聖書から見る日本とは?

by Futaro

☆☆口絵写真は長崎西坂にある日本26聖人記念碑

つい先日のメッセージで牧師が、日本というのは非常に珍しい国である、とおっしゃていました。
何が珍しいのか、というと、世界の歴史を振り返ると、ある国でクリスチャンが増えると必ず弾圧がおこり殉教者が出る。
彼らの血が多く流される程、その後のリバイバルが大きくなりやがてその国がクリスチャンの国となる。
それなのに、日本ではとうとうそのようにならなかった、というのです。
最初の弾圧はローマ帝国で起こりました。最初は単なる皇帝の個人的なものでしたが、やがて、クリスチャンの数が増えるにしたがって国家を挙げての弾圧となります。
当然、おびただしい殉教者が出ました。その結果、さらにクリスチャンが増えるという逆効果が生まれたのです。
とうとう彼らを押さえきれないと悟った皇帝により、キリスト教が国教に定められた経緯があります。
宣教の歴史は弾圧と殉教の歴史でもありました。
日本でも1597年、秀吉によるキリスト教禁教令の後、長崎西坂で殉教した26聖人に始まって明治までの250年間に20万〜30万人の殉教者がいたと言われています。
その結果、明治以降、キリスト教が解禁になり、多くの宣教師が海外から来日し、又、日本の知識人によって多くの神学校が作られたにもかかわらず、クリスチャンの数は増えませんでした。
その最大に理由は、250年間に培われたキリスト教に対する恐れと、無関心にあります。
20世紀末のある資料によると、日本では教会に通うクリスチャンは人口の1%未満、といいます。
もっと、おおまかに見ても3%は超えないというのが各調査結果の平均値だとあります。
私も教会に通うまでは、日本にこれほどクリスチャンがすくないとは思っていませんでした。
キリスト教に限らず、宗教にたいして深入りしない、無関心でいることが、自分と家族の安全につながるという意識を、長い日本の歴史の中で、自然と日本人が持ってしまったのでしょうか。
私は、日本人が宗教に関心が無いわけではないと思います。
正月になれば、多くの日本人が初詣に出かけます。信仰心がひとかけらもなければ、わざわざ休みの日に混雑した神社仏閣に詣でたりはしないでしょう。
私も子供のころは三重県に住んでいたので、正月というと、朝早く起きて家族総出で伊勢神宮へ初詣に行った覚えがあります。
しかしその中身となると、実にあやふやで、正直、何のためにそうしているのか、親から聞かされたことも、自分で尋ねたこともありませんでした。
ただ神社で多くの人たちをみて、その中に自分達家族もいるのだなあと感じて、それだけで納得していたように思います。
信仰の中身は関係ない、そう言ってもいいでしょう。
東京なら、明治神宮が筆頭です。明治神宮は其の名の通り、明治天皇皇后を祀っていますが、初詣に出かける人の何人が、このことを知っているでしょうか。
神奈川県なら、川崎大師でしょうが、こちらは真言宗智山派の寺院で、弘法大師を祀っています。
どちらも、過去の人で、当然ですが神ではありません。
もしあなたの知人が、大好きなアイドルの写真に向かって熱心にお祈りをしていたとしたら、流石に、そんなバカなことは止めなさいというのでしょう。
それでいて明治神宮や川崎大師に詣でることに違和感を感じないのはどうしてでしょう。
流石に私が行っていた伊勢神宮は御存じの通り、御神体は天照大神ですが、神と名のつくものの、一神教のヤハウエと違って創造主ではありません。
創造主でなければ、とても全てに通じた全能の神とは言い難く、願い事が成就する訳がありません。
これを見ても分かる通り、日本人にとっての信仰とは、その対象より、祈願することが重要であって、それも、決まった日、決まった時に皆と同じようにすればそれでいいのです。
