道路交通法違反がなければ「過失はない」と 主張できるのか



  谷  州展

昭和35年に制定された「道路交通法」。いうまでもなく、一般ドライバ-にとってのバイブル的法律ですね。ここには、ドライバ-に向けての「〜してはならない」「〜しなさい」という各種の命令が規定されています。この規定されている命令を「命令規範」というのですが、これに違反したときには国家による刑罰権が行使されることになっています。

こういうと、え!なに! 駐車違反にも刑罰が科せられるの?と驚く方がいますが、ドライバ-には、「反則切符」制度が普及しているために、違反したときには、いわゆる反則金という行政罰が科せられるのが通常の姿だと思っているからです。
もし、ドライバ-がこの行政罰である反則金の支払いを拒否したときには、本来の刑罰の行使が待っているというわけです。ちなみに、駐車違反の場合の刑罰は、「10万円以下の罰金」ということになっています。

余談になりますが、この反則切符制度が制定されたのは、すべての道交法違反に最初から刑罰権を行使したのでは、ドライバ-全員が総前科者になるおそれがあり、刑罰に対する抑止力が薄れてしまうということで創設された制度であり、道交法のドライバ-に対する命令規定違反を大きく二つに大別するところからスタ-トしました。

すなわち、「反則行為」と「非反則行為」です。
反則行為とは、日常的によく繰り返される違反態様に行政罰を科す反則切符対象違反行為としてとらえ、まず、行政罰でのぞみこれに応じない者に対してのみ刑罰権を行使するという二段構えの制度を導入したわけです。
そして、非反則行為とは、反則行為にはなじまないと思われる一部の道交法違反行為を抽出し、最初から刑罰を科す交通切符(赤切符)対象行為としたわけです。
ちなみに、非反則行為としてはどのようなものがあるのか、その具体例を示しておくことにします。


●自転車の前照灯無灯火●乗車積載方法違反●無免許・酒酔い等●安全運転義務違反●道路における禁止行為の違反(無許可道路使用等)●無資格運転
反則行為によって発生した交通物件事故

さて、これから、本題に入っていくことになるわけですが、
「道路交通法違反がなければ、過失は存在しない」。こう思っている人は意外と多いんです。一部事故担当者もその例外ではありません。

おそらく、保険会社が使っている過失責任割合認定マニュアル本「判例タイムズ」が、道路交通法違反を中心にしての過失認定資料となっていることが大きく影響しているのでしょう。

私のこれまでの経験からいっても、「こちらにも過失があるというのなら、どのような道路交通法違反があったのか明示願いたい」という要求に、「民法709条の過失責任は、事故回避注意義務違反行為の存在が認められれば存在することになるわけで、この注意義務違反行為は道路交通法違反行為があった場合に限られませんから、両者は別問題です」。このように論理的かつ明快に反論してきた担当者は過去において一人としていなかったですね。


具体的な違反を指摘できない場合は、安易に道交法70条の「安全運転義務違反」を持ち出してくる担当者がほとんどでした。いわく、「たとえ具体的な違反行為がなくても、現実に事故が発生している以上道交法70条の安全運転義務違反があったということに他ならないのです。」。事故とあまり縁のない一般ドライバ-が云うのであれば許せますが、事故交渉で飯を食っている事故担当者がまるで勝ち誇ったかのようにこのお決まりのせりふを口にすると、思わず「このどアホ担当者!しっかりと勉強せんかい!」と云いたくなるのです。

昭和48年4月19日最高裁は次のように明確に判示しています。
「同法70条後段の安全運転義務違反の罪が成立するためには、具体的な道路、交通および当該車両等の状況において、他人に危害を及ぼす客観的な危険のある速度または方法で運転することを要するのである。」。

ですから、事故担当者は、一方の当事者に安全運転義務違反を問う以上、現実に発生した事故現場において、当該当事者が
「他人に危害を及ぼす客観的な危険のある速度または方法で運転したこと」を具体的に提示しなければならないのであって、「事故が発生した」そのことだけをもって安易に安全運転義務違反を問うことはできないということなのです。

いずれにしても、民法709条は、「過失」行為によって相手に損害を与えれば賠償義務が発生すると規定しているだけで、交通事故の場合には、道路交通法に違反することが「過失」に該当するなどということは一言も書いてありませんからね。

示談交渉とは、いわば生存競争の場であり多分に相手との駆け引き行為のやり取りの場ですから、相手の無知に乗じて話を押し進めていくなどということはよくあることで、道路交通法違反を明示できない以上、当方には過失が存在しなかったということですよね、と相手にダメを押すなどということもよく使われる手法だということです。


道路交通法違反があれば間違いなく過失責任を問われる公算が大ということになりますが、道路交通法違反が存在しなくても過失責任を問われることは理論上ありうるということです。現在の判例の立場である事故回避注意義務に違反すれば過失責任ありということになりますからね。
そして、ここが重要な点なのですが、事故回避注意義務違反即道路交通法違反ではないということです。

