☆私は2012年から聖書画を描くようになって、過去のキリストの絵を見る機会が増えました。特にルネッサンスのイタリア絵画には得る物が多く、私の好きな画家の殆どがイタリアの画家です。
特にボテッチェリとレオナルドはほぼ同時代の画家でもあり彼らの画集は手当たり次第に読んでいました。
そんな矢先、教会に行く途中に古本屋があり、毎回、何か掘り出し物はないかと覗いていると、先月、朝日新聞社1985年刊の世界の名画があったので、迷わずに買いました。その中にレオナルドの最後の晩餐の修復中のリポートが載っていました。(1984年10月28日掲載)
冒頭に記者の「これほどの傷みよう、とは予想もしなかった。」とあります。眼前に広がる世界的名画はまさに瀕死の状態だったようです。
これまで、この壁画が何故これほどまでに傷んでしまったか、という解説がなされてきました。
要約すれば、二つです。一つはレオナルドが壁画の基本であるフレスコ画を嫌って、テンペラで描いたこと。
二つ目は、壁画のある修道院が湿気の多いミラノにあったからです。
そこで、当然、何故レオナルドが湿気の多いミラノで、本来のフレスコ画ではなくテンペラ画を描いたか、という疑問が湧いてきます。
当人がすでに過去の人なので、どう推論してみたところで、想像の域を出ないのは言うまでもありません。
当時は壁画と言えば、漆喰が乾かないうちに水彩を施すフレスコ画が主流でした。これは絵の具が乾けば壁の漆喰と一体となって長い年月に耐えることが出来ます。
有名なミケランジェロの最後の審判もフレスコ画ですが、現在、多少のひび割れがあるものの、大きな損傷はありません。
そこへ、レオナルドは卵黄に顔料を溶いたテンペラ画で描きました。テンペラは溶剤が卵ですから、乾けば漆喰の表面を全て覆ってしまい、中の湿気は出口を塞がれてしまいます。
そこへ、カビが繁殖し、テンペラと漆喰との間に繁殖して、ついには絵が剥がれ落ちてしまいました。
当然、何故、という疑問です。答えとしてあるのは、彼がフレスコ画が得意ではなかった。フレスコ画は、漆喰が乾かないうちに彩色してしまわなくてはならないので、仕事の遅いレオナルドには向いていない。
彼はじっくりと時間をかけ、何度でも納得するまで絵の具を重ねていく手法をとるので、強引にテンペラを用いたというのが、大方の意見です。
ところが、これにも、大きな疑問が湧いてきます。
それは、彼が画家であり、科学者でもあったことです。自分の興味の湧いた対象には徹底的に研究してみるのが、いわばレオナルドの天分でした。
絵を描くためには人体の解剖まで行った彼が、どうして、そんな、初歩的なミスをしたのでしょう。
このままでは、答は永遠の謎のままです。
そこで、私はコロンブスの卵の例えに倣って、まず、絵が損傷した、という事実の上から検証してみることにしました。
最初に絵の崩壊ありき、からその理由を探して見たわけです。
すると、本格的に絵の修復をした20世紀初頭の調査で、この絵は二度の下塗りが施され、その二層目が主として石膏であったため湿気に弱かったとあります。
レオナルドはこの絵に4年近い歳月を費やしていますから、熟考の末にわざわざ湿気に弱い素材を下塗りに用いたことは不自然です。
では、冒頭のタイトルにある通りに、彼が最初からこの絵が一定の期間を置いたのちに自然に崩落していくように、時限爆弾をあらかじめ仕込んでいたとしたらどうでしょう。
ミラノが湿気の多い気候であることも、テンペラが壁画に適さない画法であることも、下塗りに敢て水分を多量に含んだ石膏を用いたことも、絵の崩落を目的としていたら、全ては合致してきます。
当然ですが、この考えを立証するには、彼がこの絵を後世に残したくないという、積極的な説明が必要です。
以下、それを、私なりに考えてみました。
まず、この絵の主題が新約聖書の4つの福音書からきていることは周知の事実ですが、よく見てみると、実はレオナルドが用いたのは最後の晩餐という主題でけで、細部に至っては
どの福音書の記述とも一致していないのです。
レオナルドがモチーフとして用いた、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」(マタイ26章21節)「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」(ルカ22章21節)とイエスの告発は同じですが、その後の弟子たちの対応はそれぞれ微妙に違います。
