伝七捕物帳について その1

戸田和光


本稿について

 例によって、私は伝七捕物帳をそれほど読んでいない。
 その前提で調査したことをまとめた文章になるので、そのつもりでお読みいただきたい。
 間違いや、これ以外の初出情報をご存じの方は、ご連絡いただければ幸いです。


 もともとは、単純な疑問だった。
 “黒門町伝七シリーズ”を確認していて、不明点が生じたのだ。捕物作家クラブの企画として、複数の作家によって京都新聞に長期連載される形でスタートしたシリーズだったが、後には(主にテレビドラマ化を契機に)、陣出達朗を代表するキャラクターとなった――ということは知っていたし、一般的に陣出作品とされていることに疑問もないが(いろいろな作家が執筆した作品がなかったことにされたら問題だと思うが、当然ながらそうはなっていない。従って、伝七=陣出作品とされることに異議を唱える必要も感じていない)、ウィキペディアを眺めていて、“後年、陣出が単独で新作を執筆しており”――という点にひっかかかったのである。積極的に伝七ものの書誌を追ったことはなかったが、陣出が新作を書いていたイメージはなかったからだ。
 春陽文庫で陣出による『伝七捕物帳』が3冊刊行されているが、そこに収容されている作品数は全部で30編だそうだ。一方、陣出が京都新聞に執筆した作品も30編前後はあったはずだから、それ以降も新作を執筆していたのなら、陣出による伝七本が、もっと数多く刊行されているべきではないか――と思ったのである。

 とりあえず、第一ステップとして、昭和40年以前に刊行された伝七本を調べてみる。タイトルで伝七捕物帳と謳っている本が少ないため、見落としがあるかも知れないが、一応以下の15冊が見つかった。
(玉川一郎『頓珍漢十手双六』など、伝七ものも収録されている作品集を含めればまだあるかも知れないが、ここでは、一冊の半分以上が伝七ものの本という条件で調べている)

著作リスト 昭和29〜38年

タイトル著者 刊行年月出版社備考
人肌千両 1954年3月 東京文芸社
刺青女難 1954年7月 東京文芸社 ※1編はオムニバス連作
女郎蜘蛛 1955年4月 東京文芸社
黒門町伝七捕物百話 第1巻 野村胡堂ほか 1954年10月 桃源社
黒門町伝七捕物百話 第2巻 土師清二 1955年2月 桃源社
黒門町伝七捕物百話 第3巻 城 昌幸 1954年9月 桃源社
黒門町伝七捕物百話 第4巻 横溝正史ほか 1954年12月 桃源社
黒門町伝七捕物百話 第5巻 佐々木杜太郎 1954年11月 桃源社
黒門町伝七捕物百話 第6巻 陣出達朗 1955年1月 桃源社
黒門町伝七捕物百話 第7巻 山手樹一郎ほか 1954年10月 桃源社
黒門町伝七捕物百話 第8巻 野村胡堂連作 1954年11月 桃源社
ふたり妻 城 昌幸 1959年10月 東方社
女狐駕籠 陣出達朗 1956年6月 東方社 「人肌蝙蝠」は非伝七もの
天下を狙う矢 陣出達朗 1960年4月 桃源社
女狐小判 陣出達朗 1963年3月 青樹社


 最初の11冊は、京都新聞に連載されたものから作家ごとにまとめた8冊の叢書と、メインメンバーによる合作中編を収容した3冊であり、捕物作家クラブが中心となって編集・刊行されたものと云えるだろう。そのあとの4冊は、作家名も作家個人となっており、普通の短編集のような形で出版されている。
 とは云え、このうちの、城昌幸による『ふたり妻』は、叢書の一冊を占めている城昌幸集を補完するものと見ることが可能だ。つまり、京都新聞に掲載された城作品のうち、叢書に収容されなかった作品を集めて一冊にした本なのである(尤も、この2冊に収められていない城作品がまだあるが)。
 結局、注目すべきは、残りの陣出による3冊となるだろう。正直なところ、今回調査するまで、陣出による伝七捕物帳が昭和30年代に4冊も刊行されていたことさえも知らなかった(叢書にある1冊だけだと思っていた)人間が、今さら帳尻合わせに調べたところでどこまで正確なものとなるか疑問だが、もう少し、掘り下げてみた。

 1冊めの叢書中の陣出編は、極めてシンプルである。同叢書の他の本と同じく、京都新聞に載った作品が並んでいるだけだからだ。従って、他の3冊にも(『ふたり妻』と同じように)京都新聞に載った作品が収められていれば、(当初の私の疑問が立証できた、という意味で)分かりやすかったのだが、話はそこまで単純ではなかった――。

