同じ種類の過ちが見られる。全てを個々の遺伝子断片レベルで見ようとするから、言い換えれば、視野に遺伝子しかないから、「遺伝子プール」などという新しい概念を導入せざるを得なくなるが、そのようなものは「原理的に必要なもの」というわけではない。使っても良いし使わなくても良いというほどの代物である。遺伝子には、個と種、すなわち、利己と利他、がともに構造としてあり、機能している。

たとえば2009年10月14日、京大野生動物研究センターと京大霊長類研究所との共同作業によって、チンパンジーが相手のチンパンジーの要求に応じて自分の手元にあるステッキを渡し相手がそのステッキでジュース缶を引き寄せて飲むことができるよう手助けすることが確認され、その様子を記録した映像がテレビで報道された。研究担当者たちはチンパンジーのこうした助け合いがその後の人類社会における愛他的互助行為に進化したものと解釈している。

また最近、遺伝子が設計図としてすべて決定しているという遺伝子決定論の誤りが示された。遺伝子は基本パラメータを決めているだけで、発現結果は個々の因子のランダムな働きによる、ということも少なくない。たとえばタテジマキンチャクダイの縞模様は色素活性因子と色素抑制因子とのランダムなせめぎ合いによるもので、遺伝子にあらかじめその縞模様が指示されているのでないことがほぼ実証された。

肺の発生学上の分岐的な形成過程にもそれが示され、また細菌性粘菌でもその集団化と集団運動が個々の粘菌のランダムな運動結果であることが示された。そうでこそ以前は10万を越えるとされた人間の遺伝子数が2万五千以下という少ない数であることにも納得がいく。人間身体のなにもかもを設計図として決めなければならないのであれば、遺伝子数は10万でも不足するだろう。つまり固体と集団、利己と利他、遺伝子と環境、ランダムとパラメータ、偶然と必然はともに弁証法的に作動しているのである。

ちなみに、ドーキンスは本来数学によって論じるべきところを普通の文章で直感的に理解できるように著述したと何度も本文内で述べている。だが、それはこの著作の内容の真実性の保証を意味してはいない。数学はむろん厳密なものである。しかし、ある視点から立てられた方程式がはたして現実を正しく映したものかどうかは、実験や観察によって実証されなくてはならない。

ところが利己的遺伝子説を実証するだけの実例は、本書のどこにも、ただの一例も示されてはいない。つまり著者の利用する方程式はどれも仮説の上で、その仮説に矛盾しないかたちで立てられたものでしかない。

また著者は遺伝子主義に立ちながらも、同時に個体主義に基づく「近縁度計算」なるものを取り入れており、理論体系が根本的に矛盾している。遺伝子主義では、両親を共にする兄弟姉妹よりも、片親が全く他人の遺伝子を受け継ぐ子供を一層愛する事実を説明できないからである。

遺伝子主義の立場では自分の兄弟姉妹には自分の子供より一層多く自分の遺伝子と共通する遺伝子があるので、自分の子供より自分の兄弟姉妹をより強く愛してしかるべきだが、実際には反対である。それを遺伝子主義とは全く正反対の異質な「近縁度計算」を導入して誤魔化している。これらのご都合主義・折衷主義を読者は厳しく見つめるべきだろう。

さて、ドーキンスはミーム(文化遺伝子)について述べる第11章に至るまでは、つまりDNAや遺伝子について述べている間は、遺伝子の支配力の絶対的な有様をあれこれ描写し、それをたとえば、「われわれは遺伝子のための生存機械のロボットであり、したがって、遺伝子の利己性のために福祉社会の実現はほとんど不可能だ」などと表現しているが、初版の最終章をなす第11章では、突然態度を豹変して、DNAに対するミームの優越性を主張し、意識能力のある人間はその意識による先見能力によってDNAの支配に反逆できるとしている。

たとえば305ページでは、「(本書のこれまでの諸章の著者が、こんなことを言うとびっくりされるかもしれないが)、これから私が展開しようとする議論は、現代人の進化を理解するためには、進化を考える際に遺伝子だけをその唯一の基礎と見なす立場を、まず放棄せねばならないというものだ」と述べ、また321ページでは、「純粋で、私欲のない、本当の利他主義の能力が、人間のもう一つの独自な性質だという可能性もある」「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」と書き、突然、路線変更を企てている。

この著作を通じて広く知られるようになった著者のミーム論には、ミームをDNAのような「自己複製子」とする重大な誤りがあるが、それに対する説明は第11章に対する書評部分(註94〜101)で展開されている。

それにしても、こんなことを最後の最後に書いて突然転向するのは、自説の自己矛盾というより著述上の一種のペテンだろう。現在でも第1章から第10章にかけて展開されたドーキンスの生々しく毒々しい遺伝子の利己性理論は、利己主義的で独善的な一部知識人たちのためのバイブルのようなものになっているほどである。

まえがき

「われわれは生存機械─遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ」(4ページ)
(註1)
細胞内の遺伝子の働きはその生物の意識的操作からは一応独立しているから、遺伝子は盲目的なプログラムだといえる。とはいえ、人間はついに遺伝子操作技術を手に入れ、細胞内の遺伝子を操作できるまでに至っている。みずからの細胞内の遺伝子の働きを外部から意識的に操作できる人間の遺伝子を、果たして「盲目的」だと単純に言い切っていいものだろうか? 事情はもう少し複雑だろう。

一九八九年版へのまえがき

「利己的遺伝子説は・・・・ネオ・ダーウィニズムの論理的発展であり、・・・・(ダーウィンとは異なり)個々の個体に焦点をあわせるのでなく、自然の遺伝子鳥瞰図的見方をとっている」(9〜10ページ)

(1) 人はなぜいるのか

「人はなぜいるのか」という問いにはダーウィンがはじめて理にかなった答えを与えた。もはや「生命には意味があるのか? われわれはなんのためにいるのか? 人間とはなにか?といった深遠な問題に出会っても、われわれはもう迷信に頼る必要はない。(このような疑問に答えようとする試みは無視した方がましである)」(15〜16ページ)
(註2)
「人はなぜいるのか」の経過的な解答(「人はなぜいるようになったのか」への解答)はダーウィンが与えたとしても、その本来の目的論的な解答(「なんのために人はいるのか」への回答)は与えられていない。このような疑問に答えようとするのは科学的には無意味なことだが、これらは人間にとって避けられない疑問だ。そういう意味では、やはりこうした疑問には何かの妥当な学問的根拠があるとしなくてはならないだろう。一概に無視して済む問題ではない。

(a)「私の目的は、利己主義(selfishness)と利他主義(altruism)の生物学を研究することである。・・・・(これまでの進化論は)進化において重要なのは、個体<ないし遺伝子>の利益ではなく、種<ないし集団>の利益(ここから利他主義論が生まれる)だという誤った仮定をおこなっている。・・・・この本の主張するところは、われわれおよびその他のあらゆる動物が遺伝子によって創りだされた機械にほかならないというものである。・・・・成功した遺伝子に期待される特質のうちでもっとも重要なのは(シカゴのギャングのような)無情な利己主義である。・・・・普遍的な愛とか種全体の繁栄とかいうものは、進化的には意味を成さない概念にすぎない。・・・・もし・・・・個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうような社会を築きたいと考えるのであれば、生物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう」(16〜18ページ)

(b)「(利他主義は利己的遺伝子の目論見を知った上で教えられるべきものであって、そうすれば)少なくともわれわれは、遺伝子の意図をくつがえすチャンスを、すなわち他の種がけっして望んだことのないものをつかめるかもしれない。・・・・われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるよう指示するが、われわれは必ずしも一生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない。・・・・(氏か育ちかの問題もある)。あらゆる動物の中でただ一つ、人間は文化によって、すなわち学習され、伝承された影響によって、支配されている」(18〜19ページ)

(c)「自然淘汰の働きかたをみれば、自然淘汰によって進化してきたものは、何であれ利己的なはずだということになる。・・・・もしこの予想が誤りであることがわかったならば、つまり、人間の行動が真に利他的であることが観察されたならば、そのときわれわれは、困惑させられる事態、説明を要する事態にぶつかるであろう」(20ページ)
(註3)
(a)と(c)は利己主義万能思想であるが、(b)の「遺伝子非決定論」はなにほどか文化的教育によって利他主義が少しでもチャンス的に可能であるかのように述べていて、両者は少し趣きを異にする。どちらにドーキンスの真の主張があるかといえば、むろん(a)と(c)の方だろう。

(c)の「人間の行動が真に利他的であることが観察されたならば」というのは人間の行動全般に対して言われているわけではないから、「ほんの一例でも」と付け加えるべきものだろう。すると利他的であることはほんの一例でも成立しないことが想定されているわけで、(b)で主張している著者のチャンスの主張が全く成立せず、(b)は批判を避けるための目くらまし、あるいはドーキンス説の理論的な矛盾、あるいはその両方かもしれないと判明する。ドーキンスの利己的遺伝子論が一般に利己主義万能論として流布しているのもそのためだろう。

のちにもっと明らかになるように、この(a)と(c)の「遺伝子利己主義説」は(b)の「遺伝子非決定論説」によって緩和されている。もし利己的遺伝子が決定論的であれば、それこそこの世に利他主義はどこにも存在し得ないことになるだろうが、さすがにドーキンスも、(b)にあるように、「われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるよう指示するが、われわれは必ずしも一生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない」と記して「遺伝子非決定論」を表明している。

「利他主義と利己主義の上述の定義が行動上のものであって、・・・・私はここで動機の心理学にかかわるつもりはない。当の行為が結果として、利他行為者とみられる者の生存の見込みを低め、同時に受益者とみられるものの生存の見込みを高め、さえするならば、私はそれを利他行為と定義するのである。・・・・よく調べてみると、利他的にみえる行為がじつは姿を変えた利己主義であることが多い。くりかえすが、私は、根元にある(心理的)動機がじつは利己的なものだといっているのではない。生存の見込みに対する行為の結果が、最初に考えられたものとは逆だといっているのである」(20〜21ページ)
(註4)
著者は「行為の結果」から事柄を判断しようとする行動生物学者で、そもそも動物行動の心理やその心理的動機などには全く興味を持たないが、そのため人間道徳一般が全く無視されてしまう。しかし人間行動には行為の結果が必ずしも事柄の本質を示さない場合もある。利己主義的な行為の結果が帰結しても、実際は利他主義だったという場合もありうる。

著者の行為結果主義の方法論(これは「心はブラックボックスだ」という思想を前提とする)では原因や事柄の判定に誤る場合があるだろう。我々はいつも原因と結果をともに考慮に入れなくてはならないし、心理的動機と行為の結果のどちらも同様に重視しなくてはならない。心は外からは何も分かりようのないブラックボックスではない。我々は外から心を探る深層心理学などを無視してはいけない。

著者は実際は利己主義万能の立場だから、「心理的動機そのものも実はいつも本当は利己主義であって、主観が勝手に、ある場合は錯覚、ある場合は自己欺瞞をしてまで利他主義的なものと感じているにすぎない」と達観しているようだ。 「よく調べてみると、利他的にみえる行為がじつは姿を変えた利己主義であることが多い」という彼の言葉もそういう意味だろう。
(a)「この本で私は、遺伝子の利己性と私がよんでいる基本法則によって、個体の利己主義と個体の利他主義がいかに説明されるかを示そうと思う。・・・・(ダーウィニズムにおける適者生存の)最適者とは最適個体のことだろうか、それとも最適品種、あるいは最適種のことだろうか?・・・・(後者の群淘汰説では群れのために個体が喜んで犠牲になるというような利他主義、前者の個体淘汰説や遺伝子淘汰説では全ては自分のためにという利己主義が結果するが)、おそらく群淘汰説がひじょうにうけたのは、一つにはそれが、われわれの大部分がもっている倫理的理想や政治的理想と調和しているからであろう」(24〜27ページ)

(b)「(しかし)集団内の利他主義は、集団間の利己主義を伴うことが多い。・・・・(すると)どのレベルでの利他主義が望ましいのか─家族か、国家か、人種か、種か、それとも全生物か、・・・(実際にはどのレベルでの淘汰が優先するのか? 人は家族のために自分を犠牲にしてきたのか、いや国家のためだったのか、それとも人種のためだったのか、それとも人類全体のためだったのか? あるいは哺乳類、さらには脊椎動物のためだったのか? 群淘汰説ではその優先順位が説明できないし、どれが優先すると主張しても、それには)進化生物学的に厳密な根拠がない。・・・・私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には個体でもないことを論じるつもりである。それは遺伝の単位、遺伝子である」(24〜30ページ)
(註5)
著者は(a)で、群淘汰説がひじょうにうけたのはわれわれの大部分がもっている倫理的思想や政治的理想と調和しているからだと述べているが、単純に考えても、もし人間が全て利己主義者でしかなかったなら、どうしてそういう倫理的理想や政治的理想をわれわれの大部分が持っているのか、それが分からなくなるのではないだろうか? 

私は最適者を個体、群れ、種などのどれか一つの階層に限る必要はないと考えている。これは局面に応じてどれもそれぞれの動的比率で有り得るだろう。

著者は(b)では群淘汰の優先順位が定かでないとしている。しかし誰が考えても種が基準になっているのは明らかだ。

(2)自己複製子

(a)「ここで重要なのは、地球上に生物が生まれる以前に、分子の初歩的な進化が物理や化学のふつうのプロセスによって起こりえたという点である。設計とか目的とか指示を考える必要はない。・・・・だからといって、人間のような複雑な存在をまったく同じ原理だけで説明できるということにはもちろんならない。正しい数の原子をとりだして、いくらかの外部エネルギーといっしょにかきまぜ、それらが正しいパターンになるのを待ってもだめである。・・・・人間は10の27乗個以上の原子からできている。人間をつくろうと思ったら、宇宙の全時代が一瞬と思えるほど長い期間、生化学のカクテル・シェーカーを振らねばなるまいが、それでも成功しないであろう。これは、ダーウィンの学説が、そのもっとも一般的な形で、救いの手を差しのべてくれる部分である。ゆっくりとした分子形成の物語が終わる時点から、ダーウィンの学説が始まるのである」(33〜34ページ)

(b)「これから述べる生命の起源の話は、どうしても推論に頼らざるをえない。・・・・これから述べる単純化した話は、おそらく真実からそれほどかけ離れてはいないだろう。・・・・あるとき偶然に、とびきりきわだった分子が生じた。それを自己複製子と呼ぶことにしよう。これは起こりそうにないできごとのように思われる。(しかし数億年間、カクテル・シェーカーをしていれば起きうる)」(34〜35ページ)

(c)「それはたった一回生じさえすればよかったのだ。それは、(結晶ができる方法で、自分と同じ種類の、あるいは特定の種類の構成要素を次々と結合して(ポジ型あるいはネガ型)の自分の複製を作る)と考えてよい」(36ページ)

(d)「このようにして、同じもののコピーがたくさんできたと考えられる。しかしここで、どんな複製過程にもつきまとう重要な特性について述べておかなくてはならない。それはこの過程が完全ではないということである。誤りがおこることがあるのだ。・・・・誤ったコピーは、ほんとうの意味で改良をひきおこしうるし、ある誤りがおこることは、生命の前進的進化にとって欠かせぬことであった」(37〜38ページ)

(e)「最初の自己複製子が、実際どのようにして自己のコピーをつくったのかはわからない」(38ページ)

(f)「個体群内で広がってゆく上で重要であったにちがいない(特性として、「長生き」「多産性」「コピーの正確さ」がある。分子のスープの中ではこれら三種類のより安定した分子が優勢になってゆくので、その三つの点には(自然淘汰と同じ)進化傾向がある。そして自己複製子間の競争が起きて進化し、次々と新しい改良が加えられてゆき、ついには護身のために身のまわりにタンパク質などの物理的なを設け)、こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らのいれもの、つまり存在し続けるための場所(自分が住む生存機械)をもつくりはじめたのである」(38〜42ページ)

(g)「40億年がすぎ去った今、古代の自己複製子の運命はどうなったのだろうか?・・・・今や彼らは、外界から遮断された巨大なぶざまなロボットの中に巨大な集団となって群がり、曲がりくねった間接的な道を通じて外界と連絡をとり、リモート・コントロールによって外界を操っている。・・・・彼らはわれわれを、体と心を生みだした。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。・・・・今や彼らは遺伝子という名で歩き続けている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである」(42ページ)
(註6)
著者が(a)で「設計とか目的とか指示を考える必要はない」と述べているのは、むろん創造者なる神の存在の否定を意味している。ダーウィン主義者の絶対多数はドーキンスのように無神論者や唯物論者であるが、私が『神存在の普遍的な三一の印』や「新しいパラダイム」で示したように、進化において物質が主体であるこの宇宙でさえ、実はそのような仕組みで神が宇宙を創造したのであって、したがって物質進化の主体が物質自身であるとしても、そこから単純に無神論や唯物論が帰結するのではない。

ドーキンスは最初の自己複製子がどのように出現したか、またどのように複製したのかについては「わからない」としている。しかし彼は、「わからないが、神は存在しないので、そこに神は働いていない」と結論づけているわけである。科学者としては一種の独断というしかない。これはいうまでもなく彼の哲学(無神論あるいは唯物論)から来る独断だ。たしかにいつかは(たとえば最近の「RNAワールド仮説」などが実証されて)自己複製子の最初の出現を物質的に・科学的に説明できる時が来るかもしれないが、そのことと神の有無の問題とは別にしなくてはならないだろう。そもそも科学が神の有無を前提に何かを述べるのは間違いなのである。

ちなみにその後の「GADVタンパク質ワールド仮説」によれば、「RNAワールド仮説」では「遺伝子 - 遺伝暗号 - タンパク質」という生命細胞の全一的諸関係が論議できず、たとえばRNAと、タンパク質を構成する20種のアミノ酸の遺伝コードとのつながりの起源が説明できず、この仮説には期待が持てそうにないらしい。とはいっても「GADVタンパク質ワールド仮説」もまた多くの推測を含むものであり、これからどうなるか分からない。

さらに自己複製するさまざまな人工細胞も擬似的な生命細胞として実験室で作られているが、それらのほとんどが既にある生命細胞機能を部分的に援用したものである。


むろんいったん生物個体(細胞)が生じてしまうと、その後の生物進化については、もはやカクテル・シェーカー論など不要で、大進化の説明にはまだ不備なところがあるとしても、基本的にはダーウィン説で済ますことが出来る。

とはいっても、進化の全過程の全てがくまなく神の介入なしに説明できるかどうかは別問題である。基本はダーウィン説でいいが、大小進化のところどころで神が介入していることまでどうやって否定できるだろうか? それを否定できるとするのは科学ではなく哲学だろう。つまり無神論や唯物論などの哲学が前提されていなくては、「宇宙の隅々、生物進化の端の端まで完全に神の介入はない」という結論は下せない。

著者は(f)で遺伝子とその入れ物である細胞もしくは体を二項対立で捉えている。もし遺伝子のなかに入れ物情報が存在しなければそう言ってもいいかもしれない。だが遺伝子の大半は入れ物情報なのだ。「遺伝子とは入れ物情報だ」といってもいい。したがって、遺伝子においては遺伝子と入れ物は二項対立ではない。ならば、すべてを遺伝子の視点から見る遺伝子主義者は当然、「遺伝子と入れ物とは対立していない」と主張すべきだろう。

その大半が入れ物情報である遺伝子の目的は、遺伝子そのものの維持や進化より、入れ物を発現するところにあるとしなくてはならない。それは、発現した入れ物である個体間の生存競争によって種の遺伝子の維持や進化が実現しているという結果からも言える。したがって体(いわゆる「入れ物」)を二次的なものと見るドーキンスの遺伝子主義思想は誤りである。

「細胞や体は遺伝子の入れ物だ」というのは厳密に言って正しくない。なぜなら細胞や体の中にすでに遺伝子が存在しているからである。正しくは、「細胞や体の中の遺伝子以外のものは遺伝子の入れ物だ」と言わなくてはならないが、遺伝子がその入れ物情報それ自身なのだとすれば、入れ物と遺伝子とを対立的に区別するのが誤りなのは誰でもわかるだろう。

著者は(g)で、遺伝子が我々の体と心という外界を生み出し、それをリモート・コントロールし、自らの維持のために遺伝子の入れ物である我々をあらしめていて、我々は遺伝子の生存機械だ、としている。こういう遺伝子決定論的な表現が多くの批判を呼び起こしたのは当然で、のちに著者はこの「遺伝子ロボット操縦説」を様々な形で緩和し、弁明している。だが実際のところ最初はそういう側面が前面に押し出されていた。著作が出版とともに話題となるように著者がある側面を必要以上に押し出すということは往々にしてあるが、この場合もそうであり、そういうわけで彼の弁明のなかには真実もあれば虚偽もある。

著者は厳密には「遺伝子決定論者」ではないが、「生存機械」とか「ロボット」とかいう刺激的な言葉で、遺伝子決定論者的な側面を売り物にしたし、そういう遺伝子が不可避的に利己的だということで、その側面が多くの利己主義的な独善主義者を助けていた。現在でも独善的な利己主義者たちはドーキンスの利己的遺伝子説を自分本位に解釈して、自分たちの独善と利己主義を擁護し、それをバイブルのように見なして、真理だと喧伝している。我々はドーキンスの遺伝子説において「利己主義」は絶対だが「決定論」は絶対ではないことに留意すべきだろう。独善的な利己主義者たちは「どちらも絶対だ」と著者とは無関係な解釈をしているのである。


ところで、もし著者が認めたように遺伝子が決定論的でないとすれば、遺伝子の利己主義、つまり著者ドーキンスの主張する利己的遺伝子説とは一体何なのだろう?

たとえば遺伝子が利己的で決定論的であるなら、ドーキンスのような行動生物学者の唯一の判断基準である「行為の結果」は全て例外なく利己的であるだろう。

ところがもし仮に遺伝子がいつも利己的であっても、ドーキンスの認めるとおり「遺伝子決定論」が正しく、したがって遺伝子以外の要素が働いて非決定論的な「行為の結果」の現れることが許される場合、その「行為の結果」は遺伝子によらないので利己的でない可能性がいくらでもあり得るわけである。

すると一般に「行為の結果」のなかには「遺伝子からの利己的なもの」と「遺伝子以外からの利己的でないもの」とが混じっていて、どれが遺伝子からのものか分からない場合も出てくるだろう。

 さきほど遺伝子をいつも利己的だと仮定したが、いまその仮定を外すと、「行為の結果」からは「遺伝子からか遺伝子以外からか」を例外なく明確に判別できるというわけではないので、もしかすると「遺伝子からのものなのに利己的でないもの」も混じっているかもしれないわけである。それならドーキンスの唯一の判断基準である「行為の結果」からは「遺伝子は利己的だ」と一意には結論できなくなるのではないか? 

単純に言えば、そもそも本体の遺伝子が非決定論的であれば、それに修飾詞として掛かっている形容詞の「利己的な」という部分も非決定論的にならざるを得ないということである。

つまり利己的遺伝子説は実は遺伝子決定論を含んでいるのである。だからドーキンスが「我々は遺伝子の乗り物、入れ物、生存機械、ロボットだ」という遺伝子決定論な表現をするのも無理はない。したがって遺伝子非決定論を認めるドーキンス説は首尾一貫していないし、彼の『利己的な遺伝子』の読者のなかに、利己的遺伝子説をそのまま遺伝子決定論と結びつける者たちがどうしても出てくるのだろう。首尾一貫性としてはこちらの方が正しい。

つまりドーキンス説は自己矛盾している。もし彼が遺伝子非決定論を受け入れるのであれば、「我々は遺伝子の乗り物、入れ物、生存機械、ロボットだ」という過激な表現をやめ、同時に彼の利己的遺伝子説を撤回すべきだろう。そして「遺伝子は利己的傾向が非常に強い」という程度の説で留めるのが筋だと思われる。むろんこれではあれほどの注目は得られなかったであろうが。

もともと遺伝子のなかには「個の遺伝子」とともに「種の遺伝子」も強く刻み込まれているので、利己的な要素と利他的な要素が分かちがたく結ばれている。アオは一頭の馬であるが、同時に馬の種に属し、私は私個人であると同時に人類の一員でもある。これが真実ではないだろうか?

だからドーキンスが17〜18ページで、「普遍的な愛とか種全体の繁栄とかいうものは、進化的には意味を成さない概念にすぎない。・・・・もし・・・・個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうような社会を築きたいと考えるのであれば、生物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう」と述べたのは、非常に誤った、罪作りで独善的な個人主義であり、利己主義である。これではシカゴの無情なギャング社会が正当化され、人類の理想社会実現のための努力は一切無価値なものと判断されて、全て葬り去られかねない。

私はここで早々と「利己的遺伝子説は誤りである」と結論する。そして「我々の体と心は遺伝子の単なる入れ物や乗り物でなく、したがって遺伝子のために存在する生存機械のロボットでもない」と主張したい。私が「新しいパラダイム」において詳しく述べたように、体は心のために進化してきた。心という情報系を発達させるためにこそ、体すなわち大脳が進化してきた。それは遺伝子そのものが情報系であることから判明する。

(3) 不滅のコイル

(a)「われわれ(あらゆる動植物・バクテリア・ウィルス)はすべて同一種類の自己複製遺伝子、すなわちDNAとよばれる分子のための生存機械であるが、(サルは樹上で遺伝子を維持する機械であり、魚は水中で遺伝子を維持する機械であるといったように)・・・・自己複製子は多種多様な機械を築いていて、それらを利用している。・・・・DNA分子は(複製と胚発生という)二つの重要なことを行っている。(複製は単なる体細胞分裂に見られるが、胚発生は遺伝子の入れ物である体の構成を意味する)。・・・・自然淘汰は生存機械をつくることのうまい自己複製子に、つまり、胚発生を制御する術にたけた遺伝子に有利に働く。しかしその点に関して、自己複製子はかつてと同様、(盲目的で)相かわらず意識的でも意図的でもない」(43〜46ページ)

(b)「近年─ここ六億年くらいのあいだ─、自己複製子は、筋肉、心臓、目・・・・といった生存機械技術の注目すべき成功をものにした。・・・・現代の自己複製子(は)、ひじょうに群居性が強い。一つの生存機械は(たとえ単細胞生物でも)たった一個のではなくて何十万もの遺伝子を含んだ一つの乗り物(ヴィークル)である。(一つのDNAのなかには多くの遺伝子があって、筋肉、心臓、目など体を構築するに当たって相互に複雑に関わりあう。DNAという遺伝子複合体はこうした個々の遺伝子の組み合わせであり、有性生殖によるその遺伝子の組み合わせ自体は短命で体の死滅とともに終わるが、個々の遺伝子は世代を通じて生き延びることができる。)これは、個々の体がいずれも遺伝子の短命な組み合わせのための仮の媒体にすぎないことを意味している」(47〜48ページ)

(c)「(人間の)四六本の染色体は(父aと母bに由来する)二三対の染色体からなりたっている。・・・・たとえば一a巻、二a巻、三a巻・・・は父親起原のものであり、一b巻、二b巻、三b巻・・・は母親からきたものである。(『対』とは染色体どうしの距離が近いことでなく、対応するa系とb系の情報がたがいに入れ替え可能だという意味である。そのなかでたとえば茶色の目に対する青色の目のように発現において)無視される遺伝子は劣勢の遺伝子という。・・・・遺伝子は受精時にわれわれに与えられるもので、個体群全体として利用できる遺伝子プールの中へ自分で出かけていって遺伝子を選んでくることはできない。けれども、長い目でみれば、個体群の遺伝子は一般に遺伝子プールと考えられる性格のものである」(49〜51ページ)

(d)「一個の細胞が二個に分かれる正常な(体)細胞分裂では、その各々が四六個すべての染色体のコピーを全部受け取る。・・・・だが(生殖細胞でのみ起こる減数分裂では)二組四六個の染色体をもつ一細胞が分裂して、一組二三個の染色体をもつ生殖細胞になるのである。(精細胞や卵細胞)に入るのはどの二三個だろうか? (全身の遺伝情報が必要なので)、現実的にはa系とb系とで─ほとんど起こりえないが理論的にはa系だけやb系だけでもいい─ともかく二三対の一セットが必要であるが、その場合、「交叉」すなわちa系とb系とのあいだで交換される染色体内部のより小さな単位─「シストロン」と呼ばれもするものだが、この個々の遺伝子単位でさえ裂かれて使われる場合がある─のモザイクによって二三個の染色体をもつ生殖細胞が形成される。)したがって、・・・・それらの精細胞(と卵細胞)はすべてユニークなものである」(51〜53ページ)

(e)「(このように遺伝子単位にも分裂が起きているなら遺伝子の定義が曖昧になるが)、遺伝子について万人の賛意を得られる定義はない。私が使いたいと思うのは、G・C・ウィリアムズの定義である。彼によれば、遺伝子は、自然淘汰の単位として役立つだけの長い世代にわたって続きうる染色体物質の一部と定義される。前章で用いたことばで表現するなら、遺伝子は複製忠実度のすぐれた自己複製子であるといえる。(それを「遺伝単位」と呼べば、それは)シストロン内の10文字の連続であるかもしれないし、八個のシストロンの連続であるかもしれない。・・・・遺伝単位は、(交叉によって断ち切られる場合がそれだけ少なくなるので)、短ければ短いほど何世代にもわたって長生きするらしいのだ。・・・・(遺伝単位が仮に一染色体であれば、その寿命は一世代だが)、たとえばあなたの染色体八aの100分の1の長さの遺伝単位の寿命は(およそ100世代である)。・・・・(そして共通の祖先から子孫が枝分かれしてきたので)遺伝子単位が小さければ小さいほど、それが別の個体に存在する可能性が高い」(54〜57ページ)

(f)「(遺伝単位が新しくつくられるのは、前から存在するそれより小さな「亜単位」が交叉によって集まることによるが)、それとは別の「もう一つの方法─それは数が少ないが進化上きわめて重要である─は、点突然変異とよばれる。点突然変異はある本の中の一文字の誤植による誤りである。・・・・明らかに遺伝単位が長ければ、その長さのどこかが突然変異によって変わる可能性が大きい。もう一つの重要な数少ない過ちないし突然変異は逆位─染色体の一部が両端で切れて逆さまの状態で再びくっ付く─で、その際、染色体の全く別の部分にくっ付く場合もあり、また全く別の染色体にくっつくことさえある。・・・・たとえば色、形、模様、飛び方など複雑なチョウの擬態に関する遺伝子のように)逆位その他の偶然の再配列によって遺伝物質に無意識的で自動的な『編集』がほどこされた結果、以前にはばらばらだった多数の遺伝子が、染色体上の一ヶ所に集まって緊密な連鎖集団をなしたのである。この一群全体は一個の遺伝子のように行動し─じっさい、われわれの定義では、これはもう単一の遺伝子である─・・・・各群が交叉によって裂けることはめったにない・・・・。・・・・同じ染色体上のとなりあったどうしのシストロンは、しっかり団結した旅仲間をなしており、減数分裂のときがめぐってきても、同じ船に乗りそこなうことはめったにないのである」(58〜60ページ)
(註7)
上記の(a)から(f)までのうち生物学的事実を記述する部分に対しては何も批評することはないが、それを遺伝子による生存機械論の言葉で翻訳している側面に対しては、すでに述べてきた批判の言葉を当てたい。
(g)厳密にいうなら、この本には、利己的なシストロンでも利己的な染色体でもなく、いくぶん利己的な染色体の大きな小片さらに利己的な染色体の小さな小片という題名をつけるべきであったろう。(これは魅惑的な題名でないので)、私は、遺伝子を何代も続く可能性のある染色体の小さな小片と定義して(─これでこの書物における私の主張が必ず正しくなる─)、この本に『利己的遺伝子』(The Selfish Gene)という表題をつけたのである」(60〜61ページ)
(註8)
より小さな単位は「より長命」だが、それは「より利己的」ということとは違う。自己維持性が強いことと利己的であることとは違う。愛他的あるいは非利己的な遺伝子の自己維持性が強いことだってありうるからだ。
(h)「自然淘汰とは各単位の生存に差があるということである(が)、この選択的な死が世界になんらかの影響をおよぼすには、・・・・各単位(が)無数のコピーの形で存在していなければならず、少なくともその一部のものは、進化の上で意味のある期間(コピーの形で)生きのこることのできる能力がなければならない。・・・・個体、グループ、種にはそれがない」(61ページ)
(註9)
著者の見解に反して種の遺伝子はその種の個体の全てにコピーの形で存在している。だが著者の言うように自然淘汰のためには「コピーの形で存在する必要がある」とするのは、遺伝子の平面で、遺伝子の視点から、遺伝子を主人公にして、生物を見ようとしている著者の学説のためであろう。

ここで大きな疑問がある。

遺伝子の本能は自己複製である→減数分裂で自己複製できる単位は個体でなく、また種でもなく、微小な遺伝単位である→遺伝単位は遺伝子である

という著者の論理は正しいか? 

