私はクリスチャンになって二年ほどしてから導かれた教会が、中間期携挙を教えている教会だったせいで、ずっとこれを信じていました。
本文中に度々出てくる患難時代についてはこちらをクリックしてください。
本題である携挙は、第一テサロニケ4章16、17節にこう書かれています。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。
この箇所がヨハネの黙示録11章にある第七のラッパと一致する、というのがこの説の根拠で、私も長い間そう信じていました。
ところが、この春、私が常日頃から中東問題と聖書の解説で有名なある方のユーチューブビデオを見ていましたら、彼は患難前携挙説なのです。
同じくして、イスラエル在住でメシアニックジュー(ユダヤ人のクリスチャン)の方も患難前携挙説の動画をアップしていて、両方見てみると、それなりに説得力もあるので、さて、どちらにしてみようかと、一時悩んでいましたら、その直後に神から啓示があり中間期携挙説を再び信じるようになりました。
それで、この証しでは患難前携挙説と患難中期携挙説のそれぞれの根拠を話した後、これが決定的な中間期携挙説の根拠として私に神からに啓示されたものをご紹介したいと思います。最後までお付き合いしていただけたら幸いです。
まず、第七のラッパについて患難前携挙説の説明はこうです。
パウロが第一テサロニケの手紙を書いた時期には、まだヨハネによる黙示録は書かれていなかった、だから、パウロのいうラッパは黙示録のラッパとは別で、彼が言っているラッパは普通のユダヤ人が祭りの時に吹くラッパだというのです。
私はこれを聞いた時、ペンテコステも遠くになりにけり(実際は約2000年前)、と思いましたが、一般的に見れば、これは正論だと私も思います。
初めに言っておくと、この方の聖書解釈の方法は、聖書を字義通り一字一句誤りのない神の言葉として読むというやり方です。
しかし、私は最初に神の言葉を聞いてクリスチャンになった経緯があるので、この方のような解釈はしません。
では、何が解釈の基準になるかというと、御霊です。
私は聖書は誰が書こうが、すべて御霊によって書かれていると理解していますので、ヨハネを導いた御霊と、パウロを導いた御霊が一致していれば、二人は共通の事柄を話していると理解できます。
その御霊とは何かといえば、イエスキリストの御霊です。
先ず、ヨハネの黙示録の1章1節にはこう書かれています。
イエス、キリストの黙示。これは、すぐに起こりはずの事をしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
この一文から、ヨハネがイエスの御霊に導かれてこの書を書いたことがわかります。
次にパウロが何に導かれていたかは、ガラテヤ5−16にこう書かれています。
私(パウロ)は言います。御霊によって歩みなさい。
この御霊とは、使徒行伝16−7にイエスの御霊がそれをお許しにならなかった。とあるので、パウロもまたイエスの御霊によってすべてのことを行っていたことが分かります。
つまり、パウロがテサロニケの手紙を書いたのは、自分で資料を見て書いたのではなく、イエスに導かれて書いたのであって、その後ヨハネが同じラッパを黙示録に書いたと解釈できます。
二人の情報源はイエス、キリストですから、書かれた時代がいつであろうと同じラッパのことだと言えます。
その次に、 患難前携挙説を熱心に説くある牧師さんが、これだけで十分にこの説を立証できるという太鼓判の説をご紹介します。
それは、第一テサロニケの手紙5−9で、そこには神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス、キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(同様の趣旨は1−10にもある)と書いてあります。
確かにこの牧師さんがおっしゃる通り、私たちクリスチャンは神の忠実なしもべであるように日々勤めています。そのクリスチャンが神の怒りに触れるようなことはない筈ですから、この部分に関しては、私も100%同感です。アーメン。
では、この方がどの部分を指して、神の御怒りと仰っているのか、具体的に黙示録を見てみます。
4章、5章は天で行われている礼拝についての記述ですから、6章から患難の具体的な記述に入ります。
実は、この6章について私は最近(2020年8月13日)まで、ヨハネが見た具体的な現象の記述だと思っていましたが、久保有政氏のビデオをみて、これは巻物の封印を解くたびに現れるこれから起こる災いの予告だと知りました。
そういわれれば、2節に白い馬、4節に黒い馬と8節までに4頭の馬が出てきますが、これらは記述が極めて簡素なので、これから起こることの目次的な意味合いとみることが出来ます。
そして、この6章の最後に御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。
という一文がありますから、これは11章18節を予兆したものとみることが出来ます。
ですから、神の御怒りが実際に起こるのは10章の第七のラッパの後ということになり、中間携挙説でも神の怒りに会うことはありません。