この辺のところを、有斐閣双書・民法(7)は、つぎのように記述しています。

「取締法規と過失 ここで取締法規と過失の関係について説明しておく。…道路交通法のように、行政上の目的から、一定の行為を禁止したり、行為をする場合にはどのようにすべきかを定める法律を取締法規と呼んでいるが、この法規の定める行為義務に違反した場合、一応、過失があると考えられる。
しかし、取締法規は、一般的・概括的に行為義務を規定しており、過失の前提となる行為義務は、より具体的であるので、取締法規を守っていたら、過失がないとはいえず、いわば、臨機応変の処置が必要とされるわけである。したがって、場合によっては、取締法規に違反しても過失がないということも可能である(杓子定規な法規をはずれても、具体的状況下では、やむをえないこともある)。」(昭和53年1月30日発行版117頁)

そして、相手の過失責任の存在については、賠償損害請求側にその立証責任がありますから、相手方に道路交通法違反行為が存在すれば比較的容易かつ具体的に立証が可能ということになりますが、もし、相手の道路交通法違反行為を指摘できなければ、かなり抽象的な理論を展開しなければならないことになり、相手方を納得させるだけの具体的な立証は容易ではないということになるわけですね。

また、他方の当事者側からみたとき、ひとたび事故が発生すれば、広範囲に注意義務を怠ったと主張され、その過失責任を追及されることになれば、ほとんど結果過失ということになり、「お互い動いていたから仕方がないか」というあきらめの境地になるわけですね。

自動車運転という行為は、互いが交通ル-ルを守って運転するという信頼関係を前提としなければ一時たりとも安心して運転することができないという性質をもともと含んでいる行為なわけです。
だから、いちいち相手がその信頼を破って違反行為をしてくるかもしれないという前提の下にそれに対応する運転を他の一方に厳格に義務付けるとしたら、ひとたび事故が発生したとき、その予測対応義務に違反したとして過失責任を問われることは間違いないことになります。

自動車運転の性質から考えたとき、これは一般ドライバ-の常識とは大きくかけ離れているということで、昭和41年12月に、刑事過失責任否定の理論として登場してきたのが「信頼の原則」だったわけです。

互いにドライバ-は相手が道路交通法の規定を守って運転してくれるであろうと信頼して運転していいのだ。この信頼を破って相手が違反運転してくるであろうことまで予測してそれに対応しながら運転する義務はないのだ。義務がない以上、当然に事故回避義務違反としての過失責任は存在しないという、しごくもっともなドライバ-にとっては常識的な理論なのです。

その内容の詳細は、別のところを見ていただくことにして、この理論が民事過失責任否定の理論として今日においては裁判上確立しているわけですが、民事分野において、この理論は本当に市民権を得ているのかということになると、保険実務においていまだ保険会社がこの理論の採用を広く肯定していないために、判例タイムズの過失割合をめぐっての当事者間の争いが、間断なく続いているというわけです。


国家刑罰権の介入という刑事過失責任の分野においては、この信頼の原則は広く適用され、一方の事故当事者の権利を守るという方向が主流になっているということができると思いますが、民事過失責任の分野においては、たかだか金銭賠償の問題ではないかという認識が前提にあるためかどうか、この信頼の原則を厳格に適用して、一方の事故当事者を経済的不利益から守るという認識が希薄という現実は否定し得ないのではないかと私は考えています。

しかし、私がいつも強調する「法は不可能を強いるものではない」
という法格言は刑事責任・民事責任いずれを問わず共通するものであり、たかだか金銭賠償問題だからといって一方の当事者に実質的には存在しない民事過失責任を科すことがあってはならないわけです。

さまざまな交通場面において、一般ドライバ-の間に確立されている常識的暗黙のル-ルというものを、一方の当事者が不注意によって一方的に破ったときには、信頼の原則が適用され、予見可能性に基づく予見義務ないしは事故回避義務は存在しなかったとして、民事過失責任は否定されるべきであるというのが私の考え方です。


事故現場において、予見可能性が存在した以上、予見義務ないしは事故回避義務も当然のごとく存在したとの考えのもとで過失責任を無条件で押し付けることであれば、信頼の原則理論というものは一体なんのために最高裁で確立された理論だったのかということになりかねないということになるでしょう。


「信頼の原則」理論はいまだ民事過失責任の分野においては十分なる市民権を獲得できていないというのが私の結論ですが、一刻も早く、この理論が保険実務の中で確立されることが、事故における損害配分の真の平等性が確立される日であると確信するわけです。

交通事故電脳相談所というHPを開設している西川弁護士はその中で、つぎのように述べています。

「過失は道路交通法で決まるものでは無く、民法によって決まるからです。道交法上の違反の有無と民事上の過失は別次元の問題と(考えて)良いでしょう。
それでは民法はどのような基準で被害者側の過失の有無を判断するかと言うと『もっと良く、注意をしていたならば事故を避けることが出来たか』と言う基準です。
…あなたが、自分に過失が無い主張をしたいならば『自分がどんなに注意をしていても事故を避けることが出来なかった』と証明すべきでしょう。」