減数分裂で絶対に生き残る遺伝単位は存在しないから、この図式は絶対でない。しかも減数分裂で自己複製できる単位は個々の遺伝単位だけでなく、大きくみれば種の遺伝子でもありうる。
(i)「私が行ったことは(メンデルのように)不可分の微粒子という理想に極度に近づく単位として遺伝子を定義することである。遺伝子はめったに分割しない。・・・・遺伝子のもう一つの側面は、それが老衰しないことである。・・・・それは、自分の目的にあわせて自分のやりかたで次から次へと体を操り、死ぬべき運命にある体が老衰や死にみまわれないうちに相次いでそれらの体を捨て、世代を経ながら体から体へ乗り移ってゆく。・・・・(遺伝子の寿命は数十ヶ月であるが、自己複製でそれより長生きし、理論的には自己複製で一億年でも生き続けることが可能であるが)、遺伝子の(実際の)予想寿命は、十年単位ではなくて一万年ないし百万年単位ではからねばならない」(62ページ)

(註10)
遺伝子の定義が絶対のものでないところに著者の学説の弱点があるようだ。それはつまり遺伝子が絶対に不可分の微粒子でなく相当フレキシブルな存在だということである。そのフレキシブルな性格に著者の学説の曖昧さも起因するだろう。

進化を論じるのに、いわばそれ以上分割できないという意味での最小遺伝単位(いわばアトム)の離合集散でみるべきなのか、それより上の分子の離合集散(たとえば遺伝子の中に見られる種に共通する遺伝単位=種の遺伝子集合)でみるべきなのか? 著者が原子論者の立場を正しいとする理由はなにか? 遺伝単位がアトムのように単一でより長命でなくてはならないなら、それをシストロンなどのような単位遺伝子レベルで見ないで、本質的に高次のシストロン結合である「種」の遺伝子集合レベルで見ても問題はない。

どうやら著者はデモクリトスのように実体をアトムと見、その離合集散で全てを解釈すべしと主張する原子論的還元論者であるようだ。。しかし本当は(私が『新しいパラダイム』で示したように)弁証法的にあらゆる階層が実在するのだ。著者はたとえば染色体や細胞や動物や脊椎動物や哺乳類や霊長類や種や民族や親子や兄弟一般を成り立たせているシストロンの集合、などというものは認めていないようだ。著者にとって遺伝学的実在とは個体(当の染色体セット)であり─(本当は個体でさえ遺伝学的実在ではないだろうが)─一層本質的にはその遺伝子である。その他の全ては(たぶん)抽象物にすぎない。これは「遺伝子学的唯名論」ともいえる。

わたしにとっては染色体や細胞や動物や脊椎動物や哺乳類や霊長類や種や民族や親子や兄弟一般を成り立たせているシストロン結合もまた実在であり─(たとえば「このシストロン結合は哺乳類の個体全てに見られて哺乳類以外には見られないとか」)─それらの階層がそれぞれの比率で淘汰に関わっているように思える。そういうなかでとくに種のシストロン結合レベルにおいて、個体の遺伝子的変容による最も敏感な淘汰が働いていると考えている。

実際に生存競争をしているのは染色体セットの発現態である生物個体である。生存競争は直接遺伝子間で行われるのでなく、発現態としての個体間の生存競争を通じて行われている。発現しているのは個体しかない。だから個体間の生存競争・適者生存を通して、種の利益と進化が図られているわけである。

著者は個体はたとえ誕生から死まで無数の生存競争を行うとしても結局長く生き延びられないから、個体間の生存競争の本質は、長く生き延びられる遺伝子単位(シストロンや相当安定なシストロン集合)どうしの戦いであると見ている。それは具体的には、たとえば青色の目や黄色い肌や黒い髪や高い鼻やある種のストレス耐性などなどの個別的なもののことでしかないだろう。つまり高い鼻のシストロンと低い鼻のシストロンとの生存競争などなどである。著者においてはシストロンの染色体セットレベルの集合はほとんど無視されて問題にされていないから、結局そういうことになる。

しかし淘汰や進化はこんなことで本当に起きているのだろうか? 高い鼻のシストロンと低い鼻のシストロンとは本当に淘汰のための生存競争をしているのだろうか? これらはむろん著者のいうように盲目で自覚がないから、自分も他者もなく、自分が生存競争していることさえも知らないのだが。

だが本当は一セットの染色体の発現態である個体間の、個体の全寿命にわたる無数回の全身的な戦いが行われて、その中で、たとえば弥生人の祖先であるシベリアのブリヤート人は寒風吹きすさぶ酷寒の世界のなかで低い鼻や扁平な顔の方が有利だったから、そういう個体数が増えてあのような顔になった、など、身体の一部の特徴が選択的に個体の群れの中に広がり、淘汰・進化してきたのではないか? 生存競争や淘汰や進化は、あくまでも不利な全身的個体の弱化や滅亡によって実現される。それを遺伝子レベルから見れば、結果としてたまたま「鼻の高いシストロンが淘汰された」というだけではないだろうか。

しかし高い鼻のシストロンの存在が意味あるのは、それが一セットの染色体の一部だからである。高い鼻のシストロンはそれ自身だけでは存在し得ない。鼻の高いシストロンと鼻の低いシストロンとのあいだで直接生存競争が行われているのではない。遺伝子どうしの戦いは、(著者が想定している原始のスープの中の自己複製子時代を除けば、そしてたとえ「遺伝子プール」という用語を著者が利用しようとも)、直接には行われない。

それはどこまでも個体という発現態を通して行われる。媒介となる発現態である個体の役割を過小評価すると、全てが遺伝子どうしの戦いのように見えてしまうだろう。著者は体を遺伝子の容器でありロボットだと強調して、個体は遺伝子どうしの代理戦争をしているものと考えているが、それは体をあまりにも遺伝子のロボットとして見過ぎた彼の「遺伝子決定論」的傾向のせいであろう。

遺伝子の支配力はその種が神経系を発達させるとともに漸次薄れてゆき、とりわけ大脳の発達による記憶能力の進化の程度に従って大いに弱まり、著者ものちに99ページで認めるように、ついに言語を得、文化を発展させた人間に至って非常な制約を受ける。記憶能力は、遺伝子の支配が強く及ぶ生体の直接反応系から相対的に独立した系を構築することの出来る能力である。つまり自分独自の記憶内容に従って遺伝子からの直接的・間接的指令を修正もしくは無視できるわけだ。人間文化の力がその典型である。
(j )「各個体はユニークである。だが、実体のコピーが一個ずつしかないときに、それらの実体間に淘汰が働いて進化が起こることはない!」(63ページ)
(註11)
著者にとって実在とは個体(ダーウィンの立場、著者の立場では個体の染色体セット)と遺伝子しかないが、この個体や染色体セットに対して遺伝子はそれらの実体である。個体や染色体が論争から外れると、論議の対象としては遺伝子しか残らないと見るわけだ。その遺伝子もシストロンのような基本単位である。

さて、競争一般は同じ平面で行われる。つまり共有部分がなければ競争は存在し得ない。しかしまた相互に異なった部分がなくても競争はありえない。つまり生存競争を含め、競争は一般に共通部分を土台にして異なった部分間で行われる。だからコピーが一個ずつしかなくても、またユニークでもいいわけだし、むしろその方が淘汰に適っているのではないか? 著者は「ユニーク」という言葉で相互に異なった部分だけを見て、土台の共通部分を捨象しているのではないか? 共有部分を捨象すると生存競争や淘汰のための土台がないから、著者の言うように「淘汰が働いて進化が起こることはない」のは当然だ。

たしかに個々の個体どうしの淘汰というのは、たいていの場合、遺伝子に及ぼす影響が小さすぎて、変化が累積してゆくことを無視すれば、進化論的には重要でない。しかし個体どうしの淘汰のなかであるとき偶然に大きな遺伝的変化が起き、それが種全体に広がってゆくという特別な場合がありうる。進化論的な淘汰は寿命の長い遺伝単位で見るべきものだろうが、それが「種の遺伝子」であってもべつにいいわけだ。

遺伝子的な淘汰は個体、集団、種族、種などあらゆる次元で同時に多次元的に行われている。そのなかで最も重要なのが、(個体の生存競争によって遺伝子的影響を受ける)非常に安定で長寿の「種の次元」なのだと考えている。まず「種の次元」から淘汰を見、あとで付随的にその淘汰に対応する遺伝子の変化を見るべきではないだろうか?
(k)「個体は安定したものではない。・・・・染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなくまぜられて忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は交叉によっても破壊されない。ただパートナーを変えて進むだけである。もちろん彼らは歩み続ける。それが彼らの務めなのだ。彼らは自己複製子であり、われわれは彼らの生存機械なのである。われわれは目的に仕えたあげく、すてられる。だが、遺伝子は地質学的時間を生きる居住者である。遺伝子は永遠なのだ」(63ページ)
(註12)

なにか非常に説得力のある文章のように見えるが、これはただのレトリックにすぎない。たとえば上の文章のなかの色付けされた「遺伝子」の句を「種の遺伝子」に置き換えてみると以下のようになる。これでも文意は通じる。

「個体は安定したものではない。・・・・染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなくまぜられて忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが「種の遺伝子」である。「種の遺伝子」は交叉によっても破壊されない。ただパートナーを変えて進むだけである。もちろん彼らは歩み続ける。それが彼らの務めなのだ。彼らは自己複製子であり、われわれは彼らの生存機械なのである。われわれは目的に仕えたあげく、すてられる。だが、「種の遺伝子」は地質学的時間を生きる居住者である。遺伝子は永遠なのだ」

さて、著者が「遺伝子は交叉によっても破壊されない」「遺伝子は永遠である」というのは誤りである。なぜなら一万年あるいは十万年単位で起る交叉によって遺伝子がズタズタにされて消滅してしまうからこそ、遺伝子の定義ができなくなったからである。ドーキンスは交叉で遺伝子が寸断されることは滅多にないとし、起きても一万年あるいは百万年単位、つまり遺伝子の寿命はその程度だと言うが、遺伝学的単位としては一万年や百万年の方こそが普通の尺度なので、「滅多にない」というのは正しくない。これは人間の寿命を基準にした判断に過ぎない。
(l)「われわれは自然淘汰の実際の単位を見つけたいのである。そのために、自然淘汰に成功する単位が持つべき特性を確認することからはじめよう。前章のことばでいえば、それは長命、多産性、複製の正確さである。そこでわれわれは単に『遺伝子』を、少なくとも潜在的にこれらの特性をもっている最大の単位と定義する。遺伝子は多くのコピーの形で(数多くの個体のなかに)存在する長命の自己複製子である。・・・・ふつうはシストロンと染色体との中間のどこかに位置する大きさであることがわかるであろう」(64〜65ページ)
(註13)
「長命・多産性・複製の正確さ」についていえば「種の遺伝子」もそうだから、著者の主張は通らない。また著者は他の遺伝単位を無視するために、自説の遺伝子を「最大の単位」としている。しかし「最大の単位」は一つあるいは数個のシストロン・レベルのそれでなく、染色体を覆うような数多くのシストロンの集合である「種の遺伝子」の方だと見るべきだろう。
(m)「(ある特徴はある種にとって不利で、他の種にとって有利であるということがあるが)、個々の細部にとらわれずに、あらゆるすぐれた<つまり長命の>遺伝子に共通するなんらかの普遍的な特性を考えることができるだろうか? ・・・・(それは)すなわち、遺伝子レベルでは、利他主義は悪であり、利己主義は善である(ということである)。・・・・遺伝子は利己主義の基本単位なのだ」(65〜66ページ)
(註14)
ここに著者の「遺伝子利己主義の絶対性」が説かれているが、先にも指摘したように、著者は同時に「遺伝子非決定論」も主張していて、実はこの二つは矛盾している。本体の遺伝子そのものが非決定論なのだから、それに修飾する「利己的」というのも、結局、非決定論にならざるを得ない。したがって、「遺伝子が絶対に利己的である」という著者の主張の自己矛盾が露呈する。
(n)「独立した自由な遺伝子が世代から世代へ旅をするのだが、それらは胚発生の制御においてはあまり自由な因子でも独立した因子でもない。・・・・肢の構築は、複数の遺伝子の共同作業である。・・・・だがここでわれわれは、逆説に陥るように思われる。(四肢を含む)赤ん坊をつくることがこれほどいりくんだ共同事業であるのならば、そして、あらゆる遺伝子がその仕事をするのに数千の仲間の遺伝子を必要とするのであれば、世代を通じて体から体へと不死身のシャモアのように跳躍してゆく不可分の遺伝子、つまり、自由で拘束されない、自己追求的な生命の因子という私の図式とこのこととが、どうして両立しうるのだろうか? それらはすべてたわごとだったのだろうか? いやそうではない。・・・・実際矛盾はないのだ」(66〜68ページ)
(註15)
著者は矛盾しないという主張を裏付けるボートレースの例えを68〜69ページで展開するが要領を得ないで終わり、結局、「この微妙な点を説明するのにふさわしいアナロジーがあるが、・・・・それは『ゲーム理論』とのアナロジーである。・・・・そこでこの点に関するこれ以上の議論は、第五章の章末にゆずる」と記している。すると第五章末ではちゃんと説明できているであろうか? ところが(註31)(註32)で示したように、結局、著者は支離滅裂な混乱に陥ってしまっているのである。
(o)「(生物は両性生殖によって代を経るごとに自己の遺伝子セットを失っていくが、なぜ生命は両性生殖つまり性を選んだか? 明らかに性においては一見利己性よりも群や類や種の性格が有利である。だが)、「有性生殖対無性生殖は、青い目対褐色の目とまったく同様に、単一の遺伝子の制御下にある特性と考えられ、・・・・無性生殖に対立するものとしての有性生殖が、有性生殖の遺伝子を有利にするのであれば、(その利己性によって)・・・・有性生殖の存在は十分に説明できる。その遺伝子が個体の残りの遺伝子すべてに役立つか否かということは、あまり関係がない」(75〜77ページ)
(註16)
有性生殖と無性生殖を分けているのは決して単一の遺伝子ではないだろう。生物の根幹に関係しているものだから、おそらく多くの遺伝子が関わっている筈である。そしてそれらが進化の上で有利であるためには個体の全身的生存競争で勝ち残る必要があるので、個体の残りの遺伝子の、すべてでなくても、その多くに役立つ必要がある。

(p)「(DNAには遺伝情報とは無関係な余分な大量の部分がある、それも)遺伝子の利己性の観点からみれば矛盾はない。DNAの真の『目的』は生きのびることであり、・・・・、(余分なDNAは)他のDNAがつくった生存機械に乗せてもらっている、無害だが役に立たない旅人だと考えればよい」(77〜78ページ)
(註17)
これでは説明になっていない。この問題は、他からきた大量の余分なDNAの部分は自分の遺伝子の利己性から見ればどこまでも余計なものなのに、たとえ無害だとしても、どうしてそのようなものが存在するのか?という問題なのだ。他からきたDNAの真の目的など利己的遺伝子にとってどうでもいいものではないだろうか。
(q)「ある人々は極端に遺伝子中心の進化論と思われるものに反対する。彼らにいわせると、けっきょく、実際に生きたり死んだりするのは、遺伝子全部を含んだ個体そのものである。・・・・(むろん)生きたり死んだりするのは個体であるし、自然淘汰が直接あらわれるのはほとんどいつでも個体レベルである。しかし、個体の死と繁殖の成功がでたらめに起るのでないため、長い間には遺伝子プール内の遺伝子頻度が変わるという結果をまねく。条件つきではあるが、遺伝子プールは、原始のスープが昔の自己複製子に対してはたしていたのと同じ役割を、現代の自己複製子に対してはたしているといえる。性と染色体の交叉には、現代版原始スープの流動性をまもるという効果がある。進化は、遺伝子プール内である遺伝子が数を増し、ある遺伝子が数をへらす過程である」(77〜78ページ)
(註18)
個体による生存競争論をいったん認めておきながら、それに対立する自説についてなんの有効な説明もなされていない。ただ自説の遺伝子の観点を繰り返しているにすぎない。ところで「遺伝子プール」という概念はいかにも著者の説には打ってつけの概念であるが、それが厳密に正しい科学用語であるかどうかは、著者の利己的遺伝子説が科学的に正しいかどうかにかかっている。

すべてを遺伝子の次元からみると、遺伝子がうじゃうじゃいて、それを「遺伝子プール」と呼びたくなるのは理解できるとしても、個体の全身的生存競争とそれによる種の遺伝子の進化論的変化の方が重要で、染色体の中のどの遺伝子が「遺伝子プール」で勝ち残ったのかはそれほど重要ではないだろう。


著者が想定する原始スープの中では自己複製子どうしの直接の生存競争が営まれたかもしれないが、たとえ性と染色体の交叉によって現代版原始スープの流動性がまもられているとしても、もう生命が誕生して長い間ずっと自己複製子どうしの直接の生存競争などは営まれていない。それを、原始スープの話題を挙げて、あたかも、「個体間で生存競争が行われているように遺伝子間でも遺伝子プールで直接生存競争をしている」とでも受け取れるように巧みにごまかしている。「遺伝子プール」は一種の学術的な概念にすぎず、そこで行われている遺伝子間の生存競争は直接に行われているものではない。直接に行われている生存競争は個体間だけであり、それを通じて、結果としていわゆる著者のいう「遺伝子プール」内の変化が起きているのである。

(4) 遺伝子機械

(a)「生存機械は遺伝子の受動的な避難所として生まれたもので、最初は、ライバルとの化学的戦いや偶然の分子衝撃の被害から身をまもる壁を提供していたにすぎなかった。(そこから植物の、さらにその植物を食い物にして動物の枝が進化し、そしてそれらから数多くの小枝が出て、海で、地上で、空中で、地中で、樹上で、はては他の生物の体内で、くらしをたてるようになった。)この枝わかれが、今日われわれを感動させるほどの動植物の多様性を生み出したのである。・・・・ある人々はコロニーにたとえて、体を細胞のコロニーだという。私は体を遺伝子のコロニー、細胞を遺伝子の化学工場として都合のよい作用単位、と考えたい」(79〜80ページ)

(b)「主観的には(中枢によって細胞間の統制が進んでいるほど生存競争で有利なので)私は自分を一つのコロニーではなく一つの単位だと感じている。・・・・(実際)生存機械の行動を論じるときに、遺伝子の話をもちこむことは冗長であり不必要であることが多い。実際的には、第一近似として、『個体というものはその全遺伝子を、後の世代により多く伝えようとするものだ』とみなしておくのが、多くの場合、便利である。以後私はこの便法にしたがって話を進めることにする。・・・・この章では行動、─つまり、動物と呼ばれる生存機械が大いに利用してきた、すばやく動く芸当─について述べる」(80〜81ページ)
(註19)
著者が(a)で展開している遺伝子コロニー説や細胞の遺伝子化学工場説はむろん彼の生存機械説からの誤った帰結である。体は遺伝子のコロニーでなく細胞のコロニーであり、細胞は自己の一部である遺伝子の情報をもとに化学工場の機能を果たしていると表現すべきであろう。

(b)では著者ははしなくも、「従来の群淘汰説は厳密には正しくないとしても、概ね正しい」ということを、ここでこのように明らかにしているわけである。
(c)「動物がすばやい運動をおこなうために進化させたからくりは、筋肉であった。・・・・(そして)脳が生存機械の成功に実際に貢献する方法として重要なものに、(外界の出来事とのタイミングにおける)筋収縮・調整がある。・・・・(さらに)めざましい進歩は、記憶という進化的な『発明』であった。・・・・生存機械の行動のもっともいちじるしい特性の一つは、そのまぎれもない合目的性である。・・・・この合目的性が『意識』とよばれる特性を発達させた(が)、無意識の合目的行動の原理は、(ワットの蒸気機関の調速機にも見られる、望みの状態との食い違いを計って修正しようとする)負のフィードバックとよばれるもので、・・・・現代の目的機械は、(誘導ミサイルのように)いっそう複雑な『生きているかのような』行動を達成するために、負のフィードバックのような基本原理を拡大して利用している」(81〜86ページ)

(d)「(よくある誤解としてあるのは)『コンピューターは技師が命じたことしかできないのだから、コンピューターは本当の意味でチェスをプレイしているわけではない』というものである。・・・・これがなぜ誤解なのかを理解する必要がある。遺伝子が行動を『制御』しているといいうる意味を理解するうえで重要だからだ。(チェスにおいて重要なのはチェス・プログラムで、一度コンピューターにプログラムがインストールされると、それはプログラム作成者から独立し)、自分の手をコンピューターに打ち込む対戦者を除けば、もう人間の介入はいらないのである。(銀河系の全ての原子より数多い可能な手のすべてをあらかじめプログラム作成者がプログラムできるわけはないので、したがってプログラムは自分の判断で手を決めているわけだ。)プログラム作成者にできることは、あらかじめ、特殊な知識のリストと戦略や技術のヒントをバランスよくうちこんで、コンピューターの体勢をできるだけよい状態にしておくことである。遺伝子もまた、直接自らの指であやつり人形の糸を操るのではなく、コンピューターのプログラム作成者のように間接的に自らの生存機械の行動を制御している。彼らのできることは、あらかじめ生存機械の体勢を組み立てることである。その後は、生存機械が独立して歩きはじめ、遺伝子はその中で(タイムラグのため)ただおとなくしくしている」(87〜89ページ)
(註20)
 著者は(d)でチェスのプログラム製作者とチェスプレイを比ゆ的に、遺伝子と細胞・体の活動と対比させている。そこでは、

    遺伝子   ─ プログラム作成者
    生存機械 ─ プログラム
    個体     ─ プレイヤー
    活動     ─ プレイ

という関係が想定されている。たしかに遺伝子が生存機械(細胞・体)の体勢を組み立てて、個体が生存機械を動作させるように、プログラム作成者がプログラムを作成し、プレイヤーがプログラムを動作させる。そして、生存機械が一度生じれば遺伝子に直接支配されないように、プログラムは一度作成されると、プログラム製作者に直接支配されない。

しかしこのことと、「コンピューターは本当の意味でチェスをプレイしているかどうか」の判断は別である。ここで一般に「本当の意味で」というのは、「真に独自の判断のできる自覚的主体として」という意味であって、そういう意味では、コンピューターはあくまでもプログラム製作者の製作の枠内で、無自覚に、ただ機械的に、作動しているにすぎない。それを、「コンピューターは技師が命じたことしかできない」という言葉で表現しているのだ。著者は自分流に解釈して勝手な論理を展開している。
(e)「(彼らがおとなしくしてたえず手綱を握って次々に指示を与えないのは)、時間のずれ(タイムラグ)という問題があってそうできないのだ。(SF小説『アンドロメダのA』は、200光年かなたのアンドロメダ星人が電波で送ってきた暗号メッセージに従って地球人類が造ったコンピューターに地球人類が支配されかけたという筋書きの小説だが、アンドロメダ星人は)、コンピューターが次々におこなうことを直接制御したわけではない。・・・・破ることのできない200年という壁のために、(アンドロメダからの直接指令は不可能で)、その指令はすべて前もって組み込まれていなければならなかった。・・・・アンドロメダ星人が、自分たちに有利なように日々の決定を下すためには地球上にコンピューターをもたねばならなかったのとまさに同じように、われわれの遺伝子は脳を築かねばならない。・・・・遺伝子がわれわれ操り人形の糸を直接操ることができない理由は、まさに同じこと、つまり時間のずれにあるのである。(明らかに遺伝子はタンパク質を合成するにも長時間必要なので、数分の一秒という反応が必要な動物のその時そのときの動作を直接に左右などしていない)。「遺伝子にできるのは、アンドロメダ星人と同様に、自らの利益のためにコンピューターを組み立て、『予測』できるかぎりの不慮のできごとに対処するための規則と『忠告』を前もってプログラムして、あらかじめ最善の策を講じておくことだけである」(89〜92ページ)
(註21)
著者は「遺伝子の間接操作」をアンドロメダ星人のコンピューターのたとえで明らかにしようとしているが、これは単に、遺伝子が時間のかかるタンパク質合成を通じてのんびりと機能している事実を指摘すれば足りるから、余計なたとえである。それに誤ったたとえでもある。たとえばアンドロメダ星人のコンピューターが地球人類を支配するほどの知力を持っているなら、それは地球人類の自我や意識を凌駕する精神能力を持っているわけである。そういうコンピューターの自我は、すでに独自なものとして、アンドロメダ星人のそもそもの思惑さえ否定してしまうかもしれない。つまりアンドロメダ星人のコンピューターの設計図は、ちょうどときおり遺伝子の思惑が人間の自我によって否定されるように、設計図に従って構築されたコンピューター内の自我あるいは意識によって否定される可能性があるわけである。それでは著者のいうアンドロメダ星人による間接操作など到底実現しない。つまり、脳で自我が発生すると、たとえ間接的ではあっても遺伝子の制御力や支配力は弱化する。

著者は遺伝子の「間接的な」生物個体操作論を展開しつつも、すでに見たように遺伝子非決定論を認めている。「間接的な操作」とは、たとえば「動物の日々の行動は遺伝子が決めているのでなく脳がいちいち決めているとしても、動物の行動様式のような大枠は遺伝子が決めている」といったようなことだ。しかし著者の認めるとおり日々の行動決定は脳が行っており、しかも遺伝子非決定論が正しいとするなら、一体どれほどの支配力が遺伝子から細胞や体とりわけ人間個体に及ぶのだろうか? これでは到底「ロボット」「操り人形」「生存機械」「乗り物」「入れ物」という程度まではいかないだろう。とくに自我の宿る脳が日々の行動決定を行っているのなら─あきらかに脳は日々のこまごまとしたことまで遺伝子に操作されてはいないし、とくに人間の大脳では生物的な生体反応や本能から相対的に独立な文化や思想の力が働いていて、なおさらそういえるので─そういう脳が「遺伝子の操り人形だ」というのは余りにも極論過ぎる誤りであろう。
(f)「遺伝子は予言に似た作業を行わねばならない。・・・・ホッキョクグマの遺伝子は、やがて生まれてくる生存機械の未来が寒いものであることをまちがいなく予測できる。・・・・いささか予言不能な環境を予言するという問題を解決するために遺伝子がとる方法の一つは、学習の能力を組みこむことである。・・・・未来を予言する方法のうちもっとも興味ぶかいものの一つは、シミュレーション(代理試行錯誤)である。(しかしそれが)そんなにいい思いつきなのであれば、生存機械はとっくの昔にそれを見つけていたはずで、(つまりそれが、ある条件下でどんなことが起きるかを想像することなのだが)・・・・シュミレーション能力の進化は、主観的意識で頂点に達する。・・・・たぶん、意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ(脳)自体のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう。・・・・これをいいかえれば、「自己を知っていること』ということになろうが、・・・・(モデルのモデルのモデルという無限の遡及が含まれているため)意識の進化を十分説明できるとは思わない」(92〜98ページ)
(註22)
意識の発生については私の『新しいパラダイム』をご参考願いたいが、著者がここで述べているのは概ね正しい。
(g)「意識とは、実行上の決定権を持つ生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致だと考えることができる。・・・・脳は遺伝子の独裁に叛く力さえそなえている。たとえば、できるだけたくさん子供をつくることを拒むなどがそれだ。しかし、・・・・この点では人間はひじょうに特殊なケースなのである」(99ページ)
(註23)
著者のここでの発言は正しい。彼がここまで述べるのなら、「生存機械」「乗り物」「入れ物」「あやつり人形」などの偏向的な言葉は使用すべきでない。また人間だけが特殊なケースなのでなく、進化において漸次そういう色彩が濃くなってきたことを考慮すれば、進化の各段階で潜在的・顕在的にそういう傾向を発見しようと努力し、そういう解釈を実行しようとするのが筋である。
(h)「私は、利他的であるにせよ利己的であるにせよ、動物の行動が、単に間接的であるというだけで実はひじょうに強力な意味における遺伝子の制御下にあるという見解を確立しようとしている。生存機械と神経系を組み立てる方法を指令することによって、遺伝子は行動に基本的な力をふるっている。しかし、次に何をするかを一瞬一瞬決定してゆくのは、神経系である。遺伝子は方針決定者であり、脳は実施者である。だが、脳はさらに高度に発達するにつれて、しだいに実際の方針決定をもひきうけるようになり、そのさい学習やシミュレーションのような策略を用いるようになった。どの種でもそこまではいっていないが、この傾向がすすめば、論理的にはけっきょく、遺伝子が生存機械にたった一つの総合的な方針を指令するようになるであろう。つまり、われわれを生かしておくのにもっともよいと思うことを何でもやれ、という命令を下すようになるであろう」(99〜100ページ)  
(註24)
「非常に強力な意味における遺伝子の制御」というだけならなんの問題もない。中枢神経系が未発達で、分散した神経叢や神経節しかない動物であればあるほど、そういう側面は強い。それを、われわれ人間も「生存機械・あやつり人形だ」と表現するから、遺伝子決定論のような誤解を招くのだ。著者の言うように、遺伝子による動物の行動様式や方針の決定が脳の進化によって次第にその脳に取って代わられ、ついにたった一つの総合的方針だけを遺伝子が指令するようなことになるのであれば、それはもう余りに弱すぎて、「非常に強力な意味における遺伝子の制御」というものなどではなくなる。

そこまで脳の自我がほとんど全てを決定できるなら、もはや脳の自我は遺伝子からほとんど自由であって、そのような脳の自我は、以前の遺伝子の最後に残った「われわれを生かしておくのにもっともよいと思うことを何でもやれ」というたった一つの指令そのものさえ、独身主義・避妊手術・同性愛などなどで否定できるだろうからである。さらにたとえば、自我は自己の個体の遺伝子を組み替えることを決定することによって以前の遺伝子そのものさえ改変してしまうこともできる。そうなれば主人たる過去の遺伝子からの指令は全て途絶する。
(i)「ところで、利他的行動の遺伝について何か実験的証拠はあるのだろうか。それはない。・・・・どんな行動についても遺伝の研究はほとんどおこなわれていないのだから」(100ページ)