6章7章が予告編だとするば、実際の艱難は8章から始まります。1節に子羊が第七の封印を解いた時、天に半時間ほどの静けさがあった。とあり、今まさに艱難が始まる前の不気味な静けさを表しています。
それに呼応するように、13節に災いが来る、とあり、9章12節に、第一の災いは過ぎ去った、とあるので、これが実際の災いであることがわかります。
さらに、17節には、私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。と、先の6章8節の様子を幻と言っているので、これは間違いなく予告であったことがわかります。
久保氏の的確な指摘のお蔭で、6章と後に続く同じような記述の意味がよくわかりました。久保氏のビデオはこちらからご覧ください。終末論2艱難時代
しかし、この中間期携挙説だと、最初の患難には会うのだという疑問が残ります。
なにしろ世界人口の1/4が殺されるのですから、4人家族なら身内の誰かが殺さることになります。大変な患難です。できれば避けて通りたいものです。
私は4章5章の内容から、御座にすわっておられる方(神)の右の手にある巻物は、いのちの書、であると確信しています。
それは、続く4節に、巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私(ヨハネ)は激しく泣いていた。とあります。
この、いのちの書、とは、ルカ10−20に、だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
とイエスが言う、天の書物のことです。この書物については、20章15節に、いのちの書に名のしるされてない者はみな、この火の池に投げ込まれた。とあるので、救われる者と滅びの者を分ける重要な書物であることが分かります。
イエスは、弟子たちに何よりもこの書に自分の名が書き記されるようにと諭した訳ですからヨハネが天の御国を前にして、その書物を誰も開くことができず、見ることもできないので、激しく泣いたのも当然です。
6章には、実際の患難の様子が書かれていますが、登場するのは四頭の馬です。三番目の黒い馬の乗り手ははかりを持っていますから、殺されるべき人々を計りにかけるためにやってきたと見ることが出来ます。
計りにかける基準は何なのかと言えば、いのちの書、に名前があるかないかです。
8節に、私は見た、見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデス(地獄)がつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威があたえられた。
とあるので、彼らが、いのちの書、に名前の無い者たちを殺す権威を神から与えられた、と解釈することが出来ます。
この時代がどんな時代になるかというのは、6節に、すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦1舛は1デナリ。大麦3舛も1デナリ。」
1デナリは当時のローマ兵の日当ですから、最低でも6000円から8000円くらいだとしても、相当な物価高です。
12節以降に大変な天変地異が書かれているので、穀類がとんでもなく高騰し、庶民の生活を苦しめていることが想像できます。
同時に興味深いのが、「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」の一節です。
この患難の世に、これらが必要とされる理由は一つしかありません。キリスト、イエスが携挙された、クリスチャンと共に、婚礼の祝宴を開くためです。
ルカ22章18節でイエスはこう言っています。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来るときまでは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
かつて福音時代に頻繁に宴会に顔をだし、大酒飲みと揶揄されたイエスが、ぶどう酒断ちをしてこの日を心待ちにしているわけですから、多少の患難はクリスチャンなら耐え忍ばなければならないでしょう。
さらに、オリーブ油に関しては、おそらく、これから地上で福音に携わる者達への油そそぎに用いるためと思われます。何にもまして用意周長な神の御業は、驚くばかりです。
さらに、第五の封印が解かれると、ヨハネは、今までに神の言葉と自分たちのたてたあかしのために殺された人々のたましいがこういうのを聞きます。
10節、彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでもさばきを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」
彼らが「血の復讐」という理由は、この時、神は不思議にも地上の獣に人々を殺す権威を与えているからです。
さらに、11節、すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたとおなじしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。