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。(マタイ 26章22節)弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。(マルコ14章19節)
そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中の誰なのかと、互いに議論をし始めた。(ルカ、22章23節)弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。(ヨハネ、13章22節)と、弟子たちは、驚くというよりも、当惑、と言った面もちであったことが読み取れます。
しかも、4つの福音書に共通しているのは、それがユダであることが、皆の前でイエスによって明らかにされているということです。
それを、レオナルドはどう描いたのでしょうか。すでにご承知のように、皆は驚き、慌てて、それぞれ3人づつのグループに分かれて討論しています。まさに、ハチの巣をつついたような狂乱の態です。
それでは、その後の成り行きを福音書はどう描いているのでしょうか。これは、当時最もイエスに近く、この有様を目前で見たヨハネの証言が最も確実と思われます。
それによると、まずイエスの告発を聞いたペテロがヨハネに聞きます。
「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主をそれはだれですか。」
イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼がパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。
ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。
ユダはパン切れを受け取るとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。(13章24節〜30節)
これで、明らかに聖書の記述とレオナルドの描いた絵との大きな相違を見ることができます。
このことは、別に私の発見したことではなく、すでに多くの美術評論家によって指摘されています。レオナルドの描いたのは、まさにこのイエスの一言によって生じた弟子たちの驚きの様子ので、彼の最大の関心事はこの一点にあった、というのがこれまでの通説です。
ここで、私が不思議に思うには、レオナルドの経歴です。彼は優れた舞台監督でもありました。事実この絵も修道院の食堂を舞台と見て、弟子とイエスとの群像劇の様に周囲の舞台を描いています。
しかし、これが、実際の舞台で上演されたとしたら、どうでしょう。皆が驚き慌て、議論している中イエスからパン切れを渡され、裏切り者であることが明明となっている状況で、どうやってその場を離れることができるのでしょうか。
絵を見ると、ペテロは後ろ手にナイフを隠し持って、見つけ次第に切り殺してやる、と言わんばかりです。
してみると、レオナルドの描こうとしたのは、先の解説にある通り、弟子たちの驚き、そのものにだけ、関心があったのでしょうか?
賢明な読者はここまで読んで、最後の晩餐の主役は、いったい誰なのか、と疑問を持ったこととおもいます。
最後の晩餐の主役は、当然、イエス、キリストの筈ですが、そのイエスが画面からは沈んで見えます。
実はここにレオナルドの巧妙なトリックがありました。かれは、あらかじめ大げさな身振りや表情で弟子たちに観客の注目を集め、主役のイエスをわざと目立たなくしています。
レオナルドが真に描きたかったのは、実はイエスの内面にありました。それではレオナルドが考えたイエスの内面とは具体的にどのようなものなのでしょうか。
まず、イエスのポーズを見てみましょう。左手の手のひらをテーブルの上に差し出しています。これから何が読み取れるのでしょうか。左手は心臓に近いので、心を表します。手のひらには何もありませんから、私の心は空っぽです、という意味にとれます。
次に右手は、何かを掴もうとしていますが、実は何も掴んではいません。右手は剣を持つ手ですから、権力、力、を表します。それが何も掴んでないことは、彼に力がないことを表しています。
では、何故このような、イエスをレオナルドが描いたかというと、このイエス像は、ユダから見たイエスなのです。彼は弟子たちに混乱を生じさせたユダの裏切りの理由を、このイエスのポーズによって表しました。