後は深入りしない。無関心でいいのです。かく言う私がそうでした。
さわらぬ神に祟り無、それでも一応、何かに拝んでおこう、それでよし、これが私の宗教観の全てでした。
さて、そろそろ本題に入りますが、この日本の現状を聖書では、どのように書かれているでしょうか。
聖書の一番後ろに、やがて来るキリスト再臨を描いた、ヨハネの黙示録があります。
この黙示録では、まず来るべき事が成就する前に、世界の各教会の御使いに書き送るべきことがある、という書き出しで各教会への忠告が書かれています。
七つの教会は、いわば世界の教会(広くは民族)の雛型であって、一つの教会を除いて後はそれぞれ問題を抱えています。
手紙では、これを正せば、なんとかしよう、といった口調で締めくくられています。
私が、これは日本のことだな、と思う箇所を紹介します。
3章15節、ラオデキヤという教会に対してこう書かれています。
「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
16節、このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
この二節は正に、キリスト教に対して無関心でいる現在の日本の状況を巧みに言い表しています。
実はこの無関心というのが神にとっての最大の罪なのです。神は愛のお方ですから、愛をあらゆる手段として用いてきます。
ところが、この愛の対極にあるのが、無関心なのです。逆に憎しみは、愛の対極ではなく、実は方向が違うだけで大きなエネルギーをもっているので、神はそれを愛に変えることができます。
だからわたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。というのはお前を変えるにはお前のエネルギーが必要だという神のいつわらざる言葉なのです。
その結果16節では、わたしの口からあなたを吐き出そう。と、文字通り、今のお前は食えないやつだと単刀直入に切り捨ててしまいます。
さらに神の告発が続きます。
17節、あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
これなど日本の戦後の復興とその後の精神的な貧しさを指摘しているように、私には思えます。
70年代か80年代頃、余りにも日本人が働きすぎるので、海外のメディアから、日本人はエコノミック、アニマルだ、と揶揄されたことがありました。
これに対して、猛然と抗議をしたという知識人やマスコミを私はしりません。
クリスチャンになってみると、このアニマルという言葉がいかに相手を侮辱する言葉かが分かります。
創世記1章26節には人類誕生のいきさつが書かれています。
神は仰せられた。「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
つまり、人は神に似て、全ての生き物を支配する者であることが明記されているわけですから、いかなる理由があるといえ人をアニマル、動物、と言うことは最大の侮辱と見るべきでしょう。
しかし、悲しいかな、日本にはクリスチャンが極めて少ないため、このことに抗議する声は大衆の中から湧き上がってきませんでした。
神が告発する通り、豊かになったというのは、見せ掛けだけで、その実、中身は、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない、とある通りです。
続く18節にはわたしはあなたに忠告する。豊かなものとなるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。
また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