この箇所から二つのことが分かります。一つ目は、先々に聖徒が必要な数だけ殺されること、もう一つは、さに数多くの未信者が殺されることです。
順番から言って、此処で言う聖徒が殺されるのは、我々クリスチャンがまず携挙によって引き上げられた後になりますので、この件は後述します。
ここで重要なのは、この6章を目次として7章から11章に至る患難(クリスチャンが会う患難)では、いのちの書に名前のある者は殺されないということです。
私も患難は祝福の基であるという聖書の全体構造からみて、これらの患難はクリスチャンへの試練と見るべきだと思います。
では何故、クリスチャンが患難に会うのかについては、イエス自身の言葉にもあるからです。
マルコ13−20 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、(携挙で引き揚げられないなら)ひとりとして救われる者はないでしょう。
しかし、主は、ご自分で選んだ(いのちの書に書き込まれた)選びの民のために、その日数をすくなくしてくださったのです。
事実第七のラッパまでに起こることを、イエスが弟子たちに伝えているのは、彼らがそれを実際に体験するからです。
つまり、このことばは、イエス自身が中間期にクリスチャンたちを引き上げること(携挙)を語っていると私は思います。
マルコ13章に書かれたイエスの言葉と黙示録には共通点が多くありますので、その部分を抜粋して比較してみます。
マルコ13−24、だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず〜
黙示9−1 その星が底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上がり、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
マルコ同−25 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
黙示6−13 そして、天の星が地上に落ち〜
同−14 天は巻物が巻かれるように、消えてなくなり〜
マルコ13−26 その時、人々は偉大な力と栄光をおびて、人の子が雲に乗って来るのを見るのです。(空中再臨)
マルコ同−27 その時、人の子は御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(携挙)
以上のイエスの言葉から、信徒が11章までの患難に会うことは約束されていて、この中で携挙が行われると見て取れます。
これが私が中間期携挙説を信じる主な理由ですが、その後の解釈の上で11章15節の第七のラッパでクリスチャンが天に上げられると次の12章の意味がより鮮明になってきます。
12章1節に出てくる女は、携挙されたクリスチャンと見ることが出来ます。
頭に12の冠は12使徒をイメージすると分かりやすいと思います。
6節に、女は荒野に逃げた。そこには、1260日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
1260日は42か月、すなわち三年半ですから、携挙が丁度7年の患難の真ん中で行われることが分かります。
荒野で養われるというと、すぐに出エジプト記が浮かびます。この時も神はイスラエルの民を荒野に導きだし40年間、マナを天から降らせて養われました。
つまり、携挙は二度目の出エジプトとなる訳です。これをイメージすると、携挙の大まかな様子が分かります。
つまり、当時のイスラエルの民はパロによって苦難の日々を送っていた。やがてモーセがきて彼らを助け出すと言ったものの、いくつもの患難がエジプトを襲ってもパロをかたくなにするだけで先の見えない日々だった。
そして、最後の患難、つまり神がエジプト人の初子を殺す最大の患難の後、旅立ちの時がやってきたので発酵パンを焼く暇がない程急いで旅立った。それが過越しの種無しパンの謂(いわ)れとなった訳です。
このことに関しては、イエス自身こう言っています。
ルカ22−16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越しの食事をすることはありません。
出エジプト記12−42 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人すべて代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。
マルコ13−35 だから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か夜中か鶏が鳴く頃か、明け方かわからないからです。
さらに、中間期に空中に引き上げられるクリスチャンたちは、イスラエルの民のように素晴らしい神の奇蹟の御業を見ることができます。
それが何かという前に、まず、出エジプト記のクライマックスを思い浮かべてください。それは何でしょうか?