(5) 攻撃─安定性と利己的機械

(a)「同種の生存機械どうしは(種の異なる生存機械どうしよりも)もっと直接的なかたちで互いの生活に影響をおよぼしあう。・・・・一つには、自種の個体群の半数は(自分の子供たちを生むための)つがいの相手になりうる個体であり、・・・・もう一つの理由は、同じような場所と同じような生活手段をもちいて遺伝子をまもっている機械であるため、生活に必要なあらゆる資源をめぐる直接の競争相手だということである」(110ページ)
(註25)
著者はここで同種の個体間の生存競争が一番熾烈だと白状している。これはつまり「シストロン云々が遺伝単位で、進化はその遺伝単位で起きる」というより、個体間の生存競争による種の遺伝子進化説が正しいということではないだろうか?
(b)「コンラート・ローレンツ(が)、『攻撃』の中で(注目しているのは)、・・・・動物の戦いがルールにしたがって戦われる形式的な試合だということである(が)、動物の攻撃は抑制のきいた形式的なものだとするこの解釈には反論の余地がある。(とはいえ)、少なくともある程度の真実はあるように思われる。表面的には、これは(利己的遺伝子説には不利な)利他主義のようにみえる。・・・・(利己的遺伝子のための生存機械である)動物たちがあらゆる機会をとらえて自種のライバルを殺すことに全力を尽くしたりしないのは、なぜだろうか? この問いに対する答えは、徹底したけんか好きには(時間とエネルギーにおいて)利益(利得)と同時に損失(コスト)もあり、(また『敵の敵は味方』という場合の「間接的な味方」を失ってしまうからである)」(111〜112ページ)
(註26)
著者はここで「種にとって善」を旨とする群淘汰説の支持者ローレンツを利己的遺伝子説の立場から批判している。しかし著者の利己的遺伝子説は厳密にはすでに見たように誤っている。だからここでの問題を著者の挙げた回答だけで「解決した」とするのも誤りである。著者とローレンツの回答にともに賛成するのが正しいと思われる。というのも、絶対的な利己主義を認めないローレンツの立場においてでさえ、動物は多く場合、利己的だからである。動物がライバルの徹底排除をやらないのは、片方だけでなく両者の挙げた理由がともに働いているからであろう。
(c)「理論的にいえば、戦うべきか否かの決断に先立って、無意識かもしれないが複雑な『損得計算』がなされている・・・・(これを明確に提唱したのはW・J・メイナード=スミスで、彼はゲーム理論を応用し、W・D・ハミルトンなどの着想から得た『進化的に安定な戦略』(ESS─evolutionarily stable strategy)がそこでの重要な概念である)。『戦略』というのは、(その動物自身に意識されるにせよ、されないにせよ)あらかじめ(遺伝子に、たとえば『相手を攻撃しろ、彼が逃げたら追いかけろ、応酬してきたら逃げるのだ!』というように)プログラムされている行動方針である。・・・・ESSは、個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、べつの代替戦略によってとってかわられることのない戦略だと定義できる。・・・・いったんESSに到達すれば、(個体群のなかに英雄が出たり、あるいは環境の激変で一時的な変動があっても)、それがそのまま残る。淘汰はこの戦略からはずれたものを罰するであろう」(114〜115ページ)
(d)「この(ESSの)概念を攻撃にあてはめるために、(ある個体群をタカ派型とハト派型に二分する)メイナード=スミスの一番単純な仮定的例の一つを考察してみよう。当面のところ、ある個体は特定ライバルがタカ派であるかハト派であるか前もって知る手立てはないものと仮定しておこう。(タカ派どうしは激闘を繰り広げ、ハト派どうしはポーズだけで戦わない。そしてタカ派とハト派ではいつもタカ派が勝つ。この場合)、われわれが知りたいのは、タカ派型とハト派型のどちらが進化的に安定な戦略(ESS)なのかということである。・・・・(しかし)じつは、タカ派とハト派という二つの戦略はどちらもそれ自体では、進化的に安定ではない。・・・・(浪費時間の長さや怪我をしたケースなどに一定の得点を配分すると、ハト派ばかりの個体群では全て一戦あたりの平均得点はプラス15点だが、タカ派ばかりの個体群ではマイナス25点である。タカ派の個体群のなかにハト派が一個体いるものとすると、彼は(いつも逃げてしまって)全ての戦いに負けるが、決してけがをしないし、彼の平均得点はタカ派個体群内ではゼロである。)したがって、ハト派の遺伝子はその個体群内で広まる傾向がある。・・・・われわれが用いている任意の得点システムから計算してみると、安定した比率は、ハト派が12分の5、タカ派が12分の7である。この安定した比率に達すると、タカ派の平均得点とハト派の平均得点がちょうど等しくなる。(ハト派とタカ派の個体数に多少の振動が起きても、結局そこに戻ってくることになる)」(115〜118ページ)
(e)「表面的には、これは群淘汰説にいくぶん似ているように思われるかもしれないが、実際にはまったくちがう。群淘汰説に似ているようにみえるのは、この説明が、個体群には安定な平衡状態というものがあって、それを乱すと、ふたたびその点までもどろうとする傾向があると考えることを可能にするからである。・・・・タカ派12分の7、ハト派12分の5からなる安定した個体群内のある個体の平均得点は、(その個体がハト派であれタカ派であれ)6・25であることがわかる。ところで、この6・25というのはハト派個体群内のハト派個体の平均得点(15)よりずっと低い。・・・・したがって、群淘汰説は、全員ハト派の申し合わせ(協定)にむかって進化するだろうと予言するにちがいない。・・・・しかし・・・・難点は、・・・・(たまたま突然変異で出現するタカ派の個体による)裏切りを免れないことである。・・・・そこへいくと、内部からの裏切りを食い止める力を持っているESSは安定している」(118〜119ページ)
(註27)
上の(c)については、ESSは遺伝子の中では「種に特有の戦略」になっているはずで、シストロンのような個々の遺伝子単位のものでないことはいうまでもない。だからESSがあたかも種の立場や群淘汰説と矛盾するというようなことをここからは結論できないはずだが、著者は(e)でそうしている。

(d)については、ハト派とタカ派という単純な二項設定や、またどのケースを何点とするかという得点配分設定などが、非常に現実から乖離しているということに読者の注意を振り向けたい。実際、(e)で著者はこの設定を利用して、群淘汰説を妥当でないと結論している。

(e)については、15対6・25という得点関係から結論づけるべきことは、「ゲーム理論によれば得点の多い方が現実とならねばならないので、群淘汰説であれESSであれ、現実は全てがハト派でなくてはならない」ということであろう。むろん現実はそうでない。メイナード=スミス説のいわゆるESSに映し出された現実は、タカ派とハト派の均衡状態になっていて、ハト派ばかりにはなっていない。つまりこのままではゲーム理論は現実を映し出していない。すると、著者の利用しているこのゲーム理論はこのままでは何の意味もないわけだ。なのに、どういうわけか著者はこれを群淘汰説批判の材料に転用している。

そもそも「ハト派ばかりの個体群」という仮想の設定をしたのがおかしい。もしハト派ばかりの個体群が一つの個体群でなく種全体としてあるのなら、むろん著者のいうように「突然変異以外」にタカ派が内部に裏切り者として発生してくることは遺伝子的にありえない。しかしこういう突然変異そのものは実際には起らないかもしれないのである。つまり著者はなにもかも架空の想定で自分勝手な議論の進め方をしている。

それに、このゲーム設定は非常に単純化されている。仮想的な加点減点の得点配分法(著者も123ページで「残念ながら、現在、自然界の諸現象の費用と利益に実際の数値をあてはめるには、あまりにもわかっていることが少なすぎる」と述懐している)、相手がタカ派かハト派かがあらかじめ分からないものとしていること、またハト派とタカ派の二派しか存在しないという設定、などをしており、同時に、個体群の外部にいる別の個体群、もしくは他種との関係なども捨象されている。他の全部の内部因子や全ての外部因子を考慮に入れれば、得点関係はもう少し違ったものになるのではないだろうか。

たとえば121ページで著者が記しているように、メイナード=スミスはタカ派とハト派に加えて「報復派型」(タカ派に攻撃された場合にだけタカ派のようにふるまい、その他ではハト派としてふるまう型)を付け加えて、ゲームのモデルを現実にいっそう近づけようとしている。さらに「あばれん坊派」や「試し報復派」の型も加える。そうなればハト派だけの個体群の得点関係はどうなるのだろうか? 

結果としては、「報復派だけが進化的に安定である」(122ページ)「(ハト派は)少数派である」(123ページ)としている。

すると、ハト派だけとタカ派だけの設定で、「ハト派だけの場合が最高得点だから、群淘汰説はこれをもって、ハト派だけが勝ち残ってゆくと予言するだろう」とした著者の言葉は、「ハト派だけとタカ派だけ」という現実離れした、架空の条件設定の上での自分勝手な意図的誤導の論述だったことになる。

ESSはどう「種にとって善」すなわち群淘汰説と矛盾するのか? 上の著者の誤導的なハト派最高得点仮想ゲーム以外にその証明がない。この著者のESSの例がたとえ(無意識的あるいは意識的な)「協定」を軽視できるとしても、それがどう群淘汰説に不利で、彼の利己的遺伝子説に有利なのかよく分からない。むしろ著者のいうESSにおける個体群の安定な平衡状態の存在は、やはり群淘汰説に有利ではないだろうか? 

非常に多くの場合、ESS説と群淘汰説とは両立していると思われる。同種間や異種間で繰り広げられる群淘汰を中心軸にして、生物の諸階層のそれぞれがそれぞれの動的な比率で、進化に影響を及ぼしていると考えるのが妥当だろう。
(f)「人間では(その協定の規約にしたがうことが自分の長期的利益につながることがみぬけるから、ハト派協定が)、たとえそれがESSという意味で安定していなくても可能である。人間の協定ですら(価格協定に見られるように)その協定を破れば短期的に大もうけできるため、そうしたいという誘惑がつねに優勢になる危険をはらんでいる。(価格を上げたり下げたりして儲けようとする結果)、意識的に見通しをたてる才能にめぐまれた種である人間においてさえ、長期的利益にもとづく協定ないし申し合わせは、内部からの崩壊のせとぎわでたえず動揺をつづけている。まして、せめぎあう遺伝子によって支配されている野生動物では、集団の利益や申し合わせの戦略が進化するとはとても思えない」(119〜120ページ)
(註28)
価格競争は、結局、動揺しつつも平衡状態へ向けて安定しようとする。著者は「たえず動揺を続けている」ことを、なにか平衡状態を否定する事実のように解釈しているが、この動揺は平衡状態へ向かっての動揺なのだから、それを集団の利益や申し合わせの進化を否定する材料としてみるのは誤りである。この世界に存在する動揺は、物理・化学・生物・心理の領域でも、全て安定点へ向けての動揺なのだ。自分に不利な材料を有利な材料のように見せかけるトリックがこの著作にふんだんに見られるのは、非常に残念なことである。
(g)「(ESSにおいて)タカ派とハト派の進化的に安定な比率にゆきついた(が)、実際にこれは、タカ派の遺伝子とハト派の遺伝子の安定した比率が遺伝子プール内に確立されるということである。遺伝学用語ではこの状態を安定多型(stable polymorphism)という。・・・・どの個体もそれぞれの争いにおいてタカ派のようにもハト派のようにも(その他のようにも)ふるまえるのであれば、全個体が同じ確率で・・・・ESSが達成される。(ハト派、タカ派、報復派、あばれん坊派、試し報復派の五つの戦略者を)コンピューター・シミュレーションで・・・・互いに自由にふるまわせると、報復派だけが進化的に安定であることがわかる。試し報復派はほぼ安定である。ハト派は、その個体群がタカ派とあばれん坊派の侵略を許すので安定でない。タカ派も、その個体群がハト派とあばれん坊派の侵入を許すので、安定でない。報復派の個体群は、報復派自身よりうまくやる戦略が他にないため、どの戦略者にも侵されない。・・・・したがって、報復派と試し報復派の混じったものが、おそらくこの二者間の静かな振動をたもちながら少数派であるハト派の数の振動と関連しつつ優勢を占めていくだろうと考えられる。この理論上の結論は、大部分の野生動物に実際におこっていることとかけはなれてはいない。(しかし)残念ながら、現在、自然界の諸現象の費用と利益に実際の数値(点数)をあてはめるには、あまりにもわかっていることが少なすぎる。・・・・重要な一般的結論は、ESSが進化する傾向があること、ESSが集団の申し合わせによって達成されうる最適条件と同じでないこと、そして常識は誤解を招くことがあるということである」(120〜124ページ)
(註29)
この前半の文章によって、先にハト派とタカ派だけで構築したゲーム設定からハト派単独勝利の群淘汰説を批判していたのが、意図的な誤導だったと判明する。また、ゲームの数値設定(点数配分法)がそれほど正確でないことを著者はここで告白している。つまりゲーム理論はいまのところ参考程度にとどめなくてはならないだろう。

さらに最後に、「ESSが集団の申し合わせによって達成されうる最適条件と同じでない」とあるが、別に最適でなくても、申し合わせの効力はいろいろの適度で存在するし、意識や想像力や文化の力が働く人間段階では、ことさらにそういえる。

124〜126ページにかけて著者はメイナード=スミスのもう一つの戦争ゲームである「持久戦」(鎧型動物に多い)を紹介し、そこでは、時間を通貨とする戦いが繰り広げられ、嘘は真実を語るより進化的に安定でなく、ポーカーフェイスが進化的に安定だとするが、これについては利己的遺伝子とのつながりが明確でなく、詳しく触れない。

(h)「われわれがこれまで検討してきたのは、メイナード=スミスが(競争者の間に戦略の違いしか存在しない)『対称的』争いとよんでいるものばかりである。・・・・これはあまり現実的ではない。そこで・・・・メイナード=スミスは非対称的な争いを考えてみた。(それには)三つの主なものが考えられる。(もっとも重要な)第一は・・・・体の大きさか戦闘能力が個体によって異なる場合である。第二は、勝利によって得なければならない利益の大きさが(たとえば老雄と若雄との差のように)個体によって異なる場合である。第三は、まったく任意の、(たとえば先に一方が争いの場に到着しているなど)一見関係なさそうに見える、(『先住者』の『侵入者』に対する「なわばり防衛」など既得権的な)非対称が、ESS(この場合は『自分が先住者であれば攻撃し、侵入者であれば退却する』)をうみ出しうるというものである」(126〜130ページ)
(i)「もし動物が過去の戦いについてなにかおぼえているとしたらどうであろう? それは、その記憶が個別的なものか、一般的なものかによって異なる。・・・・勝つことになれた個体はますます勝つようになり、負けぐせのついた個体はきまって負けるようになるというのが現象のすべてである。・・・・(そしておのずとある順位にわかれていき)、集団内の激しい争いを次第に減らしてゆく効果がある。コオロギは互いに相手を個体として認知してはいないが、ニワトリやサルは認知している。(しかし個体認知の有無にかかわらずどちらにも順位制が生じている。むろん)ニワトリのばあいには、各個体が互いに別の個体に対する『自分の位置を学ぶ』からである。・・・・順位制それ自体は進化的な意味で『機能』をもっているとはいえない。なぜなら、それは集団の特性であって、個体の特性ではないからだ。集団レベルでみたときに順位制の形であらわれる個体の行動パターンには、機能があるといえるかもしれない。しかし、『機能』ということばをまったくすてて、個体認知と記憶という二つの条件を加味した非対称な争いにおけるESSという点からこの問題を考えたほうが、はるかにいい」(132〜134ページ)
(註30)
著者が、「順位制それ自体は進化的な意味で『機能』をもっているとはいえない。なぜなら、それは集団の特性であって、個体の特性ではない」と言うのは、群淘汰説を忌避する著者の、個体や遺伝子に対する偏向からくる誤った見方である。

(j)「以上、同種の個体間の争いについて考えてきたが、種間の争いについてはどうであろうか? ・・・・異種のメンバーは同種のメンバーにくらべると、それほど直接的な競争相手ではない。ロビンは他のロビンに対してなわばりをまもるが、シジュウカラに対しては防衛しない。だがあるばあいには、別種の個体間の利害がたいへん激しく衝突する。・・・・(獲物の動物は異種のたとえば天敵に対して)たいてい報復せずに逃げるのは、たぶん同種のメンバー間のばあいよりも大きな非対称が組み込まれているという事実に根ざしている。争いに大きな非対称があるばあいには、ESSはつねにその非対称に依存した条件戦略になるようである」(134〜135ページ)

(k)「われわれは、ESSの概念の発明を、ダーウィン以来の進化論におけるもっとも重要な進歩の一つとしてふりかえるようになるのではなかろうか。この概念は(社会組織・生態系・コミュニティーなど)利害の衝突のあるところならどこにでもあてはまる。つまりそれは、ほとんどあらゆる場面に通用する。・・・・メイナード=スミスのESSの概念こそ、独立した利己的な単位の集まりがどのようにして単一の組織された全体に似てくるようになるかを、はじめてはっきりと教えてくれるであろう」(136ページ)
(註31)
(j)についてはあまり言うことはない。

(k)については、著者の利己的遺伝子説と同様、もしESSが著者の言うように群淘汰説と矛盾するものなら、これは過度の評価であるといわねばならない。彼は、「メイナード=スミスのESSの概念こそ、独立した利己的な単位の集まりがどのようにして単一の組織された全体に似てくるようになるかを、はじめてはっきりと教えてくれる」という。だがしかし、いつも生物界では同種の個体がまず群れを成していて、個体というものは、あとからそのなかの一成員として誕生し、成長し、死滅してゆくものであるという事実が前提として考慮されなければならない。そうすれば著者の、「まず個体があって、それから集団が構成されてゆく」というような誤った方向の発想は出てこないだろう。

各個体の利己的な動きはいつも種の特性に基づくものであり、その特性がいわゆる各個体の行動の境界条件をなしている。個々の得点は種に特有のそうした境界条件のもとでの数値である。境界条件がなければ方程式は解けない。

それに、個体に基づくESS論のこのような仕組みと、著者の利己的遺伝子断片説がどのように調和しているのか全く説明がついていない。著者は、たぶん、

   ESS説  ─ 利己的遺伝子説              ─  ボート競走説
   個体   ─ シストロンなどの個々の遺伝単位    ─  選手
   個体群 ─ 遺伝子プール               ─  選手プール(交代要員の集団)
   (?)   ─ (?)                    ─  コーチ(選手の選択因子)
 

というような平行視をしているのであろう。そこには「ESSは個体の利益から出発する」と「利己的遺伝子断片説は利己的な個々の遺伝子単位から出発する」という表現上の類似はあるが、両者の平行性は厳密な科学的検証を済ませたものでなく、単に一種のアナロジーにすぎない。はたして染色体セットレベルである個体レベルの論理が、そのままシストロンなどの遺伝単位レベルの論理になるのであろうか? 
(l)「この概念は、第三章で述べた、よいチームワークを必要とするボートの選手(体内の遺伝子にあたる)の例で生じた問題にも適用できる。・・・・すぐれた遺伝子は他の遺伝子と両立し、補足しあって、何世代にもわたって体を共有していくものでなければならない。・・・・両立しうる一組の遺伝子は、一つの単位としてまとめて淘汰にかけられるものと考えることができる。・・・・ESS概念のすばらしさは、純粋に独立の遺伝子レベルの淘汰によって、同じような結果がもたらされることを理解させてくれる点である。遺伝子どうしは同じ染色体上で連鎖している必要はないのだ」(136〜137ページ)
(註32)
すでに明らかにしたように、「この概念は、第三章で述べた、よいチームワークを必要とするボートの選手(体内の遺伝子にあたる)の例で生じた問題にも適用できる」というのは、「ESS概念のすばらしさは、純粋に独立の遺伝子レベルの淘汰によって、同じような結果がもたらされることを理解させてくれる点である」というのと同様に、著者の勝手な期待にすぎない。

それに著者の言に従えば「遺伝子どうしは同じ染色体上で連鎖している必要はないのだ」から、、「両立しうる一組の遺伝子は、一つの単位としてまとめて淘汰にかけられるものと考えることができる」などと言っていては、どこまでも際限なく遺伝単位が広がってしまう。たとえば最大で個体全体の特徴をなす染色体セットにまで広がってしまうだろう。そのようなことになると、これまで主張されてきたいわゆるシストロンレベルの単位説はどこかに吹き飛んでしまう。

実はまた著者は、「遺伝子の集団が単位として選ばれていると考えねばならぬ理由は必ずしもない」と138ページで記している。本当は「絶対にない」と言いたいところを、実はそれを否定しきれないものだから、「必ずしもない」と記したわけで、まさに混乱状態だ。

それにしても、上の平行図の中に当然書き込まねばならない筈のボート競争の「コーチ」にあたるものは、ESS説や利己的遺伝子説では何になるのだろう? ESS説では、個体を超えているから集団のレベルにあるものだろうし、利己的遺伝子説では、シストロンなどの遺伝単位を超えているものだから染色体セットレベルにあるものになるだろう。すると、「そこには種や集団の淘汰圧が働いている」と結論しなくてはならなくなる。

結局、著者は、「ボート選手の例は、じつはこの点を説明するには適さない」(137ページ)といって、英語しか話せない選手とドイツ語しか話せない選手の例を想定して、もう一工夫している。そして「最良のクルーができあがるのは、・・・・全員がイギリス人か全員がドイツ人(の場合で)、それは表面的には、あたかもコーチが言語別のグループを単位として選んでいるかのようにみえる。・・・・それは、あたかも彼がバランスのとれたひとそろいの単位として彼らをそっくり選んだかのようにみえる。しかし私の考えでは、彼は一つ下のレベルで、つまり個々の候補のレベルで選択を行っていると考えたほうが、明快ですっきりしている」(137〜138ページ)と記している。

この場合でも「コーチ」はESS説や利己的遺伝子説では何に当たるのか示されていない。そもそもコーチはそのボートが競争に勝つために個々の選手を選択しているわけである。選手を選択する基準は選手の能力だが、その能力は「俺は絶対に選ばれる」といった絶対的なものでなく、他の選手との組み合わせの調和で発揮されるものだから、個々の選手の能力などは実は二次的なものなのだ。だから「個々の候補のレベルで選択が行われる」というのは誤りだろう。

だいたいレース(生存競争)があるのも自分たちがその種に属し、他に同種の競争相手があるからだろう。つまり種の存在が前提だ。著者の見解が「明快ですっきりしている」などとはお笑いである。だから著者のこういう誘導的なアナロジーとまじめに付き合う必要はない。

(6) 遺伝子道

(a)「利己的な遺伝子とは何だろう? ・・・・それは・・・・個々のDNA片の全コピーである。・・・・個々の利己的遺伝子の目的は・・・・遺伝子プール内にさらに数をふやそうとすることで、・・・・遺伝子(は)他の体に宿る自分自身のコピーをも援助できるらしい・・・・。もしそうであれば、これは個体の利他主義としてあらわれるであろうが、それはあくまで遺伝子の利己主義の産物であろう」(141ページ)
(註33)
実際の遺伝子は、種の遺伝子と個体の遺伝子の広範に入り組んだ結合体である。種を離れて個体がないように、種の遺伝子なくして、個体の遺伝子も、シストロンなどの個々の遺伝子も、ない。だから遺伝子には遺伝子レベルですでに利己的でない利他的な遺伝子(種の遺伝子)も存在しているし、それが個体レベルで種に普遍的なさまざまな(特に社会性動物に見られる)利他主義として具現している。たとえば言語による文化を発展させた人間では多くの利他主義が実践されている。なにも、「遺伝子はいつも利己主義だが個体レベルではそれが利他主義として現れる場合もある」というお情け程度のものではない。
(b)「人間のアルビノ(先天性色素欠乏症)・・・・の遺伝子は劣性で・・・・その人がアルビノになるにはこの遺伝子が倍数で存在しなければならない。これは約二万人に一人の割でみられる。しかし、約七十人に一人はこの遺伝子を単一数でもっているが、これらの個体はアルビノではない。・・・・ではアルビノどうしはとくに親切にしあっていると考えてよいのだろうか? 実際にはおそらく答えは否であろう。・・・・同一の遺伝子が、あるレッテル(たとえばごく色白の肌など)と、そのレッテルに対する的確な利他主義との両方を生み出すことは、(理論上は可能だが、実際には)おそらくあるまい」(142〜143ページ)
(註34)
一個の遺伝子が自己のコピーをできるだけ効果的に拡散してゆこうとしても、他の遺伝子との複雑な絡み合いがあるので非常な制約を受けるであろう。つまり統計学的にみれば一遺伝子の効果は非常に薄いものになる。たとえば青い目の遺伝子が自分と同じ遺伝子による青い目をした個体を利他的に助けようとしても、その人の髪の色や皮膚の色の違いが邪魔をするかもしれない。利己的遺伝子の拡散力が制約されたものであるなら、それは利己的遺伝子説の制約を意味するだろう。

また「自分と同じ青い目をした人より黒い目をした人の方が好きだ」というケースは普通に見られる。そうなれば同じ遺伝子のコピーは増殖しなくなる。自分と同じコピーを増殖させるというのが遺伝子(著者によればその生存機械である個体)にとっても絶対でないことがわかるであろう。

著者のいうように遺伝子は自己複製子である。それは盲目的にひたすら自己を複製する。同じ環境の中では、資源を取り合って自分のコピーと生存競争もする。これは自己増殖に逆行している。著者は同一コピーどうしの協同をほのめかしているが、実はその反対も十分に働いているわけである。

そもそも著者によれば個々の自己複製子は盲目の機械だ。それゆえ原理的に自分のことも知らず、自分のコピーの存在についても知らない筈で、したがって同一コピー間の協同などありえない筈である。自己複製子にはどこまでも一個の自分しかない。利己性が働くとしても、それは自分一個の利己性だけで、他の同一のコピーとは無関係だ。ただ同じコピーがあちこちで非協同的に自己増殖に成功して、結果として運良く偶然に、そのコピーが集団の中で増えるということはありうる。(それを彼自慢の概念である「遺伝子プール」での成功、というように著者は述べているが)、ただそれだけのことだ。

一個の遺伝子がひらすら増殖してもたかが知れている。したがって自己の増殖によって自分を種全体に広げようとする壮大な野望や傾向は盲目的ですら持つことができない。こうした傾向を持つためには「同一コピー間の協同」という概念が必要だが、それは盲目で自分の存在すら知らない利己的遺伝子には無理だろう。

「遺伝子プール」という概念はこうした野望が可能であるかのように仕組むものであるが、しかしすでに見たように「遺伝子プール」は直接存在して働いているのではなく、実在しているのは個体だけで、個体間の生存競争を通じて「遺伝子プール」(そういうものがもしあるとすれば)が間接的に影響を受け、種の進化が行われているのである。
(c)「(ごく色白の肌などのレッテルの他に)遺伝子が他個体内の自分のコピーを『認知』する(直接的な手段は、利己的遺伝子の持主が単に利他的行為をするという事実によるものである。・・・・もっと)もっともらしい方法があるだろうか? 答えはイエスである。近しい身内─血縁者(kin)─が遺伝子をわけあう確率が平均より高いことを示すのはやさしい。これが、親の子に対する利他主義がこれほど多い理由だろうということは、(とくにW・D・ハミルトンなどが明らかにしたことによって)以前からわかっていた。・・・・他の近縁者─兄弟姉妹、甥、姪、いとこ─にも同じことがいえる・・・」(143〜144ページ)
(註35)
「近縁者に対する利他主義」という概念がどうもしっくりこない。個体としては別ではあるけれど、近縁者は自己に限りなく近いし、個々の遺伝子を対比すれば、ほとんどが同じ遺伝子のコピーだからである。これは利他主義ではなく利己主義ではなかろうか。

とはいえ近縁者の世界は利己的遺伝子説が最も説得力を持つ領域であることは間違いない。上の註で述べた「一遺伝子の効果は統計学的に薄れる」というのも、多くの遺伝子が共通する近縁者のケースでは通じない。しかし近縁者は生物界・動物界では狭い一特殊領域にすぎない。だからそこでの事実を一般化できない。

なんども繰り返し述べてきたが、遺伝子の利己主義性はドーキンスのいうようには絶対でない。たとえば配偶者は血縁でないが、一般の動物界でも配偶者を血縁より大事にするのが広くみられる。人間は快楽目的でみずから積極的に断種もするし、同性愛も行うし、多産も控える。また利己的遺伝子には好都合なはずの、より自分に近い複製を効果的に造れる近親性交や近親婚を忌避し、タブー視する。

著者は157ページで、「近親交配(インセスト)タブーの遺伝的利益は、利他主義とは何の関係もない。それはおそらく、近親交配によってあらわれる劣性遺伝子の有害な効果と関係があるのだろう」と彼らしく用意周到に述べている。だが、それでは、もし利己的遺伝子説が正しいなら、なぜ利己的な遺伝子は近親間の性交が劣性遺伝子を受け継がせ、進化に不利になるように発達したのだろうか?
(d)「(〔共通祖先数×(1/2)世代間隔数〕で示される「近縁度」でみると、いとこの近縁度は1/8曾孫の近縁度は1/8で)、遺伝的にいえば、いとこは曾孫にひとしいのである。同様に、あなたは叔父(近縁度は1/4)に似ているのと同じくらいに祖父(近縁度は1/4)に似ているわけである。祖父または叔母どうしがいとこどうしという遠い親族関係(近縁度は1/128)では、個体群内から任意に選んだ個体がもっている基本的な確率(ゼロに限りなく近い)に近づいてくる。このような近縁者は、利他的遺伝子に関する限り、通りがかりの他人と同じだといってもいいすぎではない。またいとこどうし(近縁度は1/32)はいくぶん近しい間柄であるにすぎない。いとこどうし(近縁度は1/8)はそれよりやや近しい。兄弟(近縁度は1/2)や親子(近縁度は1/2)はごく近しい。そして一卵性双生児どうし(近縁度は)は自分自身と同じ近しさである。叔父や叔母、姪や甥、祖父母や孫、異母(父)兄弟は近縁度が1/4で、近しさは中くらいである。・・・・利他的遺伝子が成功する最小の必要条件は、その遺伝子が二人以上の兄弟(または子供か親)か四人以上の異母(父)兄弟(または叔父叔母、甥姪、祖父母、孫)か、八人以上のいとこ等々を救って死ぬことである。概してこのような遺伝子は、利他主義者によって救われた十分な数の個体の体内で生きつづけ、利他主義者自身の死による損失をつぐなうことになる」(144〜149ページ)
(註36)
ここで「近縁度」という概念が出てくるが、これはむろん個体間の概念であって個々の遺伝子レベルの概念ではない。だが、個々の遺伝子が非常に多くの場合に共通する血縁間では、「近縁度」という概念で、個体レベルの問題を、個々の遺伝子レベルの延長線上にあるもののように論じることができる。著者がここで展開しているのは一見個体論のようであるが、実は個々の遺伝子論でもある。そのことをまず指摘しておきたい。

ここで引用箇所の批判に移る。

さて、他人どうしでは近縁度は限りなくゼロに近い。著者は、「同一の遺伝子が、あるレッテル(たとえばごく色白の肌など)と、そのレッテルに対する的確な利他主義との両方を生み出すことは、(理論上は可能だが、実際には)おそらくあるまい」(143ページ)としているわけだから、そうすると利他的遺伝子が事実上働くのは血縁関係が近いもの(つまり自分に近いもの)どうしだけになる。これを著者のように「利他的」というのも憚られるが、そうなると全く血縁のない配偶者の雄と雌どうし、また、人間の妻と夫の間はどうなるのだろうか? 夫婦や愛人間の近縁度はゼロだが、人間においては時には近縁度1の自分自身を犠牲にしてしまうことさえある。

また自分(近縁度1)を超える数字を成り立たせるケース、たとえば10人のいとこは、1/8×10=10/8、で1なる自分の価値以上のものだとし、自己犠牲の可能性が生まれるとしているが、人間以外の一般の動物界でこのような近縁度によって区別される血縁間の利他的自己犠牲行為が見られるのだろうか? 

種の存続のために自分を犠牲にする例は海底を列を成して行進する蟹やトムソン・ガゼルや警戒音を出す鳥などに見られる。この他にも多くの知られざる例があるだろう。その中には血縁とは無関係な純粋の利他的自己犠牲行為が発見される可能性もないとは言い切れない。

ところで個体論に基づく〔共通祖先数×(1/2)世代間隔数〕で示されるドーキンスの「世代間隔数」に関わる近縁度方程式のことであるが、これと著者の遺伝子論に基づく遺伝子プール説とは両立するのだろうか? 

