わたしの癌闘病記
by Futaro
三年くらい前から、夕方になると軽く胃が痛むようになった。
それで、コーヒーを止めると暫く収まった。それでも一昨年頃から時折痛むようになったので、最初売薬を試したが治らないので、地元の病院に行って診察を受けて薬をもらった。
この薬がよく効いたので、暫く様子を見ていた。そして、薬が切れたので再び受診すると今度は別の医者から、胃カメラ検査をするように強く言われた。
又、同じく昨年の7月初めの日曜日に腹痛を起こし埼玉医科大学病院の緊急外来で診てもらったら、案の定、胆のう炎の再発だった。
この時が二回目で、その前の年の10月にも同じ症状だったが、この時は飲み薬が劇的に効いて収まった。ドクターは手術しますか、と言ったが私は余りにも薬が効いたので断った。
彼曰く、胆のう炎患者が多くて2,3か月待ちの状態だという。7月の時は二回目だし、もう懲り懲りなので、手術の予約をした。
予定では9月初め頃だと言われた。そんな繋がりがあったので、胃カメラの件は、まず埼玉医科大学病院に問い合わせてみたが、窓口の女性から、ドクターに伝えておきます、と言われた。
それが10月頃の話だ。胆のう炎の手術予定を1か月くらい過ぎていたので、何度か埼玉医科大学病院に問い合わせたが、先方も忙しいのか、緊急ではない手術は先送りになるのが普通なので、
(そのことは前もって、ドクターから言われていた。)手術予定も分からず、胃カメラの件も進展がないので、ネットで調べて西大宮に専門の内視鏡クリニックを見つけて、そこを予約した。
これをしないと薬をもらえないので仕方なく受診した。最初は口ではなく、鼻から入れる小さなカメラを使ってくれたので、それほど苦しくはなかった。
同時に患部から検体を取った。すぐに問診があり結果は良くないと言う。後日、精密な結果が出て、胃カメラの映像も見せてくれたが、ピンク色の胃壁に白っぽい斑点がある。
胃潰瘍もあって、これが痛みの元らしい。癌はかなり大きいのですぐ手術して取ったほうがいいというので、紹介状と患部を記録したCDをくれたので、その足で近くの指扇病院に行った。
紹介状があるので、すぐ診察となった。レントゲン、CTスキャン、超音波、血液検査とかなり細かくやってくれた。後日、胃カメラを今度は口から大型のものを入れた。
さすがに、この時は麻酔をしてもらったので、まったく覚えていない程に楽だった。この時は車の運転が出来ないので妻に送迎してもらった。
それと後日、一応念のためと言って、大腸検査もした。これは結構大変だった。
というのも、内視鏡を入れるので大腸を空にしなくてはならず、まず前日に下剤を飲む。翌日から絶食で、朝、トイレに行って排便をしてから、さらに下剤を2リットル飲む。
味は悪くないが、とにかく量が多い。私は朝必ず排便があるのでほとんどその時に出たと思っていたが、下剤を飲むと最初はひどい下痢になって、そのうち出るものが全部で水しか出てこなくなる。
幸い痛みはない。1リットルのみ終わった状態で、これ以上、出るものはないと思い、それでやめておいた。その後、病院に行って内視鏡用のお尻に穴の開いたパンツを履き、横向きになって診察を受けた。
意識は完全にあるので、これは結構、きついというか奇妙な感覚で、例えるならガスがでそうで出ないような、苦しさがあったが、幸い異常なしで早く終わってくれた。
この時も後で主治医の診断があるので妻に同行してもらった。診察の結果、この指扇病院で胆のうと胃癌の手術をすることになった。
胃がんはかなり大きくて、胃は全部取ることに決まった。下手に残して再発するよりいいらしい。もう、こうなったら覚悟を決めるしかない。こういう時、若いより年寄のほうが楽だ。
なにしろ、余生なのだから退院後のことまで考えなくていいからだ。急に決まったせいか入院案内の書類一式を受け取っても、自分が癌であるという実感が全くない。
妻もあまり心配していない。この病院を選んだのは、妻が一昨年に盲腸で入院した実績があるからだ。