先ず誰もが思い浮かべるのは、紅海が二つに割れ、イスラエルの民だけが、その真ん中の乾いた場所を渡った奇蹟でしょう。
同様のことが、この携挙の時に行われると、12章に書かれています。
14節、しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時(3年半)の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
15節、ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
なんとも、豪快なスペクタクル場面です。患難前に携挙されたら、絶対にこのような場面を見ることはできません。
さて、以上が私が信じている中間期携挙説と患難前携挙説の大きな違いについての要点ですが、中間期携挙説には、聖書的に充分と思われる説明が可能であるにもかかわらず極少数派です。
何故でしょう。それは、中間期携挙説を唱える人々には、どうしようもないある決定的な弱点があるからです。
それは、何かといえば、患難中期携挙説がその名で示しているように、携挙の時期が特定できるということです。
携挙の日時が特定できるということは、イエスの言葉に100%反します。
マタイ24−36にこうあります。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っています。
患難時代中間に携挙がおこるとすると、それはこのビデオから、正確な日時が簡単に導き出されてしまいます。
例えばある年の1月1日にイスラエルが反キリストと中東和平の契約を結んだとすると、携挙は四年後の7月1日ということになります。
では、何故神はこれを隠しておられるのかというと、携挙は患難の真っただ中に居るクリスチャンたちを空中に引き上げることで救い出すという神による世界規模の信徒救出作戦なのです。
人質救出の例からも分かる通り、いつ作戦が実行されるかは極秘とされます。当然、犯人側もそれを一番に警戒しているからです。それをわざわざ、日時を前もって指定するなどということは人間の常識でもありえないことだからです。
キリスト教のメインテーマは言うまでもなく人類の救済です。一番重要なテーマですから、神は前もって二つのリハーサルをこの世で行いました。
最初が、イスラエル人の救出である出エジプトです。この時に神はいくつかの患難の後に、ある晩に急遽、それを実行なさいました。だれも、この日、この時を知るものは居ませんでした。
二度目は時が経て、今度は異邦人を神は救い出す大作戦を実行なさいました。
時は1944年、第二次世界大戦末期、オーバーロール作戦と呼ばれた、連合軍によるヨーロッパ解放作戦です。
連合軍とはイギリス、アメリカ、カナダで、総司令官はアメリカのアイゼンハワー、イギリスはモンゴメリー司令官です。相手は第三帝国の野望を抱えたナチス、ドイツで黙示録の前哨戦とも見ることが出来ます。
ナチスドイツはヒットラーが政権を取ると次第に軍事力を増強して、まずポーランドを皮切りに瞬く間にヨーロッパ全土に覇権を広め、自由と平等のシンボルであるパリをも陥落させます。
最後の砦はイギリス本土だけとなった連合軍は、ノルマンディー上陸作戦を敢行すべき、ドーバー海峡に集結します。
海からの上陸作戦は天候がもっとも重要です。最初連合軍は様々の条件に見合った時として、6月5日と決定しました。しかし、生憎その日にドーバーに低気圧が来るという予報が出されました。
この件は最高司令官であるアイゼンハワーに一任され、彼はイギリスとアメリカの気象局がだした36時間だけ、風と雨の止む時があるという予報を信じて、一日だけの延期を決定して作戦を翌6日に実行することにします。
まさに、この嵐は神の御心でした。何故ならドイツの基地の多くが破壊されたために彼らはこの地域での正確な予報情報を得ることが出来なかったからです。
ナチ幹部はまさか嵐の真っ最中に上陸作戦はないだろうと、或る者はパリでしばしの休暇を楽しむほどで、ヒットラーも北方の守備隊をフランスへ動かすこともしませんでした。
ここで重要なのは、この決定をどうやってフランス本土のレジスタンスに伝えるかでした。
上陸作戦では後方からの支援が欠かせません。そこで連合軍は一か月前にBBCを通じて一つの暗号をレジスタンスに送りました。
それは、夜9時に放送される商業放送の中に、フランスの詩人ヴェルレーヌの秋の歌の前半部分を流し、作戦直前に後半も流すというものでした。
6月5日夜9時にBBCを通じて、この暗号が流されました。後半まで流したため番組全体の放送時間がいつもよりすこし長くなりましたが、ドイツ軍は何か小さな作戦が実行されるかも知れないと思った程度でその情報が作戦本部に伝えられることはありませんでした。
それと言うのも、この時のドイツ軍の暗号は全てエニグマという世界で最も難解な暗号を用いており、まさか地上最大の作戦の決行日を商業ラジオで流すなど思いもよらなかったようです。
そして、翌6日の午前1時30分に最初のパラシュート部隊が降下を始めました。不意をつかれたドイツ軍は命令系統が複雑だったせいもあり、この地上最大の上陸作戦は連合軍側の勝利に終わったのは歴史が示す通りです。