 昭和31年6月(京都新聞でまだ連載が続いている時期だ!)に刊行された『女狐駕篭』には、10編の伝七ものが収録されている(他に、非伝七ものの中編「人肌蝙蝠」が収められている)。表題作の映画化に合わせて刊行された一冊(併録の「人肌蝙蝠」も、前年に映画化されていた)だと思われるから、当然ながら大半が伝七ものだった。
 このうち、表題作の「女狐駕篭」のほか、「美女観音」「恵方の鬼」「悲願の纏」「面影の女」「奇蹟男」の6編は(改題や多少の加筆はされているようだが)京都新聞に収録された作品だと考えられる。が、残りの4編については、該当するものが京都新聞に見当たらない。あれぇ、と思ってもう少し調べてみると、「蒲団の怪」と「松茸騒動」(と「きつね駕」)が、昭和30年から31年にかけて《キング》《別冊キング》に、伝七ものの新作として掲載されていることを知る。この2編についてはこれが初出と思われるから、既に(京都新聞での連載が続いていた時期に)講談社の小説誌に、陣出は伝七ものを執筆していたことになる。言い換えれば、かなり早い時期から、陣出は(京都新聞とは別の媒体に)伝七ものを執筆していたのである。(※更に、もう少し掘り下げてみると、表題作である「女狐駕籠」は、別冊キングに「きつね駕」のタイトルで掲載されているのだが、掲載号を比べてみると、京都新聞に「女狐駕籠」が掲載されるより、雑誌に「きつね駕」が載った方が早かったとしか思えないのだが――。映画化が決まったために、京都新聞に別媒体初出のものを再録した風にも思えるのだが、実際はどうだったのだろうか……)

 が、話はまだまだ複雑な様相を呈してくる。同書収録の「姦氷」について、その同題作品が《別冊宝石》の昭和29年9月号に掲載されていることは、すぐ確認ができる。当然、それが収録されたように見えるのだが、実はこの作品、初出時の主人公は車坂新吉という人物なのだ。伝七ではないのである。――車坂新吉は、陣出が創造した捕物帳キャラクターで、昭和20年代に書かれた陣出の捕物帳作品の大半で主人公を務めていた。十数編は作品があるはずだが、短編集にまとまってはいないようだ、という程度は何となく知っていたが、その理由が今回初めて理解できた気がする。新吉作品(のいくつか)は、主人公が変えられて、伝七ものに生まれ変わっていたのだ。(横溝正史の人形佐七ものに見られるように、)登場人物を変えて別なシリーズに収録する、ということを、陣出もしていたのである。
(と云いながら、この作品については、もう少しややこしい要素もある。「姦氷」は、京都新聞に掲載された「竹さん赤変米試食す」ともストーリーが似ているのだ。この二編、初出年月も近接しており、どちらの執筆が早かったか分からない。タイトルから判断する限り、単行本収録にあたり主人公が改変された――と見るのが自然かと思うのだが)
 これが分かれば、最後の「鼓の怪」も調べようがある。実際、タイトルの似ていた車坂新吉ものの短編「呪いの鼓」(《読切小説集増刊》昭和27年2月に掲載。ただ、この号が初出かは未確認)を確認してみたところ、予想通り、全くの同一作品だった。文章はほぼそのままで、主人公だけを差し替えていたのである。

 伝七ものの短編集を編む際に、作品が足りなかったためにひねり出したことなのかも知れない。
 が、いずれにしても、陣出による伝七ものは、こういった様々な形で、京都新聞連載時から行われていたことが、『女狐駕籠』一冊だけからも分かったのだ。

 この傾向は、続く『天下を狙う矢』からも伺える。昭和35年4月に刊行された本書は、京都新聞に掲載された「夜叉牡丹」を自ら大幅に加筆して中編化した作品を表題作とし(ただ、「天下を狙う矢」はこの書でのみのタイトルで、再刊時には「夜叉牡丹」に戻された。ちなみに、「美女夜叉」も同じ作品の別題である)、3短編を併載したものになる。このうち、「人形寺の怪」だけは京都新聞に掲載されたものだが、残り2作品は、初出が分からない(少なくとも、京都新聞には掲載されていない)。
 同様に、昭和38年3月に刊行された『女狐小判』は、映画の原作として陣出単独で執筆した中編を表題作とし、7短編を併載した一冊だが、(叢書との重複掲載となった「雪男 江戸にあらわる!」改め「雪の足跡」以外でも)半分の3編は京都新聞掲載のものだったが、残り3編は初出不明だ。
(これら、初出不明のものについては、車坂新吉ものをあたれば解決する可能性はある。ただ、今回は、陣出の伝七ものの成立過程を調べようとしたものなので、基本的なパターンが分かった時点で調査を中断している)
 ともかく、京都新聞に掲載されたもの以外にも多くの陣出による伝七作品が同時期に存在していたことは間違いない。

 これらから考え出される推察として、昭和35年10月に終了した京都新聞での連載が続いていた期間中から、陣出はさほどの遠慮なく、伝七ものを生み出していたのは間違いなかろう。決して、新聞連載後に新作を書き続けた――ということではないのだ。
 当初から(あるいは、昭和30年頃から)、捕物作家クラブの公式な活動の場以外でも、陣出が伝七ものを書く(あるいは本にする)ことは認められていたのである。あるいは、この延長線として、テレビドラマ化される際に陣出単独の作者表記となったのかも知れない。
(文庫の解説で考察されているように、合作中編について実際に作品の執筆を担当したのは陣出だった可能性は高いと思っている。今回一部書誌を確認していて興味深かったのが「髑髏狂女」と「人魚地獄」の2中編だった。これらはともに全3章からなる連作なのだが、その作者は、最初の章は野村・陣出の連名、次が土師、最後が城、という順番だったからだ。これは、この頃には野村は殆ど執筆を行なっておらず、原案に参画しただけか、あるいは全く参加せず、慣習で名前を残しただけだったことを示してはいないだろうか。いずれにしても、後期の伝七シリーズを支えていたのが陣出だったのは、ほぼ間違いないだろう)

(以下、「その2」に続く)


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