「(結果)予見可能性」と「(結果)予見義務」



花子

まず、交通事故責任を考える上において避けて通ることのできない「過失」の意味内容を考える上で、何故「(結果)予見可能性」とか「(結果)予見義務」とかいったことを考えなければならないのか、このあたりから太郎さんには分かりやすく説明していただこうと思います。法律を学んだことがない方にとっては、そもそも議論の出発点となるこの点から疑問に思っていることでしょうから。

太郎
もっともなことだと思います。
交通事故が発生した場合、発生した損害の賠償を事故相手に求めたり、逆に事故相手から損害の賠償を求められたりする場合、相手や自分の運転行為に「過失」が存在していたことが必要最低条件として要求されることになっているということは、ドライバ-ならご存知だと思います。事故を起こすと「過失割合」というよく聞く言葉が出てきますからね。
それでは、自動車事故において損害賠償責任が発生する要件として「過失」の存在が不可欠とされる
その根拠となる基本法律は何かといえば、それは「民法」であり、その709条に次のような規定がおかれています。「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」

この規定によって、損害賠償責任の発生に「故意」または「過失」の存在が不可欠であることが分かりますが、それでは、「故意」または「過失」の意味・内容についてはどの法律のどこに具体的説明規定がおかれているのでしょうか。
実はどこにも説明規定はおかれていないのです。ですから、故意・過失の意味内容を明らかにするために法文解釈という作業がどうしても必要になってくるわけです。
この解釈作業は法律学者が法学理論に基づいて行ったり(これを「学理解釈」といいますが、「学説」と言ったほうが分かりやすいでしょう)、あるいは裁判所が行ったりしますが(これを「司法解釈」といいますが、「判例」と言ったほうが身近に感じるでしょう)、なんといっても重要なのは、国家機関である裁判所が行う解釈(判例)ということになります。

花子
なるほどよく分かりました。
それでは判例は、709条の規定する「過失」という用語の意味内容を具体的にはどのように言っているのでしょうか。

太郎
昭和53年8月日の東京地方裁判所判決(スモン判決)は、過失とは、「結果回避義務の違反をいう」としており、他の多くの判例も共通して「『権利侵害』という結果回避『注意=行為』義務に違反することが過失」(民法7・有斐閣双書・昭53.1.30発行版110頁)だとしています。この判例の「結果回避義務違反説」の立場は、損害賠償請求事件における平成18年3月13日の最高裁判決もこれを肯定しているところです。

花子
判例が過失を「結果回避義務違反」として捉えていることは分かりましたが、この結果回避義務違反からどのような理由で予見可能性とか予見義務とかいったことが導き出されてきたのでしょうか。

太郎
「結果回避義務違反」と「予見可能性」との関連について明確に記述した書物がいま私の手元にあります。
「民法W-債権各論{第2版}・有斐閣Sシリ-ズ・1995.10.30発行版」がそれで、その238頁には次のように記載されています。

「過失の有無は、この結果回避義務違反のみで判断されるわけではない。結果発生について予見可能性がなければ、当事者には、具体的状況において講ずべき回避義務の内容が分からず、またそれを要求するのも当然とはいえないから、過失ありとされるためには、予見可能性のあることが当然の前提とされている(通説・東京地判昭53.8.3判時899号48頁{東京スモン判決、とくに289頁}参照)。つまり、予見可能性があるにもかかわらず適切な処置を講じなかったがゆえに損害賠償責任を課すのが、過失責任の特徴である。…結果回避義務違反説は、このように、予見可能性プラス結果回避義務違反を過失とみている…」。

また、上に紹介した昭和53年8月日の東京地方裁判所判決(スモン判決)も、「(過失とは)その終局において、結果回避義務を言うのであり、かつ、具体的状況の下において、適正な回避措置を期待しうる前提として、予見義務に裏づけられた予見可能性の存在を必要とする」と判示して結果回避義務の前提として予見可能性の存在を必要とすることを明らかにしています。                                                          

花子

なるほど、よく分かりました。さて、ここからがいよいよ今回のテ-マの核心ということになるわけですが…。
私の記憶に間違いがなければ、事故担当者は、「予見可能性」と「予見義務」というこの二つの法律用語をまるでどちらを使っても同じだといわんばかりに平気で混同して使っています。あるときは「予見可能性があるから過失が認められる」と言ったり、またあるときは「過失とは予見義務に違反することです」と言ってみたりと…。私もこの両者の関係をよく理解していませんのでえらそうな事は言えませんが、おそらく事故担当者もこの両者の区別についてよく理解していないのではないかと思います。

太郎
事故担当者は事故交渉という実務において法理論を用いた法律行為(=国家による強制実現が保障された意思表示)を行っているわけではなく、判例タイムズといういわゆる過失割合判定マニュアル本への当てはめ行為による法律行為を行っている作業員に過ぎませんから、この両者について深い知識がなくても別段不都合というものは生じることはないのです。ですから、両者の関係について不勉強なのは当然といえば当然のことなのです。

