主人の財産を乱費する管理人がほめられたのは何故?

by Futaro


☆聖書を読んでいると、時折、何故、どうして?と言った疑問にぶち当たります。
新約聖書は当時の実生活を基としたたとえ話が中心ですから、当時の生活環境や風習など、現在の日本とかけ離れている場合には、そんなものかな、程度で済ませてしまいますが、 中には全く訳がわからない、これ、誤訳ではないの?と本気で思ったりします。
その一つにルカの福音書16章に出てくる金持ちとその管理人の話があります。
少し長いのですが、話の全貌を知ってもらうために、聖書の原文を載せます。(いのちのことば社、新改訳第三版)
1節、イエスは弟子たちにもこういう話をされた。
    ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
2節、主人は、彼を呼んで言った。「おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。」
3節、管理人は心の中で言った。「主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。
4節、ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。」
5節、そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、「私の主人に、いくら借りがありますか」と言うと、
6節、その人は、「油百パテ」と言った。すると彼は、「さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい」と言った。
7節、それから、別の人に、「さて、あなたは、いくら借りがありますか」と言うと、「小麦百コル」と言った。
彼は、「さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい」と言った。
8節、この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9節、そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の冨で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
10節、小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は大きい事にも不忠実です。
11節、ですから、あなたがたが不正な冨に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの冨を任せるでしょう。
12節、また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
 ざっと一読して、なるほど、と話の意味がわかった人は殆どいないと思います。
なぜなら、この話は日本人の倫理観と著しくかけ離れているからです。
まず、私がどうしても納得できないと思った箇所を挙げてみます。
1、この管理人は主人の財産を乱費しているのだから、まずこれを弁償しなくてはならない。
2、ところが、この管理人は弁償するどころか、さらに負債者を呼び出して、正規の負債額を減額して、主人の財産を減らしている。
3、さらに、これを知った主人が、この管理人を首にするどころか、ほめた。
4、イエスも弟子たちにこの管理人のように、しなさいと言っている。
 この世の規定に基づけば、不条理と言ったことが、どうも、天の御国では褒められるようです。
それで、前回のウザ打ち、の例に倣って、神の側の理論を想像してみます。
それには、イエスが言われた言葉の意味を整理してみる必要があります。
まず、金持ち、ですが、8節にある内容から、これはこの世の金持ちではないことが分かります。冨の源は神から来ますから、私は神と置き換えてみました。
 次に9節に出てくる不正の冨、の意味です。この不正を文字通り正しくないと訳すと、かえって混乱します。
この場合は、本来ではない、と訳すと意味が通じます。本来ではない冨とは、管理人のものではない冨の意味です。
これは文字通り神の冨を乱費しているものが管理人という意味になります。
ここでいう乱費しているとは、具体的には、浪費しているとか、正しく使っていないと私は解釈しました。
それでは神の冨とは何でしょう。教会では十分の一献金をする際、本来神から受けた冨の十分の一を神に返すという立場を取っています。
よって、それを正しく使っていない管理人は全てのクリスチャンとなりますが、この場合はその代表として、牧師にしておきます。
 言葉を入れ替えて、話をもう一度組み立ててみるとこうなります。
ある牧師がいた。彼は気前よく神の恵みを教会で皆にばらまいていた。
何故そうしたのかといえば、そうすれば信徒が多くなり、献金も増え教会が潤い、牧師の身入りも増えるからである。
本来やってはいけないような、無茶な説教もし、神の御心からはずれても彼は一向に改めなかった。
それを見ていた天使が見かねて神に、そのことを言った。
神は牧師にいった。「おまえについてこんなことを聞いたが、なんということをしてくれたのだ、もう牧師の仕事は任せられないから、始末書を書きなさい。」
牧師は心の中で言った。「神に牧師の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいい。
ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ牧師の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。」
そこで、彼は教会にこういう看板を掲げた。
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さっそく一人の人が来た。「看板を見てきました。実は私はB教ですが、それでもよろしいですか?」
牧師は喜んでこう言った。「もちろんですよ。お坊さん。我々の神はわけ隔てのない神です。御心配には及びません。あなたの全ての罪は赦されます。」
また、ひとりの人が来た。「看板を見てきました。実はわたしはイスラム教ですが、それでも、よろしいですか?」
牧師は喜んでこう言った。「もちろんですよ兄弟。我々は皆アブラハムの子です。我々の神はわけ隔てのない神です。御心配には及びません。あなたの全ての罪は赦されます。」
この調子で牧師は益々神の恵みをばらまいたので、この教会の信徒の数は増えて言った。
さて、神が牧師を首にしようと教会を訪れてみると、教会は増えすぎた信徒のために増築中であった。
当の牧師は引っ張りだこで地方で牧会中で不在だった。
信徒が増えるのを喜こばない神がいるだろうか。神は、それで、牧師を首にしないでほめた。
 こう書いてくると、何となく神の意向が見えてきます。
つまり、この世のことは、ある程度、この世の子にまかせよう。その方がうまく行く。
10節に続く11節の、不正な冨に忠実でなかったら、は神の恵みはどんな小さいなことでも、感謝しなさい、と取れます。
ちいさなことに感謝すれば、やがて、神はもっとおおきな恵み、つまり、まことの冨を与えてくれます。
12節の、他人のもの、とは神のもののことでしょう。続くあなたがたのもの、とあるのは、天では、自分達の財産んが持てるとも取れます。
この世では、神の恵みは本来自分達のものではありませんが、天の御国では、固有の財産がもてるとしたら、これはクリスチャンにとってうれしいこではないでしょうか。
13節に、しもべはふたりの主人に仕えることはできない、とあります。神にのみ仕えていれば、天の御国で素晴らしい冨にも恵まれるとしたら、これほどの福音はありません。
2016年1月3日 ☆

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