この二つの事例から我々が学べることは、神はその日の直前にこれをある現象を通して、クリスチャンだけに分かる方法で教えられるということです。
その御言葉をこの春に私は神から教えていただきました。
直前の情報ですから、当然第七のラッパが吹かれる前でなければなりません。
それでは、その重要な鍵となる聖句を見てみましょう。黙示録10章にこうあります。
1節、また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽の陽であった。
2節、その手には開かれた小さな巻物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
3節、獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
4節、七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。
すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書き記すな」というのを聞いた。
ヨハネは当然この内容を知っているのですが、これを書き記すことを禁じられてしまいました。何故でしょう。
先の連合軍による上陸作戦では、極秘事項の情報漏れに細心の注意が払われました。情報が事前に敵側に漏れたら元も子もないからです。
あるアメリカ軍将校は、作戦の日時と上陸場所を特定できるような会話を不用意にしたため即刻、本国に送還されました。
連合軍はレジスタンスには暗号を教えたものの、当時その指導者の一人であったドゴールには秘密保持に問題があるとして、彼には知らさなかったほどです。
この10章1〜4節へのヨハネの強い思い入れは最終章にはっきりと記載されています。
22章18節、私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
19節、また、この予言の書のことばをすこしでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
早い話、ヨハネはこの部分を削ったり勝手に書き加えたものを火の海に投げ込むか、天国で大きなペナルティを与える、と警告したのです。
何故、そんな警告をしたかというと、黙示録の最初の部分にその理由がかいてあります。
1章4節に、ヨハネからアジアにある七つの教会へ。とあるように、この書は七つの教会へ書き送られたのです。
原稿を書いたのはヨハネですが、これを七つの教会へ送るにはそれぞれコピーを取らなくてはなりません。現代のようなコピー機はありませんから、すべて弟子たちが手書きで写した訳です。
これはやってみると大変な重労働です。当然、意味不明な部分は省略したり、意味ある文章に書きかえたりということもない訳ではありません。
現代版の聖書にも、注訳をみると、結構、異本あり、の表示が頻繁に出てきます。人が手書きする訳ですから、当然といえば当然の結果です。
つまり、ある人たちは聖書は誤り無き神のことばである、と言いますが、誤り無き神のことばは無数にあるのです。(一説には聖書写本は2000冊以上あるそうです。)
ですから、誤り無き、という言葉自体が矛盾しています。
私は、それより、イエスの御霊を信じますから、聖書が何種類あってもさほど問題にはしていません。
さて、ヨハネの警告文のお蔭で、現代まで10章4節が意味不明のまま、残されてきたということに、まず神に感謝します。
何故なら、この一文は先のBBC放送で流された、暗号文の前半の部分だからです。つまり、事前にこのことに注意するように、という暗号です。
では、後半の暗号文をヨハネはどうやって後世のクリスチャンたちにしらせようとしたのでしょうか?。
この方法についても、神はちゃんとヨハネに宣べ伝えています。
それは、黙示録最後の章にハッキリ命令形で書かれています。まず21章5節に、
書き記せ。とあり、続く6節に、
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。
とあり、最終章でもこれが、繰り返されます。繰り返すのは、これが重要である、という意味です。
当然、これを聞いたヨハネはこの神のことばを守りました。これがなければ、彼はその場に泣き崩れていたことでしょう。
彼がこの黙示録の直ぐ後に書いたのが、今日、ヨハネの福音書と呼ばれるものですが、このヨハネの福音書は先にかかれた、マタイ、マルコ、ルカの福音書にくらべて、当然ある特徴を持っています。
それを明確するために、先の福音書が何を主題にして書かれているのかを簡単に見てみたいと思います。
まず、マタイの福音書の1章1節にこう書かいてあります。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス、キリストの系図。
このことから、マタイはイエスが旧約聖書に預言されたダビデの家系から出るキリストなのだと証ししています。
マルコの福音書には、第1章1節に。
神の子イエスキリストの福音のはじめ。