花子
極論すれば、判例タイムズへの機械的あてはめ作業に過失についての基礎的理解は必要ないということなんですね。
それでは太郎さんに質問します。今までの説明で「過失」の意味内容に関する判例の立場は、結果回避義務違反であり、その前提として「予見可能性」の存在を不可欠のものとするということが理解できましたが、私の頭の中には次のような疑問が渦巻いています。分かりやすい説明をしていただくと助かります。
@「予見可能性」が存在したかどうかは、どのような見地から判断されるのでしょうか。まず、これが分かりません。
A次に、「予見可能性」の存在が確定されたとすれば、同時に「予見義務」もまた存在したことになるのでしょうか。これも分かりません。

太郎
まず、「予見可能性」が存在したかどうかの判断ですが、これについては、「予見」とは何を予見することなのかということを考えれば、答えはおのずと見えてくると思います。
「予見」とは、結果すなわち「他人の権利・利益の侵害」を予見することですから、権利・利益を侵害するかどうかの判断は単に自然物理的見地(物理的事実関係上の見地)から判断されるものではなく、法的見地からつまりは法的価値判断に基づいてなされるということです。上に紹介した文献「民法W」が「過失に対する規範的理解」(238頁)という表現を用いているのも、この法的価値判断に基づく過失に対する理解という意味です。

具体的な例を挙げて説明してみることにしましょう。
片側一車線の道路を進行中の車に対して、対向車が走行車線をはみ出して反対車線に侵入した結果衝突事故が発生したという場合(センタ-ラインオ-バ-事故)、どの保険会社も一様に反対車線に飛び出した車の全面的過失責任を認め100ゼロ事案として処理しています。しかし、この事故態様においてもよくよく考えてみると、走行車線を何の落ち度もなく走っていた車の運転者も、単なる物理的事実関係上の見地から判断したときには、いつなんどき反対車線を走行している対向車がこちらの車線に飛び込んでくるかもしれないということは予見可能であったということになるはずです。

予見可能であったのだから事故回避義務も存在した。にもかかわらず事故が発生した。それは事故回避義務に違反したからだ。だから過失責任あり。こういう一連の論理の流れになることはなく、保険会社は一様に無過失として処理している。何故なのか。「事故回避可能性がなかったからだ」。保険会社はその理由を明らかにしていませんからこう断定することはできませんが、私見としては、事故状況によっては回避可能性の存在を肯定できる場合も否定できないことがあることから、
法的見地から判断したときには、「予見可能性」そのもの自体が存在しなかったと結論づけることの方が論理的には優れているように思われるのです。

また、こんな事故事例の場合はどうでしょうか。
住宅街通りを進行中、民家の車庫から影も形もない状態で突然飛び出してきた車に衝突された場合、保険会社は何の疑問を持つこともなく判例タイムズへの機械的当てはめ行為を通して、道路走行車側にも基本的には20%の過失責任を追及してくることになり、無過失主張には頑として応じることはありません。どんなに注意深く運転していても避けることのできないこの種の事故にも平然と過失責任を強要してくる保険会社の応対に憤りを感じているドライバ-は数多く存在すると思いますが、判例タイムズの機械的運用における弊害の代表的な事故事例の一つでしょう。
この種の事故態様も事故状況を詳細に把握し、タイムズを現実の事故により近づけて運用する柔軟な姿勢が保険会社にあれば、タイムズに搭載されている修正要素(飛び出し車の「徐行なし」・「著しい過失」)を採用して100ゼロ・無過失事故に修正可能となるのですが…。

それはさておき、この事故態様において、無過失主張する側は事故回避不可能ゆえに無過失とするのか、法的予見可能性が存在しないから無過失を主張するのか、ということです。現時点ではこの事故態様に関する判例を見つけることはできませんから裁判所の判断を知ることはできませんが、かりにこの種の事故にも「予見可能性」が存在したとすれば、具体的な事故回避行為は非現実的な行為(一軒ごとの車庫の手前で停車ないしは最徐行する)をとらざるをえないことになり、車の運転そのものが否定されることになることを考えると、そもそも「法的予見可能性」が存在しなかったとの結論に導くことの方が論理的には優れているのではないかと私は考えています。

問題となるのは花子さんのAの疑問です。
「予見可能性」が法的見地から判断される以上、つまりは予見可能性が存在したという法的評価がなされた以上(法的予見可能性の存在)、法的予見義務もまた存在したことになるのかということですが、これはいわば当然の論理的帰結であって何の問題もないように思われます。可能性のないところに義務は存在しようもありませんが、法的可能性の存在が認められる以上法的義務もまた存在しうると結論づけることは法理論上何の矛盾も生じませんからね。                         