遺伝子プール説に従って純粋に個々の遺伝子の確率だけをみるとしよう。すると子供からみて父親および母親に由来する遺伝子はぞれぞれ50%ずつだから、個体としてはこれを親子の近縁度として(ドーキンスの近縁度方程式の結果と同じく)1/2としても良いように思える。しかし明らかに兄弟同士は同じ両親を持つので、兄弟に共通する遺伝子は、父親と子、あるいは母親と子の場合よりはるかに大きい。

ところで近縁度計算は個体論だから、「親子の近縁度」をうんぬんする前に、「『父親と子・母親と子』の近縁度」を取り扱うべきである。そうすれば、共通する遺伝子数からいって兄弟間の近縁度はドーキンスのいわゆる親子の近縁度の1/2よりずっとずっと大きいわけである。たとえば、あなたが仮に父親だったとして、息子と自分の弟を見比べると、息子は半分が他人である妻の遺伝子からのもので、自分からのものは半分しかないが、自分の弟は同じ父と母とを持っていて、交叉時の偶然による多少の相違以外はほぼ自分と同じ遺伝子である。

ドーキンスの立脚する個々の遺伝子論の立場からすると、共通する遺伝子数からみて父親と子あるいは母親と子よりも兄弟同士の方がもっと近縁度が大きい筈なわけだから、兄弟同士で見られる自己犠牲行為が、父親と子あるいは母親と子の間で見られる自己犠牲行為よりずっと激しく頻繁で大きいものにならなくてはならない計算になる。しかし実際はその反対だ。そういうわけで、ドーキンスの近縁度方程式も、彼の遺伝子論になにやらまるで異質なものを取ってつけたような、うさんくさい代物のように思われる。
(e)「ある人が自分と一卵性双生児であるとわかったら、だれでも、その人の幸福を自分の幸福と同じぐらい気にかけるであろう」(149ページ)
(註37)
気にかけはするだろうが、「同じくらい」ということはない。それに、そういうこともたぶん人間の場合だけである。もし著者の遺伝子主義が正しければ、それは人間だけでなく、どこにでも誰にでも観察できるだろうが、そういう報告は、著者も149ページでココノオビアルマジロ、461ページの「補注」でクローンのアブラムシの場合について論じながらも、結局はなされていない。

いやその前に、おそらく人間の場合なら、自分の独自性や個性や価値などを相対化させるものとして、自分と同じコピー人間がいることに反発を感じるに違いない。コピー人間の数が多いほど、その反発は大きいと思われる。近縁度などといったものに一辺倒に依存すると、おかしな判断を余儀なくされるわけである。
(f)「一般的にいえば、おとなは(まだ赤ん坊である自分の)弟が(親を失って)みなし子になったなら、自分の子に対するのとまったく同じように熱心に面倒をみ、気を配るはずである。二人(母と姉)の赤ん坊に対する近縁度はまったく同じ1/2なのだ。・・・・実はこれは・・・・単純化のしすぎであり、兄や姉による世話は、自然界では親による世話ほど多くはない。しかし、ここで私がいいたいのは、親子関係が兄弟姉妹関係にくらべて遺伝的に特別なことはなにもないということである。親は実際に子に遺伝子をわたすが、姉妹間では遺伝子のうけわたしがないという指摘は的はずれだ。なぜなら、姉妹はどちらも同じ両親から同じ遺伝子のコピーを受け取っているのだから」(149ページ)
(註38)
これは単に人間の場合に当てはめただけの近縁度の例の適用である。それにまた、近縁度の数字を中心にして利己的遺伝子による個体の動向を計るという間違いも犯している。

人間の場合だけに限ってみても、親子間と兄弟姉妹間とは相当に違っている。兄弟は簡単に殺しあうが、親子は簡単には殺しあわない。姉妹はそれぞれ嫁げば一種の他人になるが、親子はそうでない。「どちらも近縁度は1/2だからこうだ」というのは勝手な判断であるというしかない。

遺伝子をシストロンなどの個々の断片としてみるから、こういう過ちを犯すのである。これは、種の遺伝子や親の個体全体をなす染色体セットなどの次元を無視すると、こんな間違いが生じてしまうという顕著な一例であろう。

著者は親子間と兄弟姉妹間との違いの事実を無視できないので、166ページで「確実度」(当事者たちにとって兄弟姉妹関係より親子関係の方が確実に識別できるということ)という概念を導入しているが、これは天動説にあらたな周天円を書き加えることにすぎない。これでは「近縁度」なる概念の箔が落ちてしまう。

著者は、「親子関係が兄弟姉妹関係にくらべて遺伝的に特別なことはなにもない」理由として、「親は実際に子に遺伝子をわたすが、姉妹間では遺伝子のうけわたしがないという指摘は的はずれだ。なぜなら、姉妹はどちらも同じ両親から同じ遺伝子のコピーを受け取っているのだから」と述べているが、これは答えになっていない。

というのも、、「親は実際に子に遺伝子をわたすが、姉妹間では遺伝子のうけわたしがないという指摘は的はずれだ」というのが直接の答えとして提示されているのだが、それが正しい理由としてさらに、「なぜなら、姉妹はどちらも同じ両親から同じ遺伝子のコピーを受け取っているのだから」と述べられており、だから究極的な答えは、「なぜなら、姉妹はどちらも同じ両親から同じ遺伝子のコピーを受け取っているのだから」ということなのである。

だが、これはそもそもの問題だったはじめの、「親子関係が兄弟姉妹関係にくらべて遺伝的に特別なことはなにもない」の答えになっていない。つまり親子間の問題が兄弟姉妹間の問題にすりかえられている。もし、「なぜなら、姉妹はどちらも同じ両親から同じ遺伝子のコピーを受け取っているのだから」という究極的な答えがもとの問題に対してなんらかの正当性を持つとすれば、「両親から遺伝子のコピーを受け取っている」という事実だけであり、したがって、「親子関係が兄弟姉妹関係にくらべて遺伝的に特別なことはなにもない」のではなく、まさに、親子関係には兄弟姉妹関係とくらべて遺伝的に特別なことがあるのである。
(g)「E・O・ウィルソンは・・・・その著書『社会生物学』(思索社)の中で、血縁淘汰を群淘汰の特殊な例として定義してしまった・・・・彼の本には、彼が血縁淘汰を・・・・『個体淘汰』(個体の生存の差)と『群淘汰』(群の生存の差)との中間に位置するものと考えていることをはっきり示している図が一つ描かれている。・・・・たしかに、ある意味では家族は特殊な集団だといえる。しかし、ハミルトン説で重要なのは、家族と非家族の間には数学的確率の問題以外にはっきりしたちがいはないという点である。・・・・血縁淘汰は断じて群淘汰の特殊な例ではない。それは、遺伝子淘汰の特殊な結果なのである」(150ページ)
(註39)
著者の血縁淘汰論は、群淘汰論とは一線を画す近縁度淘汰論であるが、彼がここで述べているのは「親子関係が兄弟姉妹関係にくらべて遺伝的に特別なことはなにもない」と言ったことの延長である。個体や血縁や集団や種を無視して、ただ個別的な遺伝子の断片だけを生物学的実在としてみていると、その断片間の数的関係のみが重要になり(事実、166ページでは近縁度でその個体がなすべき行動が期待されている)、家族の行動さえその数的「近縁度」でを計りうると考えるに至るわけだ。

「体は遺伝子のロボットでその生存機械だ」という著者の思想のため、この数的関係は以後、それこそ機械的に適用されてゆく。まさに「数学的確率の問題以外にはっきりしたちがいはない」というふうに。しかしすでに垣間見たように、その数的な近縁度で計れる動物行動の実例など、まだちゃんと報告されてもいない。

すでに述べたように、青い目や黒い髪やなにがしかの耐性などなどの個別的な遺伝子の断片は個体全体の次元でないから、その視点から見れば、親も子も家族も(むろん集団も種も)見えてこない。「家族と非家族の間には数学的確率の問題以外にはっきりしたちがいはない」という帰結はこういう偏った個物断片主義の観点からは当然だろう。これは「親も子も全て素粒子で構成されているから、実は親も子もない」、と言うに等しい。

個物断片主義はいわゆる要素還元論である。それは古代ギリシャのデモクリトスのように、真に存在するのはアトム(原子)だけであり、自余のものはその離合集散だという説につながっている。これではむろんアトムの結合体であるタンパク質や、それによって構成される細胞も、真に実在するものでなくなり、人間も社会も歴史も真に実在するものではなくなってしまう。それと同じ誤りが著者の還元論的な遺伝子個物断片主義で起きている。

むろんアトムだけでなくタンパク質も細胞も人間も社会も歴史も真に実在する。したがって、どちらかといえば、いささかおおまかだが、血縁淘汰を個体淘汰と群淘汰の間においたウィルソン説の方が正しくみえる。
(h)「これまで私はいくぶん単純化したきらいがある。ここで多少手なおしをしなければならない。実際には、動物たちが・・・・(かりに相手との具体的な親戚関係を知ることができたとしても)、近縁者の数を正確につかんでいることは期待できない・・・・老い先短い近縁者を救うことは、それと近縁度が等しくて前途の長い近縁者を救うことにくらべて、将来の遺伝子プールに与える影響が小さい。・・・・(つまりここで)やっかいな保険統計の操作によって修正をくわえねばならない。遺伝的(近縁度的)にいえば、祖父母と孫が互いに対して利他的にふるまう根拠はともに等しい。しかし、孫の平均余命のほうが大きければ、孫に対する祖父母の利他主義の遺伝子のほうが、祖父母に対する孫の利他主義の遺伝子より淘汰上有利である。(ついでにいうと、幼児死亡率の高い種では、逆が真であることもある)。・・・・より厳密に言えば「平均余命」というより「繁殖期待値」といったほうがよいし、さらに厳密には「将来自己の遺伝子に役立つ一般的な能力というべきだろう」(151〜152ページ)
(註40)
げんにすぐあとの156ページで「近縁度の見積もりにもやはり誤りと不確実さがつきものである」と書いているように、「かりに相手との具体的な親戚関係を知ることができたとしても」という仮定もあやふやなものであり、さらにそのうえ「近縁者の数を正確につかんでいることは期待できない」となれば、近縁度による動物行動の予測になんの科学性があるのだろうか? 

ここで著者は保険統計的修正として「近縁度」に、「平均余命」、「繁殖期待値」、のちには「健康度」(153ページ)、「確実度」(166ページ)などを加えているが、こういう具合にどんどんいろいろな要素で修正を加えていけば、ついにはもとの近縁度計算の意味が失われてしまうだろう。つまり他のもっと適切な概念を発見して研究したほうが良いようになる。

それに、あたかも平均余命率で祖父母より孫のほうが優るようなことを匂わしていながら、「実際には幼児死亡率の高い種では逆が真になる場合もある」と用心深く付け加えている。近縁度計算を保険統計で修正したのに、さらにまた「そこには逆もありうる」では、近縁度などなんの頼りにもならない概念になってしまう。実際、多くの卵を産む動物の間ではこの「逆が真になっている」ケースがほとんどだろう。

もし血縁個体間の利他主義行為に露骨に現れる断片遺伝子効果の説が正しければ、著者の説は遺伝子という根本的・普遍的根拠に根ざしているわけだから、全ての血縁個体関係において動物一般に通じる例証を、それも、どこにでも見られるというように、数多く挙げなくては話にならない。
(i)「利他的行動が進化するには、利他主義者にとっての正味の危険度が、近縁度と受益者にとっての正味の利益とをかけ合わせたものより小さくなければならない。・・・・しかしそれはあわれな生存機械が急いでおこなうにはなんと複雑な計算だろう! ・・・・さいわいにして、生存機械が暗算するものと考える必要はない。・・・・(ボールを)捕らえるとき、人はボールの軌道を予言して一連の微分方程式を解いているかのようにみえる。だが、その人が微分方程式の何たるかを知らず、気にもとめなくても、ボールを捕らえる手際には何らさしつかえない。意識下のレベルで、数学の計算と等しいことがおこっているのである。・・・・あらゆる結果を考慮して難しい決定を行うとき、人は、コンピューターがおこなっているのと機能的に等しい『加重合計』計算をおこなっているわけである。・・・・いずれか一つの利他的行動パターンに関する総計はこのようになる。

行動パターンの正味の利益{自分の利益−自分の危険率}{兄弟の利益の1/2−兄弟の危険の1/2}{別の兄弟の利益の1/2−別の兄弟の危険の1/2}{いとこの利益の1/8−いとこの利益の1/8}{子の利益の1/2−子の危険の1/2}+等々・・・・。

・・・・しかし現実に動物があらゆる面で最善をつくして生きているわけではない。・・・・今後、野外での観察と実験を通じて、本ものの動物が実際にどれだけ厳密に理想的な損得分析をおこなうところまできているかを調べねばなるまい」(152〜155ページ)
(註41)
動物が行動を起こすとき生体コンピューターともいえる大脳では一連の計算が行われている。これは正しい。だがかりに一例二例が示されても、血縁利他主義が近縁度に従ってどのように、厳密に、普遍的に、動物界で見られるか、それを示さないことには、この数学的等式には意味がない。動物がいつも最善行動を取っているのでなければ、動物行動は蓋然的だということであり、それでは厳密な等式も意味がない。

それにこの場合にも、先のゲームのときのような、現実世界を正確に映すためのあらゆるケースに対応した複雑な得点配分という困難な問題がある。ましてや、今から観察や実験で例証を見つけなければならないようでは、話にならない。
(j)「(遺伝子は自分のプログラムどおりに構成された大脳を通して判断しているともいえるが)、・・・・野生動物はだれが近縁個体かをどうして知ることができるのだろう? ・・・・メンバーがあまり動きまわらない種や、メンバーが小群をなして動きまわる種では、自分がたまたま出会う個体がいずれも自分にかなり近縁な個体である公算が大きい。このばあい、『自種のメンバーに出会ったら、だれにでも親切にしろ』という規則は、遺伝子の持主をこの規則に従いたくさせる遺伝子が遺伝子プール内にふえるという意味で、プラスの生存価をもっている。これが、サルの群れやクジラの群れで利他的行動があれほどしばしば報告されている理由であろう」(158〜159ページ)
(註42)
群れの狭い生存環境内では出会う相手がなんらかの近親である可能性が高いので、「自種のメンバーに出会ったら、だれにでも親切にしろ」という種全体への規則のようなものがみられるようになるという話のようであるが、事実上血縁でない個体に対しても親切に振舞うなら、それは事実上血縁を超えた「種に対する配慮」だと言ってもいいわけである。また純然たる利他主義の兆しと見てもいいわけだ。なにも利己的な遺伝子プールでの度合いなど持ち出さなくてもいい。

たしかに遺伝子は自分のプログラムに従って大脳を構成した。これは正しい。すると、それではなぜ利己的遺伝子にとって一番大事な筈の、厳密な近縁度判定のできる大脳が一般に進化しなかったのだろう? なぜそれは曖昧なままで、─たとえば165ページにあるように比較的観察しやすい少数集団のライオンの群れを観察しても、どの子がどの雄と雌の子か確定できず、厳密なことはライオンの行動からは分からない─、いつも統計的、平均的基準のようなものしか存在しないのか? そこからみても、ドーキンスの説のおかしいことが推測できる。

ドーキンスは、イルカが溺れている人間を助けたとか(159ページ)、自分の子をなくした雌が孤児となった子供を養子として養うことがあるとか(160ページ)、子を亡くしたサルが他の雌から子供を盗んで世話をするとか(161ページ)の例を、利他的行為でなく、組み込まれた規則の「誤用」であるとする。というのも、彼によると、これらは全て自分の遺伝子に対して無用なことをしている、つまり利己的でないからだ、というわけである。

「いかに利他的でも、それは利己的でないから、誤用なのだ」という著者の主張は、非血縁的でしかも利他的なもの(純粋に利他的なもの)の一切をあらかじめ否定している態度から生まれてくる。これは科学ではなく独断論に他ならない。
(k)「こういうわけで、利他主義の進化においては、『真』の近縁度がどれくらいかということは、動物がどれくらいよく近縁度の見積もりができるかということほど重要ではない、という結論になる。この事実はおそらく、自然界で親による世話が兄弟姉妹の利他主義にくらべてなぜあれほど頻繁で、しかも献身的なのか、また、動物がなぜ自分自身を数人の兄弟以上に高く評価するのか、といった疑問を理解する鍵であろう。要するに私がいっているのは、近縁度に加えて、『確実度』指数というものを考えるべきだということである。親子関係は遺伝的には兄弟姉妹関係以上に近くはないが、その確実度ははるかに高い。ふつうは、だれが自分の兄弟かということより(妊娠・出産・育児を経過するので)だれが自分の子供かということのほうがずっと確実である。そして誰が自分自身かということにはいっそう確信がもてるのだ。・・・・(近縁度が同じ1/2どうしなのに、親から子への利他主義が子から親への利他主義より大きいのは、親の方が生活力があるからで、また平均余命が親より子の方が長いからである)」(166〜169ページ)
(註43)
動物が行う近縁度の見積もりは非常に曖昧である。そして著者によると、利他主義の進化においては『真』の近縁度はその見積もりよりも重要でない。そして「近縁度」には補正として「確実度」が必要だ。となると、「近縁度」なる概念は非常に信頼できないものだという結論になる。こうなると、親子関係を兄弟姉妹関係と質的に、つまり遺伝子的に同じとしておきながら、「確実度」というあらたな概念でそれを補正しなくてはならない「近縁度」なる概念がどうもあやしく思える。

妊娠・出産・育児を通して「確実度」が生じるのも、(親子関係だからこそ妊娠・出産・育児があるわけなので)、まさに親子関係の特別さから生じると見るべきなのではないか? したがって、親から子への利他主義が子から親への利他主義より大きいのは、単に生活力の差だけでなく、親子という特別な血縁個体関係が働いているからだとみるべきだろう。

おそらく「親子遺伝子」というものがきっと存在するだろう。いずれそれが発見されれば、ドーキンスの立論は全て誤りであることが判明する。本当のところ、個体・集団(家族を含む)・種を遺伝学的実在とはみない著者の遺伝子断片主義が根本的に誤りなので、結果としてこうしたあれこれの誤りも生じている、と判断しなくてはならないだろう。

(7) 家族計画

(a)「親による子の保護行動を、同様に血縁淘汰(近縁度淘汰)の産物である他の利他的行動とは別扱いにしようとする人々がいるのは、・・・・子の保護は、繁殖に(関係するのに、たとえば甥の保護は繁殖と無関係だとみているからである)。彼らは、繁殖と親による保護行動をひとまとめにし、その他の利他的行動をこれに対置している。しかし私としては、相違は、新たな個体を生み出すこと(子作り)と、現存個体に保護を加えること(子育て)との間にこそあるのだと考えたい。・・・・すなわち個体は次のような選択をせまられることもあるわけだ。『この子を育てようか、それとも別に一匹産み落とそうか』。種をめぐる生態学的諸特性の細部のいかんに応じて(純粋の子育て戦略以外の)、子育て、子作り両戦略のさまざまな混合戦略が進化的に安定となりうる」(171〜172ページ)
(註44)
著者は子作りと子育てをセットにして考える考え方を否定し、混合戦略として親がそれらを同時にやるとしても、もともと別々のものだとする。たしかに、親が、「この子を育てようか、それとも別に一匹産み落とそうか」と決断をせまられることもあり得ようが、それはその子が病弱だとか発育不全だとかする特殊な場合であろう。一般の動物界における健康な自然状態では親のそういう子育て放棄の決断はあり得ない。
(b)「私たちに最もなじみの深い動物たち─哺乳類と鳥類─は子育て屋の傾向を多く示している。ここでは子作りの決断に続いて、生まれた子供を育てる決断がみられるのが普通である。・・・・人々が両者を混同する理由もここにある。しかし・・・・遺伝子の利己性の観点からみれば、たとえばあなたが幼い兄弟を育てることと、幼い息子を育てることの間に(近縁度からいって)原理的な差異はまったくないのである。・・・・(前章では既存の個体間の利他的関係について考えてみたが)、本章では、新たな個体を産み出すかどうかを決める場合に、生存機械がどんな風に決断すべきかに焦点を合わせることにしよう」(172〜173ページ)
(註45)
著者の「近縁度」説や遺伝子断片主義や遺伝子利己主義が絶対に正しい場合にはそういえるが、そうでない場合には、「両者を混同している」と判断する根拠はない。著者の近縁度計算など、どれほど信頼できないものか、動物界にはそれこそ無限の動物種がいるのに、これまでに何一つ説得力のある例証を示せなかったことをみれば、わかる。

それに、著者の期待に反して、遺伝子断片のなかに親子の特別な関係を指示するものがあるかもしれない。多細胞生物が現れてこの十数億年の間に生物が親子関係で子孫を残してきたことを考慮すると、私にはそれが「ない」という方が不自然のように思われる。一個のシストロンの単位でそういうものがないとしても、数個のシストロン結合でそういうものがある可能性はある。

著者も遺伝単位について具体的な定義はできないとして、65ページでは「ふつうはシストロンと染色体との中間のどこかに位置する大きさであることがわかるであろう」と曖昧な定義を述べているし、またボート競争の例で説明しようとした胚発生における遺伝子間の共同作業(66〜68ページ)についても、すでにみたように、遺伝子断片主義の立場でのちゃんとした解決が示されていない。つまり利己的遺伝子断片主義はまだ実証されている仮説ではない。
(c)「(群淘汰説のウィン=エドワーズは個々の動物が集団全体のために、意図的かつ利他的に自らの産子数を減少させるという『個体数調節』の理論を主張した)。彼は、正真正銘利他的な産児制限が進化しうる途があるというのである。・・・・(実際、人間の場合、医学と農学の進歩が)人口の増大速度を速めることによってかえって人口問題を悪化させてしまったかもしれない(が、野生動物は、飢餓、病、被捕食など)の死亡原因が究極的な理由となって、個体群の無制限な増加が不可能になっている・・・・しかし事態がこうならねばならぬ必然的根拠があるわけではない。もし動物が産児数を調節しさえすれば、飢餓が起る必然性はなくなるからである。そして、動物たちはまさしくこれを実行しているのだというのがウィン=エドワーズの主張なのである。・・・・動物が出生数を調節しているという見解には、遺伝子の利己性理論の信奉者たちもただちに同意する。どの種をとっても、その一巣卵数あるいは一腹産子数はかなり一定の数を示す傾向がある。(対立は)、なぜ出生数が調節されているか、いいかえれば、どのような自然淘汰のプロセスによって家族計画は進化したのか(集団全体のためか、当の個体の利己性のためか)という点をめぐって、意見の相違があるのである。・・・・以下、この二つの理論を順にとりあげることにしたい」(173〜177ページ)
(註46)
「しかし事態がこうならねばならぬ必然的根拠があるわけではない。もし動物が産児数を調節しさえすれば、飢餓が起る必然性はなくなるからである」という文章は、相手へのいわれないケチづけである。げんに著者はすぐに動物が産児数を調節していることについては同意しているからである。動物が出生数を調節していても予測のつかない気候変動などの外部因子などで過剰増殖になる場合があるから、飢餓などが生じるのだ。ここでの真の論点は、著者が最後のところで述べているように、集団に対する利他的産児数制限があるかどうかということである。以後、「ない」ということを著者は主にウィン=エドワーズの考えを紹介し批判しながら展開してゆく。
(d)「(能力はあるのに平均以下の産子数を産むことが自然淘汰で選ばれたというのは自己矛盾のようなので)、ウィン=エドワーズは群淘汰の考えに助けを求めたのだ。(食物供給量のことを考えると産子数調節のできる)自己規制的な繁殖者からなる集団が自然界にはびこるようになるのはそのためだというのである。・・・・(単なる広義の産児制限の域を超えて)動物の社会生活総体を個体数の調節機構とみなそうという一つの雄大な着想を、彼は提案しているのだ。たとえば・・・・なわばり制と順位制について)なわばりをめぐって闘う動物は、一片の食物のような現実的な目的物の代わりに、特権を保証する印となる代用的な目的物をめぐって闘っているのだとウィン=エドワーズは信じている。・・・・一見貞節な一夫一婦制を示す種の場合ですら、雌は雄と個体的に結びつくというより、むしろ雄の所有するなわばりと結婚するのかもしれないのである。・・・・ウィン=エドワーズによればなわばりの獲得は繁殖への切符あるいは許可証を手に入れるようなものである。成立するなわばりの数には限りがあるので、・・・・個体群全体が産み出しうる子の総数は、・・・・制限されてしまうのである。・・・・ウィン=エドワーズは、順位制についても同様な解釈を加えている。(彼は)、高い社会順位が、繁殖の資格を示すもう一つの切符なのだと考える。・・・・そして、順位の高い雄だけが繁殖できるという規則がこのように(順位の低い雄によって)甘受される結果、なわばり行動の場合と同じく、個体数は(飢え水準よりやや少なめに調節され)あまり激しく増加しなくなるというのだ。・・・・(彼は多くの動物にみられる群がり行動を、個体群密度を測定するための「顕示行動」だと考えている)。彼は、個体群密度に関して個体が受容した感覚刺激を、その生殖システムに結びつける自動的な神経、あるいはホルモン機構を考えているのである」(177〜181ページ)
(註47)
ここではウィン=エドワーズの考えが紹介されているだけなので(もし正しく紹介されているなら)特別に言うことはなにもない。
(e)「遺伝子の利己性理論に立脚した家族計画理論の建設に当たった第一人者は、(主として野生鳥類の一巣卵数に関して研究した)偉大な生態学者デーヴィッド=ラックであった。・・・・どの種類の鳥も、(多少変異は見られるとしても、たとえばウミガラスは一個、ツバメは三個、シジュウガラは半ダースあるいはそれ以上といった)その種に特有な一巣卵数を示す傾向がある。・・・・いってしまえば卵を二個産ませる遺伝子、四個産ませる対立遺伝子、等々が存在するかもしれない・・・・。・・・・遺伝子の利己性理論からは(一巣卵数が多いほど有利のように思われるが、そうではなく)、子作りの拡大は、子に対する保護効果の減少によってあがなわれる運命にあるのだ。・・・・ラックとウィン=エドワーズの見解が分かれるのは、(ウィン=エドワーズが集団全体のための最適卵数を、ラックは利己的な雌の個体能力の最適卵数を主張するという)それぞれの考え方においてである。つまり、ラックに従うなら、(群れの利益のためでなく、効率上)実際に生き残る自分の子供の数を最大化するために、彼らは産児制限を実行するのである。・・・・子をたくさん産みすぎる個体が不利をこうむるのは、個体群全体がそのために絶滅してしまうからではなく、端的に彼らの子のうち生き残れるものの数が少ないからなのである。・・・・しかし、現代の文明人の間では・・・・国家・・・が断固介入して、過剰な分の子供たちを健康に生存させようとするのである。・・・・しかしそもそも福祉国家というものは(これまで動物界に現われた利他的システムのうちおそらく最も偉大なものにちがいないが)きわめて不自然なしろものである。・・・・自然界には福祉国家など存在しない・・・・(子作りに)自制を知らぬ放縦をもたらす遺伝子は、すべてただちに罰を受ける」(181〜185ページ)
(註48)
ラックとウィン=エドワーズのどちらが真実なのだろう? これに対して科学が結論を出すのは非常に困難であろう。著者は哲学上の利己主義者だからラックに味方するであろうが、どちらかといえばウィン=エドワーズの方に軍配を挙げたいところだ。

それにしても、「自然界にないから不自然だ」といって福祉国家を否定するのはいかがなものだろうか? 国家は多かれ少なかれ福祉国家の役割を果たしているのではないか? 人間は自然を超えた文化を創出して、すでに自然ではない。人間は不自然な存在である。人間が不自然なら国家も不自然であり、そういう人間が不自然な福祉国家を構成しても、なにも不思議はないだろう。皮肉な言い方をすれば、不自然な人間が不自然な福祉国家を形成しても、それはごく自然なことだろう。

利己主義の伝道者のドーキンスが福祉社会を否定することで、どれだけ多くの有害な結果が、ひたすら福祉を求める人間社会に生じただろうか? ドーキンスの説を標榜してあくなき利己主義を宣伝し、利他主義思想を人間社会から一掃しようとしている人々がたくさんいる。著者の罪は大きい。
(f)「一巣卵数に関するラックの議論は、ウィン=エドワーズが引き合いに出すその他のすべての事例、たとえばなわばり行動、順位制、等々に、一般化して当てはめることができる。例として、ウィン=エドワーズとその同僚たちが研究対象としているアカライチョウを取り上げることにしよう。この鳥はヒース属の植物を食べるのだが、湿原を分割して、所有者が実際に必要とするより明らかに多量の食物を含んだなわばりを作る。(繁殖期の初期になわばり争いが済むと、繁殖をするのはなわばりの所有者だけになり、その他は)あぶれ者となり、その季節が終わる頃までにおおかた餓死してしまう。(しかし人間が)なわばり所有者を射殺すると、あぶれもののうちの一羽がただちにそのあとがまにすわって繁殖をはじめるのである。・・・・これを利己性理論で説明するのは、一見かなり厄介に見える。あぶれ者たちは、なぜ死力を尽くしてあくまでなわばり所有者を追いだそうとしないのだろうか。たとえ力尽きて倒れても彼らが失うものは何もないのではないか。・・・・もしかすると彼らには失うべきものがちゃんとあるのではないだろうか。もしなわばり所有者が死亡することがあれば、あぶれ者にもそのなわばりを手に入れて繁殖するチャンスがまわってくる。・・・・あぶれ者の示すこの行動は、純粋に利己的な・・・・幸運待望作戦かもしれないのである。同様にして、・・・・他の数多くの例も、・・・・説明の基本型は同じ(幸運待望作戦)である。・・・・また個体数の激増に際して、繁殖の中心地域から幾百万の大群をなしてあふれ出してくるレミングたちも、彼らが立ち去ってきたその地域の個体群密度を減少させるためにそうしているわけではない。(利己的存在たる一頭一頭の)彼らは、(たとえ結果として死ぬことがあろうとも)もっと密度の低い生活場所を捜し求めているのだ」(185〜188ペ−ジ)
(註49)
なわばり所有者が死亡するケースは極めて稀であろうから、これが一般化して遺伝子に刻み付けられることはない、といえる。むろん有力な他の雄が所有者に勝利しても、やはりあぶれ者の自分たちになわばりはない。だからやはり、「これを利己性理論で説明するのは、一見かなり厄介に見える」というだけでなく、実際に非常に厄介なのだ。

「所有者が実際に必要とするより明らかに多量の食物を含んだなわばりを作る」という事実は、食料事情だけを考えるラックの理論では説明できないと思われる。これはやはりウィン=エドワーズの説に従って一種の許可証やステータスを意味していると解釈したほうが正しい。次々と川の中に入って大量に溺れ死ぬというあのレミングの場合もウィン=エドワーズの説に有利だと思う。
(g)「過密が時に産子数の減少をもたらすということは、多くの資料に支えられた事実である。この事実が、ウィン=エドワーズの理論を支持する証拠とみなされることが時々あるが、それもまとはずれというものだ。この事実はウィン=エドワーズの理論ばかりでなく、遺伝子の利己性理論とも同様に合致するからである。・・・・ウィン=エドワーズの答えは、雌が個体群密度を測定し産子数を調整する性質をもつおかげで、食物の過剰作用を引き起こさずにすむ集団が、群淘汰で有利になるためだという。・・・・遺伝子の利己性理論の見解はどうか。ほとんど同じ意見なのだが、ただし、一つ決定的(に違うのは、ラックの雌の能力による最適数の理論が示すように)、もし雌が飢饉を予測させる確かな証拠に接した場合には、彼女が自分の産子数を減少させることは、明らかに彼女の利己的利益にかなうのである。・・・・こうしてわれわれは、(彼とはまったく異なる進化論的な議論をたどって)、最終的にはウィン=エドワーズとほぼまったく同じ結論に到達するわけだ」(188〜189ページ)
(註50)
「同じ結論に到達できる」という程度では、「利己的遺伝子説」という革命的な理論を提唱するには弱すぎる。「相手には説明できないが、こちらでは説明できる」という程度でなくてはいけないだろう。
(h)「遺伝子の利己性理論は、(動物が密度調査のために行うとウィン=エドワーズが主張する)『顕示行動』の問題も難なく処理してしまう。・・・・ムクドリはおびただしい数がいっしょにねぐらにつく。さて、今かりに、単に冬季の過密が春における産卵能力を減退させるということだけでなく、さらに互いの鳴き声を聞くことが、産卵能力減退の直接的原因となっていることがわかったと想定してみよう。・・・・さて、個体が実際に、自らの手による個体群の密度推定を根拠として、その一巣卵数を減少させるという性質を示すようになると、・・・・実際の密度がどうであれ、ライバルに対しては、個体群がいかにも大きいかのように装うことが、(自分の卵だけはもっと産みたいと願う)個々の利己的個体にとって有利になるはずなのである。・・・・個々の個体は、あらんかぎりの声をはりあげて、二羽分くらいの声を出したほうが有利だということになるだろう。・・・・この行為の狙いは、周囲の仲間たちがそれにだまされて、彼らの一巣卵数を本当の最適値以下に減らすように仕向けることである。・・・・それはあなたの利己的な利益にかなうのだ。・・・・さて以上の考察から、私の結論を述べるなら、顕示ディスプレーというウィン=エドワーズの着想は、(彼がそれに与えた進化論的な説明が誤っていた点を除けば)、実際にかなりすぐれた考え方だろうということになる」(189〜192ページ)
(註51)
ここでもウィン=エドワーズ説への一種の妥協や適応が見られる。「同じく説明できる」という程度では、「利己的遺伝子説」という自分の仮説を強力に推し進めることはできない。

ムクドリが自分のライバルに対して個体群の密度をごまかす方法として、著者は仮にとして声(騒がしさ)をあげているが、ムクドリが声量だけで判断するということはありえない。その目で実際に確かめてもいるだろう。ふつう群れの一員が自分の群れの数をその他の全ての成員に対してごまかすのはなかなか難しい。「ちょっとありそうにない」とも言える。つまり著者の見解は苦し紛れのように思える。

著者の遺伝子の利己性理論はあくまでも仮説に過ぎない。ドーキンスがウィン=エドワーズの着想を、進化論的説明の点で誤っている、というのは勝手だが、彼のその判断の根拠もまた(たぶんどこまでも)仮説に過ぎない。

(8) 世代間の争い

(a)「母親はひいきの子供をつくるべきか、それとも(親動物の投資資源である給餌、保護、教育などにおいて)すべての子供に等しく利他的にふるまうべきか。・・・・私は、母親というものを、(遺伝子が制御者として乗り込んでいる)ある種の機械として取り扱っている。(親動物のさまざまな投資資源に共通な単一の尺度を、カロリーとみる生態学者もいるが)、不十分さを免れない。・・・・進化の『究極的な尺度』たる遺伝子の生存に読みかえようとすると、どうしてもあいまいになってしまうからである。この問題を手ぎわよく解決したのはR・L・トリヴァースだった。彼は『親による保護投資』(P・I)という概念を利用してそれを解いてみせたのだ。(それは)、『ある子供に対する親の投資のうち、その子供の生存確率(それゆえ繁殖の成功確率)を増加させ、その際同時に他の子供に対する親の投資能力を犠牲にさせるようなあらゆるもの』と定義される。・・・・しかし(これ)も(親子関係だけを強調しすぎるきらいがあって)理想的とはいいがたい。・・・・すなわち理想的にいうならば、任意の子供に対する母親の投資は、他の子供たちだけではなく、甥や姪、さらには彼女自身などの平均余命の減少によって測られるべきなのだ。・・・・しかし、・・・・実際は、トリヴァースの尺度で十分に役に立つ」(194〜196ページ)
(註52)
もともと遺伝子断片主義者が、家族、親族についてとくに語る必要はないはずである。断片としての遺伝子が唯一の遺伝子学的実在であれば、それの二次的結合体になんの特別な意味もないからだ。せいぜい「近縁度」による近親間の利他主義程度(利他主義といっても近親間のそれだから、遺伝子から見ればその内容はほとんど利己主義)が話題になるだけだろう。なぜならそこでは、同一のではあるが大量の遺伝子断片のコピーが相互に関係しているからである。近親間を離れれば、遺伝子断片主義者には個体間の関係について語るべきことはほとんど何もない。ただ遺伝子断片のプールがあるのみだ。だから読者もあまり真剣にドーキンスの親子関係論に付き合ってはいけない。

著者は、トリヴァースの立場では個体の、それもとくに親子関係に重点がいってしまい、それではあまりにも「親子関係に特別な意味はない」と主張してきた自分の遺伝子断片主義の思想から離れすぎる、というわけで、少し難癖をつけて、領域を親族全般に広げる。だが結局、「実際は、トリヴァースの尺度で十分に役に立つ」とするわけである。

トリヴァースのPI(親による保護投資)はいわば子のあいだの選別をともなう排他的尺度である。これが本当に正しい見方なのかどうか? こういう見方の背後には全体のパイの大きさが決まっていてその分配が起きているという推測があるだろう。ある個体の全生涯によって構成される未来の「全体としてのパイ」が、日々の行動の厳しい規制をもたらすのだろうか?

