抽象的過失とは



太郎
:今回は、民法709条に規定する「過失」の意味について少し掘り下げた検討をしてみることにしましょう。
花子さん。まず復習の意味で、民法709条とはどういうことを規定した条文だったのでしょうか。


花子
:私達は、いろいろな人たちと接触して日々の生活を行っているわけですが、その社会生活活動の中で、ときとして他人に何らかの損害を与えた場合、その与えた損害を賠償しなければならない場合を規定したものが709条です。

つまり、自らの故意・過失行為によって、相手の権利を侵害し損害を与えた場合にのみ損害賠償義務が発生することを明らかにした規定が709条なのです。この規定があることによって、どのような行為によって他人に損害を与えたときに賠償義務が発生するのかということが事前に分かるわけですから、人は行動の予測を立てることができることになり、安心して社会の中で活動していくことができるというわけです。実際この規定があることで、経済社会は今日まで大きく発展してくることができたわけです。


太郎
:分かりやすい説明ですね。
自らの故意・過失行為によって他人に損害を与えたときだけ損害賠償義務が発生する。逆に言えば、故意・過失によって権利(法律上保護に値する利益)を侵害した場合でなければ、どんなに社会的・道義的に非難を受ける行為による場合であっても賠償義務は発生しないというわけです。

朝、出社してきた部下が上司にあいさつをしなかった。とんでもないやつだと上司がいくら腹の中で思っても、部下のあいさつがなかったことで不愉快な気分を味わった。だから精神的慰謝料を部下に請求するというわけにはいかないわけです。上司に対してあいさつをしなかったことは、社会人として非難される行為かもしれませんが、「あいさつを受ける権利」というものはそもそも存在しないわけですから。


ところで、花子さん。故意行為によって他人の権利を侵害したかどうかという問題は、刑事の世界と民事の世界とでは大きく異なるといわれていますが、これは具体的にはどういうことでしょうか?


花子
:はい。犯罪行為と刑罰の関係を定めた法律(刑法)の世界では、国家刑罰権の行使がなされるのは、「故意」行為によってなされた場合を原則としています。ですから、ある行為が故意によってなされたのか否かということは、きわめて重大な問題となってくるわけです。

これに対して、不法行為と損害賠償の関係を定めた709条(民法)の世界では、故意か過失のいずれかの行為で他人の権利を侵害した場合に損害賠償義務が発生するとしていますから、基本的には、故意行為によってなされたかどうかということをことさら問題にする必要はないということになるわけです。



太郎
:故意とは、小学生にも分かる言葉で言えば、「わざとやった」場合ですよね。結果の発生を十分に認識・予測していたにもかかわらず、その発生を意識してやったとか発生してもかまわないと思ってやった場合です。
このように、故意は、自らの明確な意思によってなされる場合ですから、自らの行為からでた結末に責任をとらなければならないというのは、ごく当たり前の話だということです。

問題は、過失です。この場合には、自らの意識しない行為(不注意)によって結果が発生した場合ですから、その不注意を意識して行動するということはありえないわけです。それゆえに、それだけことは厄介ということになるわけですね。結果を発生させたくてやったわけではなく、間違って結果を発生させてしまった場合ですからね。ところで、花子さん。現在の判例実務は、民法709条に規定する「過失」をどのように捉えているのですか。


花子
:はい。判例は、過失行為を外部に現れた客観的な行為である「結果回避注意義務違反行為」だとしています。結果発生防止のためにいかなる注意義務行為がなされるべきだつたのか、このことを検討して過失があったかどうかということを判断するということです。
ということは、論理的には、結果発生を予め予見することが可能であった場合でなければならないことになり、この可能性に基づいて発生した予見義務から、結果発生を防止するためにはどのような結果回避行為をしなければならなかったのかということが、具体的な行為となってでてくることになりますからね。