11月20日にクリニックで癌とわかって、入院したのが12月17日、手術が18日と、決まるときは一か月以内に決まってしまう。
かえって埼玉医科大学病院の胆のう手術が伸びてくれたのはラッキーだった。そうでなければ2,3か月の間に二度も手術する羽目になっていた。
胆のう手術は内視鏡でするので、傷口も小さいが、胃の全摘出は大手術でみぞおちからへそ下3センチくらい、縦に大きく切る。全身麻酔なので、胃カメラ同様、全く記憶には残らない。
ドクターはちょっと見、脳科学者の茂木健一郎タイプの(マスクをしているので顔は良く見えなかった。)長身の方だった。全てはこの人に頼るしかない。
入院して、翌日、妻と長男夫妻が付き添ってくれた。予定は11時からだが、少し早めにするという。長男夫妻が来てすぐ、点滴と鼻から胃までチューブを差し込んで、手術室に入った。
手術台に乗って、まず酸素マスクをする、これは麻酔ではありませんから、と言われたが、その後の記憶は全くない。
気がつくと、妻と長男の顔が目の前にあった。あっという間に終わった感じだが、実際は4時間以上かかったらしい。麻酔が効いているので痛みなない。
その時何を言ったのか覚えてないが、後で妻から、私がはっきり受け答えしているのが信じられないと言っていた。
彼女の場合は盲腸で緊急手術して、それまでに痛みでかなり消耗して口を利くこともできなかったからだ。私の場合、もう当分食べられないだろうと思って、入院する直前までステーキを食べていたのがよかったようだ。
その後、病室に移り、日を跨ぐあたりまでは、殆ど痛みもなく、かえって下半身が熱く、腰湯をしているような心地よささえあった。
ところが、夜半すぎ、巡回にきた若い看護婦さんが、血圧を測ると90台まで下がっているので、少し麻酔の間隔をあけますね。と言われた。その意味が最初わからなかったが、じきに痛みが徐々に増してきた。
どうやら、この麻酔薬は良く効くが、血圧を下げる副作用があるようだ。我慢できなくなったら呼んでください。と言われて、どれほど我慢できるかやってみようと思ったが、ここからが地獄だった。
何が地獄かというと、痛みで眠れないので時間が経つのが絶望的に遅いのだ。シェイクスピアのセリフにこういうのがある。
学校の授業を受けるときの時間の遅さはまるで、カタツムリ。それに引き換え、恋人とすごす時間の早さはまるで矢のようだ。私はまさに時がカタツムリのようにのろのろ進むのを実感した。
それで、このセリフで元気づけた。どんな嵐の時でも、時は進む。それに加えて体が思うように動かないというのは、一瞬パニックに襲われ発狂しそうになる。
かくも、人間は苦痛と束縛に弱い。幸い足は自由に動くので、片足を持ち上げたり、いろいろやって気を紛らわしたが、上半身は痛みと腹からチューブが出ているし、腕には点滴の針が刺さっているので、思うように動けないし眠れない。
幸い、電動でベットは二分割で上下に動くので、これはその後の入院生活に役立った。こうした医療の進歩は中二の時の盲腸の時とは、隔世の感がある。
三時間がんばったが、耐えきれず看護婦さんを呼ぶと、すぐ麻酔を入れてくれた。
この麻酔薬は事前に麻酔科の先生が来て、麻酔には二種類あって、一つは点滴に入れるものと、もう一つは背骨に直接チューブを差し込んで入れるものがありますが、どちらにしますか、と訊かれた。
どちらが効きますか、と言うと、背骨に入れる方が効くというので、そちらにした。ただしこの方法は事前にレントゲンで診て背骨が丈夫な人にしかできないそうだ。
これは手術直前にしたが、針でチクリと刺す程度ですんだ。こちらにしておいて正解だった。これは良く効く。ものの半時間ほどに再び腰湯に浸かっているような心地よさが戻ってきて朝まで熟睡してしまった。
朝に再び、看護婦さんがきてくれて、手術着からパジャマに着替えた。尿意があるので、トイレは行けるのかと思ったら、尿道にチューブが差し込んであって、そこから直接出ていると言われた。
この時は全く排尿感がなかった。それも引き抜いてくれたので自分でトイレに行ける。ただし、腹から直接チューブが出ていて、血液のような赤い液体が少量だが流れて袋に溜まっているようで気味が悪い。