このマルコの書が福音書の最初だと言われています。良い知らせとは、キリストの復活にあると証しした最初の書です。
ルカの福音書1章3節には、
私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのが良いと思います。尊敬するテオピロ殿。
ルカはユダヤ人以外の立場から、キリスト教がどのようにして誕生したかを、ドキュメンタリー仕立てでウソ偽りなく書くことに主眼を置いています。権威ある者にあてた報告書ですから、綿密に当事者に取材しています。
では、ヨハネの福音書は何を主眼にしているのでしょうか。
1章1節。
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
他の三つとあきらかに違う視点で書かれていることにお気づきのことと思います。ヨハネが主眼としたのは、イエスのことばそのものです。
何故そのような書き方をしたかというと、イエスの次のことばがあるからです。
マルコ13−31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。
賢明にも、ヨハネは神の暗号を羊皮紙に書き写して壺に封印して洞窟に隠すようなことはしませんでした。
彼は神に言われた通り、神の暗号をイエスのことばの中にかくしたのです。これがもっとも安全で確実に後世にのこす方法でした。ですから、こんにち、この暗号を彼の福音書の中から見つけ出すことが出来るのです。
では、実際にこの暗号文がヨハネの福音書の何処に隠されているのか見てみましょう。
謎を解くキーワードは二つあります。一つは黙示録10章にある雷です。ヨハネはこの雷の言ったことを封じるように命令されたのですから、福音書ではこの雷についての記述がある筈です。
もう一つは、暗号ですから、当然、ある人たちには理解できて、他の人たちには理解できないという二重性を持っていなくてはなりません。
この二つの特徴を持ち、なおかつ、前後の文脈と異なった箇所を捜せばよい訳です。
口で言うのは簡単ですが、私も神の啓示がなければ、とてもこの箇所を探し出すことは不可能だったでしょう。
何故なら、ヨハネの福音書ほど、イエスのことばに満ち溢れている福音書はなく、また、彼の福音書の一つの特徴として、時折、まったく関係のないような文章に続くことがたまにあり、他の福音書と明らかに順番が違う事も多々あるからです。
当然のことながら、ことばを隠すには分母となることばが多いほど見つけにくくなります。
さらに、その分母も、整っているより乱雑なほうがよりみつけにくくなります。
ヨハネがイエスのことばを集めるにあたって、最も彼に協力したのは、イエスの母マリヤです。
弟子たちがイエスと共に過ごした期間はたかだが三年半に過ぎませんが、母マリヤは、イエスが生まれた時から十字架まで彼と共に歩んだのですから、弟子たちより圧倒的にイエスのことばを知っていました。
ヨハネが福音書を書いた時には、すでにマリヤは天に召されたと思われますが、彼女がヨハネに語ったイエスの話をヨハネはよく覚えていたに違いありません。
その彼女を十字架上で、ヨハネの母にしたのはイエスですから、正に神の御業は時に叶って美しいと思います。
では、そうしてヨハネがマリヤとの会話の中から集めたイエスのことばの中で、この部分と神から示された箇所を今からご紹介します。
まず、初めにヨハネが書いた全文を紹介し、次に暗号文を取り去った地の文だけ読んで、意味がどう変わるかを確認します。次に暗号文の解説と、果たしてこれが黙示録10章にぴったりと合致するのかを検証していきます。
それは12章24節から始まります。
24節、まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25節、自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。
26節、わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
27節、今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。
いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
28節、父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
29節、そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。
30節、イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
31節、今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
32節、わたしが地上からあげられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
33節、イエスはご自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