しかしそれにしても、生物行動、とくに親の子に対する行動全般に通用する同一の尺度というものが必要なのかどうか? 全ての行動が同じ尺度で計られているというのは一元論的な独断ではないだろうか? 人間には数多くの尺度、とくに文化的なそれがあるのだから、動物進化の程度に応じて、子に対する親の行動には、それぞれの動物種でいくつかの尺度があるかもしれない。
(b)「母親のひいき作りについては、(すべての子供で近縁度が1/2だから)、なんら遺伝的根拠はない。・・・・しかし・・・・一部の個体は(平均サイズ以上など平均余命の点で)他の個体より生命保険の被保険者としてすぐれている。・・・・(他の子供にミルクを分配するとか)、育ちそこねた子供を、その兄弟姉妹たちに食わせてしまったり、(育ちそこねたかどうかは知らないが、母ブタのように)自らその子供を食ってミルクの生産にまわしてしまったほうが、母親には得かもしれないのだ。・・・・もっと一般化すると、・・・・もし(母親が)、甲乙いずれか一方の子供の命を救うしかな(いような)二者択一をせまられたとすると、彼女は(すでに投資した量が大きい)年上の子供の方を救おうとするはずなのだ。・・・・一方、もし母親の直面する選択が、・・・・生死を分かつほどきびしいものではない場合には、母親は(年上の方は自分で餌を見つける確率が大きいので)年下の子供の方に援助を加えるほうが安全である。・・・・子供がその生涯のある時期に達すると、母親は、彼に対する投資を将来の子供たちに対する投資に切りかえたほうが有利になる。この時期が来ると、母親は子を乳離れさせようとするのである」(197〜199ページ)
(註53)
著者の記述のすべては母親という個体の利己主義からの判断でしかない。著者にとっては遺伝子の利己性は絶対だから、個体は利己的でしかありえないだろうが、実際は個体においても利己主義以外のもの、さらには「種の利他主義」も存在していると思われる。だから母親と子供の関係でも、彼女の利己主義だけから判断してはいけないだろう。
(c)「もしかすると、・・・・たとえ親たちは、子供にひいきをつけるのを『望まなく』とも、子供たちの間に特別待遇をめぐる確執がありうるのではないか。(だれでも自分の近縁度は1で最大だから自分が一番大事だ。母親も例外ではない。しかし単位投資量当り子供たちが獲得しうる利益が、それによって母親自身の得られる利益より二倍以上大きくなると、彼女は自分を差し置いてその資源のほとんどを子供たちに投資するようになる。また兄弟姉妹間でもそれぞれ自分が一番大事だが)、年上の兄弟は、ずっと年下の兄弟に対して子に対する母親の場合とまったく同じ根拠から、利他的行動を示すはずなのである。
(乳離れについても同じことがいえる。これは母親が)彼に対する給餌を中止して、代わりに新しい子供に投資したほうが母親にとって有利となる時期(のいくらかあとに起きるものであるが)、母親が彼の小さな弟妹を自由に育てられるようにしたほうが、彼自身の遺伝子にとっても有利な時点がきて(はじめて乳離れが起きる。・・・・その時期について)母と子の間に不一致が生ずるのは、(近縁度計算で2倍を超えるまでの)中間的な期間についてなのだ」(201〜205ページ)
(註54)
こんな近縁度計算など信頼に値しない。遺伝子論に基づく理論は、生命とりわけここでは動物一般にとって根源的なものであるため、近縁度計算が信頼できるためには、少なくとも、魚類・鳥類・哺乳類など広範な動物種で、普遍的ともいえるほど数多くの、それも数学的に厳密な証拠を見せなくてはならないが、どこにもそんなものが提出されていない。この著作は遺伝子の利己性理論という仮説をあれこれに当てはめて、「こうも言える」、あるときには断定調に「こうでしかない」などと解釈しているにすぎない。
(d)「雛たちが大きな口を開けて鳴き声を張りあげると、親鳥は、そのうちの一羽の広げている口の中にミミズ、その他の食物を放り込むのである。・・・・しかし、遺伝子の利己性という観点に照らせば個体はごまかしを行うはずであり、雛たちは空腹度に関してうそをつくはずだと予想せざるをえないのである。(この詐欺行為はいずれ標準化して通用しなくなるが)、しかし、詐欺行為が縮小される可能性はない。・・・・雛鳥の声が際限もなく大きくなりはしないということには・・・・たとえば、大声は捕食者を引きつけやすいし、またエネルギー消耗も大きくしよう」(205〜206ページ)
(註55)
個体が利己的であることは当然で、私も「新しいパラダイム」の中で、生命の自我性をDNAの無限反復的な鏡対象的二重鎖構造に起原するものとし、それを、生命ひいては意識の根源だとした。この根源的な自我性は利己主義に通じている。しかし個体が種と切り離せないものであることは明らかなので、個と全体の弁証法的関係から、個の利害を通して全体の利益が図られ、全体の利益が個の利益として結果すると考えるに至った。つまり個体だけでなく種の利己主義も現出しているので、個体の利己性・利己主義は種全体の中で制約を受けるという思想である。

たしかに個体は自分のために各種各様の詐欺行為を働くに違いない。しかしそのことと個体の絶対的利己主義ひいては遺伝子の利己性主義とは無関係である。
(e)「一腹子のうちの一匹が特に小さな個体となる場合がある。・・・・遺伝子の利己性理論からは、・・・・育ちそこねた子供の余命が、小型化、衰弱化によって短くなり、親による保護投資が彼に与える利益が、同量の投資によって他の子供たちの獲得しうる潜在的利益の1/2以下になってしまうと、彼は自ら名誉ある死を選ぶべきなのである。そうすることによって彼は、(兄弟姉妹の中に50%の確率で入っている)自己の遺伝子に最も大きく貢献しうるからである」(206〜207ページ)
(註56)
「彼は自ら名誉ある死を選ぶべきなのである」とはいうが、著者はそのような現象を具体的に報告していない。「べき」という言葉は、著者の遺伝子の利己性理論からみればそうである「べき」だということにすぎない。

著者はところどころで遺伝子の利己性理論を否定する人たちが「自殺」を例に取るのを嘲笑している。自殺は個体レベルでみた場合は利己性の否定であるが、遺伝子、とくにその近縁度計算からみれば、利己的遺伝子説に矛盾するものでないと主張しているわけで、それがこの「べき」なのである。しかし「べき」が「べき」で終わるものでないことを、著者は無数の例証を示して実証しなくてはならない。
(f)「ラックの一巣卵数の理論を論じた際には言及しなかったが、当年の最適一巣卵数がいくつか決めかねている親にとっては、次のような戦略が一つの妥当な回答になろう。すなわち、彼女が真の最適数だろうと『考える』卵数より、一個だけ余分に卵を産むことにするのである。こうしておけば(予想食物量より良好な場合には)追加しておいた子供を育てることができよう。逆に食物量が予想より少なければ、そんな投資を中止することができる。子供への給餌を常に同じ順序、たとえば大きさの順で行うように注意すれば、彼女は、余分な一匹、おそらくは発育不全児を、すみやかに死亡させ、・・・・(過剰投資を)確実に回避できるのである。・・・・この現象は多くの鳥類で観察されている」(207ページ)
(註57)
とくにいうべきことはない。
(g)「本書では、動物個体というものが、あたかも遺伝子の保存という『目的』をもって活動する、生存機械であるかのようにみなしている。この比ゆに従って、私たちは、親子の争い、すなわち世代間の争いを論じることができるのである」(208ページ)
(註58)
ここで著者は動物個体を生存機械視したのを「比ゆ」だと告白しているが、本書の「まえがき」では、「われわれは生存機械─遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ」(4ページ)と明白に述べているから、ちょっとトーンダウンした印象だ。しかしのちの233ページでは、われわれ人類や動物も越え、動植物さえも越えて生物全体にまで押し広げて、またもや、「実際の生物体は、利己的な遺伝子たちによって盲目的にプログラムされた機械なのだ」と述べていて、なにやら一貫していない。
(h)「(A・ザハヴィ)によれば、子は捕食者をわざわざ巣に引きつけるような(恐喝戦術の)仕方で、(親の給餌を求めて)鳴きわめくことがあるというのである。・・・・これに関して私は懐疑的である。・・・・ザハヴィは一人っ子の場合を考察したのだが、そこではその戦略の不利さがはっきり理解できる。・・・・ただし、有力な捕食者が、巣の中の雛のうち最大の個体だけを捕食するという習性を示す場合になら、ザハヴィの理論にも活躍の余地はありえると思われる。この条件下でなら、小さな個体が大きい危険にさらされる心配はなく、(親の給餌を)得ることができる」(208〜209ページ)
(註59)
遺伝子の利己性理論でも他のなんでもいい、動物行動が一つの理論で締めくくることができるほど単純なものかどうか疑問を抱かざるを得ない。ザハヴィの報告はそういう一例なのかどうかわからないが、一人っ子がそのような危険な行動を起こしているのなら、「有力な捕食者が、巣の中の雛のうち最大の個体だけを捕食するという習性」うんぬんというドーキンスの見解も役に立たない。
(i)「(他の種の鳥の巣に托卵された)カッコウの雛は、(─その巣ではいわば一人っ子で─批評者の解釈)、乳兄弟たちには遺伝的もとでを一切賭けていないのである。・・・・カッコウの雛が捕食者を誘引できるほどの大声をはりあげるとすると、(里親の)彼女は雛を四羽も失うことになるかもしれないのだ。(それでカッコウの雛を黙らせるために)特別にたくさんの食物を与えるほうが里親にとっては有利となりうるわけである。(大声をあげるカッコウの恐喝遺伝子やそれに対応する里親の遺伝子がそれぞれの遺伝子プール内で広がったためにこういうことになっている。一般的には)ここで述べたような恐喝遺伝子は、普通の種類の鳥の遺伝子プール内では拡がりそうにないということである。(210〜211ページ)
(註60)
カッコウの雛のケースは明らかにザハヴィの一人っ子の例に対する一種の対応例として出されたものだろう。托卵されたカッコウの雛は、同じ巣の中に異種の乳兄弟を持ってはいても、いわば一人だ。一人っ子のケースでも別種の乳兄弟がいる場合は、ザハヴィの例に非常に近くなるわけである。しかしこれはやはり純粋に一人っ子の場合のザハヴィの例の回答にはなっていない。
(j)「カッコウあるいは同様に『托卵』習性をもつ他の鳥が、実際に恐喝戦術を採用しているかどうかという点については、いずれにしろ証拠は何もない。とはいえ、彼らが残忍さを欠いていないことは確かである。(托卵されたミツオシエという鳥の雛は)、その嘴で乳兄弟をめった切りにして殺してしまう・・・・英国で普通にみられるカッコウは、他の卵を巣から放り出すのである。・・・・スペインのF・アルバレス、アリアス・デ・レイナ、H・セグラが報じたツバメの話(によれば、人の手によってカササギの巣に入れられたツバメの雛はカッコウと同じやり方でカササギの卵を巣の外に放り出した)。(ツバメには托卵の習性はないから)、そんな行動がツバメの遺伝子プールの中で進化するなどということは、一体どうしたら可能なのか? (正しい説明としては)、親の保護投資をめぐってやがて競争することになる(弟妹たちの卵を放り出して除去するのが得だということになるかもしれないのだ)。
兄弟殺し説に対する第一の反論の根拠は、その悪魔的所業をこれまで見た者がだれもいないなどということがきわめて信じがたい点にある。これに関しては、私にも読者を納得させるような説明は、思い浮かばない。(しかしスペインのツバメは多少英国のツバメと品種が異なり)、スペインの品種では実際に兄弟殺しが行われていて、ただしそれが今まで見落とされていたのだという可能性も考えられないわけではあるまい。・・・・カッコウの雛が示す無慈悲な行動は、どの家族にも見られるにちがいない事態の、一つの極端な例にすぎないということである。カッコウの雛とその乳兄弟との関係に比べれば、同じ両親を持つ兄弟間には、はるかに濃い血縁関係があることは明らかだが、この差は単に程度の差なのである。あからさまな兄弟殺しが進化するとまでは、信じ切れぬかもしれない。しかしこれより程度の弱い利己性の諸例は、子供の得る利益が、兄弟姉妹への被害の形で彼がこうむる損失の2倍以上になるという条件下でなら、数多くみられるにちがいないのである」(212〜216ページ)
(註61)
托卵する鳥の恐喝戦術についてこれまであれこれ述べてきたのに、結局、「いずれにしろ証拠は何もない」ということでは無責任のそしりを免れない。それに、人為的にカササギの巣の中に置かれたツバメの雛の行動について進化論的な説明が全くできていない。それに答えようとして挙げたスペインと英国のツバメの品種の差についての論議も推測の段階にとどまっている。

「カッコウとその乳兄弟の間の無慈悲さと実の兄弟姉妹間のそれとは程度の差でしかない」という著者の考えは、遺伝子断片主義の立場からは当然のことで、もともと著者には家族というものでさえ本当は遺伝学的実在ではないのである。218ページでも、「進化において、その視点が実際に重要な意味をもつ実体は、ただ一つしかない。それは利己的存在たる遺伝子である」と著者は述べている。近親者間の近縁度計算とはいっても、全てはその種における遺伝子プール内での確率であり、したがって、そこには「数の程度の差」、つまり量の差しか存在しないことになるわけだ。

とはいえ、「あからさまな兄弟殺しが進化するとまでは、信じ切れぬかもしれない」と述べているのでは、やはり無責任だと言われても仕方がない。それは程度の差・量の差以上のこと、つまり質の差を論じているからである。質の差なら、あからさまな兄弟殺しは進化上「ありえない」ことになるが、程度の差だけなら、もしかすると「ありうる」かもしれないからだ。
(k)「親子間の争いで勝ち目の一番大きいのはだれだろうか。(R・H・アリグザンダーの一般解では常に親が勝つはずだという)。・・・・彼の文章を一部省略した形で引用しておく。『かりにある子供が・・・・親による利益配分を彼に有利なように片寄らせてしまい、その結果、母親の繁殖成績を全体として減少させてしまうとしよう。子供の時に、個体の適応度を上記の手段で上昇させるような遺伝子は、親になった際には、今度は先の上昇分以上に自分の適応度を減少させる羽目に陥るほかなかろう。・・・・』・・・・なぜなら、同じ利己的な遺伝子は彼の子供たちに伝えられ、そのことによって彼の繁殖成果は、全体として減少させられてしまうだろうからである。つまり、その利己的遺伝子は結局繁栄できず、したがって─親の段階における遺伝子の最適方策が必然的に子供の段階の同一遺伝子の最適方策を打ち負かし─この争いに勝つのは、常に親のほうにちがいないというわけなのである。
(アリグザンダーは「親」と「子供」というありもしない遺伝的非対称性を前提にして自分の理論を組み立てているが)、親と子との間には、親のほうが子供より年をとっているとか、子供は親の体から産み出されるとか、事実上の差異は存在するというものの、基本的な遺伝的非対称性は本来存在しないのである。いずれの側から相手を見ても、近縁度は50%なのである。・・・・遺伝子というものは、現実に与えられた機会をそれぞれに利用するのである。遺伝子が子供の体の中にある時に利用しうる機会というのは、遺伝子が親の体の中にある時に利用しうる機会とは異なっていよう。・・・・つまり、遺伝子の最適方策は、生活史の上記二つの段階において、それぞれ異なることとなろう。アリグザンダーのように、親の段階における最適方策が、必然的に子供の段階の最適方策を打ち負かすと想定すべき理由は何もないのである。
親子の利害対立に際しては、(具体的になににつけても決定権のある)親の側が本来的に優勢だとアリグザンダーは結論したが、それは誤りである。・・・・(なるほど給餌や保護などは親に決定権があり)、切り札はすべて親が握っているかにみえる。しかし子供も実は、ひそかに(嘘などの)エースの切り札を何枚か隠し持っているのである。(それを利用して)親を操作することによって、子供は、公正な配分量以上の保護投資を親から引き出そうとするだろう。つまり、世代間の争いに当たって、親と子のどちらに勝ち目が多いかという問には、一般的な回答は存在しないのである。最終的には、子と親がそれぞれに期待する理想的状態の間の何らかの妥協という形で決着がつけられることとなろう」(216〜222ページ)
(註62)
著者はアリグザンダーが親子関係という非対称性を論拠としているのを批判しているが、アリグザンダーの方がこの点では正しいようにみえる。一般に「事実上の差異」、とりわけ親から子が生まれるという差異の特別さが遺伝子に組み込まれていない筈がない。親子関係を決めている遺伝子は存在するのではないだろうか。いずれそれが発見されれば、ドーキンスの利己的遺伝子説における近縁度論は、(したがって彼の利己主義的な利他主義論も)、崩壊するだろう。つまりそうなれば親子関係は遺伝子断片主義者の提唱する「遺伝子プール」の中に融解できないものだと判明するわけだ。

そもそも「同一遺伝子が親と子の時代にそれぞれ異なる機会を持つ」というドーキンスの説が正しいかどうかさえ分からない。ドーキンスが推測するこの二つの機会論が正しければ、同一の遺伝子が同時に親と子に異なる機会を与えていることになるが、その場合でも、親の方の遺伝子が子の方のそれを打ち負かして何が悪いのであろうか。

親と子との争いについては、うそなどで親を巧みにごまかす子供の視線から見れば別にみえるとしても、具体的には「物理的にみて圧倒的に優越な親が絶対的に優位である」としかいいようがない。ドーキンスが子供の隠し持つ「エースの切り札」と言っているものも、たかだか嘘や敵を呼ぶ恐喝や同情などでしかない。子供がそうするのも自分が徹底的に弱い存在だからであろう。


ともかく他理論に対する著者の正誤の判定がほとんど全て近縁度計算によるので、非常に信頼できない。何を判断するにも近縁度という概念が出てくるほど、著者の近縁度という概念への信頼は絶対的である。だが、いまだにその概念の正しさを実証する例証が具体的には何ひとつ示されていない。したがって、どうして近縁度に対するそれほどの信頼感が著者の中に生まれたのか全く理解できない。思うにこれは遺伝子断片主義に有利な概念だから偏愛しているのではないだろうか。
(l)「私は、利己的な遺伝子の働きによって、子供たちが意図的、意識的に親をあざむくのだなどと主張しているわけではまったくない。・・・・『詐欺や・・・・うそ、ぺてん、利己的な搾取・・・・等を行使しうる」好機を子供は見逃すべきでない』などといったいい方を私がする場合、・・・・私はその種の行動が道徳的で望ましいものだなどと主張しているわけではない。私は単に、そのようにふるまう子供のほうが自然淘汰においては有利(で)、・・・・遺伝子プール内で有利さを示すということを指しているにすぎないのである。私の議論から人間的なモラルを引き出すとすれば、・・・・私たちは、子供たちに利他主義を教え込まねばならないのだ、ということである。子供たちの生物学的本性の一部に利他主義が組み込まれていると期待するわけにはゆかないからである」(222〜223ページ)
(註63)
ドーキンスのモラルのなさには辟易する。利己的遺伝子断片説が正しく、われわれはその生存機械でしかないのであれば、そういう説の流布そのものが、子供たちに、(むろん大人たちにも)、詐欺、うそ、ぺてん、利己的な搾取を、有利な生き方として推奨しているわけである。遺伝子学における自分の勝手な利己主義的解釈をもとに、アンダーラインまで付けて、「子供たちには利他主義を教え込まねばならない」という。だが遺伝子の利己性が絶対的であれば、利他主義を教え込む余地など一体どこにあるのだろう? これは利己主義者であるドーキンス一流の、うその、ペテンの逃げ口上であろう。

しかし安心できることには、人類のどの社会でも、太古以来、利他主義のモラル教育は様々なかたちで行われてきたし、これからも行われてゆくだろう。それは利己的でもある人間がもともと利他的モラルの動物でもあるからである。言葉や文化を持った人類は一般動物、とりわけ著者が主な話題として取り扱っている鳥類とは大きく違っている。そこでは遺伝子の利己主義の絶対性や遺伝子の決定論的性格(著者は言葉の上で遺伝子決定論を認めていないが、内容は非常に決定論的である)が覆る様々な現象が起きている。

(9) 雄と雌の争い

(a)「互いに遺伝子の50%を共有し合っている親子の間にも利害の対立があるというなら、互いに血縁関係にない配偶者間の争いは、それをどれほど上まわる激しさを呈することになろうか。・・・・理論的にいうなら、個体というものは、可能な限り多数の異性と交尾して、しかもそのつど子育てはすべて相手に押しつけることを『望み』とするはずなのだ。・・・・性的なパートナーシップを、相互不信と相互搾取の関係として把握することを特に強調したのは、トリヴァースであった。(これまでは)性行動、交尾、そしてこれに先行する求愛行動などは、相互利益あるいはさらに種の利益のために遂行される本質的に協同的な冒険なのだと考えることに、私たちエソロジストは慣れっこになっていたのである」(224〜225ページ)
(註64)
部分と全体、個と集団、個体と種などは相互依存の関係にある。どちらが先だというわけではない。むろん利己も利他も相互依存の関係にある。それを無理に分離して、部分や個や個体を先だとするから利己主義が生じ、そこに残酷で毒々しいエゴイストの世界が描き出されてしまう。性的なパートナーシップにもむろん相互信頼・相互利益・種の利益と、相互不信・相互搾取・個体の利益が相関している。どちらか一方だけという捉え方は誤りである。
(b)「しかし雄性の本質とは一体何なのか。根本において雌を定義する性質とは何なのだろうか。哺乳類であるわれわれは、ペニスの存在、妊娠、特殊な乳腺による授乳、染色体の様子などの諸特性の総計によって両性は定義されるものとみなしている。・・・・しかし動植物一般を対象とすると、(たとえばカエルなどには雌雄いずれにもペニスは存在せず)、上記の基準は頼りないしろものになってしまう。・・・・ところが、動植物を通じて、雄を雌、雌を雄と名づけるのに使用しうる基本的な特徴が一つ存在するのである。雄の性細胞すなわち『配偶子』は、雌の配偶子と比べてはるかに小形で、しかも数が多いというのがその特徴だ。・・・・他の全ての性差は、この一つの基本的差異から派生したと解釈できるのである」(225〜226ページ)
(註65)
ここで言われていることは生物学的に穏当な解釈だと思われる。
(c)「(たとえば減数分裂による一種の有性生殖が見られるある種のカビの「同形配偶」と呼ばれるこのシステムでは、性細胞は全て同じで、精子と卵子という二種類の配偶子は存在せず、配偶子は他のどの配偶子とも結合する。普通の減数分裂の有性生殖と全く同様に、遺伝子の寄与数は全ての配偶子で同じだが、配偶子に含まれる食物量の点では、卵子にそれが偏頗的に著しく豊富な普通の有性生殖の場合とは違って、全ての配偶子で全く同量である。雌雄で性細胞の異なる個々の精子は食物物質の寄与量がほとんど無に等しく、それだけ)微小なので、雄は毎日莫大な数の精子を造ることができる。・・・・胚に対する食物供給の必要から、雌が作れる子供の数(卵子数)には一定の限度がある。・・・・雄による雌の搾取の出発点はここにあるのである」(226〜227ページ)
(註66)
ここで言われている生物学的事実描写に特に異論はない。ただし「雄による雌の搾取」という言い方が妥当かどうか? 配偶者としての異性間には搾取関係とは次元の異なる、共通目的における「役割分担」という概念がありうるだろう。これは「同性間の搾取」や「通常の搾取」とは明らかに違うから、一概に「搾取」とは言い切れないのではなかろうか。もしドーキンス説が正しければ、雌は雌である限り永遠に雄の一方的な搾取対象であり続けるほかないことになってしまう。

しかしふつう雌は配偶者となる雄を選択する権利を持っているし、そこには性的快楽や性的衝動の充足とともに、「子作り」と「子育て」における役割分担の共同作業も働いている。著者のように種や個体間の依存関係を無視あるいは軽視すると、遺伝子プール内での断片的な遺伝子数の優劣、したがってそれを反映した固体間の搾取関係だけが異常に浮かび上がってしまう。
(d)「パーカーらは、同形接合的な状態を元にして、そこから上記のような非対称性がいかにして進化しえたかを説明している。(つまり、同形配偶の中にも食物物質の点でより優れている多少大型のものがあって、より小型のものがそれを求めた)。・・・・かくして私たちは二つのかけ離れた性の『戦略』の進化を想像することができる。まず大量投資的な、『実直な』戦略があった。この戦略は、投資量が小さく(それだけ多量の配偶子の生産ができる)搾取的な戦略の進化に自ら途を開くことになった。・・・・(進化はますます二極化してゆき)、搾取的な戦略からはますます小形ですばしこい運動性をもった配偶子が進化していった。実直な戦略の生み出す配偶子は、搾取的な側の配偶子の投資量がますます縮小してゆくのを埋め合わせるために、どんどん大型化する方向に進化し、・・・・やがて運動性を失ってしまった。・・・・かくして実直な配偶子が卵子となり、搾取的な配偶子が精子となったという次第である」(227〜228ページ)
(註67)
「多量の配偶子」という点については、たしかに卵子と精子の数には大きな開きがある。だがそれは性細胞数だけの話であって、雌雄の個体数としてはどうだろうか? 「雄による雌の搾取」というが、個体数として果たして雄の数は雌の数より断然多くなったのか? 雄内の遺伝子が搾取的で雌内のそれより有利であれば、結果として雄が雌より多くなるだろうから、もし雄が雌と同数か、雌以下であれば「搾取」とはいえなくなる。つまり精子を「搾取的」、卵子を「実直な」と表現し得ないことになる。ところが232ページでは「雌雄を同数産む戦略は進化的に安定な戦略なのである」と述べている。すると「精子や雄は搾取的」とは言えなくなる。

これに対してドーキンスは、「雄が雌より多ければむしろ雌の方が配偶選択において主導権を握れて搾取的になる」と反論するかもしれないが、それは当たらない。雌より断然数の少ない雄の中の一頭がその群の全てあるいは多数あるいは複数の雌を独占的に配偶として得るという形もありうるからである。こうすれば、雌より数が少なくてもいわゆるドーキンスのいう「雄の搾取性」が実現できる。しかし現実は229ページにあるように一般に雌雄同数の傾向があるので、著者の雄による雌の搾取という主張は誤りである可能性が残る。

また、多量の精子のほとんどは、後に出てくる数多くのゾウアザラシの雄のように、目的を達せず空しく死んでゆく。そういう無数の別の不本意なあり方を伴う精子が搾取的だろうか? 