このことについて、学者はつぎのように述べています。
「過失が存在するためには、行為者が行為にあたって注意しておれば損害結果を予見できたこと(予見可能性)も必要となる。なぜなら、結果発生について予見可能でなければ、行為者には、当該状況において構ずべき回避義務の内容が分からないからである。…このように、過失を予見可能性(ないしは予見義務)と損害回避義務の二つの要素を含むものとするのが通説の立場である。すなわち、結果発生について予見が可能な場合にそれを回避すべき義務が行為者に課せられ、それに違反して損害を発生せしめた場合、過失ありとして賠償義務が生ずるのである。」(立命館大学法学部教授・吉村良一著、有斐閣刊「不法行為法」より)


太郎
:保険会社事故担当者の多くは、この予見可能性にもとづく予見義務が存在したことのみをもって、短絡的に「過失あり」と早断しているわけです。
そして、ここからが重要なのですが、予見義務が存在したことを前提としたとき、結果(事故)回避注意義務に違反していたかどうかという検討は、二段階の過程を検討しなければならないということです。

どういうことかというと、まず、予見義務の存在に基づいて、事故回避行為をとることがそもそも現実に可能であったかどうか、ということが真っ先に検討されなければならないということです。義務は可能であることを不可欠の前提としているからです。この可能性が肯定されて、はじめて、事故回避義務行為を行為者として可能な限り行ったのかという局面に移行していくわけです。

現実の事故において、事故当事者と事故担当者との見解がしばしば大きく食い違ってくるのは、上に述べた理屈を担当者がよく理解していないことから起きてくるわけです。


花子
:ところで、上に紹介した吉村教授は、つぎのような注目すべき意見を述べています。
「社会においてはその活動の有用性を理由に損害発生が予見できてもあえて行うことが社会的に許容されている活動(刑法にいう「許された危険」)があり、このような活動によって損害が発生した場合、予見が可能なケ-スであったからといって常に過失ありとすべきではないと考えるのか、予見可能ならばその行為を取り止めることにより回避はつねに可能だと考えるのかである。確かに、社会においては、被害の発生がかなりの程度予見できても、なおその行為をなすことを許容しなければならない場合が存在する。」(上掲66頁)


太郎
:なるほど。自動車運転は、まさに、危険な行為の一つではあるが社会生活にとっとは不可欠有用な行為でもあるわけであり、予見が可能であったからといって、つまりは予見義務が存在したからといって、発生した事故損害行為のすべてを違法行為として反社会的行為とするという結論は、とうてい受け入れ難いということになりますね。

予見可能であっても、裏通り住宅街をドライバ-としては走らざるを得ないわけであって、この場合、車庫から突然飛び出してくる車に対して事故回避行為をとることは事実上不可能ですからね。事故回避行為をとることのできない事故に対しては何の回避義務も存在しないという当たり前のル-ルが確立されて、はじめてすべてのドライバ-を納得させることが可能となるわけですね。


花子
:道路交通法には、運転者の義務としていろいろな禁止行為を規定していますが、この規定に違反することがなぜ即過失ありに結びつくのか、いままで論理的に説明することが、私の頭の中で整理できていなかったのですが、吉村教授はこのことについても明確に説明しています。

「損害発生の危険性の高い行為については、法規や慣習、さらには社会通念等により、損害発生を防ぐための一定の行為パタ-ンが定型化されていることがあるが、そのような場合には、その行為パタ-ンに反した行為により損害を発生させた行為者には予見可能性を問題とすることなく過失が認められることがある。例えば、自動車運転に関する各種の義務や医療行為における確立された定型的な治療方法等である。したがって、信号のない交差点で一時停止を怠って損害を発生させた場合、一時停止を怠ったことをもって直ちに過失が認定されることになる。定型化された行為パタ-ンからの逸脱が損害を発生させる危険性が高いことから、結果発生についての具体的な予見可能性がなくとも…過失が認められる例外と言えよう。」(上掲64頁)。


太郎
:なるほど。そうすると自動車運転の場合でいえば、相手保険会社から過失ありと指摘されたときには、まず、道路交通法という取り締まり法規のどの規定に当方側が違反していたのかということを、相手保険会社に対して明確に提示するよう要求することから、交渉を始めなければならないということになりますね。