次に暗号文を取り除いてヨハネが書いた本来の文だけにしてみます。
24節、まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25節、自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。
26節、わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
33節、イエスはご自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
次に暗号文だけを抜き出してみます
27節、今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。
いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
28節、父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
29節、そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。
30節、イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
31節、今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
32節、わたしが地上からあげられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
暗号の部分も地の文との融合を図るため意図的にぼやかした部分もありますが、明らかにこの二つの文は言っている内容が違います。
地の文については、ほぼ問題のない文章になっていて、意味も有名な一粒の麦、もし死なずば、の例えで非常にハッキリしています。
暗号文については、地の文との若干の脈絡の一致をはかっていますが、明らかに黙示録の患難と携挙について語っています。
具体的に見て行きましょう。
27節は、具体的にその時のイエスの心情を余すことなく表しています。何しろ、オリーブ山で弟子たちと分かれて約2000年ぶりに信徒たちと会う訳ですから、イエスのその時の心情が平静でいられるはずもなく、いわば数年振りに昔の恋人に会う気持ちでしょう。怖さの方が先立つのも当然でしょう。
28節は、一度目はイエスの復活の際にすでに現していますから(ヨハネ13−32 17−5)今回の携挙で「またもう一度栄光を現そう。」と言ったのです。
29節は、雷の声がある人達には意味ある言葉に聞こえたことを示しています。これこそ暗号文の絶対条件です。その日のことをこれを基に想像してみるとこんな感じでしょう。
患難の最中、ある晩、クリスチャンたちが目を覚ましていると、いきなり神の声でこう聞こえます。「今夜、あなた方を天に引き上げます。ラッパの音が聞こえたら、からだをまっすぐにして頭を上にあげなさい。」と。皆が祈っていると、やがてラッパの響きと共に体が朽ちないからだに変えられ天に上っていきます。
他の人々には、全ての神のことばもラッパの音も雷の音にしか聞こえません。仕事のある人には前もって伝えられる訳ですから、当然その日は誰も仕事には出かけません。ですから数年前に公開された「レフトビハインド」のような、旅客機の墜落や、車の暴走も起こりません。翌日になるといきなりクリスチャンたちが数多く消えているのです。
30節は、携挙される我々のために、天の声があるというイエスのことばです。
31節は、黙示録12章8節に符号します。(竜は)勝つことが出来ず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。クリスチャンの居なくなった地にそのあと、神の怒りの鉢がぶちまけられます。
32節は、イエスの時制を変えて、わたしが地上からあげられたのなら(復活の事)、わたしはすべての人を自分のところへ引き寄せます(携挙のこと)。とこの暗号の本来の意味を語っています。
何れも懇切丁寧な神の御言葉ですが、特に私には27節のこのためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。とイエスが父に言う言葉に、強く感動しました。
最後に6章10、11節にある、あなた方と同じように殺され筈の人々の数が満ちるまで、もうしばらく間、休んでいなさい。という箇所について解説してみたいと思います。
それは、前述したように、携挙に与かれるのは全てのクリスチャンではないからです。残る人たちもたくさんいます。何故なら聖書にそう書いてあるからです。
マタイ24章にイエスの言葉としてこうあります。
40節、そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41節、ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
つまり、黙示録では、生きたまま携挙で挙げられる人々とその後に殺されて、天に上げらる人々の二種類がいるということになります。