すると事実上何が搾取的なのだろう? 「雄が雌より体が大きくていつも搾取的だ」ということも一般化できない。雌と雄とは身体的にだいたい同じであり、例外としてどちらかが非常に大きいという場合があるだけだ。

それに、生命進化は想像以上に複雑怪奇かも知れず、同形接合的な状態から出発するパーカー説が正しいかどうかも実証されてはいない。

また、投資量についてはなるほど卵子には栄養物質として多くが投資されてはいる。しかし多くの精子のうち一つあるいはごく少数のみが卵子に進入し受胎させうる場合、精子もまた犠牲となる無数の精子の製造に多くを投資しているわけである。投資量の差異からみて、卵子すなわち雌に対して、精子すなわち雄が搾取的だというのはあたらない可能性がある。
(e)「『種にとっての利益』という単純な考え方をとるなら、雄は(その精子数で一頭が雌百頭を楽にまかなえるので)雌より数が少なくなるはずと予想してしまいそうだ。(つまり)種にとって雄はいっそう『消耗品的』な存在であり、雌はいっそう『貴重な』存在だということだ。・・・・ゾウアザラシに関するある研究によれば、観察された交尾例の88%は、たった4%の雄によって達成されたという。・・・・『種にとっての利益』という観点から見れば、これは恐るべき浪費である。・・・・しかし、たとえ(そういう場合でも)、雌雄の数は等しくなる傾向があるのである。ここにも、群淘汰理論が窮地に追い込まれるもう一つの例が見られる」(229ページ)
(註68)
これは利己的で詐欺やペテンや権謀術数をよしとするドーキンス一流の策謀である。雄のたった4%だとしても、それは「種の生存力」を遺伝子的に維持あるいは高めるために選ばれた強者であろう。そして、より強いものが選ばれるために、より多くの雄がその背景に犠牲として必要なわけである。これは膣内に放出された無数の精子のなかの最も元気なたった一つが卵子に進入し受胎させ他は犠牲になるというケースと同様だ。この場合、種の利益にとっては、交尾する雄の数ではなく、その質が問題なのだ。むしろゾウアザラシの例は自己犠牲的な群淘汰説の好例だといってもいい。なにも群淘汰理論はゾウアザラシのために窮地に追い込まれているわけではない。

それに著者が精子の搾取性を論じてきたのなら、当然雌より搾取者である雄の数の方が優勢にならねばならない筈である。ところが自説に不利になる「雌雄が同数である」という結果を、かえって「群淘汰説に不利になる」と巧みにすりかえている。
(f)「上記のような場合でも雌雄の数が等しくなるという事実に初めて説明を与えたのは、R・A・フィッシャーであった。・・・・自己の遺伝子の生存を最大化しようとする親にとって、最適の子供の数はどのくらいかという問題を先に論じたが、それとまったく同様に私たちは安定性比について論じることができる。・・・・息子に対する投資を重く見る遺伝子と、娘に対する投資を重く見る遺伝子とではどちらが増加するだろうか。フィッシャーの結論によれば、普通の条件下では、安定性比は50対50になるという。・・・・そのことを理解するためには、まず性決定の機構をすこしばかり勉強しておく必要がある。
哺乳類の場合、卵子はすべて(X卵で)、雌雄のいずれにも成長しうる。性を決定する染色体をもち込むのは精子のほうなのだ。男性の造る精子の半分は女児を作るX精子であり、他の半分は男児を作るY精子である。いずれの精子も同じような外観をしている。両者は、染色体を一つ異にしているだけなのだ。(減数分裂によって雌内に二つのX卵と、雄内にXとYの二つの精子ができ、この雌雄二種のXとYの組み合わせで雌のXXと雄のXYが決定される─批評者)。
いまかりに、片寄った性比の出現をうながすその種の遺伝子が存在したとする。さて、このような遺伝子のいずれかが、等しい性比の出現をうながす対立遺伝子よりも遺伝子プール中で多数となる可能性はあるだろうか。(ゾウアザラシの場合でも娘ばかりを作らせる遺伝子が成功を得ると、それにうながされて息子ばかりを作らせる遺伝子も増えるので)、雌雄を同数産む戦略は進化的に安定な戦略なのである。・・・・(より)厳密な議論は親による保護投資の量という尺度で行わねばならない。・・・・結論をいうと、親は息子と娘に同量の投資をすべきなのである。これは数の上でも同数の息子と娘を作るべきであることを意味するのが普通である」(229〜232ページ)
(註69)
フィッシャーの説についてとくに言うことはない。ただここには引用しなかったが、ドーキンスは232ページでゾウアザラシの特別な例をあげ、進化論的に安定な戦略は、娘の数を三倍くらいにし、その代わり個々の息子には娘の三倍くらいの食物などを投資してスーパー雄に育てるような方策だとしている。これは雌雄同数という現実の事実に合わない想定だ。これでは進化論的に安定な戦略と現実とが矛盾してしまう。ゾウアザラシの例は実は彼に不利なのがここで露呈している。
(g)「本章の出だしの話題だった配偶関係を結んだペアの問題にたち帰ることにしよう。雌雄いずれも、利己的機械として、同数の息子と娘を『ほしがる』だろう。・・・・彼らに不一致が生ずるのは、子育ての苦労の矢面にどちらがたつことになるかという点である。・・・・任意の子供に対する投資量を少なく切りあげることができれば、その分だけ、彼あるいは彼女の作りうる子の数は増加する。・・・・(そのための)明白は手段は、配偶者がどの子供にもその公平な分担量以上の投資を行なうように仕向け、自分のほうはそのすきに別のパートナーと新たな子をもうけるという手である。この戦略は雌雄いずれにとっても望ましいにちがいないのだが、雌がこれを実現するのは(受胎・授乳・養育・保護などが理由で)雄に比べて困難である。(一頭の子供に投入する投資量は雌のほうが大きく、子供を失うと、雌のほうが失うものが多い)。・・・・雌性とは搾取される性であり、卵子の方が精子より大きいという事実が、この搾取を産み出した基本的な進化的根拠なのである。
もちろん、父親が勤勉かつ忠実に子のめんどうをみるような動物もたくさんいるのは確かである。しかしそのような動物の場合でも、子に対する投資をやや少なめにさせ、別の雌とさらに余分な子供を作ろうとさせるような進化的圧力がある程度雄に作用しているのは普通であるとみるべきである。・・・・この進化的圧力が実際にどの程度の強さを示すかは種ごとで大幅に異なっている。ゴクラクチョウの仲間のように、雌が雄の援助をまったく受けず、単独で子育てを行なう例はたくさんある。一方ミツユビカモメのように、模範的に忠実な一夫一婦的つがいを形成して、雌雄が協力して子育てに当たるような例もある。・・・・配偶者の労働を搾取する戦略には利益と同時に不利益がつきまとっており、ミツユビカモメでは不利益が利益を上まわっていると考えるわけである。そもそも、妻子を遺棄することが父親にとって有利になるのは、妻が単独で子育てに成功する可能性がある程度存在する場合に限られるのである」(233〜234ページ)
(註70)
配偶者間の「搾取」概念の不当性についてはすでに触れた。全てを個や断片に還元し、なんでも「それらの間の争いだ、競争だ」とする著者の考えには賛成できない。どのようなものにしろ当然「協調」という側面もあるに違いないからだ。これではドーキンスの妻(もしいるのなら)が可哀想でならない。

ゴクラクチョウの仲間のように雌が雄の援助を全く受けないのは、雄の怠慢のせいなのか、それとも雌が雄を邪魔だと思ってのことか、それをまず知らなくてはならない。

また、「別の雌とさらに余分な子供を作ろうとさせるような進化的圧力がある程度雄に作用しているのは普通であるとみるべき」なら、どうしてミツユビカモメのような例が出現しているのであろう? 著者はその説明を回避して、あたかもその回答ででもあるかのように、「そもそも、妻子を遺棄することが父親にとって有利になるのは、妻が単独で子育てに成功する可能性がある程度存在する場合に限られるのである」と述べている。だが、果たしてミツユビカモメの雌にその可能性がなかったから現在のようになったのかどうかは誰にも確認できないことではないか?
(h)「トリヴァースは、配偶者に遺棄された母親がその後どんな行動をとりうるかを考察している。彼女にとって最も有利な手は、別の雄をだまして彼にその子供を実子と『思い込ませ』て養育させることである。・・・・雄におけるこの種のだまされやすさは自然淘汰においては非常に不利である。・・・・いわゆるブルース効果はマウスで知られているもので、雄の分泌するある化学物質を(別の雄によって)妊娠中の雌がかぐと、流産を起こすことがあるという現象である。・・・・ライオンにも似た例が知られている。群れに雄ライオンが新たに加わると、彼はそこにいる子供をすべて殺してしまうことがあるという。(雄は雌が胎内に継子を宿しているかどうか確かめるために)、雌との交尾に先立って、・・・雌に長い求愛期間を強要することができる。
さて、遺棄された雌が、新しい雄をだまして継子を養育させるという手段を成功させえないと仮定したら、・・・・まだ受胎直後の段階だったら、・・・・ブルース効果が(雄と)雌の立場からみても有利だ・・・・。棄てられた雌の選びうるもう一つの手は、あくまでがんばって単独で子供を育てあげようと努力することである。もし子供が十分大きくなっているなら、この選択は特に有利であろう。
(ところで、どちらか一人だけでも育てられるほど子供が十分大きくなったというような)状況下では、(その子供の両親である)雌雄いずれにせよ先に相手を棄てたもののほうが、(その後に相手が子供を棄てるとその子供は死んでしまうというほぼ確実な予想によってより一層苦しい決断を迫られるので)、有利(になる)。・・・・(相手よりも)後で子を棄てるようにうながす遺伝子は淘汰上有利になれない、というだけの理由から、初めに子を棄てるように仕向ける遺伝子が淘汰上有利になりうるという点が、上記の議論の要点である」(235〜238ページ)
(註71)
ブルース効果はマウスなど一部にしか見られないものだし、ライオンの雄の継子殺しは一部のサルの雄などにも見られるが、これとても動物界に普遍的というものではない。象などのように、他人の子供を自分の子供同様に育てるという動物種も数多く存在する。なんでもかでも、だまし合いであり争いであるという著者の見方は誤りである。
(i)「雌がその配偶者から加えられる搾取の程度を減らすために、自ら先手をとってなしうる・・・・強力な切り札が一枚ある。交尾を拒否できることだ。・・・・交尾前の雌は、取引に当たって難題(主に巣の完成や求愛給餌)をふきかけることのできる立場にある。・・・・(しかるべき性質をもつ雄を選ぶことで雌は有利になるはずだ)。私は代表的な可能性を二つ考えてみることにしたい。一つは、家庭第一の雄を選ぶ戦略、もう一つはたくましい雄を選ぶ戦略(250ページ〜)と呼んでおくことにしよう。
(前者の最も単純な例は、雌が)気むずかしくはにかみがちな雌を装うことである。・・・・長い婚約期間を強要することによって、雌はきまぐれな求婚者を除外し、誠実さと忍耐という性格を事前に示すことができた雄とだけ、最終的に交尾すればよいのである。事実、雌のはにかみがちな性質は、長い求愛行動あるいは婚約期間とともに、動物たちの間ではきわめて一般的に広くみることができる」(238〜239ページ)
(註72)
雄による雌の「搾取」という概念を否定するために、私は(註66)ですでに雌による雄の「選択」という点を指摘しておいた。ドーキンスはここで雌による雄の選択を、雄の雌に対する搾取に対抗し、それを減らすものとして提出したわけである。選択の条件は家庭第一の雄を選択する場合、巣の完成や求愛給餌などだが、もし雌のこの「減らす」効果が雄の「搾取」効果に見合うなら、もはや雌雄の間に「搾取」関係は存在しないわけだ。

「減らす」効果があるものは「選択」だけではないだろうが、ともかく結果としては、ほとんどの動物種で雌雄同数だから雌雄のどちらかが有利だということはなく、事実関係としては搾取関係は存在しないとみていいだろう。雌雄は性的関係なので、交尾における雌の選択権はほとんど決定的ともいえ、雄の命脈を握ると言っても過言ではない。多くの動物種で、雌の嗜好を反映して雄の色彩や体形などが進化してきているのをみてもそれが言える。
(j)「求愛の儀式に際して、(巣の完成や、雌へのたっぷりの食物供給=求愛の給餌など)雄はしばしばかなりの量の婚前投資を行なうことがある。・・・・別の雌も、交尾に先だってこの雌と同様の引き延ばし策を弄することがわかっていれば、雄は当の雌を棄てようなどという浮気心を起こさないのではなかろうか。・・・・この問題に関するトリヴァースの議論には誤りがあった。彼は、過去の投資それ自体が、ある個体の将来の投資の仕方を拘束すると考えた。しかし、この経済学はまちがっている。・・・・(雄は特定の雌への自分の先行投資に完全には束縛されないから、雌が雄に遺棄行為をあきらめさせるには、引き延ばし策による先行投資の強要のほかに、雌のほとんどが同じ戦略を採用するという、もう一つ決定的な前提が必要だ)。雌間の共同行為は、第五章で考察したハト派の共同行為と同様、進化は不可能である。・・・・そこで、メイナード=スミスが攻撃的な争いの分析に用いた方法を、性の争いの問題に応用することにしよう。
(問題の解明のために単純化して雌雄それぞれ二つずつの戦略があるとし)、雌の二つの戦略を、「はじらい」戦略と「尻軽」戦略、雄の二つの戦略を「誠実」戦略と「浮気」戦略と呼んでおくことにしよう。・・・・メイナード=スミスにしたがって、それぞれの代価と利得に適当な仮説的数値を与えておくことにしよう。・・・・子供が無事に育った場合、それぞれの親の得る遺伝的利得を+15単位としよう。子供を育てるための代価、すなわち食物、世話に要する時間、子を守るために親のおかす危険のすべてを合計したものは−20単位とする。・・・・長い求愛で時間を浪費する代価・・・を−3単位としておこう。いま、はじらい型の雌と誠実型の雄だけで構成されている(理想的な単婚社会の)集団を考えよう。・・・・雌雄それぞれについての最終的な平均利得は+2単位となる。(この場合の親の代価の−20は雌雄で二等分されるので)(+15−10−3=+2)。
さてこの集団に尻軽型の雌が一頭入りこんだとしてみよう。・・・・子供一頭当たりの彼女の利得は+5単位(+15−10=+5)となり、はじらい型のライバルより3単位も成績がよい。そこで尻軽型の遺伝子は集団内に広がりはじめる。・・・・しかしここで浮気型の雄が集団的に登場すると、・・・・もし集団中の雌がすべて尻軽型であれば、(浮気型の雄の利得は+15)、尻軽型の雌の利得は−5(+15−20=−5)になってしまう。(そこで)浮気雄が大成功を収めて集団の雄の大部分を制するに至ると、・・・・雄がすべて浮気型からなる集団では、はじらい型の雌の平均利得はゼロだということになる(が、それでも尻軽型の−5よりはましで)、はじらい型の遺伝子は再び集団中に広がりはじめるのである。・・・・(すると)浮気型の雄は(長い求愛を要求されて)ピンチに立たされはじめ・・・・、ここで誠実型の雄が出現したとすると、彼の利得は+2になるので浮気型の雄より高成績である。かくして誠実型の雄の遺伝子が増加しはじめ、話はひとめぐりするのである。
(実際にはこういう永久振動はなく)、このシステムはある安定状態に収斂してしまうのである。計算してみると、(個体として型が固定していなくても、同一個体における型の変化が時間的にこの比率であれば成り立つが)、雌の5/6がはじらい型、雄の5/8が誠実型からなる集団が進化的に安定になるという結果が出てくる。もちろんこの結果は、始めに私たちが仮定した恣意的な数値に対応したものにすぎない。しかし、他の任意の数値の組についても、その場合の安定状態を与える各型の比率は容易に計算することができる。
つまり、はじらい型の雌と誠実型の雄が大半を占めるような集団が進化しうる可能性は大いにあるといえるのである。このような集団においては、家庭第一の雄を選ぶという雌の戦略が実際に効力を発揮しているといえると思われる。ここではもはや、はじらい型の雌の示し合わせた共同行為などを考える必要はない。はじらいという性格自体が、雌の利己的遺伝子に実際に利益をもたらすのである」(239〜245ページ)
(註73)
結局、大局的には家庭第一主義の雄が雌によって選ばれているわけだ。ESS理論が正しいかどうか確定していない限り、これは雌の引き延ばし策による雄の先行投資によって雄が束縛された結果としてみることもできる。したがって、この先行投資の点でドーキンスがトリヴァースを批判しているのは独断というものだ。

それに、ハト派とタカ派の場合と同様、極度に単純化したモデルと点数配分がどれだけ科学的であるかも疑わしい。型の数や種類と点数配分法によって方程式が決定されてしまうが、その方程式が数学の厳密性を持っていることと、その方程式が正しく現実を反映しているかどうかは別問題である。タカ派とハト派のモデルのところで展開したと全く同じ批判をここでも適用したい。
(k)「話を単純化するために、雄には純粋な誠実型とまったくの欺瞞型の二型しかありえぬかのように説明してきた。しかし実際には、どの雄も(いや雄に限らずすべての個体が)少々欺瞞的性格をもっており、配偶者を搾取する機会を見逃さぬようにプログラムされているのだと見たほうが当たっていよう。・・・・不誠実によって利益を得る度合いは、雄のほうが雌より上である。したがって、雄が子に対してかなりの利他的保護行動を示す動物の場合であっても、雄は逃亡の傾向を雌よりやや強く示すものと予測すべきだろう。これは、鳥や哺乳類にあっては確かに普通にみられる事態である。
ところが、雌よりも雄のほうが実際に多大な努力を子の保護に向ける動物もいる。・・・・鳥や哺乳類ではきわめてまれなのだが、魚ではそれがかなり普通にみられるのである。・・・・これは遺伝子の利己性理論にとっては一つの難題であり、私も長い間この疑問に悩まされてきた。しかし(T・R・カーライル嬢が・・・考えたのであるが、魚類では水中に放出される軽い精子の)散逸の問題があるために、雄はまず雌が産卵するのを待ち、しかるのちに卵に精子をふりかけるほかないのである。しかしそのおかげで雌は、実に貴重な数秒間を手に入れることができた。その間に姿をくらまして、子供を雄に押しつけ、彼をトリヴァースのジレンマにつき落とすことができるのだ」(247〜250ページ)
(註74)
たった数秒の遅れで雄魚がこれだけの運命に突き落とされるとは!

誰でも知っているように、産卵と受精とは同時的行為だといってもいいほどすばやく済まされる。雌魚がすぐに再び卵を宿し彼女の遺伝子をさらに増加させるために別の雄魚に受精させたいのなら、旧雄の放精の間に姿をくらます理由もありうるが、再び卵を宿すのはずっと後のことだから、こういう立論は成り立たない。

もし射精の間に雄から姿をくらます理由があるのなら、それは「子育て」から逃げること以外にはない。しかしそれでは彼女の遺伝子の保存や増加には全く不利だろう。遺伝子の利己性説からは、やはりこれは謎、難題、矛盾のままに残る。

しかし、そもそも一体、雌魚は雄魚が射精している間にすぐに遠くへ移動しているのだろうか? またそれが明らかに逃亡であることが観測されているのだろうか? 

カーライル・ドーキンス説はちょっとこじつけめいている。数多くの魚類の行動の観察をもっと詳しく行なえば、きっと別の違った解釈も出てくるだろう。
(l)「魚の話はこれまでにして、雌の採用しうる(家庭第一の雄を選ぶ戦略とは別の)もう一つの主要な戦略である、たくましい雄を選ぶ戦略をとりあげることにしよう。・・・・雌は彼女の子供たちの父親から援助を受けることを結果的にあきらめてしまっており、その代わり、(雄に交尾を許す前にあらゆる注意を集中して相手を選別することを通じて)、よい遺伝子を得ることに全力を傾けている。・・・・よい遺伝子は、息子と娘の双方の生存に利益をもたらすに違いない。・・・・選択基準となる情報を全ての雌が共有する結果、どの雄が最高かという点でほとんどの雌が同じ結論に達してしまう可能性もある。おかげで(ゾウアザラシやゴクラクチョウのように)ごく少数の幸運な雄がほとんどの交尾に関与することになるかもしれない。
彼女は一体何を目印にしてそれ(よい遺伝子)を探しているのだろうか。・・・・一つは生存能力の証である。・・・・そこで雌とすれば、(長寿遺伝子を目的に)年をとった雄を相手に選ぶのがおおいに有利な策ということになるかもしれない。しかし、・・・・寿命そのものはなんら旺盛な生殖力の証にはならないのである。・・・・たとえば強い筋肉(や長い脚も目印になりうる)が、・・・・雌の目から見た場合に雄の備えるべき最も望ましい性質の一つは、端的に、性的魅力そのもの(これは強い筋肉や長い脚と結びつくこともある)ということになるのである。抜群に魅力的なたくましい雄と交尾した雌が産む息子は、次代の雌たちに対しても魅力的な雄となる可能性が高く、したがってこの息子たちは母親にたくさんの孫をもたらすこととなろう。
ゴクラクチョウの雄の尾羽のごとき途方もない形質の(例をあげよう)。その昔、ゴクラクチョウの雌は、普通よりやや長めの尾羽をもつ雄を、望ましい性質の持主とみなして選択していたかもしれない。それはおそらく丈夫で健康な体質の証拠だったのではなかろうか。・・・・雌が従った規則は単純である。すべての雄を見わたして、一番尾の長い個体を選ぶというのがそれだ。この規則から外れた雌は不利になった。しかもあまりに尾が長くなってその持主の雄には実際に負担になったとしても、この事情はなおかつ当てはまっただろう。・・・・尾羽があまりにもグロテスクな長さに達し、ついにそのための明白な不利が性的魅力という有利さを圧倒し始めるに至って、この傾向はやっと停止したのだ」(250〜253ページ)
(註75)
 ゴクラクチョウの尾羽の長さは、生存能力の点で明らかに不利な段階をさらに何段階も越えてしまっているようにみえる。これはゴクラクチョウにおける自然淘汰に対する性淘汰の優越性の証であろう。「やっと停止した」とドーキンスは言うが、もしかすると現在よりさらに長くなる可能性があるかもしれない。いやゴクラクチョウの尾羽が異常に長いのは、自然淘汰や性淘汰とは全く異なる何か別のいまだ未知の淘汰のメカニズムによるのかも知れない。
(m)「ダーウィンが性淘汰という名でこの考え方を提唱して以来、たえず懐疑家たちの注目のまととなってきた。A・ザハヴィは(性淘汰を信じず)、それに代わる説明として『ハンディキャップ原理』という、とてつもなくひねくれた考え方を主張しているのだ。・・・・ザハヴィは、たくましい雄は単に上等な雄のようにみえるだけでは(雌に見破られるから)だめで、(実際の誇示行動によって示される)本当に上等な雄でなければならないと信じている。・・・・ここまでの話は大変結構なのである。(だが、彼は、ゴクラクチョウやクジャクの尾羽、シカの巨大な角などをはじめとする各種の性的に淘汰された形質は、・・・・まさにそれらがハンディキャップとなるがゆえに進化したのだと主張しているのである。長くて邪魔くさい尾羽をつけた雄鳥は、実は雌鳥に対して、こんなしっぽを付けているにもかかわらずなおかつ(成体にまで)生き残れるくらいぼくは(その他の点ではよい遺伝子を持った)たくましい雄なのです、と宣伝しているのだというのである。
私はザハヴィの理論を信じていない。・・・・もしハンディキャップが本物であれば─理論の本質上ハンディキャップは本物でなければこまるわけだが─それは、雌にとって魅力となりうるのと同じ確実さで子孫に対しては不利をもたらしうるはずだからである。・・・・現在までのところ、ハンディキャップ原理を有効なモデルにしようとする数理遺伝学者たち(その中にはメイナード=スミスもいる)の試みは、いずれも失敗に終わっている。・・・・わざわざ自分にハンディキャップを負わせるようなまねをせずに、(ゾウアザラシのように他の雄をすべてたたきのめすというような)ほかの方途で他の雄に対する優位を誇示できるとするなら、こちらの方法で雄が自分の遺伝上の成績をあげうることに疑問をさしはさむ余地はあるまい」(253〜257ページ)
(註76)
ハンディキャップ原理が自然淘汰や性淘汰とは別の説明原理なのかどうか私には分からない。ともかく、たとえそれが性淘汰によるとしても、尾羽がある程度長くなりすぎると生存に不利になり、当然、自然淘汰によって長さが制約を受けるだろう。だからあまりにも異常な長さや巨大さが現われたという事実は、自然淘汰や性淘汰というこれまでの説明原理とは異なるものが要求されているということではないだろうか?
(n)「以下では一般に雄と雌の間で広く観察されている相違点をとりあげて、それらがどう解釈できるか考えることにしよう。このため両性間にわずかな相違しか見られないような種、すなわち一般に雌が家庭第一の雄を選ぶ戦略を採用しがちな種には、あまり重点を置かないことにする。
まず第一に、雄が性的に魅力的で派手な色彩を示し、雌はかなり地味な色彩を示すという傾向がある。・・・・捕食者は遺伝子プールから鮮やかな色彩の遺伝子を除去する作用を示し、他方、性的パートナーたちは地味な色彩を生み出す遺伝子を除去する作用を示すのである。他の多くの場合と同様、有能な生存機械は、対立する淘汰圧の妥協の産物とみなせる。・・・・雌の造る卵子一個に対応する分として雄が造る精子は莫大な数にのぼるので、個体群中の精子の数は卵子をはるかに上まわっている。・・・・それゆえ、雌は、雄の場合ほど性的魅力が強くなくとも、自分の卵子の受精を保証できるのである。・・・・性的魅力に欠けた地味な色彩の雄は、雌と同じくらい長生きするかもしれないが、彼はほとんど子供を作ることができず、したがって自分の遺伝子を次代に伝えられないかもしれない」(258〜259ページ)
(註77)
搾取的な雄がどうして色彩において雌より派手なのだろう? 雄と雌は同じぐらいの色彩でも良かったのではないか? 強いていえば、今日はこの雌と、明日はあの雌とというように無数の精子をいくらでも放出する雄も、雄の選択ができ、いつでも自分の卵子の受精を期待できる雌も、どちらもが同時に主導権を握っているという言い方もできないわけではない。

参考までに、雌が圧倒的に優勢な特殊な例だが、受精後、雄を食べてしまう雌のカマキリのような例もある。雄に比べて雌の体が非常に巨大なノミのような動物もいる。

ともかくドーキンスのように「利己」を原理として全てを見る見方では、雌雄間も家族間も同族間も、一般になににつけ「搾取-被搾取」ということになるが、こうした概念は厳密な意味で科学的とはいえない。自分の他にいつも他者がおり、利己と利他とが同時に働いているのが現実で、現実にはいつも搾取もあり恩恵もある。  
(o)「両性に広く見られるもう一つの差異は、だれを配偶者に選ぶかに関して雌のほうが雄より慎重だという点である。雌雄を問わず慎重さが必要とされる理由もある。その一つは、(ウマとロバが交雑して本来繁殖不能なラバを産むというような)異種の個体との交尾を避けねばならないということである。(異種交雑によって雄にも雌にも利益はないが、雌のウマには雄のウマより大きな損失が伴うので、雄の方が慎重さに欠ける傾向を示す。同じことは(致死性あるいは亜致死性の劣性遺伝子の働きが表面に現われるとされている)インセスト(近親相姦)についてもいえる。(ふつう)インセスト的結びつきは、雄が雌より年上の場合のほうが、その逆の場合より例が多いものと考えられる。たとえば父・娘間のインセストのほうが母・息子間のインセストより例が多く、兄・妹間のインセストの頻度が両者の中間くらいになるのではなかろうか。
一般に、雄は雌に比べて相手かまわず交尾する傾向が強い。・・・・雄には、もうこれ以上多くの雌と交尾を重ねなくてもよいなどという限界はない。雄にとって過剰という言葉は意味をもたないのである。
ほとんどの人間社会は、一夫一婦制をとっている。・・・・しかし一方では、乱婚的な社会もあるし、ハレム制に基づいたような社会も多い。この驚くべき多様性は、人間の生活様式が、遺伝子ではなくむしろ文化によって大幅に決定されていることを示唆している。・・・・特定の社会において、この二つの傾向のいずれが他を圧倒するかは、文化的状況の細部に依存して決められる。これは、各種の動物においてそれが生態学的詳細に依存して決まるのと同じことである。
私たちが所属している社会の様相のうち、一つ決定的に破格なのは、・・・・平均的に見るならば、われわれの社会においてクジャクの尾羽に相当するものを誇示しているのは雌のほうであって、雄ではない。・・・・こういった事実をまのあたりにすると、生物学者は、彼が見てきた人間の社会は、実は雌が雄をめぐって競い合う社会であって、その逆ではないのではないかと考えざるをえなくなろう」(259〜263ページ)
(註78)
「この驚くべき多様性は、人間の生活様式が、遺伝子ではなくむしろ文化によって大幅に決定されていることを示唆している」という言述は、利己的遺伝子説が文化を持った人間社会において大きな制約を受けるという告白だ。しかし注意しなければならないが、これは利己的側面についてではなく、遺伝子の決定論的側面についてだけの告白である。利己的側面には一切例外がなく、人間においても絶対的だ。

だが文化的影響力をこれほど大幅に認めれば、「われわれ人間も他の動植物同様の生存機械だ」と言ってきたことと矛盾しないだろうか? また結局、利己性についてもその絶対性が疑えることになる。なぜなら本体の遺伝子が非決定論的であれば、その形容詞である「利己的」という性質も結果的に事実上非決定論的になるわけである。

ところで、通常の動物では雌に比べて雄が派手であるが、人間においてそういう色彩関係が逆転しているのは人間の文化によるものだろうか? もしそうならそれは何故だろうか? また普通、動物では雄が雌をめぐって競い合うのに、なぜ人間社会では雌が化粧をして、その反対になったかのような有様なのか? 