私は冒頭にも書いたように、かなりのイエスの絵を見てきたつもりですが、この最後の晩餐のイエスほど、沈み込んだ、静かなイエスを見たことがありません。
静かというより、力の無さ、無力感さえ感じます。
しかし、絵の主役がイエスである以上、レオナルドが真に描こうとしたこの絵の主題はユダが失望した力の無いイエスいうことになります。
さすがのレオナルドもこの主題が明らかになれば、キリスト教国であるミラノで大問題になることは分かっていました。それ故、カモフラージュとして大げさな弟子たちの動揺を大画面に描き、観客の目をそちらに向けるようにしています。
この際立った演出こそ、それまでに何度も名舞台を演出してきたレオナルドの手腕といえます。
では何故、レオナルドはユダに失望された力の無いイエス像を描いたのでしょうか。
彼が無神論者であることは、多くの解説書に書いてあります。
彼は反キリストだったのでしょうか?さらに加えて、彼がフリーメイソンであったという説もあります。
当然彼はキリスト教の信者ではありませんでした。その証拠がイエスの右目上に残っている釘の跡です。(上の写真を参照)
レオナルドはこの釘から糸を引いて遠近法による線を引いています。イエスを信じる者であれば、直接イエスの顔に釘をうちこめる筈はありません。
ここに、冷徹な科学者であったレオナルドの一面を見ることができます。
その彼が科学の真理を追究する過程で神に逆らって、当時としては知ってはならないことを、知りえた可能性があります。
彼は当時としては驚異的な、いくつもの図柄を描いています。
しかし、彼も人の子です。この絵が当初は民衆の無知ゆえに誤魔化せても(当時は識字率が低かった)、やがて、時代の変化と共にその意図が明るみにでることを畏れました。
そこで、用意周到にこの絵が一定の期間後に崩壊してこの世から完全に無くなることに全力を注ぎました。
完成までの4年の月日はそのためだったと思います。
二層目の石膏層はそのためのいわば、時限爆弾だった筈です。
絵は1497年には完成し、彼の思惑通りテンペラによる細密画は大評判となりました。発注者であるミラノ領主のロドヴィーゴ・イル・モーロ侯も鼻高々でした。
レオナルド自身も翌1498年には領主から果樹園の土地を与えられています。この年はレオナルドの最も幸せな年だったかもしれません。しかし、幸運は長く続かずフランスのミラノ侵略が始まったために、翌年にはこのミラノを去らねばならなくなります。
彼の伝記を読むと才能には恵まれていながら、主君には恵まれずその才能をもてあましながら、各地を転々としたレオナルドがいます。
もともとは、公証人ピエロの私生児であり、出生に影を持つレオナルドが成長の過程で屈折した精神構造をもったとしても不思議ではありません。
絵は彼が意図した通り、ミラノを離れてフランスに渡った1517年にすでに損傷し始めている、という報告がなされています。これを彼が直接聞いたかどうかは記録にありません。
レオナルドはおそらく、100年程で完全にこの絵の消失を計ったと思われます。彼が一番おそれていたのはカメラの発明でした。彼は目の解剖からカメラの原理を知っていました。
後は実用になる感光材の発明を待つだけでした。カメラが出来てしまえば、たとえ絵が崩壊しても、記録として残ってしまいます。
しかし、現実は彼の思惑通りにはいきませんでした。最後の晩餐は、積み重なる損傷に耐えて今日なおその輪郭を保っています。それができたのは、神ではなくそれに反するものの力でしょう。
最後にキリスト者として、実際のイエスがどのようであったのかを証ししておきたいと思います。
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネの福音書13章1節)とあります。最後の晩餐の席でのイエスのこころは空っぽではなく、愛に満ちていました。
つきに権力はなにもなかった、ということについてはどうでしょう。マタイの福音書26章53節にこう書かれています。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。これはゲツセマネでイエスが捕らえられた時の御言葉です。
2015年8月7日
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