その3.憲法学者の憲法第10章「最高法規」の本質的理解の欠如
憲法第10章『最高法規』の章は、3ケ条から成り立っています。この3ケ条のうち、とくに、97条(基本的人権の本質)と99条(憲法尊重擁護の義務)の本質的な関係について指摘したのは、実に憲法学者ではなく、当時中央大学の民法の教授だった『沼正也』でした。
『学者恐れるに足りず』。これが大学で法律を学んだ私の率直な感想です。学者は専門バカであってもいい。しかし、その専門分野においてすら本質を知らずば、ただのバカオジサンでしかありません。
何を言っているのかよう分からん。それはたぶん貴殿に責任があるのではなく、本質を理解せずただしゃべっている俗物学者のオジサンに責任がある場合が圧倒的に多いのです。
ここに紹介する元中央大学法学部教授『沼正也』は、学問の本質の何たるかを学生に講義できる数少ない学者の一人です。
彼は、その著作集(沼著作集)17巻の中に収められている『与える強制と奪う強制』の中で次のように述べています。
「日本国憲法に『最高法規』という人民にとってたいへん大切な章があることも、官僚法学者たちはなぜか故意に無視し、歪めて理解している。日本の憲法のなかで、一番たいせつな章であるというのに…。
…(省略)『最高法規』という章がありがたい章であるのは、この章の冒頭条文である第97条や最末尾の第99条にあるのである。…(省略)冒頭条文は、いくら読んでも読みあきることのない条文である。…(省略)『与える強制』が、人民に向かって宣誓されているのである。…(省略)
『この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。』
日本の法の強制もやっと『与える強制』の仲間入りをしたというのに、官僚法学者は、故意にこの明々白々な宣言から目をそらす。たとえば、見よう。
『本章の表題は「最高法規」となっている。しかし、「最高法規」に関する規定は、第98条(注:<憲法の最高法規性、条約及び国際法規の遵守>)だけで、ほかの二箇条は直接それに関する規定ではない。そのうちでも、第99条は、公務員が憲法を尊重し擁護する義務を負うとする規定であるから、最高法規たる憲法に関係があるといえないこともないが、第97条は、基本的人権に関する規定であって、「最高法規]という表題とは、どうも調和しない。』
…(省略)この最高法規という章はこの論者のいうようなそんな平面的な次元で構成されているものではまったくありえない。ここでは、人民がたいせつにされ、人民から奪うことを中核とする法たることを止めてひたすら与えること-『与える強制』が高らかにうたわれているのである。
ここには、奪う強制-人民の義務についての一かけらも示されていない。だからこそ、第99条は、与える強制が国家権力のがわから着実にはたされることの制約規定とならずには止まない。この規定のなかに与えられるがわの登場する余地は、まったくありえない。第99条の条文を、よく眺めて見よう。
『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。』ご覧のように、人民のがわの憲法擁護義務は、この条文中にはまったく掲げられていない。与えられるものは、どこまでも受け身で、要求するがわにだけ立ち、与える義務のがわに立つことはすでにして論理的にいってできることではない。
平易な比喩でいってみれば、ある会社の経営者のがわが、従業員のがわに「諸君の最低生活の保障はいかなる事態が起ころうと、当社はあくなくこれを護り抜く。」とその会社の内規にうたい上げれば、その擁護義務は会社がわにのみあって従業員がわにあることはけっしてありえようもない。
この論理が、第99条の論理なのである。…(省略)だというのに、同じ論者はこう訝り、珍妙な結論に陥っている。
『…本条は、国民は憲法を尊重し、擁護する義務を負わないという趣旨を含むものではなく、国民のそうした義務は、当然のこととして前提とされていると見るべきである。』 ああ!なんたる錯倒。憲法学者の指導的学者がこう断ずれば、他の官僚法学者はもとより、それに属さない学者たちまでもが右えならえをしてしまっていることは当然である。」(以上引用17巻P7〜P9)
沼教授は、この引用文の中で、『与える強制』ということばをさかんに使っていますがはじめてこのことばを聞いた方は、少し戸惑うかもしれませんね。
近代国家の運営する市民社会(注:この概念については別項で)の構成員(=市民)にとって不可欠のもの、それは、『独立』『平等』『自由』。
この独立・平等・自由をすべての市民に付与するため法は存在する(『与える強制』)。
そして、市民たる国民全員が、国家に対して、独立が与えられることを強要し、平等が与えられることを強要し、自由が与えられることを強要する権利の総称が基本的人権にほかならず、
『奪う強制』は、この『基本的人権』を与える強制の運営を妨害する者に対し、その妨害を排除し、協力を求めるためにのみ許される、として、法の強制といえば『奪う強制』しかありえないとするする今日にいたるまでの通俗的見解に異を唱えているのが沼教授の独自の理論展開です。
少し、引用が長すぎましたが、いかがでしたでしょうか。
私たちは、とかくエライ先生が書いた難解な文章に出くわすと、そのよう分からん難解さに圧倒されしばしたたずみ、畏怖の念をもって感じ入ることがしばしばあります。
しかし、本当に物事の本質をよく理解している学者(べつに学者に限りませんが)は、町のオジイチャン・オバアチャンにでも理解できるような平易な言葉を使って分かりやすく説明することができるものなのです。
ところで、気になることは、上に述べたこの沼教授の指摘する誰にでも分かる論理の欠如が、いまもって学界の権威といわれる憲法学者の書物に散見されるということです。
以下は、そのいくつかを指摘しておきましょう。
◆現代法律学講座『憲法』(青林書院新社)<京都大学教授・佐藤幸治著>
「…憲法99条中には国民が含まれていないことには注意を要する。あるいはこの点むしろ、憲法制定者である国民が憲法を尊重擁護すべき立場にあるのは当然のことで、99条はその当然の前提に立つと解するのが一般的であろう](37頁)
◆法律学講座双書『憲法』(弘文堂)<伊藤正己著>
「日本国憲法は、『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う』(99条)と定め、国家の権力作用に干与する天皇およびすべての公務員に対し憲法尊重・擁護の義務を課している。この義務は公務員のみならずすべての国民が負うべきものであるが、主権者である国民が憲法を定めたのであるからそれを守ることは当然であるとの前提にたち、国家の権力作用に干与する者に憲法を守るべきことを定めたという趣旨をもつ。」(591頁)
◆法律学全集3「憲法T」(有斐閣)<清宮四郎著>
「国の最高法規である憲法を尊重し、擁護することは、単に公務員たる者ばかりでなく、日本国を構成するすべての者の義務でなければならない。ことに、日本国憲法は、日本国民が、その代表者を通じて、みずから制定したものであるから、制定者たる国民がそれを尊重し、擁護すべき義務があることは、特別の規定をまつまでもないことである。憲法が公務員の義務のみを規定し、国民の義務を謳わないのは、おそらく、当然のことと考えたからであろう。」(27頁)
◆法律学全集4「憲法U」(有斐閣)<宮沢俊義著>
「いちばんおかしいと思われるのは、まったく基本的人権に関する第97条が、第三章の外に置かれていることである。…『国民の権利及び義務』の章からはずされ、『最高法規』の章に移されてしまった。これは、体裁としては、筋がとおらないとおもわれる。」(198頁)