1873年39歳の若さで世を去ったヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・ガルトマン(左)はほとんど無名の画家・建築家であった。ガルトマンは公共図書館のデザインで金賞を獲得し、ポーランド、フランス、イタリアなどを4年間旅することができた。生涯外国に出ることのなかったムソルグスキーにとっては、友人であるガルトマンのスケッチや見聞は重要な情報源であった。ガルトマンの支援者である美術評論家ウラディミール・スタソフは、ガルトマンの死を悼み1874年に彼の遺作約400点の展覧会を開催した。スタソフは民族芸術の必要性を力説し、音楽の分野でもロシア五人組の理論的支柱であった。この展覧会を訪れたムソルグスキーは同年のうちに組曲「展覧会の絵」を作曲した。
1881年ムソルグスキーも世を去り、1886年にスタソフは「展覧会の絵」の楽譜を出版した。これには既にリムスキーコルサコフのテンポや表現上のコメントが書かれていて、この時点で原曲とはいくつかの点で異なっている(後述)。また最初のオーケストレーションはリムスキーコルサコフの弟子トゥシュマノフによって行われ、それをN響が定期演奏会で取り上げたこともある。ピアノ曲として発表されて50年近く過ぎ、ラヴェルにより管弦楽組曲として編曲され、1922年パリのオペラ劇場で発表されて喝采を浴び、ようやく世に知られることになった。他にも、リムスキーコルサコフ、ストコフスキー、近衛秀麿呂、富田勲の編曲もある。
ムソルグスキー研究家たちの誰もこの1874年の展覧会に行っていないので、手がかりが少ない。スタソフの編纂した展覧会の展示カタログと、自筆楽譜と、スタソフが出版した「展覧会の絵」の楽譜に記されたあまりはっきりとしない説明などが、ムソルグスキーが見たと思われる絵がどれであるのかを決めるためのわずかな手がかりである。以下各曲毎に、スタソフのメモとNHK取材班の探し出した絵についてのコメントを示す。
Gnom