(10) ぼくの背中を掻いておくれ、お返しに背中をふみつけてやろう

(a)「(これまで考察してきた動物行動の領域とは異なり、かなりの動物が示す群れ生活の傾向がある。普通は同一種の群れだが、シマウマとヌーの群れ、鳥における複数種の混群などの例外もある)。・・・・利己的な存在である個体が群れで生活することによって手に入れることのできる利益については、さまざまな点が示唆されている。・・・・もしも動物が群れで生活しているなら、他個体と一緒にいることによって(さまざまな面で効率が上がり)、彼らの遺伝子は支出分以上の利益を得ているにちがいない。・・・・(W・D・ハミルトンの『利己的な群れの幾何学』という論文における理論によれば、幾何学的隊列を組む個体は、最も危険な外縁を避けて中心方向へ移動する傾向が生まれ、そこに群れが生まれるとする)。利己的な群れのモデルには、協力的な相互関係が介入する余地はない。そこに利他主義はなく、個々の個体が他のすべての個体を利己的に利用することがあるだけである。しかし、実際の生活においては、(鳥の警戒音のように)、それによって・・・・鳴き手は、(たとえ捕食者の攻撃を仲間からそらすように努めている気配はなくとも)、捕食者の注意を自分に向けさせる『結果』となるから、すくなくとも第一印象としては、利他的行為のように見える。・・・・遺伝子の利己性理論は、警戒音を発する行為に、上記の(警戒音による)危険を上まわる説得的な利点があることを示してみせねばなるまい。これは、実際にはさほど困難なことではない。・・・・まずはっきりしていることは、群れが近縁個体を含んでいる場合、警戒音を発するようにうながす遺伝子は、遺伝子プール内で成功する可能性があることである。・・・・読者がもしこの血縁淘汰的な考え方に満足されないなら、(トリヴァースの五つの考え方や、私が考え出した二つの理論など)ほかにも引き合いに出せる理論はたくさんある」(264〜269ページ)
(註79)
利己的な個体がどうして群をなすようになったかについてのこのハミルトン・ドーキンスの説明は誤っている。前提とされている「個体が隊列を組む」ということ自体が、すでに群れをなす行為ではないだろうか? つまりまず群れや集団が個体とともに存在するのである。そこに周囲の危険領域によるさらなる集団化や群化が起こるとみるべきだろう。これは重大な違いである。というのも「先に個体しかない」とする見方では個体の利己主義しか目に入ってこないからだ。

常識的には、群をなすことによって互恵的な関係がいずれ必ず生じてこよう。数十億年の生命進化の中でこういう互恵関係が生まれない筈がない。そこに、利己主義だけでは説明できない現象が生じてくることも当然ありえよう。

すべてを個体や個物や断片や要素に置き換え、それらをあらゆる現象の説明原理にしようとする、どちらかといえば哲学的な信念による強い意志がなければ、ドーキンスの利己的遺伝子断片説は生まれなかったであろう。この強い意志による偏見で、明らかな利他主義現象は遺伝子自身による「錯誤」と解釈され、おぼろげな利他主義現象は全て利己主義として再解釈され、こうしてなにもかもが利己主義的と判断されるに至るわけである。
(b)「(自分の)第一の理論を私は『ケイヴィー(cave)』理論─来たぞっ!理論─と呼んでいる。ケイヴィーというのは『気をつけろ』という意味のラテン語から来た言葉で、・・・・この理論は、危険に見舞われた時に、草の陰にじっと身をひそめる習性をもつ迷彩色の鳥たちに当てはまる。・・・・いま、群の中の一羽がタカを見つけたが、(自分の周りで騒々しく歩き回っている仲間によって(自分を含む)群全体が発見されて危険に陥ることのないように)、仲間に素早く警告を与えて彼らを黙らせ、彼らが彼の近くへそれと知らずにタカをおびき寄せてしまう可能性をできるだけ減らすことである。
もう一つの理論は「隊を離れるな」理論とでも呼べるだろう。この理論は、捕食者が近づくと飛び上がって、たとえば木の中に隠れるような鳥に適している。・・・・(捕食者を見つけた個体の)最善策は、確かに飛び上がって木の中に隠れることなのである。ただしその際に、他の仲間もまちがいなくすべて同様に飛び上がるように仕向ける(E・L・チャーノフとJ・R・クレブスはこれに『操作』という言葉を使っている)必要があるのだ。こうすれば、彼は群を離れた半端者になることも、またしたがって群集の一部であることの利点を喪失することもなく、しかも木という覆いの中に飛び込む利点を手に入れることができるのである。ここでもまた、警戒音を発する行為は、純粋な利己的利益をもたらすものと見なされるのである」(269〜271ページ)
(註80)
群を成す動物にとって、(その群が近縁者のそれであろうとなかろうと)、自分に危険をもたらす警戒音が純粋に利己的なものであるわけがない。そこには自己と他者への分かちがたい同時的な働きかけが当然存在する。利己と利他とが共存していても、利己の面しか見ず、利他を利己に吸収してしまう著者のいい例がこれである。もし全てのケースにおいて利己性理論が正しいのなら、あらゆる例外的ケースを含むトータルな例証をなすべきだろう。
(c)「第一章で紹介したトムソンガゼルのストッティングはどう説明できるだろうか。アードリーはその(あからさまな挑発といってよいほど派手な)行為が一見自殺的な利他的行為にみえることから、それは群淘汰によってのみ説明できるのだと断言しているほどである。この例は、遺伝子の利己性理論にとって前記の例よりきびしい難問である。・・・・こういった観察事実を根拠として、A・ザハヴィの大胆で非常におもしろい理論が一つ提出された。(それによるとストッティングは)他のガゼルに対する信号などとはまったく関係なく、(その)意味は、『ほら、ぼくはこんなに高く跳べるぞ。そんなに元気で健康なガゼルを捕まえるのは君には無理だ。ぼくほど高くは跳べない連中を追いかけたほうが利口だぞ』。・・・・この理論によれば、ストッティングは、利他主義などとは関係がない。どちらかといえばこれは利己的な行為だ」(271〜272ページ)
(註81)
ザハヴィの理論が正しいかどうかは、ストッティングのとき他のガゼルがそれに「敏感に」反応しているかどうかで決まる。ただし「敏感に」といっても人間の目から見てそう見えるというのではなく、当のガゼルにおける反応系としてどうかということである。ザハヴィは、他のガゼルがそれに気づいて行動を変えることはあるが、それは付随的なことだとする。しかし本当にそうかどうか? トムソンガゼルのストッティングは利他主義や群淘汰説に非常に有利な例としてたびたび挙げられてきたので、この議論の帰趨は重要に思われる。なににつけ利己だけを主義とするのは誤りなので、ザハヴィ・ドーキンスの利己主義的解釈は容認できない。
(d)「あとで再びふれると約束しておいたもう一つの例は、(蜜泥棒を針で刺してほぼ確実に自殺してしまう)カミカゼ的なミツバチの例である。・・・・この他に、アシナガバチ・スズメバチの仲間、アリ類、そしてシロアリなどの社会性昆虫が知られている。以下では・・・・社会性昆虫一般について論議することにしたい。社会性昆虫のめざましい行為は伝説的である。中でもめだつのが、その驚くべき協力行動の能力と現象的な利他主義である。・・・・アリやミツバチ、シロアリの社会は、いずれも、一段高いレベルで、ある種の個体性を達成しているのである。・・・・一つの社会は、あたかも独自の神経系と感覚器官をもった単位であるかのような行動を示す。・・・・ワーカーたち(働きアリ、働きバチ)が示すカミカゼ的な行為、およびその他の形態の利他主義や相互協力は、彼らが不妊であることが理解されれば、びっくりする事柄ではなくなる。・・・・彼らは、(自分の)子供ではなく、近縁者を世話することに全力を注いで、自らの遺伝子を保存しようとしているのである。・・・・以下では、遺伝子の利己性理論が社会性昆虫をどう扱うか、・・・・特に、・・・・ワーカーの不妊性という異例な現象の進化的起源をどう説明するかに注目したい。その現象は、各種の問題の根源になっているからである」(273〜274ページ)
(註82)
「自分は子供を産めないので女王や雄を含む兄弟姉妹やその子供の養育のために生き死にしよう」というのを、遺伝子の観点からみて「現象的な利他主義」と表現するのはまだしも、さらにそれを(自らの遺伝子を保存しようとする)「利己主義」だとするのは行き過ぎだろう。ワーカーの不妊性は社会性昆虫社会からの要求によって進化の中で生じたものであるし、そこに働いているのはその社会性であって、個々の個体でも、個々の遺伝子断片でもない。

たしかに遺伝子が子孫に伝わらない不妊性があるためにカミカゼ的自殺行為も行なうのであろう。だが、それはなにも著者の遺伝子断片説や、その利己性説を証明しているわけではない。ワーカーの不妊性がどう遺伝子断片説とその利己性説に由来するかは、別に証明を要する。その点、著者と同様に、「ワーカーの不妊性という異例な現象の進化的起源をどう説明するかに注目したい」と思う。

社会性昆虫は普通全てが女王という同じ母を持つ家族であり、個体と個体とは染色体レベルでほとんどが同じで、いわば個体認識のないコオロギのように(133ページ参照)個体としても自他が明らかでなく、そのゆえに自己犠牲をなすのであって、断片としての遺伝子の共通性やその利己性のために自己犠牲を行なっているという解釈までいく必要はない。
(e)「第七章で私は、子作りと子育ての(両戦略が別々のものだという)区別を導入したが、その際私は、子作りと子育てを結合させた混合戦略が進化するのが普通だと指摘しておいた。第五章では、混合戦略が進化的に安定となる場合には、二つの一般的なタイプが示されると述べた。一つのタイプでは、個体群中の個々の個体が両戦略を混合した行動を示す。・・・・もう一方のタイプでは、個体群が二種(子作り要員と子育て要員)のタイプの個体に分割される。・・・・しかし(後者)が進化的に安定となるためには、・・・・(この二種の)両者は少なくとも親と子の関係ぐらいの近縁関係をもたねばならないのである。進化がこの方向に進む可能性は理論的には存在するわけだが、それが実際に起ったのは社会性昆虫においてのみだったようだ」(275〜276ページ)
(註83)
ここで著者は、「第五章では、混合戦略が進化的に安定となる場合には、二つの一般的なタイプが示される」と記しているが、第五章のどこにもそのような内容の記述はない。そこにあるのは、「タカ派だけの戦略とハト派だけの戦略(つまり非混合戦略)は進化的に安定でなく、ハト派が5/12、タカ派が7/12が安定で、これは個体が時にはハト派、時にはタカ派として過ごすことでそういう比率であってもいい」とした内容だけである。つまり第五章では、進化的に安定となる場合は、一つのタイプだけなのだ。これは著者の文章における不誠実を示している。
(f)「ワーカーは、シロアリ類の場合は雌雄の不妊虫であるが、その他の社会性昆虫では不妊の雌である。・・・・(子育てしても不妊のワーカーに何の利益があるのかという問に対して)、『何の利益もない』と答える人々もいる。彼らの考えでは、女王は自分の利己的目的のためにワーカーに化学物質による操作を加え、彼女の産み出す莫大な子供の世話をさせている。こうして利益はすべて女王が手にしてしまうというのである。・・・・しかし、これと正反対の考え方によれば、ワーカーのほうが繁殖虫を『自分の利益(つまり繁殖虫の中にあるワーカーの遺伝子のコピーの大量増産のために)養っている』、・・・ということになるのだ。少なくとも(膜翅目の)アリ類、ハナバチ類、狩りバチ類は、女王と子供の間の近縁度より、ワーカーとその妹との近縁度のほうが実際に高くなりうる。みごとにこの点に気づいたハミルトン、・・・・そして後にトリヴァースとヘアは、遺伝子の利己性理論の最も華々しい凱歌の一つを上げることになるのである」(276〜277ページ)
(註84)
膜翅目に関しては、女王とワーカーが母娘の関係である場合姉妹の関係である場合がある。たとえばのちの279ページの記述─読者にはまず先に次の(g)を読んでいただきたい─では、母娘の場合は近縁度は1/2、姉妹の場合は近縁度は3/4となる。女王と息子の場合は著者においては1/2(常識的には事実上ほぼ1/2から1の間)となる。

すると、女王の立場からみて、自分との関係の1を除外すれば、そして女王と息子の場合が仮に著者の言う1/2だとすると、ワーカーが女王と姉妹の場合が一番近縁度が高く、3/4となる。これはワーカーの立場から見ても同じだ。その次が(常識的には事実上ほぼ1/2から1の間である)息子との関係の1/2、その次が娘との関係の1/2だろう。すると女王は自分の子供(息子と娘)より自分の遺伝子に近い姉妹のワーカーたちをどのように自分の子供より大事にしているだろうか? 著者はそれも証明しなくてはならない。

ところで、ワーカーが女王と姉妹の場合、女王との近縁度は3/4、女王と息子との近縁度は事実上1から1/2の間とみていいだろう。それが果たして3/4より大きいか小さいかは非常に大きな核心点だが、その大小はどうも曖昧にならざるを得ない。このケースでワーカーがせっせと働いて女王に子供を産ませようとしている子供たちはワーカーにとっては妹でなく、近縁度がさらに小さい「姪たち」を産ませようとしていることになる。決して自分たちと同じ近縁度3/4の妹を産ませようとしているのではない。だからこのケースがいわゆる「凱歌をあげる」ことのできたケースなのではない。

ということは、著者の立場にとって「凱歌の上がる」のは、女王とワーカーが母娘の関係にある場合に限られる。もし女王とワーカーとが母娘の関係なら、ワーカーたちは自分たちとの近縁度が3/4の妹を母なる女王に産ませようと努力していることになる。だが、この場合、すでに女王とワーカーとの近縁度(1/2)は、女王と息子との近縁度(著者の計算では1/2だが常識的には事実上ほぼ1/2から1の間にある)より小さいと見てよく、そうなれば、妹に対しては、息子の方が直接の子孫だという事実もあるから、女王の立場が相対的に強化され、「女王は娘たちの妹を増産するための養殖家である」と著者のように一方的に断定するには弱すぎることになるだろう。

ところで、「女王と子供の間の近縁度より、ワーカーとその妹─この妹の中には女王と他のワーカーがいる─との近縁度のほうが実際に高くなりうる」とドーキンスは述べているが、上に記した通り母と息子とは1/2から1の間の近縁度だと見ることもでき、それが果たして3/4より大きいかどうか分からない限り、著者はそういうことも言えないのではないだろうか。

そういうわけで、女王の立場からワーカーの利益と繁殖虫なる自分の利益とを比べれば、やはり女王の立場が主であろう。だから、女王がワーカーに一方的に利用されているというのも誤りだし、「ワーカーに何の利益もない」というのも、誤りなのである。繁殖虫にもワーカーにも大小はあれ、ともに自分の立場から見て利益があるからこそ、そこに社会性昆虫社会が進化したのだ。

したがって、以上から、これはなにも遺伝子の利己性理論の華々しい凱歌にはならない。
(g)「(シロアリを含まない先の膜翅目の仲間は)きわめて特異な性決定システムをもっている。・・・・(その)典型的な巣には、成熟した女王が一匹しかいない。彼女は若い時に一度結婚飛行をしており、その時に貯えられた精子で残りの全生涯─十年あるいはそれ以上─の子作りをまかなってゆける。・・・・しかしすべての卵が受精されるわけではない。未受精卵が発育すると雄になるのである。つまり雄には父親がいないのだ。・・・・一方雌のほう(には)父親がある。ある雌がワーカーになるか女王になるかは、遺伝子ではなくて育てられ方(特にどんな食物を与えられるか)によって決まる。・・・・どうしてこのように特異な有性生殖システムが進化したのかはまだわかっていない。・・・・その特異さのおかげで、第六章で紹介した近縁度の簡単な計算法がここでは台無しになってしまうのだ。
膜翅目のシステムでは、一匹の雄の作る精子は、(減数分裂がなく、したがってその時の交叉のシャッフルがなく)、すべてまったく同一の精子になってしまうのだ。いまある雄が遺伝子Aを保持していることがわかっているとして、母親がこれを共有する確率(は)、雄に父親はなく、彼の全遺伝子は母親ゆずりなのだから、答えは100%になる。しかしこんどは逆に、女王が遺伝子Bを保持していることが分かっているとしたらどうか。息子は彼女の遺伝子の半分しかもっていないのだから、彼がB遺伝子を共有する確率は50%になる。
何か矛盾しているように思われるかもしれないが、そうではない。雄は自分の遺伝子をすべて母親からもらうが、母親のほうは自分の遺伝子の半分しか息子には提供していない。この見せかけのパラドックスを解く鍵は、雄が普通の数の半分しか遺伝子を持ち合わせていないという事実なのである。
近縁度の『本当の』指標が1/2かあるいは1かなどということに頭を悩ましても益はない。この指標も単なる人工的な尺度であり、具体的な事例にこれを使って事態が解決し難くなるのなら、それを放棄して第一原理に立ち帰るべきかもしれない。
それはさておき、女王の体の中にある遺伝子Bの立場で問題を考えると、この遺伝子が息子に伝えられる確率は1/2で、娘に伝えられる確率と同じである。したがって、女王の立場からみると、彼女の子供は、雄雌にかかわりなく、(人間の場合と同様に)、いずれも同じ濃さの血縁者だということになるのだ」(278〜279ページ)
(註85)
雄の遺伝子が普通の半分の数しかない膜翅目の特異な性決定システムは、「近縁度の本当の指標は1/2か1か」という根本的な問題を提起するほどのもので、これまでの近縁度計算法をご破算にしてしまう力さえ持ち合わせている可能性がある。近縁度計算が「凱歌を上げる」この例は、むしろその命脈を絶つ例かもしれない。ともかく雄の遺伝子が普通の半分の数しかない場合も存在する一例が膜翅目に見られるわけで、もしかすると他にもそういう例、あるいはもっと奇妙な例さえあるかもしれない。

読者がたどってこられたように、この『利己的な遺伝子』という著作は近縁度計算をこれまでほとんどあらゆるケースに適用してきた。万能を誇ってきた近縁度計算に依存するこの著作自体の意味がいまや根底から問われているともいえよう。こういう事態が生じているにもかかわらず、ドーキンスは膜翅目のこの例を利己的遺伝子説に華々しい凱歌をもたらしたものとしているわけで、この開き直りはちょっといただけない。たとえ女王と子供の間の近縁度より、ワーカーとその妹との近縁度のほうが実際に高くなりうるとしても、(すでにそれさえ曖昧なものでしかないことを私は(註84)で示したが)、ここをごまかして膜翅目のこの例が遺伝子の利己性説の凱歌であることを証明して見せようとしても無駄である。

それに、女王の遺伝子Bが雄に伝えられる確率を50%だとするのもおかしな話ではある。確率母集団から計算する普通のやり方でちょっと変則的に計算すれば、そういうこともあるかもしれないが、女王の遺伝子を100%受け継ぎ、女王の遺伝子しか存在しない息子なのに、それが100%でなく50%だというのは直感的に疑問に感じる。確率そのものにこだわれば、いつも百発百中で、100%の筈なのだ。だから書評者は(註84)でそれを「事実上1/2から1の間」としたのである。

ここでの事態はこれまでの近縁度計算という概念の絶対性を打ち壊すものであるといえよう。「近縁度計算」なるものは「遺伝子プール」という概念とともに一つの仮説的概念とし、個と集団、個体と種、利己と利他などの複視点のように、せいぜい他の視点と並んで利用されるアプローチ法の一つだという程度に理解すべきだろう。
(h)「姉妹関係を相手にすると事態はもっとややこしくなる。同一父母に由来する姉妹は、父親由来の遺伝子に関する限り彼女らは一卵性双生児と同じなのである。・・・・したがって、膜翅目では、同一父母に由来する姉妹間の近縁度は、通常の有性生殖動物の場合の1/2にならず、3/4になってしまうのである。以上から結論すると、膜翅目の雌の場合、父母を共有する姉妹に対する彼女の血縁の濃さは、自分の子供(雌雄を問わず)に対する彼女の血縁の濃さを上まわるということになる。ハミルトンが明らかにしたように、上記の事情は、効率のよい妹生産機械として利用するために母親を養う(いわば養殖家の対象とする)という傾向を、雌に発達させる訴因になった可能性がある。・・・・なぜなら、この場合間接的な方法で妹を作らせる遺伝子は、直接子供を作らせる遺伝子より急速に増殖するからである。ワーカーの不妊性はこのようにして進化したというわけだ」(279〜280ページ)
(註86)
著者は、「上記の事情は、効率のよい妹生産機械として利用するために母親を養う(いわば養殖家の対象とする)という傾向を、雌に発達させる訴因になった可能性がある」としているが、(註84)と(註85)で示したように、遺伝子が直接に伝わる女王の立場の方が、どちらかといえば遺伝子的には若干強であろう。

それに、「膜翅目の雌の場合、父母を共有する姉妹に対する彼女の血縁の濃さは、自分の子供(雌雄を問わず)に対する彼女の血縁の濃さを上まわる」とはいうが、それは、八発百中伝わるのに著者の計算上では50%しか伝わらないことになるあの先のパラドックスを内包してのことである。つまり、父母を共有する姉妹に対する彼女の血縁の濃さは3/4、自分の子供(雌雄を問わず)に対する彼女の血縁の濃さは1/2としてのことであるが、この場合でも、自分の子供が雌の場合は1/2で、そのとおりであるとしても、雄の場合はそのパラドックスを含んでしまうのである。すなわち常識的には雄の場合は母親との遺伝子関係は事実上50〜100%、つまり1/2から1の間で、雌の場合は50%つまり1/2だ。したがって母親と雄の場合、常識的見地からは、姉妹どうしの3/4を超えうる可能性があるわけである。

さてそうはいうものの、それでも現実に圧倒的に多数を占めるワーカーは(どういう経緯でそうなったかは別に論じることとして)すべて雌(著者が「凱歌を上げた」というケースでは女王の娘)なので、自分の遺伝子のコピーを大量生産するには、やはりこれは有効ではある。だが、(仮に近縁度計算法を認めるとしても)、ワーカーの不妊性がそれが原因で進化したのかどうかは、1/2と1の間にあると考えていい母と息子の近縁度が姉妹どうしの3/4より大きいかどうかが判明しない限り、依然として完全に証明されたとは言いがたい。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。また、この事態はワーカーが女王を養殖家として飼育しているというまでの事態を意味しているわけでは毛頭ない。
(i)「しかし、一つわながある。ワーカーが妹生産機械として母親を成功裏に利用するためには、(母親からみれば近縁度が同じなので)妹と同時に同数の弟をワーカーに育てさせようとする母親の当然の傾向を、なんらかの方法で抑制しなければならないのである。ワーカーから見ると、任意の弟が彼女の遺伝子の特定の一個を共有する確率は1/4にすぎない。したがって、もし繁殖能力をもつ雄雌の子供を同数ずつ産むのを女王に許してしまえば、ワーカーの立場から見る限り、女王を養うことには何の利益もなくなってしまうだろう。・・・・ワーカーが、妹を増やす方向に性比を偏らせる努力をする必要があることに気づいたのは、トリヴァースとヘアであった。彼らは、安定性比に関するフィッシャーの計算法を応用して、膜翅目という特殊例について計算し直したのである。その結果、母親にとっての安定投資比率は、通常通り1対1になったが、姉からみた妹弟への安定投資比率は妹3に対して弟1になったのである。
すでに述べたように、女王とワーカーの違いは遺伝的なものではない。・・・・(繁殖虫の雄と雌について)3対1の性比を『望む』ワーカーになるか、あるいは1対1の性比を『望む』女王になるか、いずれの道へもゆけるよう運命づけられている。・・・・ある遺伝子がかりに女王の体に収まることになったとする。この場合その遺伝子は、繁殖能力のある息子と(同じく繁殖能力のある)娘に女王の体が1対1の比で投資を振り当てた時、最大の効率で繁殖することができるのだ。しかし、まったく同じ遺伝子がワーカーの体に収まったらどうなるか。この場合その遺伝子は、ワーカーの体を介してその母親に働きかけ、彼女が(繁殖能力のある)息子より(同じく繁殖能力のある)娘を多く作り出すように仕向けることで自己の増殖を最大化しうるのである。・・・・もし・・・・われわれの見方が正しければ、おそらくワーカーたちは、彼女らの望む3対1の性比をうまく達成できているはずである。もし・・・・まちがっていれば、・・・・繁殖虫の性比は女王の『お望みどおり』1対1になっているはずだろう。この特殊な形態の世代間闘争に勝つのは一体どちらだろうか。これは検定可能な問題であり、実際にトリヴァースとヘアは、多種類のアリを用いてそれをテストしてみせたのである」(280〜282ページ)
(註87)
まず母親から見れば、娘には赤の他人の夫の遺伝子が半分入っているが、息子には自分の遺伝子しか入っていないので、娘より息子の方が大事だと思われる。もし母親と息子の近縁度が1/2から1の間で著者のいう1/2でなければ、もしかすると息子の数が娘の数の三倍になっても、(むろん厳密に計算してみなくてはならないが)、遺伝子的には同価値あるいはその近辺かもしれない。そうなると、トリヴァースとヘアの算出した3対1という安定性比の意味は、遺伝子的には母親の望む1対1かその近くを指すことになるだろう。

それにしても遺伝子が女王の体に収まるかワーカーの体に収まるかでその後の投資配分がガラリと異なるようになるという話だが、もし女王が1対1の性比(もしかすると遺伝子的に見れば、これは息子3、娘1、あるいはその近辺かもしれないが、そうではなく著者の立場の場合)を望んだのであれば、どうしてそれが実現しなかったのだろう? 「すでにワーカーの数の方が多かったからだ」というのは答えにならない。そもそもの初めに女王が1対1を望み、それが現実になっていたなら、女王の方としても1対1の実現を怠らなかった筈だから、たとえワーカーが妹を増やす努力を怠らなかったとしても、ワーカーの数の方が断然多い結果になる筈がないからである。

すると初めから女王よりワーカーの方に相互の影響力の点で分があったのだろうか? ドーキンスは次の283ページで、「ワーカーの体は保育場の管理者を務めているので、女王の体より実際上の権限が大きいからである」と述べている。しかしそれは現象的なものでしかないかもしれない。女王によって女王の意図の下に保育場の管理者を務めさせられているかもしれないからである。

著者は、「現実の性比が3対1であるなら、それは女王がワーカーに利用されているという著者の見解の方が正しい」と主張しているが、個体数の3対1は上に指摘した点で遺伝子的見地からは女王の望む1対1かもしれないから、必ずしもそうは言えないかもしれない。

ともかく息子には母親の遺伝子だけが伝わり父親の遺伝子が伝わらないという単数体の特殊問題を抱えているので、著者がわざわざ著作の末尾にまで持ち越し、あたかも最終的な勝利を示すものとして、例になく詳細に展開しているこの社会性昆虫の例に見られるとされる利己的遺伝子説の「現象的な凱歌」は、やはり真実のものでない可能性が大いにある。もしたとえ真実であっても、この例は利己的遺伝子説を普遍化できない一つの例外かもしれない。
(j)「問題の性比は、雄の繁殖虫と雌の繁殖虫である。・・・・多くの種においては、雄の繁殖虫と雌の繁殖虫のサイズに大きな差異があり、これが問題をかなり複雑にしてしまう。・・・・フィッシャーの最適性比の計算法は厳密にいえば雄と雌の『数』に適用されるのではなく、雄雌それぞれに対する投資量に適用されるものだから・・・・トリヴァースとヘアは、繁殖虫の重量により重みづけを行な(い)、・・・・20種類のアリを材料にして、雄雌の繁殖虫に対する投資量の比で示される性比を推定した。彼らの見出した値は、ワーカーが自分たちの利益のために巣を牛耳っていると見る理論から予測される、雌と雄3対1という比に、かなりの信頼度でよく適合するものであった。研究対象とされた上記のアリ類では、ワーカーが利害対立に『勝っている』わけである。これはそれほど驚くべきことではない。ワーカーの体は保育場の管理者を務めているので、女王の体より実際上の権限が大きいからである」(282〜283ページ)
(註88)
現実の性比が、重量による評価を加えて3対1となったとしても、遺伝子的見地からは1対1であるかもしれないという単数体起源の問題は依然として残っているし、また、507ページにある著者の補注には、この3対1に対してリチャード・アリグザンダーとポール・シャーマンが、「3対1によく適合するという主張に反対した」と、異議を唱えている事実が記されてもいる。

その補注でドーキンスは、「私の見るところ、アリグザンダーとシャーマンの議論は大変説得的である。しかし同時に、トリヴァースとヘアの論文のような美しい仕事がすべて誤りであるはずはないという直感のようなものを感じてしまうのだ」と書いている。つまり3対1という数字は誤りであるというアリグザンダーとシャーマンの議論が大変説得的であると認めているわけだ。にもかかわらず彼がトリヴァースとヘアの説に従うのは、それが彼にとって「美しい」からに過ぎない。これは相当主観的な判断だろう。
(k)「しかし、逆に女王のほうがワーカーより実際上も力をもちうるような・・・・特殊事例を探してみるのもおもしろかろう。トリヴァースとヘアは、彼らの理論の批判的検定に使えそうな、(奴隷使役種の存在という)お誂え向きの状況が存在することに気づいたのである。・・・・多くのアリには兵アリと呼ばれる特殊なカーストの働きアリがみられる。彼女らは、闘争用の巨大な顎をもち、コロニーのために他のアリの軍隊と闘うことを仕事にし・・・他種のアリの巣に攻撃をかけ、巣の防衛に当たる相手方の働きアリや兵アリを殺し、羽化前のサナギを運び去る。サナギは捕獲者の巣内で羽化し、奴隷の身の上とは『気づかぬ』アリたちは、・・・・自種の巣内で普通に行なうはずの(掃除、採餌、子供の世話など)あらゆる仕事をこなすのである。・・・・その間、奴隷使役種の働きアリすなわち兵アリは、さらに奴隷狩りの遠征を重ねるのだ。
奴隷使役という習性の必然的帰結で、われわれの当面の論点からみて興味があるのは次の点である。すなわち、奴隷使役種の女王は、(奴隷の狩人であるワーカーがもはや保育場の実権を握っていないので)、彼女の『好む』方向に性比を傾けることができる立場にあるということだ。・・・・(たとえば)女王が、雄の卵に雌のようなにおいをつけて偽装を『企てた』と考えてほしい。(たとえ奴隷アリが自種の巣内で3対1を実現しようとしたことと同じように務めようとしても)、奴隷使役種の・・・女王が暗号を変えると、奴隷アリのほうにこの暗号を解読する能力が進化する可能性はない。・・・・(女王)は自由に暗号を変えてワーカーたちの対抗策をのがれることができるのである。奴隷を使うアリでは、雌と雄の繁殖虫に対する投資の比率は3対1ではなく、むしろ1対1に近い値になるはずだというのが、以上のややこしい議論の結論である。・・・・そして、二種類の奴隷使役アリについてだけではあるが、トリヴァースとヘアは実際にこのような比率を見出しているのである」(283〜285ページ)
(註89)
著者は女王に対するワーカーの優越説を補強する目的でこの奴隷使役種の例を挙げているわけだが、すでに3対1という数字にそれほどの信憑性がない状況なのに、広範な奴隷使役種の中のたった二種類だけに見られた例など、どれほどの説得力があるというのだろう。

それに、次の285ページで著者は、「これまでの話は事態を理想化している点を強調しておかねばなるまい」と記し、社会性膜翅目の中で結婚飛行のとき、若い女王が二匹以上の雄と交尾する種がある例を挙げて、これまでの話がぜんぜん適用できないことを告白しているのである。つまり著者はこれまで主に自説に都合のいい例を数多く挙げてきたわけだ。
(l)「これまでの話は事態を理想化している点を強調しておかねばなるまい。現実の生活はそれほど整然と割り切れるものではない。たとえば・・・・ミツバチの場合、女王に向けられる分よりはるかに多量の投資が雄バチに対して行なわれており、これは、働きバチ、母親である女王バチ、いずれの立場からみてもつじつまが合いそうにないのである。この難問に対してハミルトンは可能性のある回答を一つ提出している。・・・・分封の際に女王バチ(は)働きバチの大群を伴って巣を離れ(るが)、(それゆえ)巣を離れる女王一匹ごとに、たくさんの余分の働きバチが作られねばならない。・・・・これらの余分の働きバチは、雄の反対側の皿にのせて重量を測らねばならないということである。というわけで、ミツバチの例も、前記の理論にとっては、結局さほど深刻な難題ではなかったのだ。しかし、もっとやっかいな邪魔物がある。社会性膜翅目の中には、結婚飛行の際に、若い女王が二匹以上の雄と交尾する種があるという事実がそれである。このような例では、その女王の娘たちの間の平均近縁度は3/4未満になってしまい、極端な場合には1/4に近づいてしまうのだ。・・・・なんだか私も頭もくらくらしてきた。そろそろこの話題をしめくくる潮時のようである」(285〜287ページ)
(註90)
これまでは膜翅目のワーカー姉妹間の血縁度が3/4の場合ばかりを選んで著述されてきた。そしてそれが母親と息子の1/2や母親とワーカーの1/2より近縁度が大きいとして理論が組み立てられ、展開されてきた。しかしここに至ってそれが著者の説にとって非常に都合のいいケースでしかなかったことが判明したわけである。

膜翅目では弟に対するワーカーの近縁度は2/1、ワーカーに対する弟の近縁度は1/4である。姉妹間の血縁度が3/4から4/1の間という広いものであれば、ワーカーと母親、ワーカーと弟、母親と弟との間で述べられてきたこれまでの立論全体が成り立たなくなる。とくにワーカーが母親を妹生産機械として利用しているという説の普遍的真実性が否定されることになる。
(m)「(アリの仲間のなかには菌園を営んでそれを食する種類が数種あり、菌はアリを通して効率的に増殖し)、菌とアリとの間には、一種の相互利他主義的な関係が存在するのだといえよう。・・・・(またある種のアリ類はアブラムシの分泌する蜜を得、なかには巣の中でアブラムシの卵を世話するような例もあり、アブラムシの方はアリによって天敵から保護されている)。・・・・異種の個体に相互利益をもたらすような関係は、相利共生と呼ばれている。(共生の利益に関わる遺伝子は相互の遺伝子プール中で有利になった)という次第である。相互利益をもたらす相利共生的関係は、動・植物界に広く見受けられる。たとえば地衣類は・・・単独の植物体のように見える。しかし実際にはそれは、菌類と緑藻が密接な相利共生的結合を示した姿なのである。いずれの側も他方なしでは生きてゆけない。・・・・もしかすると私たち自身も(細胞内にもとは共生バクテリアだったとされるミトコンドリアやその他の微小な構造物を抱える二重・三重生物の)一つかもしれないのだ。・・・・私はやがて人々が、実はわれわれの遺伝子の一つ一つが共生的単位体なのだという、もっと徹底的な考え方を受け入れるようになるだろうと考えている。私たちは、共生的な遺伝子たちの巨大なコロニーなのだ。
この考え方をひっくり返してみると、ウィルスは、私たちの体のような『遺伝子コロニー』から離脱した遺伝子なのかもしれない。・・・・この見解が正しいなら、私たちは、われわれ自身をウィルスのコロニーと見なしてよいのかもしれない。このウィルスの一部は互いに相利共生的協力関係を結び、精子や卵子に乗って体から体へ移動する。彼らが通常の『遺伝子』なのだというわけである。その他のものは寄生的な生活を送り、可能な各種の方法で体から体へと移動する。この寄生的なDNAがもしも精子や卵子に乗って移動するなら、たぶんそれが第三章で紹介した『パラドックス的な』余分のDNAになるのであろう。もしそれが、空中経由あるいはその他の直接的手段で移動するなら、通常の意味の『ウィルス』と呼ばれることになるのである」(287〜291ページ)
(註91)
われわれの遺伝子の成り立ちそのものが、このようにそもそもから相利共生的な関係にあるのなら、遺伝子がどこまでも利己的だという遺伝子の利己性理論はちょっと納得できなくなる。遺伝子はそもそも利己と利他を含むとした方が良いのではないか? それが動植物に広く見られる同種間や異種間の共生関係を生んでいるとも言えるのではないだろうか。

