☆女と竜
ヨハネの黙示録は聖書の他の文書と違って、その前文にもあるとおり、ヨハネが見て聞いたことを証した書物である。
念のためその前文を紹介しよう。
第1章 1節、イエスキリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。
そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
2節、ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべてのことを証した。
何故このことを最初に書いたかというと、預言と証は違うからである。
聖書預言とは神から選ばれた者が神の言葉を受け、それを民に伝えたものである。
旧約聖書ではモーセやエレミヤやエゼキエルがいる。彼らの多くは祭司の出で、元々神に仕える人だった。
それ故、預言の書には万人に伝えるべき神の権威がある。一方、証はイエス・キリストの霊に触れれば、誰でも書くことが出来る。
その個人的な体験を誰も否定できないが、それを信じるかどうかは、それを聞く個人の自由であり、各々体験を第三者が真偽を検証することは不可能である。
故に証の力はその人にしか保たれない。それ故、この証の書は長い間論争の的となって、ようやく4世紀になって正典として聖書に入れられた。
そして、その内容の故、さらにその後長い間論争の元となった。論争の中心となったのは、いつキリストが再臨するかということに尽きる。
黙示録は一言でいうなら、終わりの時を告げる書であるし、全キリスト教徒が待ち望むのもイエスの再臨であるから、当然である。
それ故、この書は他の書物以上に一字一句解釈され続けてきた。原文は当時の世界共通語であるギリシャ語である。
そして、おそらくこの書はギリシャ語で書かれた世界最高の文学作品でもある。
その質があまりにも高いので、作者は使徒ヨハネだと、自ら名乗っているにも関わらず一部の学者は今もって作者は別人だと言っている。
わたしは勿論、若いヨハネがイエスの母マリヤに叱咤され、苦手なギリシャ語を苦労して習得して自ら書いたと信じている。
この書は彼が老年になって書かれたことを思えば本人の筆と考えるのが妥当だろうし、イエスに最も愛された弟子の面目躍如の書物として当然だろうと思う。
彼は発表するにあたって、これが預言の書でないことを断った上で、入念に一文を添えている。
第22章18節、私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証する。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加える。
19節、また、この預言の書のことばをすこしでも取り除く者があれば、神は、この書に書かれてある命の木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
ヨハネは個人的な証の書がしばしば他人によって書き換えられることを知って、この一文を警告として加えたのだろう。
ここで言う「預言のことば」とは証の中で御使いが言ったことばである。これらとヨハネの地の文とは分けて解釈しなくてはならない。
具体的には、ヨハネの見たもの描写は彼の文章であり、御使いから聞いたものが神の預言である。
そして、その預言は一部、神の意思により意図的に隠されているが、ヨハネは自らの福音書にそれを巧妙に隠している。
こういう書き方は預言の書ではありえない、何故なら、神のことばは全て預言者の前に開かれているからだ。
こうして、証の書の中で隠されたこの言葉はこの書物全体の鍵で、これなしでは、人は終わりの時を知ることは出来ない。
このことがより一層、この証を難解な書物にしている。しかし、終わりの時に神はその封印を解かれたので、私のような普通のクリスチャンでも容易にその時を知ることが出来る。
そして重要なのはその時、具体的に何が起こるかだ。
さて本題に入いり、やはり絵になるのは第12章だろう。
彼はこう書いている。1節、また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
2節、この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
3節、また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角を持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
4節、その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
5節、女は男の子を産んだ。その子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
6節、女は荒野に逃げた。そこには、1260日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。(中略)
9節、こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。(中略)
13節、自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
14節、しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。
この女が産んだ男の子は、鉄の杖で国々の民を牧する、とあるので、イエス・キリストである。
では女は誰か、文字通りイエスの母マリヤという説と、マリヤを含むユダヤ人全体を示すと言う二通りある。私は迷わず前者を選んだ。