民法709条の過失責任は、損害を受けたと主張する側が相手の過失責任を立証することが必要となります。
そうすると、西川弁護士の上記過失表現を用いれば、実務において、契約者の示談代行を行う保険会社は、当然つぎのように主張して、無過失を主張する相手側の過失責任を追及してくることになるはずです。

「本件事故においては、当契約者の過失責任が大きいことは十分に承知しております。しかしながら、貴殿においても、もっと良く注意していればこの事故は避けることが可能だったものと思われます。
すなわち、事故現場の状況からして、本件事故の発生を事前に予見することは貴殿にとっても可能であったと判断されるからです。したがって、この予見に基づいて事故発生を回避するために、貴殿は○○という具体的な行為をなすべきだったにもかかわらず、不注意によってこれをなさなかったことが事故発生の一原因となっているものと思慮されます。よって貴殿にも○○相当の過失責任が存在するものと弊社は考えます。」。

まァ、ここまで明確な理論構成をたてて有過失を言ってくる事故担当者は少ないのですが
(ほとんどの場合、ただ注意義務があったと指摘するだけで具体的事故回避行為の明示がなされることはない)、問題は、この論法に対してどのように反論して無過失を主張するかということです。

私がよく引き合いに出す、裏通り住宅街を走行中、いきなり車庫から飛び出してきた相手車との衝突事故で考えてみましょう。

この事故形態においても、いつ民家の車庫から車が飛び出してくるかもしれないという予見は可能ですね。それでは、この予見に基づいて、道路走行中の運転者はどのような具体的回避行為をとらなければならなかったのか、ということです。

まず、予見可能な裏通り住宅街は走らない。これが、最善の回避行為ということになりますが、これは事実上不可能です。
そうであれば、過失責任を問われないためには、車庫の直前で停車ないしは最徐行して飛び出し車両のないことを確認するという事故回避行為をとる以外に方法はないということになります。そうすると、民家にはそれぞれ車庫があるのが通常ですから、その住宅街を通り抜ける間絶えず停車ないしは最徐行を繰りかえさなければならないということになり、車の走行そのものが不可能ということになりますね。車としての機能は用をなさず、歩いたほうが早いということになるわけです。

このことから明らかなように、現実の車運転においては、事故発生の事前予見は可能であっても、その予見に基づいて具体的な事故回避運転行為をすることが事実上できない場合が存在するということです。
この現実を無視して、互いに動いていれば互いに過失ありとして、双方に賠償責任を負わせている。これが保険実務の実態です。

また、事故現場状況からして、事故発生の予見は可能であり、この予見に基づいて回避行為をとることも可能であったと思われるような場合であっても、相手運転者が適切な運転をしてくれるものと信頼したうえで運転をすることが、社会的に相当と認められるような場合には、事故回避のための行為義務は存在しなかったとして過失責任を否定することは、判例上確立しているということです。

すでに説明した、いわゆる「信頼の原則」理論です。
この原則については、交通事故との関係において、西原春夫教授はつぎのように説明しています。

「『あらゆる交通関与者は、他の交通関与者が交通秩序にしたがった適切な行動に出ることを信頼するのが相当な場合には、たとい他の交通関与者の不適切な行動によって結果が発生したとしても、これに対しては責任を負わない』とする原則をいう、と定義される。」(成文刊・交通事故と信頼の原則14頁)

くり返しの説明にはなりますが、この原則は、昭和41年、最高裁において、刑事過失責任否定の理論として始めて確立され今日にいたっていますが、当然のごとく、民事過失責任否定の理論としても今日確立しているわけです。
論者の中には、民事責任否定の理論としてこの原則を安易に適用することには、被害者の損害救済が十分に果たされないおそれがあることを理由として、反対する立場をとっている学者も存在します。

しかし、事故原因を一方的につくった加害者の犠牲となった被害者の事故関与過失責任を否定する理論として、この原則を適用していくことはなんの問題もなく、むしろ、真に公正な損害配分に寄与することになるというのが、私の持論であるわけです。

私があらゆる場面で強調している
「法は不可能を強いるものではない」。
この法格言は、自動車運転の現実においては、当然の理として確立されなければならないル-ルであるということです。不可能なところに義務は存在しないわけですから…。

いま、保険実務は、@赤信号無視、A追突被害事故、B反対車線飛び出し事故等については、文句なしに100ゼロ事案としていますが、その他の事故態様においては、原則、
予見可能性のある事故として捉え、事前に事故回避行為をとることが可能であったとして、過失の存在を肯定しその責任をかたくなに追及してきます。

この保険会社の事故対応方針に対抗して、無過失を主張する契約者の権利を守るために活動できる代理店。まさしくそのような代理店であってこそ、自動車保険を得意分野とする専門職業人としての社会的地位を確立しえるのではないかと私は考えているのです。
(2010.9)