しかし、実際に点滴をぶら下げた棒を持って立って歩けた時はほっとした。
この時に奇妙な体験をした。小水が出た後、なんと水道が断水だった後に初めて蛇口を開けるとゴボゴボと音がすることがあるが、それと同じことが起こったのだ。
最初は信じられなくて気のせいかと思ったが、同じことが二度あった。膀胱に空気がたまることなど、常識では考えられない。
看護婦さんに聞いてみようかと思ったが、一つ思い当たるのは排尿チュープだ。これを入れていた時に空気が入ったのかもしれない。
次の日に看護婦さんが、胆のうに溜まった石をもってきてくれた。赤褐色の小石のようなものが4,5個あった。
その後、まる二日は絶食だが、不思議と点滴で栄養が取れているのか空腹感がない。もっとも、これは胃を全て取ってしまったのだから、あたり前である。
病院というのは、我々健常者にとっては非日常である。しかし、働いている医療関係者にとっては、これが日常である。日常と非日常が混在しているのが病院である。
4人部屋ということもあって、他の3人の病状が手にとるようにわかる。これは退屈な入院生活に思わぬ刺激を与えてくれた。
この病院には他に二人部屋と一人部屋、それに特別室もある。もちろん差額ベッド代がかかる。これは私の感想だが、特別病状が悪くなければ、大部屋は気が紛れていいと思う。
というのも、夜消灯過ぎてから、廊下の奥のほうから、「おーい、おーい。」と人を呼ぶ声がする。同室の人が居たら迷惑だから、声の主はおそらく個人部屋だろう。
それでも、廊下に響くほどの大声だ。かなり暫くして、看護婦さんの、「どうされましたか?」という声がする。どうやら、この人は用がなくても、人を呼ぶらしい。
「おーい。」と家でも奥さんをそう呼んでいるので、その癖が病院でも出ているのだろう。看護婦を呼ぶならベルがあるので、そちらの方が確実だが、この人はこうやって声をだして人を呼びたいのだろうと、勝手に勘ぐってしまう。
病人は孤独なのだ。「おーい。」が時折、「あーい。」に聞こえる。その声は時に切なく、まるで、子供が母親を呼んでいるような、もの悲しさがある。
大人も年をとり、病になると子供に戻るのかもしれない。また、別の方から今度は女性の「いたい、いたい。」という切羽詰まった声がする。
私も痛みには弱いから同情すると、今度は「たすけて、たすけて。殺される。」と訴えるような悲鳴のような声に変わる。
どうしたのだろう、と心配していると、暫くして、「〇〇さん、どうなされましたか?」と看護婦さんの声がする。
この人は多少ボケてきているのかもしれない。家で嫁さんと仲が悪くて、いつも虐められているのかも知れない。時に看護婦さんは、そんな患者さんの対応もそつなくこなさなければならない。
この病院は殆どが看護婦である。近頃、看護師と名前が統一されたらしいが、やはり、白衣の天使は女性でなければならいと、この時、痛感した。
二日目の夜、不思議な体験をした。12時ころトイレに行くので廊下にでるとエレベーターの前あたりの薄明りの下に大勢の人がいてガヤガヤと話し声がする。
なんてこんな夜中に、と思ったが、病院だし急患が運び込まれてその付き添いの人たちかと思いそのままトイレに入った。
入って便座に座ると天上で換気扇が回りだした。それと同時に何処からか祭囃子が聞こえてくる。
なんでこんな夜中に、と不思議な感じだが、間違いなく祭囃子で、耳を澄ますと、歌の内容も、まさしく祭囃子で、なんやら、かんやら、とやけに早口のアップテンポで男性が歌っている。
用を済ませて、廊下にでると、先ほどのガヤガヤとした人の声はなく、廊下の先はシーンとしている。
先ほどの話し声は気のせいかとベットに入って目をつぶると、瞼にネオンサインのような光る絵が現れて、それが凄いスピードで動き出す。
しかも、かなり精密な絵で細部もはっきり見える。絵は絶えず変化していて、数人のグループの塊が目まぐるしく動き回っている。