理由はマリヤが救いの時に重要な役割を果たすという期待が私個人にあるからだし、ユダヤ人全体とすると、7章に出てくる144000人のユダヤ12部族とイメージが重なってしまうからだ。
救いはイエス・キリストにあるのだから、その母マリヤが救いの主役を務めるのがモーセの律法に書かれた、あなたの父と母を敬え、に倣えば自然の成り行きだと私は思う。
当然、荒野で彼らを養うのは天の父である。かつて40年荒野でユダヤの民を養った神からすれば、それはたやすいことだ。
そして、民を翼で覆うという考えはユダヤに古くからあり、例えばモーセの祈りとして詩篇91篇にこういう一節がある。
4節、主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。
10節、災いは、あなたにふりかからず、災害も、あなたの天幕に近づかない。
この翼でおおう、という表現は福音書の中でイエスもこう言っている。
「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、雌鶏が雛を翼の下に集めるように、あなたの子らを幾度集めようとしたことか。」
イエスのこれらの試みは成就せず、彼は十字架にかけられた。
それ故、終わりの時、悔い改めた者たちだけが大鷲の翼を与えられてサタンの手から逃れることで、この祈りは成就される。
そして、荒野で養われる期間は1260日、丁度三年半だ。これにより、クリスチャンが携挙されるのが、艱難時代の丁度中間であることが分かる。
その時期の詳細については、天からの声で聖霊を受けたクリスチャンにのみ知る機会が与えらます。それ故、ヨハネは「預言のことば」に注目するように読者にこう言っている。
1章3節、この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
さらに、女は太陽を着ている。太陽は当時も今も光の源であり、時を告げる指標でもある。イエスが世の光であることは、ご自身が証した。
そして、それから2000年たった現在、多くの国では彼の生誕日を基にした暦を用いている。正に彼は時の基であり、光であり、救いである。
わたしはマリヤが太陽を身ごもっているイメージでこの絵が描いた。英語では太陽も息子も同じ発音だからだ。
そして、彼女は光の太陽を身ごもって月を踏みつけている。月も本来は丸いがここでは三日月を描いた。
これは元の形が欠けた不完全なものを表している。つまり、月は形を変える惑わしの象徴である。
それ故、常に完全な形である太陽(イエス)が惑わしの月を踏みつけているのである。
それは何故か? 今から4000年前の族長時代、アブラハムの故郷であるカルデヤのウルにもハランにも月神を祭る神殿があった。伝説によればアブラハムが父の元を離れたのは彼が父の信じる月神の偶像を礼拝したくなかったからだと言われている。
現代では月がイスラム教の象徴あることを皆が知っている。(イスラム教は偶像崇拝を禁止しているので、多くのイスラム教国が国旗に使用している。)
イスラム教は数の上ではキリスト教の次に多いが、やがてくる終わりの時には、創世記3章15節に記されたように太陽、すなわち女の子孫である神の息子に踏みつけられるだろう。
それは、彼らが本来の姿を隠して人々を惑わしているからだ。一例を挙げれば、コーランはアラビア語で書かれたものしか正典として認めていない。
それ故、あらゆる国語、国民、民族に告げ知らせなさい、と聖書の翻訳を推奨したキリスト教に比べるとイスラム教は真意が隠された宗教であり、キリスト教のように必ずしも信仰告白を必要としない。
むしろ共同体における個人の役割や、神への絶対の服従が求められる宗教である。異教徒たちを打ち負かし、彼らの役割と服従が成就するとき、初めて世界平和が実現する。それ故、別名征服の宗教と言われている。
さらに興味深いのは、月を国旗に使用している黒海沿いの国アゼルバイジャンはノアの息子ヤペテの子孫であるマゴク、トバル、メシュクが最初に住み着いた地域と言われている。
そして、エゼキエルの預言では、終わりの時にロシア、トルコ、ペルシャ(現イラン)と共にイスラエルに攻め込むとある。
そしてこの時、神はその御力をあらわして彼らを滅ぼす。これは近い将来の話である。
さらに、黙示録14章にはこう書いてある。2節、私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。
また、私の聞いたその声は、竪琴をひく人々が竪琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
これはわたしがマリヤから直接聞いたナザレでの、マリヤの体験談と同じである。彼女は明け方、空から聞こえる無数の竪琴の音で目が覚め、ダビデと共に救世主の誕生を祈り求めたのである。
それ故、女の子孫、の女とはマリヤのことであり、つづく16節の「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」
の預言は、黙示録12章2節、この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
で成就する。子孫とはマリヤの子イエス・キリストであり、彼の十字架で流された血で、アダムの罪によって呪われた地が清められたのである。
このように、聖書は創世記の預言が巻末の黙示録で完結する完璧な書である。以上が聖霊に導かれた終末におけるこの絵の説明である。
2025年9月 キャンバス 910ミリ×1167ミリ
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