「信頼の原則」Q&A



Q-1
「信頼の原則は本来、刑事上処罰に値する注意義務違反の有無を決定する尺度であり、損害の公平な分担を目的とする民事責任になじまないといえる
 
<同志社大学藤倉助教授 交通事故の民事責任と信頼の原則(上)8頁>
この見解に従うと、民事過失責任を否定する理論として、信頼の原則を適用することができなくなるのでは…?


A.民事の過失責任を検討する場合でも、信頼の原則理論は適用でき、判例も認めるところです。
確かに、損害の公平な分担という観点から、民事責任においては、「過失相殺」ということが広く認められています。両当事者に過失が存在するということは、決して珍しいことではなく通常の姿です。

これに対して、刑事責任においては、過失相殺、つまり両当事者に過失が認められるということはなく、常に加害者側だけに過失があるかどうかが検討されることになります。
この加害者側に過失犯が成立するかどうかの判断に、この信頼の原則が検討されることになるために、双方に過失が成立する民事責任の検討に信頼の原則を適用できないのではないか、という疑問がでてくることになるわけですね。

しかし、民事責任においても、真っ先に検討されなければならないことは、一方の事故当事者に、民法709条の過失そのものが存在したかどうかということであり、その検討に際し、過失の存在を否定する理論である「信頼の原則」を導入することは何の矛盾もないと考えるものです。

検討の結果、信頼の原則が適用されることによって、一方の当事者の過失責任の存在が否定され過失なしとされた結果、他方の当事者に、発生した損害を全額負担させるという場合も、やはり損害の公平な分担といえるわけであって、そういう意味で、民事上の過失責任が存在するかどうかの判断に、信頼の原則理論が登場することになんら論理的矛盾はないものといえると思います。


刑法学者西原春夫氏(元早稲田大学総長)も、その著書(「交通事故と信頼の原則」・成文堂刊)の中で、次のように述べている。

「民事の分野においても、過失の相殺を論ずるより前に過失の有無を確定しなければならない場合のあることは、理論上も明らかであるし、実際上も多くの裁判例がこれを物語っている。…交差点での信号無視による衝突事故のようないくつかの典型的事故類型については、どのみち過失を否定するならば、単純に不可抗力といい切ってしまうより、信頼の原則を用いるほうが過失否定の根拠が明らかになってよいと思う。」(243頁)
                                             (平成19年9月6日)

Q-2
刑事責任の分野における信頼の原則適用は、過失犯として刑事責任を追及された被告人の過失責任を否定して無罪とするための理論だと思いますが、
そうすると、民事責任の分野にこの信頼の原則を適用するということは、事故加害者の過失責任を否定し、発生した損害の賠償義務なしとするための理論ということになるのでは…?


A.鋭い質問ですね。一応、そういうことが言えると思います。
事実、藤倉皓一郎・交通事故の民事責任と信頼の原則(下)17頁は、次のように述べています。
「民事過失の認定について、『信頼の原則』という被害者の法規違反を理由として加害者を免責する画一的な一般原則を持ち込む必要があるだろうか。」

また、西原春夫著・交通事故と信頼の原則243頁、「信頼の原則を適用することによって運転者または運行供用者の責任の範囲が次第に狭められていき、その結果被害者の損害のてん補に不備が生じてくる傾向になることは否定できない。……加害者の無責の範囲が拡がることによって、損害の公平な分担という観点から不合理を感ずるような場面が増大してくることは予想されるところである。」
等の記述から、民事の分野においても、加害者の過失責任を否定する理論として、信頼の原則が位置づけされていることを読み取ることができます。

しかし、現実の事故において問題となるのは、完全な被害事故であるにもかかわらず、損害の公平な分配の名の下に
過酷なまでの過失責任を追及される被害者の救済ということです。
●車道走行中、路外からのいきなり飛び出し被害事故
●住宅街走行中、車庫からのいきなり飛び出し被害事故
●優先道路進行中、交差わき道からのいきなり飛び出し被害事故
これらの被害事故における被害者側の過失責任を否定する理論として、信頼の原則が積極的に適用されてしかるべきなのです。

しかしながら、加害者の救済ではなく、
事故被害者の救済という観点から、民事責任の分野において「信頼の原則」理論を積極的に適用すべきことを明らかにした文献には、いまだ出会ったことはありません。

もし、民事責任の領域において安易に信頼の原則理論を適用することにより、加害者の賠償責任の範囲が縮小され、被害者の救済上問題があることを危惧する立場の人間がいるとしたら、交通事故の現場の実態をよく認識していないといわざるを得ません。

むしろ反対に、被害者ドライバ-を救済するためにこそ、この信頼の原則理論を積極的に適用しなければならないのです。
現実の事故現場においては、加害者を救済しなければならないケ-スよりも、保険会社の判例タイムズ機械的当てはめ行為により、多くの被害者ドライバ-が過失相殺の名の下にいわれのない過失責任を押し付けられているケ-スが圧倒的に多いということです。

この実態を打破し多くの被害者ドライバ-を救済するために、この信頼の原則理論を積極的に適用することによって無過失故に賠償義務無しの結論を導き出すことになんの問題点があるのか。私は、なにもないと考えているわけです。
(平成19年9月7日)


Q-3
「信頼の原則」は、どのような事故の形態に適用されることになるのか。


A.相手が、異常な運転をしないと信頼して運転することが社会的にみて相当と判断される場合には、すべての事故に適用されると、一応いえると思います。 ただし、民事責任の領域において、この原則が適用される事故は、どのような場合においてであるか。このことを判示した判例の存在をいまだ確認しておりません。