この点で、よく引き合いにだされる例が、先ほど少し触れた裏通り住宅街を走行中、住宅内車庫からいきなり路上に飛び出してくる事故です。このケ-スでは、ぶつけられた側が法定速度を守り前方をいくら注視して走っていても防ぎきれない事故の場合がほとんどです。
それでも、業界の過失責任割合のマニュアル本「判例タイムズ」に機械的に当てはめて20:80という基本過失割合を提示してくるのが実務の実態です。

そもそも、この事故は、道路外出入り車と道路直進車との事故形態ですが、タイムズが「(直進車が)通常の注意義務を尽くしていれば、道路外出入右左折車があることをその合図や速度の変化等により認識することが可能」(判例タイムズ176頁)であることを前提としたものであるから、「基本割合においては道路外出入車が法定の合図等を履行していることを前提として直進車に軽度の前方注視義務違反があることを含んでいる。」(同頁)と明記していることからして、住宅内車庫から何の前触れもない突然の飛び出し事故にこの事故類型を適用することは想定していないにもかかわらず、何の違和感もなくこの種の事故に対しこの事故類型を適用してくる、それが保険実務の実態なわけです。


花子
:これでは、被害者となった直進車の運転者は納得できないですよね。
裏通り住宅街を走行するドライバ-は、いつ住宅内車庫から車が急に飛び出してくるかもしれないということを予見して運転することは可能であり、したがって予見義務も存在しているということになるのでしょうが、現実の問題として、この予見可能性および予見義務にもとづく具体的事故回避行為である各家の車庫直前での一旦停車ないしは最徐行をすることは、車としての機能を完全に停止することになりますから、現実には、事故回避行為をとることが不可能な事故の典型的例ということができるのではないでしょうか。


太郎
:そのとおりだね。
そもそもこの予見可能性に基づいて要求される予見義務について、予見可能性があれば常に法律上の「予見義務」が存在したことになるのか、ということが事故回避注意義務の前提として議論されるべきだと考えるのですが、これについて述べた学者は、私の知る限り存在しませんね。

それとも、予見可能性があれば、結果を発生させないように注意する義務が行為者にはあるわけだから、無条件に予見義務も存在したことになるのでしょうか。




さて、それでは、いよいよ今回のテ-マに移っていくことにしましょう。
民法709条に規定する「過失」とは、予見可能性を前提とした事故回避注意義務違反であることは、これまでに説明したとおりですが、では、予見可能性及び予見義務からでてきた具体的な事故回避義務行為に違反していたかどうかということの判断は誰の能力を基準として考えるのかということです。具体的には、事故を起こしたドライバ-自身か通常の一般的ドライバ-かということです。
花子さんはどちらだと考えますか。


花子
:ウ〜ン。
現実に起こった事故は具体的に判断しなければならないわけですから、ここはやはり、事故を起こしたドライバ-自身を中心として、彼の能力だったら、彼女の能力だったら、事故発生防止のためになすべき行為をすることができたにもかかわらず、結果してやらなかった。だから過失あり。こう考えるのが正当であるような気がするんですが…。


太郎
:そうすると、現実に事故を起こしたドライバ-が、80歳近くの高齢者であった場合とタクシ-運転手などのプロとでは、判断が異なるということになりますね。高齢者であれば義務違反行為かどうかの判定は緩やかになる一方で、プロ運転者の場合には判定がより厳しくなることになりますね…。プロ運転手のほうが過失責任を問われる可能性が高くなる、こういう結果になります。


花子
:そういうことになるのですか…。でも、それでも、現実に発生した事故を具体的に解決するためにはやむをえないと思うのですが…。


太郎
:通説・判例は、709条の「過失」は、当該行為者の能力ではなく、抽象的な一般標準人の能力を基準として判断するとしています。
ですから、交通事故でいえば、標準的な一般ドライバ-を基準として、当該事故回避行為をなしえたかどうかで過失の有無を判断することになるわけです。一般標準ドライバ-からみて当該回避行為をなしえたにもかかわらずその行為をせずに事故が発生したならば過失ありと判断され、その一方で、当該行為をなしえなかった・不可能であったと判断されれば、個人的にはたとえなしえた場合であっても、過失なしとするわけです。