このように考えてくると、私は、予見可能性と予見義務との関係について以下のように考えていきたいと思っています。
法的見地から判断したとき「予見可能性」の存在が認められたら(法的予見可能性の存在)、「予見義務」の存在もまた同時に認められることになり(法的予見義務の存在)、予見義務を果たしていれば結果発生を回避すべき具体的行為が導き出され、この回避行為を現実の事故現場で選択できたにもかかわらず(結果回避可能性の存在)、不注意で回避行為を選択しなかった(結果回避義務違反)が故に非難に値することになり賠償義務の発生する過失責任が肯定されるのだ。このような論理の流れになるのではないかと思うのです。
ただ、注意しておかねばならないことは、従来からの判例が「結果回避義務違反説」の立場をとっている以上、たとえ予見義務違反かあったとしても、結果回避義務違反がなければ過失責任は認められないということです(上掲平成18年3月13日の最高裁判決はこの立場をとっているものと思われる)。この点、事故担当者の「過失とは予見義務に違反することです。」との考えは、判例の立場からすると受け入れられない見解であるということです。 

上に述べたことをさらにより具体的に説明すると、こういうことになるかと思います。
例えば、裏通り信号機のない交差点で一時停止標識を無視して交差点内に進入し、交差道路を走行中の車両と衝突したような場合を例にとり説明すると、@予見可能性→一時停止をせずに交差点内に進入すれば、交差道路を走行してくる他の車両と衝突事故を起こすおそれがあるということは一般の標準的ドライバ-であれば、十分に予見可能であった。そして、この可能性の存在は法的見地から判断しても何ら問題なく肯定される。A予見義務→であるならば、一時停止せず交差点内に進入すれば他の車両と衝突事故を起こすかもしれないということを当然に予見すべき義務があったといえる。B事故回避行為可能性→予見義務を果たしていれば、交差点の手前で「一時停止し交差道路左右の安全を確認する」という具体的事故回避行為が導き出され、この回避行為を選択することは事故現場状況から判断して可能であった。C事故回避行為義務→回避行為を選択することが可能性があったのであるから、一時停止して左右の安全を確認後交差点内に進入するという回避行為を選択する義務があった。にもかかわらず不注意でその義務をはたさなかった。だから過失責任が生ずるのだ。  

こういう一連の流れになるかと思われます。 
もっとも、一時停止違反のように明確な道路交通法違反の場合は、予見可能性を問題にする必要はなく違反行為をしただけで直ちに過失が認定されると、下記の文献は記述している。
「ただし、損害発生の危険性の高い行為については、法規や慣習、さらには社会通念等により、損害発生を防ぐための一定の行為パタ-ンが定型化されていることがあるが、そのような場合には、その行為パタ-ンに反した行為により損害を発生させた行為者には予見可能性を問題とすることなく過失が認められることがある。例えば、自動車運転に関する各種の義務や医療行為における確立された定型的な治療方法等である。したがって、信号のない交差点で一時停止を怠って損害を発生させた場合、一時停止を怠ったことをもって直ちに過失が認定されることになる。定型化された行為パタ-ンからの逸脱が損害を発生させる危険性が高いことから、結果発生についての具体的な予見可能性はなくとも(ただし、行為パタ-ンからの逸脱についての予見可能性は必要)過失が認められる例外と言えよう(以上について詳しくは澤井169頁以下参照)」(「不法行為」立命館大学法学部教授吉村良一著・有斐閣刊・2000年4月10日発行第2版64頁)


花子                                                                                      なるほど、この太郎さんの説明だとよく理解ができます。
つまり、予見可能性の存在を法的見地から判断すれば予見義務の存在は別個独立に検討することはないということですね。また、回避可能性と回避義務との関係においても同様ということですね。 
                                                             
太郎
                                                                                     初めのところで紹介したように、昭和53年8月3日の東京地裁判決も「(過失とは)その終局において、結果回避義務を言うのであり、かつ、具体的状況の下において、適正な回避措置を期待しうる前提として、
予見義務に裏づけられた予見可能性の存在を必要とする」と判示していることから、この判例の立場に従う限り、過失の認定においては、(法的)予見可能性と(法的)結果回避可能性の存在を立証すればよいのであって、予見義務や回避義務が存在したことまでを立証する必要はないということになるはずです。                                                     

花子
                                                                                     そうすると、事故担当者が「予見可能性」と「予見義務」を混同して認識していたとしても、保険実務上特段の不都合は生じないということですね。
ただ、「過失とは予見義務に違反することです。」とする事故担当者の見解は判例の立場からは認められないということは別として…。 
いずれにしても、大量に発生する事故を迅速・簡潔処理していくために判例タイムズの機械的運用をせざるを得ない事故担当者にとっては、予見可能性と予見義務、そのいずれであってもたいした問題ではないということなんでしょうね。
いずれにしても、予見可能性と予見義務という両者の相互関係、さらには回避可能性と回避義務との関係まで詳細に言及した文献は、私の調べた限りではほとんど見当たらないという事実です。多くの民法学者は、この両者の関係については自明のこととして記述を省略しているのでしょうか…。

太郎さん、本日はありがとうございました。(2010.11.15)