信頼の原則が適用できると思われる具体的な事故事例を挙げるとすれば、
@双方ともに見通しがよい状況下、路外で停車中の車が、通過直前、急発進して道路上に出てきたために衝突した。
A住宅街走行中、車庫から突然車が飛び出してきたために衝突した。
B交差点内、右折のため右折シグナルを出して待機中の車が、突然発進したために、直進中の車に衝突した。

これらの事故を回避するためには、いずれも衝突地点からかなり前の位置において停車ないしは最徐行して走行しなければならず、かような回避行為をとることは理論的には可能であっても、現実に実行することは、車の持つ効用を完全に放棄することになるために事実上不可能だということです。

事故防止と車の効用の調和を保つためには、かような場合、相手運転者が異常な行動に出ることはないと信頼して走行する以外に他に方法はないということになり、この信頼を裏切って、たとえ事故が発生したとしても、衝突された側の運転者には信頼の原則を適用し、事故回避行為義務はなかったとして処理することが、発生した損害の公平な分配の見地からいっても、妥当な結論を導くことになると考えるものです。

なお、信頼の原則が適用されるかどうかの判断基準を判示したものとしては、平成18年11月17日の徳島地方裁判所判決をあげることができると思います。この判決は、刑事事件のものであるが、民事事件においても参考になるものと考えます。

この裁判の審理の対象となった事案は、乗用車が交差点を青色信号にしたがって直進通過しようとした際、その直前を赤信号を無視し横断中の自転車との間で発生した死亡事故であるが、判示のなかで、裁判所は、信頼の原則が適用できるかどうかの判断基準として、次の二点を検討すべきであるとした。

@本件事故が本件現場で通常生じうる交通事故の一般的傾向の中に含まれているか。
A一般的傾向の中に含まれているとして、被告人がこの傾向を認識していたか。

この二点が否定されれば、信頼の原則が適用されるとした。(参照資料-「速報判例解説-TKCロ-ライブラリ-」、神奈川大学・公文孝佳准教授のHPから)

この基準を具体的に表現すれば、
@当該事故が、当現場で通常発生する事故形態の一つであったか(客観的要件)
Aよく発生する事故形態の一つであることが肯定されたとき、そのことを運転者が認識していたか(主観的要件)
この二つの要件が否定されたとき、信頼の原則が適用されることになるとするものですが、客観的要件が否定されない限り、信頼の原則が適用される余地はないとするのは疑問であり、民事領域で信頼の原則を適用するについての多くの課題は、まだまだ緒についたばかりであり、今後の判例の蓄積に待たなければならないところが大きいといわなければならないと思います。
(H19.9.14)

Q-4
交通事故において、「信頼の原則」を主張するとき、具体的にどのような内容のものとして理解しておけばいいのか。

A.「信頼の原則」の一般的理解としては、西原春夫著・「交通事故と信頼の原則」(成文堂刊)14頁の記述が引用される例が多いと思われますので、これをご紹介しておきます。

「行為者がある行為をなすにあたって、被害者あるいは第三者が適切な行動をすることを信頼するのが相当な場合には、たといその被害者あるいは第三者の不適切な行動によって結果が発生したとしても、それに対しては責任は負わない」とする原則をいう。

では、実際の交通事故において、事故当事者の一方が、この信頼の原則を主張する場合には、具体的にはどのような内容のものとして理解しておけばいいのか、ということになると、おおよそ以下に述べた内容のものとして理解しておけばいいのではないかと思います。

「一方の事故当事者が車を運転して事故現場を通行するに際し、他方事故当事者が道路交通法等の法規を守り適切な運転をしてくれるものと信頼することが社会的にみて相当な場合には、たとえ相手運転者がこの信頼を裏切り違法な運転をすることによって事故が発生したとしても、相手を信頼し法に基づいて適切な運転をしていた一方の当事者は、過失責任を問われることはない」とする原則。
このように理解しておくことになろうかと思います。
(平成19.9.15)


Q-5
事故態様として多い、信号機のない交差点における一時停止を無視した事故
「信頼の原則」を適用した
判例を探しています。
教えてくれませんか。







事故状況

事故現場は、周囲が田で、両車間相互の見通しを妨げるものはなにもないきわめて見通しのよい交差点である。
普通乗用車を運転する被害者Aは、事故交差点の約100メ-トル手前から、左斜め方向にB運転の加害車(普通貨物自動車)が進行してくるのを認めていたが、加害車の道路に一時停止の道路標識があることを知っていたために当然一時停止をするものと考え、減速することなく時速30キロで交差点内に進入したところ、制限速度である時速40キロで一時停止せず交差点内に進入した加害車の右側面に被害車の前部が衝突した出合頭事故。

加害者Bの主張

当方には、時速40キロで交差点を直進通過しようとしたこと。また右方道路より接近中のA運転の車を発見しなかったことに過失があることは認める。

しかし、交差点の手前8メ-トルの地点で一時停止標識に気づいたが、交差点の至近であったため減速することなく進行したところ、直後にA車を発見したが、その直前を通り抜けることのほうが衝突を避けることができるものと判断しそのまま進行したものである。

Aは事前に本交差点の存在を知り、当方の接近を発見していたのであるから、徐行ないし減速させ、非常時には交差点手前で停止する等の措置をとるべきであったにもかかわらず、相手車が道路標識に従って一時停止するものと安易に速断し進入してきたのであるから、Aにも過失があり、その程度は40%である。


判決要旨(昭56.5.29 前橋地裁判決・交通民14.3.660)

被告(加害者B)は過失相殺を主張するけれども、被告車が道路標識に従って一時停止をしたならば本件事故の発生を避けることができたものであることは、前示の事実関係に徴し明らかであるところ、原告(被害者A)は、被告が右標識に従わない違法の運転をすることなく一時停止をするものと信頼して原告車を進行させたのであるから、過失があるとはいえず、右被告主張は理由がない。

(H22.11.11追加)
以下に続く