精錬された金とは、朽ちることのない信仰のことです。白い着物も、イエスの血潮によって白く清められたクリスチャンが天の御国で着る着物のことです。
富んでいる今のうちに、それらを買いなさい、と真に神のいたれりつくせりの忠告がつづきます。
19節、わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
この一文などは、もうどうしようもなく、やる気を失った生徒を、叱咤激励する熱血教師のような言葉です。
神がここまで、親身になって、このどうしようもなくやる気を失った生徒を鼓舞しようとする姿は、涙ぐましい程です。
ここで、肝心なのは、改めて、悔い改めなさい。とアドバイスしていることです。自分の立ち位置がわからなければ、何が足りないのか、何を求めるのかも分かりません。神は執拗にこの、悔い改めを求めてきます。
その悔い改めが、なされたとき初めて次の聖句が生きてきます。
20節、見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
これは神が個別に、わたしの声を聞く者のところに来て下さるという、最大級の祝福です。
共に食事をすることは、親密さの現れです。心を開いて語り合うには食事が最高の舞台装置です。
他のどの教会にも、これほどのサービスを神は提供していません。
それだけ日本が信仰的にどうしようもない国であるとを神は知っておられるのでしょうか。
さらに、神は戸口を開ける者に対して十分すぎるご褒美も用意しておられます。
21節、勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
この一節は、単なるご褒美の域を超えています。
こんなどうしようもない生徒に、わたしの座をあたえるというのは、例えるなら、落ちこぼれの生徒をいきなり教壇に立たせて先生と一緒に皆に授業をしてやれといっているようなものです。
これはちょっと、神様、おだてすぎじゃないの!、と突っ込みたくなります。
しかし、神は憐み深いお方ですから、ひょっとすると、この日本という霊的には最も弱い辺境の地から、世界的な神の器が輩出するのかもしれません。
ですから、これを神の特別なご褒美ととるか、得ることのできない高嶺の花ととるかは、あなた次第です。
しかし、一方これを読んでノンクリスチャンの方はこのように感じるかもしれません。
今の日本をどうしようもなく落ちこぼれた生徒に例えるのはどうかと思う。
日本は世界的に見て、決して落ちこぼれの国ではない。
第一ノーベル賞受賞者の数でも国民総生産でも、世界のトップクラスだ。
確かにこの世界においてはその通りです。それについて私も異論はありません。
しかし、欧米キリスト教国にあって最終的な価値観とは聖書に基づいた価値観が基本になります。
すなわちやがてこの世は神によって裁かれる。本当の世界は神によって統治された天国にある。という価値観です。
この世の冨はあくまで暫定的であり、真の冨は天国にある、という価値観をどのクリスチャンも持っています。
ですから、この世の冨のみを追究する人間を彼らは真の人間と認めません。
悲しいことですが、先のエコノミック、アニマル論もそこから出ています。
それ故、いかに国民総生産が世界トップレベルであろうと、ノーベル賞受賞者が多数輩出しようと、それは所詮、この世だけの限定なのです。
欧米人には日本人以上に勤勉な人がいます。しかし、彼らの働く目的は日本人とは別の所にあります。
彼らは聖書の創世記に記されているように、元来人は働くために生まれたのではないという価値感を持っています。
ですからなるべく早くにリタイアして、あとはのんびりと余生を楽しむというライフスタイルが理想なのです。
生涯現役、などという働き蜂のような考えはみじんもありません。
現役時代に猛烈に働くのは、早くリタイアして、のんびりとした余生を早く楽しみたいという目的があるからです。
当然社会の仕組みも、それを可能にするようにできています。
海外に行く日本人が皆おどろくのも、リタイアした人々が充実した余生を送れる環境が整っていることです。
一方、日本は労働を美徳とし、勤勉こそ最高の幸福だという考えに支配されています。
勿論、そういう国民性は尊重すべきですが、問題はそれが、すべてに優先することでしょう。
その結果、一体、何のために今まで働いてきたのか、というむなしい思いに多くの定年退職者が陥るのも事実なのです。
残念ながら社会の仕組みも、そうした人たちが居心地よく過ごすようにはできていないのが現状のようです。
かくいう私も、かつては仕事が減り、いちにち手持無沙汰でいると、たまらない罪悪感に苛まれたことがあります。
仕事こそ、活力の元だと信じたこともあります。
しかし、クリスチャンになり、それらが実は見せ掛けだけのものであったことがわかりました。
クリスチャンになると永遠という価値観がどういうものかがわかるようになります。
永遠に働ける人などいません。
永遠に続く技術などもありません。今日の技術革新のサイクルをみればそれはよくわかります。
どこかで、頭を切り替えなければ、この世の価値観では、天の御国にはいることができないのです。
そういう意味で、日本という国は、神の御国から、最も遠い国だということがわかります。
しかし、神は慈悲深い神ですから、なんとか、この国にも僅かな光を投げかけようとしているのです。
ちなみに、ここまで神が懇切丁寧に、悔い改め、を説いてくれる国が、日本以外にあるのか調べてみると、ちくま新書、日本人の神はどこにいるか(2002年刊行、島田裕巳著)の中にこうありました。
日本と同じように、一神教を信仰する人間の割合が五パーセントにも満たない国を探して見ると、なかなか見つからない。わたしが調べたかぎり、日本と似た状況にあるのは、カンボジアやラオスくらいしかなかった。
氏も、文中感嘆まじりに、一神教とほとんど無縁な国は、世界にわずか三カ国しかない。しかも、そのなかに日本が含まれているのだ。(原文のまま)と締めくくっています。
霊的に限って言えば、日本は正に真の神から見放されたような、暗黒の中にいることがわかります。
それ故、神の切なる忠告が、より現実的な響きとなって聞こえてくるのは、私だけでしょうか?。
2016年7月2日 ☆

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