いつでもどんな場合でも個体の前にすでに他の個体があり、個体を包括する種があるから、利己のみが出発点になるということはありえないが、それでも、たとえ初めは利己から出発したとしても、こういう共生環境の中でいつかはそれが利他と結びつくのが自然であろう。著者のようにどこまでも利己の殻の中に閉じこもる解釈は正しくない。
(n)「以上は将来のための仮説である。・・・・相利共生という言葉は、異種個体間の相互関係に適用されるのが普通である。しかし、『種のための利益』という観点で進化を見るのを慎むことにした以上、異種個体間の交際を、同種個体間の交際と特に別個のものとして区別する論理的根拠はないと思われる。
一般に、交際する両個体がそれぞれ投入量以上の利益をその関係から得ることができるなら、相互利益的な交際関係が進化するはずである。・・・・ただし本当に両方向的な相互利益をもたらす事例と一方が他方を利己的に利用している事例とを、実際に判別するのはやっかいなことだろう。地衣類を構成するパートナーたちの場合のように、両者が利益を同時に享受しているとすれば、相互利益的な交際関係の進化を想像するのは理論的には容易である。しかし利益の提供とそれに対する返報の間に時間的なずれが介入する場合は(相手をだまして返報しないケースもありうるので)ちょっと問題である。・・・・この問題にはどんな決着がつくだろうか。
(自分の嘴や手では届かぬところにある有害なダニを取り除くなど)、相互的な毛づくろいは鳥や哺乳類でごく普通にみられるが、(先の時間的なずれがある場合)、遺伝子の利己性理論は、相互的な背中掻き関係、すなわち、『互恵的利他関係』の進化を説明できるであろうか。
ウィリアムズは・・・・ダーウィンと同じ結論・・・・すなわち、遅延性の互恵的利他主義は、互いを個体として識別し、かつ記憶できる種においてなら、進化することが可能だという。トリヴァースは、・・・・この問題をさらに詳しく論じている。(頭のてっぺんからダニを取り除くという行動の場合で、『お人よし』戦略と『ごまかしや』戦略の二つがあるとする。ここでも点数配分を行なうわけだが、)毛づくろいを受けた場合の利益のほうが毛づくろいを行なう代価より大きくしてあれば、それぞれの数値の実際の値はどう決めてもよい。(ごまかし屋がお人よし集団に一匹出現すると大きな平均利得を得、だんだんごまかし屋が増えてくる)。・・・・ごまかし屋の構成比が90%にも達すると、(ダニの運ぶ病気のため)、集団の中のどの個体の平均利得も非常に低い値になってしまうだろう。・・・・(しかし)たとえ集団全体が絶滅に向かっても、お人よしがだまし屋より高い成績を上げうる機会はまったくない。
そこで、(返報してくれなかった個体に毛づくろいを拒否する)『恨み屋』とよぶ第三の戦略に登場してもらうことにしよう。・・・・大部分が恨み屋からなる集団には、ごまかし屋もお人よしも侵略できない、また大部分がごまかし屋の集団(も)、恨み屋、お人よしのいずれにも侵略されない・・・・。集団は、これら(ごまかし屋と恨み屋の)二つの進化的に安定な戦略のどちらかに落ち着くことになる。長期的に見れば、一方から他方への変化も起りうる。それぞれの利得にどんな数値を与えるかによって、これら二つの安定状態のどちらが大きな『誘引圏』をもつかが決まり、したがってどちらが達成されやすいかが決まる」(291〜297ページ)
(註92)
著者は、「異種個体間の交際を、同種個体間の交際と特に別個のものとして区別する論理的根拠はない」と述べているが、だれにも明らかなように、異種個体間の交際と同種個体間の交際は質的に異なる。それは「種のための利益」の観点の有無とは全く無関係に言えることだ。ドーキンスは群淘汰説では両者を分けるが、その他の説の立場ではそうでないと言っているわけであるが、実は近縁度計算と本質的に結びついた著者の利己的遺伝子断片説でも、同種の遺伝子プールのみが問題にされているのである。著者の群淘汰説への嫌悪感はこのような初歩的な過ちまでもたらしている。

著者は、「一般に、交際する両個体がそれぞれ投入量以上の利益をその関係から得ることができるなら、相互利益的な交際関係が進化するはずである」と述べている。ある個体は共生によって、1を投入して2を得ることもできる。つまり純粋に他者ゆえの利益がそこにあるわけだ。そういう関係が成り立つ限り、いずれ利己的でない、他者への純粋の利他的な配慮が生じないわけがない。それをあくまで否定するのは著者の個人主義的・個物主義的・要素還元論的哲学のゆえだろう。

著者は同時的に相互利益を得る地衣類などのケースには「理論的には容易である」と言ったきりそれ以上触れないで、そこで騙し合いが生じる「提供・返報間に時間のずれが生じるケース」だけを詳細に論じている。地衣類のケースは純粋な利他主義には都合がよく、著者の純粋な利己主義にとって都合が悪いからではないだろうか。

ウィリアムズはダーウィンと同じく遅延性の互恵的利他主義は、互いを個体として識別し、かつ記憶できる種においてなら、進化することが可能だという。著者のようにそれを認めるなら、それは遺伝子の利己性理論にとってどういう位置づけになるのだろう? むろん著者はこの場合でも、互恵的利他主義は単に現象的な利他主義に過ぎず、あくまで個体の利害関係で成り立っていると考えているのだろう。しかしそれは科学的というより一つの哲学的解釈に行き着く性質のものだ。種や利他を含んだ別の見方もできるからである。

著者が、「それぞれの利得にどんな数値を与えるかによって、これら二つの安定状態のどちらが大きな『誘引圏』をもつかが決まり、したがってどちらが達成されやすいかが決まる」というなら、現実はどうなっているのだろう? 
(o)「トリヴァースは、(大型の魚の体表についている寄生虫を取り除く)掃除魚の示すめざましい相利共生についても論じている。・・・・多くの例で、掃除屋は大型魚の通常の餌動物とまさに同じ大きさ(なのに、大型魚は掃除を済ませたあとパクリと食べてしまうこともない)。これは、(実は食べてしまう方より掃除してもらう方が利益が大きいからだが、それにしても)、現象的な利他主義のすばらしい芸当である。・・・・掃除魚は特別な縞模様をまとい、しかも特別なダンスで誇示行動を示す。これらは掃除魚であることの目印なのである。・・・・事実、大型魚に安全に接近するために、掃除魚とそっくりの外見をもち、しかもまったく同じようなダンスを踊る小型の魚種がいるのである。この詐欺師は、大型魚が掃除を期待して恍惚状態になるや、その鰭にかみついて肉片をもぎとり、一目散に遁走するのである。
掃除魚はそれぞれのテリトリーをもっている。大型の魚たちはそこに列を作って並び、丁度理髪店の客のように自分の番が来るのを待っているという。この事例で、遅延性の互恵的利他主義の進化を可能にしたのは、おそらく上記のような特定地域(これが本物と詐欺師とを区別させている)への固執という性質であろう。
人間には、長期の記憶と、個体識別の能力がよく発達している。したがって、互恵的利他主義は、人間の進化においても重要な役割を果たしたことが予想される。・・・・ヒトの肥大した大脳や、数学的にものを考えることのできる素質は、(一見きちんと恩返しをしているように見えるが、実際は、いつも、受けとった分よりやや少なめのお返ししかしていない「狡猾なだまし屋』のように)、より込み入った詐欺行為を行い、同時に他人の詐欺行為をより徹底的に見破るためのメカニズムとして進化したのだという可能性すら考えられる」(298〜300ページ)
(註93)
著者が人間の肥大した大脳や数学的にものを考える能力について、騙し合いから進化した可能性があるとするのは、いかにも著者らしい発想である。むろんそういう側面がなかったわけではないが、たとえば協働と分配などそれとは別の人間の社会的結合の側面も存在したことだろう。著者のように騙し合いの立場に立てば人間も例外なく利己的な存在だという結論になってしまう。

しかし独身主義・積極的自己断種・同性愛・愛人や妻を肉親より愛すること、できるだけたくさんの子供をつくることを拒むこと、などをはじめとする数々の、遺伝子から見て利己的でない現象が人間で起きているのも事実なのである。これらは個体としては多くは利己的だが、(むろん利他的である場合もあるし)、遺伝子の利己性理論にとっては説明不可能だ。著者も99ページで「脳は遺伝子の独裁に叛く力さえそなえている」「意識とは、実行上の決定権をもつ生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致だと考えることができる」と述べている。

(11) ミーム─新登場の自己複製子─

(a)「私の展開してきた議論は、一応は、進化のあらゆる産物に当てはまるはずなのである。もし何らかの種を例外として除外しようというなら、妥当な特別な根拠がなければならないのだ。・・・・私は、そのような根拠は(人間には)確かに存在すると信じている。人間をめぐる特異性は、『文化』という一つの言葉にほぼ要約できる。・・・・基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じうる点で、文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。文化的伝達は何も人間だけに見られるのではない。(ニュージーランド沖の島に住むセアカホオダレムクドリという鳥のさえずり方の研究で、P・F)ジェンキンスは、父親と息子のさえずり方を比較することによって、さえずりのパターンが遺伝的に親から子へ伝わるのではないことを明らかにした。個々の若雄は、近所にテリトリーをもつ他個体のさえずりを、人間の言語の場合と同様に模倣という手段によって自分のものにするらしいのである。・・・・さらに、鳥類やサルの仲間にはこの他にも文化的進化の例が知られている。しかし、これらはいずれも風変わりでおもしろい特殊例にすぎないのだ。文化的進化の威力を本当にみせつけているのはわれわれの属する人間という種なのである。・・・・(本書のこれまでの諸章の著者が、こんなことを言うとびっくりされるかもしれないが)、これから私が展開しようとする議論は、現代人の進化を理解するためには、進化を考える際に遺伝子だけをその唯一の基礎と見なす立場を、まず放棄せねばならないというものだ」(301〜305ページ)
(註94)
言語に基づく文化能力のある人間の特殊性が、遺伝子万能論を制約しているという告白である。もしそうなら、利己性理論が人間現象の全てに貫徹しているという思想も、当然、放棄すべきではないだろうか?
(b)「生物学には、(全宇宙に妥当する物理学の法則のような)、普遍妥当性をもちうる原理があるのだろうか。・・・・むろん私はその答えなど知らない。しかし、もし何かに賭けなければならないのであれば、私はある基本原理に自分のお金を賭けるだろう。(その実体がDNAであろうとなかろうと)、すべての生物は、自己複製を行なう実体の生存率の差に基づいて進化する、というのがその原理である。・・・・私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである。・・・・それはまだ未発達な状態にあり、依然としてその原始スープの中に不器用に漂っている。しかしすでにそれはかなりの速度で進化的変化を達成しており、遺伝子という古参の自己複製子ははるか後方に遅れてあえいでいるありさまなのである。
新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。(脳から脳へ伝わる)文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える(ミームーmemeーという)名詞である。・・・・楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壷の作り方、あるいはアーチ建造法などはいずれもミームの例である。(ミームは、比喩としてではなく、─神経回路の具体的な型として─厳密な意味で生きた構造とみなされるべきである。・・・・繁殖力のあるミームを植えつけるということは、脳に寄生するということなのだ。ウィルスが寄生細胞の遺伝機構に寄生するのと似た方法で、・・・脳はそのミームの繁殖用の担体にされてしまうのだ)。
神という観念を考えてみよう。(その発生過程は分からないが)、それは・・・・語られる言葉、書かれた文字によって(自己複製を行なう)。・・・・しかし、そのミームはなぜこのように(ミームプールの中で)高い生存価を示すのだろうか。・・・・(それは強力な心理的魅力、つまり)、実存をめぐる深遠で心悩ますもろもろの疑問に(偽薬のように表面的にはもっともらしい回答を与えてくれるからである)。
(その強力な心理的魅力の生物学的・遺伝子学的根拠を求めようとする同僚たちがいるが)、DNAは、永遠にその専制支配権を確保できるとは限らない。新種の自己増殖子が自己のコピーを作れる条件が生まれさえすれば、その新登場の自己複製子が勢いを得て、それ自体の新たな種類の進化を開始することになるのである。いったんこの新しい進化が開始されると、もはやそれが古いタイプの進化に従わねばならぬ必然性はないといえる」(305〜309ページ)
(註95)
これはこれまで近縁度計算などと深く結びついた利己的遺伝子断片説という生々しく毒々しい思想を展開してきた著者の言葉とも思われない。ここで述べられているのはこれまでの思想と明らかに矛盾する。もし人間文化の力がこれほどのものであるなら、当然、利己的遺伝子説における極度に非妥協的な利己主義や遺伝子決定論的な論調(著者は言葉では認めていないが、「生物機械」などという言葉を頻繁に使用して、事実上、決定論的であった)を避けるべきであった。

文化的伝達は人間だけに見られるものでないと著者も302ページのセアカホオダレムクドリやサルの例などで記しているではないか。たぶん霊長類、とくにチンパンジーやボノボには相当な文化がある筈である。進化が結果として人間を産み出したのであれば、人間に至る過程においてすでに(利己的で決定論的な)遺伝子の支配を突き崩す動きが始まっていたとすべきなのである。著者はその萌芽をあちこちで読み取る姿勢が必要だったであろう。

さて、1976年度版「まえがき」などで、「われわれは生存機械─遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ」と述べてきた言葉は、少なくとも「われわれ」という単語を含む限りいまや正しくないわけである。ミームという観念が遺伝子とは別に人間の大脳を支配するようになるのだとすれば、観念には利他的観念も当然含まれるから、人間は十分に利他的になりうる。しかし著者はこれまで人間は遺伝子的にはどこまでも利己的なので利他的福祉社会を求めても甲斐はないなどというような罪なことを主張してきたのではなかったか。

また、観念はDNAという物質とは異なり、思想として言葉としてフレキシブルな性質のもので、元来非常に非決定論的なものであり、そういう意味でも人間はもはや遺伝子のための機械というようなものではありえなくなる。それに、観念は「目的」という観念と「意識」の上で結びつきうるし、そうなれば遺伝子が持っていた「盲目的」「無目的的」という性質からも自由になれるわけである。もし「われわれは遺伝子の生存機械だ」となお表現したいのなら、「肉体としてのわれわれは遺伝子の生存機械だ」と、「肉体としての」の部分を付け加えて、言い換えねばならない。

こうしてみると、著者のこれまでの利己的遺伝子断片説はここで決定的に破綻したと見ることができる。

ところで、著者のここでの主張によれば、生物自然においてはDNAという物が、人間文化においてはミームという観念が支配的になる。人間は文化を担うが同時に生物でもあるので、体はDNA、精神はミームの支配を受けることになり、いわば物と観念の二元論の中にいることになるわけである。しかし「遺伝子という古参の自己複製子ははるか後方に遅れてあえいでいるありさまなのである」という言葉をみると、どうやら観念(ミーム)の方が分がいいと著者は考えているようだ。

さて、仮にそれぞれの観念は大脳の中のある種の神経回路の型に依存するとしよう。そういう観念が地球生物の究極の主人とされたDNAの支配に従わない独自な発展・進化を遂げるなら、それは自然に対する文化の優越、生命に対する人間精神の優越という方向にあることになるだろう。

物から心へ、そして心から精神(自己を意識する心)へ、というベクトルは、いずれ「なぜこういうベクトルがあるのか?」「なぜDNAは自分を凌駕する原理的に異なったミームを自己否定的に生み出したのか?」こういう「なぜ」という問いとともに、哲学的飛躍あるいは宗教的決断によって、精神から神へと向かってもおかしくはない。

それにしても、ミームはDNAから独立した別の新たな「自己複製子」だというのには根本的な問題がある。DNAはその鏡対称的な二重鎖構造によって自ら主体的に自己複製を志向し実行するのに対して、ミームはそうでなく、大脳内の意識・心・自我によって複製させられているのであって、自ら主体的に自己複製を志向し実行しているのではない。だからミームを「自己複製子」と呼ぶのはおかしい。ミームは意識・心・自我によって複製されるという意味で、むしろ「被複製子」とでも呼ぶべきものだ。「自己複製子」と呼ぶからには、自ら主体的に自己複製できなくてはならないからである。

ミームにはDNAにおける鏡対称的な二重鎖構造に相当するものがないので、みずから自己複製を志向し実行する物質的根拠がない。したがってそれは「自己複製子」ではなく、これまで人々が「観念」と言ってきたものにほぼ該当するものであるにすぎず、そういうわけで「ミーム」なる術語は全く不必要である。

したがってDNAと対立軸をなすのはミームでなく、その背後の意識・心・自我なのであり、人間がDNAの支配を超えうるのはミームのゆえではなく、ミームを成り立たせ、それを複製させている意識・心・自我のゆえ、言い換えれば人間の精神能力のゆえだというべきなのである。

こういうことに気づかないまま、ドーキンスはのちの320ページで、「われわれの意識的な先見能力─想像力を駆使して将来の事態を先取りする能力─には、盲目の自己複製子たちの引きおこす最悪の利己的暴挙から、われわれを救い出す能力があるはずだ」と述べている。だが、これはまさしくDNAの支配を乗り越えるのは、ミームでなく意識の力によるということを意味しているわけである。ドーキンスの無自覚なこの言葉をみても、DNAの対立軸は本当はミームでなく意識・心・自我なのである。
(c)「広義の意味での模倣が、ミームの自己複製を可能にする手段である。・・・・ミームに高い生存価を付与する特性については・・・・一般化して考えると、・・・・第二章で自己複製子に関して論じられたものと同じものになるはずである。すなわち、寿命、多産性、そして複製の正確さの三つである。(そのうちの)寿命は、遺伝子の場合に比べると、さほど重要ではなさそうだ。・・・・遺伝子の場合と同様、ここでも特定のコピーの寿命より多産性のほうがはるかに重要なのである。・・・・続いて・・・・複製の正確さの問題がある。この点に関して私は、私の議論の土台がやや頼りないことを認めねばならない。・・・・ミームの伝達は不断の突然変異、そしてさらには混合にさらされているのである。・・・・(混合という場合、単位が問題となるが)、一つの単位ミームが何から構成されているか・・・自明でないことははっきりしている。私は一つの楽曲を一つのミームだといってきた。しかしでは一つの交響曲はどうなるのだ。・・・・(それぞれの楽章や楽句やコードがミームなのか)。(これについては遺伝子の単位の便宜的定義の場合と同様の)第三章で使ったのと同じ言葉の手品に訴えることにしよう。・・・・「観念のミーム」は、(全ての脳が共有する)脳と脳の間で伝達可能な実体として定義されうるはずなのである。
ミームと遺伝子の類似点をもっと調べてみよう。・・・・遺伝子は、盲目的な自然淘汰の働きによって、あたかも目的をもって行動する存在であるかのように仕立てられている。そこで、言葉の節約という立場からは、目的意識を前提とした表現を遺伝子に当てはめてしまったほうが便利だというわけだった。・・・・ミームに関しても同じように考えれば便利なのではあるまいか。いずれの場合も、神秘的に解釈されてはこまる。目的の観念は(DNAとミームの)いずれにおいても単なる比喩にすぎないのだ。・・・・われわれは・・・・遺伝子に対して、『利己的な』とか、『残忍な』とかいう形容詞さえ用いたほどである。これらの場合とまったく同じ心構えで、利己的なミームや残忍なミームを物色することができるだろうか」(309〜314ページ)
(註96)
DNAに取って代わりうるようなものとしてミームを登場させようとする目的で、なるべくDNAの持つ自己複製子の三つの特徴をミームが併せ持つように書き込もうとしているが、寿命と複製の正確さにおいてはどうみてもミームはDNAに数段及ばないし、そういうものがいかに多産であっても、あまり意味はないだろう。

さらに「自己複製子」とされたミームの単位がこのように曖昧で「言葉の手品」に頼るようでは信頼に値しない。

DNAとミームに対する著者の平行視はさらに「無目的意識性」にまで及んでいる。だがDNAが目的意識を持てないのは、細胞単位や遺伝子単位では「目的」という観念そのものを持つことができないからであろう。

ところで、すでに述べたようにミームは「自己複製子」でなく、いわば「被複製子」であって、複製の主体は意識・心・自我である。ミームそのものがたとえ目的意識を持てなくても、その主人たる意識・心・自我が目的意識を持てさえすれば、それでミームは目的意識と深く関係していると言える。したがって、著者が、「目的の観念は(DNAとミームの)いずれにおいても単なる比喩にすぎないのだ」というのは誤りである。

著者は、「われわれは・・・・遺伝子に対して、『利己的な』とか、『残忍な』とかいう形容詞さえ用いたほどである。これらの場合とまったく同じ心構えで、利己的なミームや残忍なミームを物色することができるだろうか」と述べているが、この「競争」とそれによる「利己的」「残忍」も、DNAとミームとのさらなる平行視の試みであろう。しかし、著者においては遺伝子はどれもこれも普遍的に「利己的」「残忍」であったが、ミームの場合は特殊的にだけそうであるにすぎない。

DNAとミームは似ておらず、平行視は正しくない。平行視はさらに続くが、これらは虚しい試みである。たとえば両者の決定的な違いは、遺伝子は自ら主体として自己複製を志向するが、ミームにはそういう主体がない。遺伝子を突き動かすのは遺伝子そのものであるが、ミームを突き動かすのはミームそのものでなく、大脳の中の意識・心・自我である。つまりミームは本質的に意識・心・自我の手段に過ぎない。もしDNAと文化とが平行視の可能な対立軸をなしているのなら、それは遺伝子とミームの間においてではなく、遺伝子と意識・心・自我の間においてなのである。
(d)「ここで、競争の性質をめぐる問題を一つ考えておきたい。有性生殖の場合、個々の遺伝子は、対立遺伝子・・・・と競争している。(ミームには「対立する観念」はあるが、それは染色体上にきちんと対を作る対立遺伝子のようなものではない)。では、一体どんな意味で、ミームは互いに競争しているのだろうか。対立ミームがないのに、ミームは『利己的』だったり、『残忍』だったりできるのか。おそらく可能だろうというのが私の答えである。・・・・人間の脳は、ミームの住みつくコンピューターである。そこでは時間が、おそらく貯蔵容量より重要な制限要因となっており、激しい競争の対象となっていよう。・・・・あるミームがある人間の脳の注目を独占しているとすれば、『ライバル』のミームが犠牲になっているに違いないのである」(314〜315ページ)
(註97)
多くの言葉には反対語があるし、観念にも対立観念がある。しかし普遍的ではないので、著者はそれをDNAの場合と平行視できない。それでさらなる平行視を求めて、脳とコンピューターを同一視し、時間と記憶容量という有限な資源の取り合いという点で競争が起るとした。「競争」という点での平行視である。

しかしこの場合、「ライバル」のミームはそれが持つ「意味」の上でのライバルなのではなく、単に他のミームに、ある期間の間、ある記憶装置の一部をコンピューターなる脳で占領されているというだけでのライバルであるにすぎず、これではあまり言及の意味がない。ミームとは本来、ある「意味」を持つ観念だから、「意味」の上で排除されてこそ「競争」するミームであろう。

もう一つ問題があるとすれば、著者が脳とコンピューターを同一視したことである。518ページ以下の補注で著者はコンピューター・ウィルスの例をあげ、それをミームと同一視している。脳とコンピューターに類似点が数多くあるとしても、両者の同一性はまだ多くの点で実証されていないものだから、これは科学というより哲学的判断であろう。
(e)「(第三章の遺伝子複合体のところで述べたように)、チョウの擬態に関与する多数の遺伝子(は)・・・すべてを一まとめにして一つの遺伝子として扱えるほどである。第五章では、進化的に安定な遺伝子セットというさらに複雑な概念を持ち出した。・・・・ミーム・プールでもこれらに似たことが起るだろうか。たとえば神のミームが他の特定のミームと結びついて、この結びつきが当のミームたちそれぞれの生存を促進するようなことがあるだろうか。もしかすると、独特の建築、儀式、律法、音楽、芸術、そして・・・・教会組織などは・・・・(その)一例かもしれない。具体的な例をあげよう。・・・・地獄の劫火という脅迫である。・・・・地獄の劫火という観念は、・・・・それ自体がもつ強烈な心理的衝撃力のおかげで、自己を永続化しえているのである。それが神のミームと連鎖したのは、両者が互いに強化し合って、ミーム・プールの中における互いの生存を促進できるからなのだ。宗教というミーム複合体のもう一つのメンバーに信心というのがある。・・・・盲信のミームは、理性的な問いをくじくという単純な無意識的手段を行使することによって、自己の永続を確保するのである。盲信は一切を正当化できる。・・・・(愛国的、政治的であろうが、宗教的であろうが)、盲信というミームは身に備わった残忍な方法で繁殖してゆくのである」(315〜317ページ)
(註98)
著者の宗教や神に対する哲学的態度、つまりその無神論や唯物論については問題があるとしても、ここで言われていることは概ね正しい。
(f)「ミームと遺伝子は、しばしば互いに強化し合うが、時には相対立することもある。たとえば、独身主義の習慣などは、おそらく遺伝によって伝わるものではあるまい。・・・・独身主義を発現させる遺伝子は、(膜翅目などを除けば)遺伝子プールの中での失敗を運命づけられているからだ。しかし、独身主義のミームには、(聖職者養成所などの特殊な環境においては)ミーム・プールの中で成功しうる可能性がある。私は、相互適応した遺伝子群の複合体の進化と同様な方式で、相互適応したミームの複合体が進化すると推測している。淘汰は、自己の利益のために文化的環境を利用するようなミームに有利に働く。・・・・ミーム・プールは進化的に安定なセットとしての特性を示すようになり、新しいミームはなかなか侵入できなくなるだろう」(317〜318ページ)
(註99)
ミームと遺伝子は基本的には互に相反するものだとすべきだろう。というのも、それぞれの背後に、自然と文化、生命と心、存在と意識という対立軸があり、それらがミームと遺伝子を通じてともに自分の利益を主張し、自分の影響力を図ろうとするからである。そういうなかで、あたかも共生のように関係する場合もあるということであろう。書評者としては相対立する面に興味がある。それは利己的遺伝子断片説を批判するこの書評の目的でもあるからである。

「淘汰は、自己の利益のために文化的環境を利用するようなミームに有利に働く」というのは、またもやあの利己性の主張で、平行視の続きである。著者の利己主義はDNAだけでなく、どういうわけかミームにも及んでいる。しかし、もしミームが「利他のミーム」であれば、そういうミームもまた自己の利益のために有利に働くことになり、利他が増殖することになるだろう。ミームは観念にすぎないから、そこでの利他性の実現も比較的簡単だろう。

「新しいミームはなかなか侵入できなくなるだろう」との著者の見解は一般的でない。というのも、人間は、倦怠を恐れてなのか、新奇や冒険を求めてまったく新しい思想や言葉にも容易に飛びつくからである。さらに科学的真理であることが証明されれば、まったく新しいミームが突然のように大歓迎を受けることもある。DNAにフレキシブルな性質はなかったが、ミームには観念の持つ軽さや自由度がある。
(g)「ミームには明るい面もあるのである。・・・・世代が一つ進むごとに、われわれの遺伝子の寄与は半減してゆく。ソクラテスの遺伝子のうち今日の世界に生き残っているものがはたして一つか二つあるのかどうか分からない。しかし(彼の)ミーム複合体はいまだ健在ではないか。
私の展開したミームの理論がいかに思弁的であったとしても、ここでもう一度強調しておきたい重要な論点が一つある。文化的特性の進化や生存価を問題にする時には、だれの生存を問題にしているかをはっきりさせておかねばならないということである。(遺伝子のレベルでの有利さというような)、単にそれ自身にとって有利だというだけの理由で文化的な特性が進化しうる、・・・などとは、われわれはこれまで考えてもみなかったのである。宗教、音楽、祭礼の踊りなどには、生物学的な生存価もあるのかもしれないが、しかしそれらに関して、必ずしも通常の生物学的生存価を探す必要はないのである。遺伝子が、その生存機械に、ひとたび、速やかな模倣能力をもつ脳を与えてしまうと、ミームたちが必然的に勢いを得る」(318〜320ページ)
(註100)
「従来は生物学的にどう有利かだけを見てきたが、文化的存在でもある人間の場合にはそれが当てはまらない」という見解を、著者はこういう形で表現している。それは正しい。しかしそのかわり、これまで動植物だけでなく、人間やその社会にも適用してきた遺伝子の利己性理論は破綻してしまっている。

また「それ自身にとって有利だ」というのはもともとDNAの特徴であって、ミームにそういう側面は初めから存在しない。なぜなら、ドーキンスは気づいていないが、DNAはそれ自体が生きようとする主体であるに対して、ミームはそうでないからである。ミームにそういう志向はない。遺伝子は自ら自己複製を志向するが、ミームはそうでなく、大脳内の意識・心・自我が自己複製させる。

ドーキンスは遺伝子とミームの違いを単にDNAと文化の違いとして見ているが、それは誤りである。さらに奥深く追求すると、遺伝子と平行し対立しているのはミームでなく、もう一つの主体である大脳内の意識・心・自我であることが分かるからである。しかしともかく、どちらにしても、両者の原理は違っている。したがって、DNAを人間文化の強いあるいは唯一の説明原理として要求する従来の学者たちに対してドーキンスがこのように批判的なのは正当だといえる。
(h)「その進化がミームによってもたらされたのかどうか定かではないが、人間には、意識的な先見能力という一つの独自な特性がある。利己的存在たる遺伝子に(そして、読者が本章の思弁をお認めになるなら、ミームにも)先見能力はない。彼らは意識をもたない(利己的な)盲目の自己複製子なのである。・・・・遺伝子であれミームであれ、無知な自己複製子というものは、目先の利己的利益を放棄することが長期には利益につながる場合でも、それを放棄しないものなのである。・・・・純粋で、私欲のない、本当の利他主義の能力が、人間のもう一つの独自な性質だという可能性もある。・・・・私がここで強調しておきたいのは次の一点なのだ。・・・・個々の人間は基本的には利己的な存在なのだと仮定したとしても、われわれの意識的な先見能力─想像力を駆使して将来の事態を先取りする能力─には、盲目の自己複製子たちの引きおこす最悪の利己的暴挙から、われわれを救い出す能力があるはずだということである。・・・・私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームにも反抗する力がある。純粋で、私欲のない利他主義は、自然界には安住の地のない、そして世界の全史を通じてかつて存在したためしのないものである。・・・・われわれは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」(320〜321ページ)
(註101)
それ自身としてはむろん遺伝子にもミームにも意識や先見能力はない。だがミームをDNAと同様の自己複製子として誤解し、ミームには「意識も先見能力もない」「盲目である」「利己的である」などと論じても、そこにどのような真理性があるのだろうか? 

著者はミームも無知な自己複製子だから利己的だとしているが、(註100)で言及したように「利他のミーム」も可能だから一概にそうは言えない。とりわけミームは観念として、意識・心・自我によって操作されるものだから、ミーム自体が無知・盲目であっても、それで利己的なものになるわけではない。意識・心・自我が利他的なら、利他のミームも大いに増大するだろう。

「純粋で、私欲のない、本当の利他主義の能力が、人間のもう一つの独自な性質だという可能性もある」という著者の見解は、これまでの遺伝子の利己性理論と大きく矛盾する。あれほどのことを言って注目を集めておきながら最後にこんなことを言うのは、一種のペテンであろう。

「純粋で私欲のない利他主義は、自然界には安住の地がない」つまり「存在せず」というのにも少し問題がある、だが、さらに、「世界の全史を通じてかつて存在したためしのないものである」というのには非常に大きな誤りがある。人間の世界史の中には遺伝子の支配から自由な、純粋に利他的な行為がいくらでもある。全てを利己的に見てきた著者にはそれが見えなかっただけである。

「われわれは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた」というのは著者の相変わらずの表現法である。これをより正確に、「われわれの体は遺伝子機械として組み立てられ、われわれの心はミーム機械として教化されてきた」と言い直すとしよう。しかしその上でも、(「われわれの体は遺伝子機械として組み立てられ」は正しいとしても)、「われわれの心はミーム機械として教化されてきた」の方は根本的に誤っている。

というのも、(ミームという不要な術語をなお使用するとすれば)、すでに述べたように、ミーム(その実体は単なる観念)にはそもそも主体となるものがなく、われわれの心こそがミームの主体だからである。ミームはわれわれの心の手段にすぎない。われわれの心の手段にすぎないものが、われわれの心を「ミーム機械」にできる筈はない。(終)