このように、事故回避行為をなしえたかどうかの判別を一般標準人の能力を基準にして判断する立場は、標準人を基準として過失の有無を判断することになるから「抽象的過失」と呼んでいるわけです。これに対して、「具体的過失」は、当該行為者の個別的・具体的能力を基準として過失の有無を判断する立場であるということは容易に理解しえるところだと思います。


花子
:なぜ、通説・判例は、「抽象的過失」の立場をとったのでしょうか。


太郎
:まず、考えられることは、「抽象的過失」の立場をとったほうが、過失の立証が容易となり被害者にとって有利となるからです。これが、まず実利的な理由です。
実質的な理由としては、次の点が挙げられます。社会共同生活を営む以上、互いが、標準人・一般人として課せられた行動基準を守って行動してくれるものと信頼しなければ共同生活は円滑に成り立っていくことはできず、相手方の個別的な特別の事情によって、被った損害の回復が左右されるということになると、円滑な共同生活というものは大きく阻害されることになるのは明らかです。だから、不法行為成立の要件として求められる過失の有無も、一般・標準人を基準として判断しなければならないということになるわけですね。

そして、この実質的理由は、いわゆる「信頼の原則」につながっていくことになるわけです。
自動車運転においては、互いに相手方ドライバ-が、一般ドライバ-として求められる運転義務を守って運転してくれるものと信頼しなければ、運転そのものが危険を伴う行為であるだけに一歩たりとも運転ができないことになる。したがって、相手ドライバ-の標準的な運転義務を逸脱した異常な運転をすることまでを予測して運転する必要はなく、こちら側が一般ドライバ-に求められる標準的な運転義務を守って運転している以上、発生した損害に対しての過失責任は生じない、という考え方が「信頼の原則」といわれるものなのです。


花子
:ところで、民法上の過失は、この「抽象的過失」と「具体的過失」の分類のほかに、「軽過失」と「重過失」という分類もなされるということを聞いたのですが…。


太郎

:その通りです。
過失は注意義務違反の程度によって重過失(重大な過失)と軽過失とに分類されます。
重過失とは、結果回避注意義務違反が著しい場合、判例によれば「わずかな注意さえ払えば結果発生を容易に予見ないし回避しえたにもかかわらず漫然と見過ごした」場合をいうとしています(最判昭和32)。
これに対して、重過失に至らない通常程度の過失を軽過失ということになります。

もっと分かりやすく表現すれば、「重過失」とは、一般通常人ならば当然に気づいてなしえないであろうと思われる注意義務に違反して結果を発生させてしまった場合であり、「軽過失」とは、一般通常人だれでもなしうる可能性のある注意義務に違反して結果を発生させてしまった場合であるということができると思います。

民法典上、重過失の文言があるのは、95条(錯誤)・470条(指図債権)・698条(緊急事務管理)くらいのもので、民法典上の過失はそのほとんどが軽過失を意味することになりますが、重過失かどうかが特に争われる重大な局面は、民法709条(不法行為)の特別法である、「失火法」(失火の責任に関する法律)においてです。
この法律は、失火責任は軽過失ならば損害賠償義務は発生せず、重過失の場合にのみ損害賠償義務が発生すると規定していますから、実際の失火原因が重過失によってなされたのか軽過失によってなされたのかということは、きわめて重大な意味をもってくることになるわけです。


花子

:そうすると民法709条の不法行為における「過失」とは、「抽象的軽過失」と理解していいのでしょうか。


太郎

:その通りです。
ですから、交通事故における事故態様ごとの過失責任割合を記載した「判例タイムズ」は、あくまでも、標準的な一般ドライバ-の通常の過失(軽過失)を基準として作成されたものであるということです。


花子
:というと…。


太郎
:つまり、通常の過失とは評価し得ない過失によって事故が発生した場合には、過失責任割合に修正を入れるのは当然のこととなり、事実、タイムズは、「著しい過失」「重過失」という過失修正要素を取り入れて過失責任割合を調整しているわけです。