彼らが大量に殺されるのは、当然携挙の起こった後ですから、大患難の時になります。そのすさまじさは、12章12節にこう書かれています。
それゆえ、天とその中に住む者たち。(携挙された人々)喜びなさい。しかし、地と海とには、災いが来る。悪魔が自分の時の短いのを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。
13章7節には、どういう人たちが残ったのか具体的に記されています。
彼は(海から上がってきた獣。海は多数の人を現すことから、人口の多いヨーロッパから出る反キリストだと思われます。)また聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許され、
とありますが、ここに書かれている聖徒は、聖書に時折ある未来形を現在形に短縮した形であると思われます。
これは、どういうことかというと、聖書の書き手は神ですから、神だけが未来について知っているわけです。ですから、ある人物の現在の姿ではなく、未来の姿をみて書くことがあります。
具体的には、旧約聖書のギデオンがそのいい例です。士師記6−12に、ヨアシュの子ギデオンが野蛮なミデヤン人から逃れて、酒ぶねの中(隠れて)で麦を打って(脱穀)いると、主の使いが彼に現れて言った。勇士よ。
臆病者だったギデオンはあたりを思わず見回した筈です。その後彼は、神は貴方と共にいる、と勇気づけられ、わずか300人の仲間と共に12万人のミデヤン人を打ち破るという快挙を成し遂げます。
これから分かる通り、此処で言う、聖徒とは、殉教して天に召される人たちのことで、彼らは携挙に漏れていますから、この時点では滅びの人たちですが、将来、殉教によって天に引き上げられる勇士であり、彼らには千年の間、キリストと共に王になれる特権が与えられています。
このことは、いのちの書は、世の初めからすでに書き記されている者と、其の後の個人の働きに応じて書き加えられた者の二種類いると理解していいと思います。また、そうでなければ、我々クリスチャンのこの世での働き(宣教)が全て空しいものになってしまいます。
さらに、その数が満ちるまで、とあるので、天における王の数はあらかじめ決められています。携挙後の回心は早い者勝ちとなるでしょう。
いずれにしても、携挙にもれても、まだ神は救いの手を緩めることはありません。
それどころか、この大患難の時代はかつてないほどキリストに回心する人たちが現れると書かれています。
では具体的に全ての信徒が天に上げられた後、誰が残った者達に福音を伝えるのでしょうか。
黙示録14章には、最後の福音が宣べ伝えられる様子が描かれています。
1節、また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに144000人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名がしるしてあった。
6節、また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
この144000人は、7章にでてくるイスラエルの子孫のあらゆる部族の者たちです。
彼らは日の出る方(当然日本も含まれると思います。)から上ってきて、神の印が額に押されています。
不思議なことに12部族には、ダンが含まれていません。考えられる唯一の理由は彼らの紋章が蛇だらかでしょうか。サタンと戦うには蛇の紋章は紛らわしいのかもしれませんね。
彼らは歴史的にみれば、明らかにアッシリアに滅ぼされた北イスラエルの10部族が含まれています。かれらは、其の後、歴史上から完全に姿を消し、世界史の最大のミステリーになりましたが、近年遺伝子解析などからミャンマーなどに完全に地元の部族に溶け込んでいることが発見されました。
この大患難時代に世界の人々を福音に導くのは、この 完全に地元民と一体となったイスラエルの部族たちです。
かれらを見分けるには、彼らしか歌うことが出来ない新しい歌を聴く以外に手立てはないようです。
この時代に彼らが伝えるのが永遠の福音です。現在伝えられている福音は、御国の福音で、イエスを信じれば御国ー神の国へ行かれるという福音ですが、携挙によって、神の国にクリスチャンたちが入ってしまった後なので、それと区別する意味で永遠の福音となります。これは、文字通り、イエスを信じれば永遠の命が得られという究極の福音になります。
これについては、イエスがマルコ13−30で語っているように、これらのことが全部おこってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。また、10節に、福音があらゆる部族に宣べ伝えられなければなりません。とあることの成就です。
神は最後の最後まで、福音の種をまきつつ刈り取ります。
以上が黙示録による携挙の時期とその説明となります。ここまで導いてくれた神に感謝します。アーメン。
2019年5月25日(初稿)
同年6月29日、2020年8月13日 追加、訂正。
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