音はまったくしない、無言劇だが、目を見張るようなダイナミックな動きは見ていて飽きない。私は絵も描くので、こんな絵が描けたら素晴らしいな、と見とれているうちに眠ってしまったようだ。
こうした幻想は麻酔が切れるまで続いた。点滴で常に水分を補給しているので、トイレには3時間おきくらいに行っていた。
熟睡ができないが、昼間いくらでも寝られるので睡眠不足にはならなかった。痛みは説明書にあったように二日目がピークだった。
傷口はなるべく見ないようにしていたが、いやでもチュープが差し込んである箇所から体液が漏れるのでガーゼの交換があるので見ると、みぞおちからへそ下まで13センチほどの縫い目があるが、現代の手術は術後の抜糸がないので、昔に比べてかなり楽だ。
それを見ると結構な大手術だったことが分かる。それでいて、手術台に上がるときまったく不安がなかった。
こういう場合、クリスチャンなら所属している教会が皆で、○○さんの為に祈りましょう。ということになって、祈ってくれて、それが心の支えになるわけだが、私は教会には行っていないので、それがない。
自分で祈ったのかと言われれば、確かに祈ったが、それは手術が成功しますように、といった祈りではなく、すべてを主に委ねます、というイエスがゲツセマネで十字架の前に祈った主の御心に従う祈りだ。
というのも、私はすでに今年で75歳なので、十分に人生を堪能したので、目が覚めて、そこが天国だったらそれは究極にハッピーだし、また地上に戻ったらそれもハッピーで、正直、どちらでもいいので、主の御心のなすままに、という心境だった。
結果的に地上に戻れたので、まだこの世でやるべきことがあるのだと思う。術後、暫くして食道が腸に上手く繋がっているか調べる検査があった。
造影剤を飲むと、立っている台ごと傾いて体を横にしたりしてレントゲンで確認する。幸いすぐにドクターが大丈夫ですね。と言ってくれた。それから術後3日目の昼から流動食になった。
最初は米のとぎ汁のようなスープと具のない味噌汁。これを2,30分かけてゆっくり飲む。次に重湯になり、三分粥、五分粥となり、おかずが付くようになると生きている実感がする。
しかし、胃がなく食道から直接腸に入るせいか、食後、すぐトイレに行きたくなり、最初は水様便しか出なかった。
その内に普通のご飯がでるようになったが、米粒を一粒一粒かみ砕いていくような食べ方なので疲れる。それと、リハビリのために点滴棒を持って廊下を何往復もした。
最終日には70メートルある廊下を25往復した。これなら退院後の散歩も問題ないだろう。
術後の経過だが、全部摘出した胃と周辺のリンパを専門機関にしらべてもらい、結果が出るのが1月20日だ。
それでステージ2か3かが分かるそうだ。いずれにしても全ての癌患者の5年後の生存率は60%だそうだ。
主の御心なら80まで生きられるし、その前に天国に召されるかもしれないが、いずれにせよ、自分の寿命のメドがたつというのは、だらだらと生きるより充実できるかもしれない。
ただ、ひとつ気になっていたのは、大量に描き貯めた50号の絵をどうするかだ。私は絵の素人なので美術的な価値はない。
聖霊に導かれて描いているのだが、かなり聖書からはずれているところもあるので、まともな教会では飾ってもらえないだろう。
すると、ほとんどが引き取りてもなく、50号は個人宅には大きすぎるので、結局ゴミとして処分されそうだ。
ホームページも銀行が閉鎖されれば、料金未納で自動的にアップされなくなり消滅してしまうが、私はこの世に未練がないので、たぶん、この二つに関しては全く気にすることもなく天国へ行けるだろう。
残された絵の処分は家族にはかなり迷惑だろうが、それは私の勝手な趣味として諦めてもらうしかない。
まずはとりあえず、100号を100号で描かせてください、と聖霊にお願いしてあるので、後、1年半は描き続けることができそうだ。それ後、天に召されてもそれでよし、というのが今の心境だ。アーメン。
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