たとえば、日常ひんぱんに発生する裏通り信号機のない交差点で一方に一時停止規制がある出合い頭衝突事故。タイムズは、この事故類型の基本過失割合について、両車とも同程度の速度の場合20:80になると記載しています。まず、この基本過失割合は、双方とも標準的な一般ドライバ-の事故回避行為能力による通常の過失を想定した場合のものであることを押さえておかなければいけません。

であるならば、一時停止違反をして交差点内に侵入した側のドライバ-の事故発生予見可能性に基づく予見義務から導き出される事故回避のためにとらなければならなかった行為とは、交差点内に進入する前に一旦停止し左右の安全確認をした上で進入しなければならないという行為であり、この行為は一般ドライバ-であれば当然になしうることが可能であるにもかかわらずこれをしなかった、だから過失ありということになるわけです。

では、一時停止標識にまったく気づくことなくノンストップで交差点内にいきなり進入した場合はどうでしょうか。この場合、はたして通常の過失といえるかということです。
このノンストップ交差点内侵入行為は、事故発生の可能性が極めて高い危険な行為であり、一時停止標識を完全に見落とした結果、一時停止による左右の安全確認を行うという事故回避のための行為をなさなかった注意義務違反の著しい場合に該当し、 つまり、一時停止標識を見落として、そのままノンストップで交差点内に進入するなどという行為は、通常の平均的なドライバ-ならするはずもなく、したがって、平均的なドライバ-の一般的注意義務違反(軽過失)の程度を超えた注意義務違反(重過失)と評価しうるということで「重過失」に該当することになるはずです。

なぜなら、民法上、軽過失に該当しなければ必然的に重過失ということになるからです。ただし、タイムズの場合には(つまりは判例法上は)、軽過失よりは注意義務違反の程度が重いが重過失までには至らない中間的な過失として「著しい過失」というものを設けており、この過失に該当する場合として「前方不注視の著しい場合」を例示としてあげていますから、すくなくともこの過失には該当することになるはずです。


花子
:なるほど、そういうことになるわけですか。
でも、保険会社事故担当者は、このようなノンストッブ事故態様であっても、なかなか「著しい過失」とは認めず基本過失割合の中にすでにおり込み済みという姿勢をとり続けているようですが…。


太郎
:保険実務においては、この辺のところは何の詳細な分析も行っておらず、機械的にタイムズ記載の基本過失割合を適用してくるわけです。まさしく「どんぶり勘定」査定に他ならないわけですね。
残念ながら、事故当事者にとって不幸なことは、保険会社事故担当者は、不法行為の基礎となる「過失」そのものを組織から系統たった法的知識として教えられていません。いまだに過失を予見義務違反と信じて疑わない事故担当者が数多く存在しているという事実がこのことを雄弁に物語っているといえます。
基礎力の重要性を認識しない実務優先の会社姿勢がいかに事故当事者側の権利を侵害しているのか、ということに深く思いをいたせば保険会社自体の会社運営方針は大きく変ってくると私は考えています。


花子

:契約というものは、本来、対等な者同士がみずからの自由な意思にもとづいてその取り決め内容を確定して合意するというのが本来の姿ですが、自動車契約において、保険会社と契約者側が対等な保険知識をもっていることはありえないわけで、そのために、代理店という存在が大きな意味をもってくるわけですね。
その代理店がどちらの方向に目を向けているのか。保険会社側かそれとも契約者側かによって、契約者側に与える影響は大きなものとなってくるわけですよね。

そういう意味において、いま太郎さんが述べたようなことをよく理解・認識している代理店にめぐり合えるかどうかということは、契約者側にとって利害に直結する問題だけにきわめて重要なことになるわけですが、そのような代理店を見つけ出す術(すべ)を契約者はもっていない。これが現実なわけです。


太郎
:その通りだね。保険会社の監督官庁である金融庁あたりは、真に消費者・契約者の利益保護という立場での行政をおし進めていくならば、こういった根源的な問題に一段と鋭い目を向けて欲しいものです。
金融庁のお役人も家庭に帰れば一人のドライバ-の立場になるわけで、究極的には自分自身の問題でもあるわけですからね。


花子
:本日はいろいろと勉強になりました。ありがとうございました。

                                              (平成18年6月24日)