いきなりですが、「物」とはなにか。
これについては、民法85条がつぎのように規定しています。「この法律において『物』とは有体物をいう」。
では、有体物とは何か。これについては、民法は具体的に規定していませんから、法解釈をもって明らかにしていくしかないわけです。「有体物」とは、固体・液体・気体のことだと解するのが従来からの一般的な考え方です。
もともと、法制定者が、人が支配・管理するのにふさわしい対象となるもの(所有権の対象となるもの)として、物を姿・形のある有体物に限定したことを考えたとき、有体物とは固体・液体・気体とする通説的見解が出てきたわけです。
しかし、支配・管理可能なものは、別に固体・液体・気体だけではないだろう。電気・熱・光などのエネルギ-や発明・著作物などの精神的所産物、また特定の他人に何かをさせること(債務関係)などのように姿・形のないものだって支配・管理はできるじゃないか、ということになって、現在では、有体物とは、「法律上、排他的に支配することができる可能性のあるもの」と拡大解釈する見解が有力になってきているわけです。
法制定者が、物を有体物に限定し無体物を含まないとしたことによるつけが、いろんなところででてきているというわけです。まぁ、ここは民法の勉強の場ではないのでこれくらいにしておきましょう。
さて、自動車。これは固体ですから文句なしに民法上の物ということができます。
ところで、奪い合いの可能性ある物は、一つの例外もなく、だれか特定の人(生きている人間・法人)の所有物になっていなければならない。
この民法上の大原則をはっきりと説明しているのは、不思議なことですが、私の知る限り、中央大学名誉教授「沼正也」をおいてほかに一人としておりません。
私達がなんの意識もすることなくあたりまえに吸っている空気。なぜ空気は誰かの所有物になっていないのでしょうか。奪い合いの可能性がないからです。
手元にある「口語民法」(自由国民社刊)は、人が支配できない存在(宇宙のかなたの星)や、経済的な価値のないもの(空気など)は、権利の対象とはならないので、民法上の物ではない、と説明していますが、もっと、正確に言えば、争奪の可能性ない物は、民法上の物ではない。これが正しい考え方といえます。
では、なぜ、争奪の可能性ある物は、一つの例外もなく誰か人の所有物になっていなければならないのでしょうか。争奪の可能性あるものを外界に放置しておくということは、必ず力の強い者が独り占めするに違いありません。腕力のある人、お金のある人…等の一人占め。独占支配。
つまり、結果として国が力による争奪を自ら容認したということになり、その結果、経済的強者と経済的弱者という二分化が必然的に生じ、互いの平等性・独立性がおかされ、自由というもっとも根源的なものが失われることになるわけです。
フランス革命を契機として登場した市民社会の法たる民法は、社会を構成するすべての市民に対して独立・平等・自由という特性を与え、互いに対等な市民同士が自らの自由な意思にもとづく話し合いの結果、合意に達したときのみ、所有する物をAさんからBさんに移し換える(帰属換え)ことができるとして、話し合いによらない力を用いた一方的な移し換えを反社会的無効な行為としたわけです。
このような民法を運営する近代国家は、この民法の大原則を自らが破ることがあってはならないわけです。その意味で、争奪の可能性あるものを放置することは許されないという理につながっていくことになるわけです。
自動車は物。この物である自動車を一時たりとも放置しておくことは許されないわけで、この物である自動車は、必ず誰かの物になっていなければならないわけです。この誰かの物になっている自動車をその人の「財産」と呼ぶわけです。人に結びついている物、それが財産というわけです。
多くの保険会社事故担当者は、「財産」という基本的概念を理解していません。
ですから、格落ち・全損時の車両買換え費用・代車における、被害者側の損害請求に対してピントのボケた場当たり的な回答しか出てこないわけです。
いずれの場合も、財産である自動車の所有権を侵害したことによって生じた自動車という財産に対する損害は、事故によって契約者側が与えた損害であるからこれを賠償しなければならないという認識は、まったく持ち合わせていないわけです。
「格落ち」(評価損)
財産である自動車の所有権を侵害した結果、財産である自動車の市場における交換価値の減少(財産の目減り)という損害を与えたという認識がまったくないために、「格落ち請求は、新車・初度登録3ケ月以内の車にかぎって認めている」などという、何の根拠にもならないピントのボケた回答が出てくるわけです。
「全損時車両買換え諸費用」
財産である自動車の所有権を侵害した結果、財産である自動車を自由に使用することができなくなった、という損害を与えたのだから、元通り自由に車に乗れるようにするための原状回復に要した諸費用を賠償しなければならない、という認識に欠けているために、「代替車購入に伴う諸費用については、事故がなくても次の買換えの際にいずれ必要となるものであるから、損害賠償の対象とはならない」などというピントボケもはなはだしい珍妙な回答が出てくることになるわけです。
「代車費用」
財産である自動車の所有権を侵害した結果、財産である自動車を自由に使用することができなくなったという損害を与えたのだから、修理期間中は、他の代替車によって、その損害を過失責任割合に応じて穴埋めしなければならない、という認識がないために、「代車は貴方にも過失があるので出せません」などという何の根拠もない回答が出てくるわけです。
いかがでしたか、争奪の可能性ある物は必ず誰かの所有物になっていなければならないということ。
そして、自分の所有物に対しては、煮て食おうが焼いて食おうがおいらの勝手という、その所有物をすきなように支配することができるという権利が当然にくっついているということ。所有物に対する全面的支配権、それが所有権。
この基本的なことを理解するだけでも、保険会社の理不尽な対応に理論整然と応戦できるのではないでしょうか。(平成18年5月20日)
新車登録から1ケ月後の被追突被害事故。修理費21万円。当然のごとく格落ち損害(評価損)の問題が生じてくることになる。修理費の20%を支払うとしてきた保険会社に、修理費20%支払い基準根拠資料の提示を求めたところ、保険会社はつぎのような書面回答をよこしてきた。
裁判例において用いられている基準に照らし合わせると、おおよそ、修理費の10〜30%で認容されており、車体の骨格部位に大きな損傷があることを大前提として、その程度によって判断されている。今回の修理内容確認から判断して内鈑骨格部位に損傷を受けているとは認めがたく、上記判例に照らせば格落ち損害は認容できないと判断される。しかし、新車登録から1ケ月、被害者の心情を考慮して極めて例外的に修理費の20%を支払うことにしたのであって、いわば合理的根拠のない示談ベ−スの提示であるから、20%支払い提示の根拠となるような資料は存在しない。
社内基準に基づいて修理費の20%を支払うことにしたとは言えないから、このような表現になったと考えられるが、この保険会社書面で押さえておかなければいけない点は、「車体の骨格部位に損傷を受けていなければ、判例の立場から格落ち損害は認められない」と断定していることだ。はたしてそうか。判例はそのように判示しているのかということだが、これは明らかに間違っている。判例は、骨格部位に損傷を受けていなくても格落ち損害の発生を認めているのだ。
平成7年7月31日横浜地裁判決はつぎのように判示している。
「修理の内容はフロントバンパ-及びヘッドランプ左の脱着、フロントフェンダ-左及びエンブレムの交換等であり、車体の本質的構成部分に重大な損傷が生じたものではないから、修理により原状回復がなされ、機能、外観ともに事故前の状態に復したものと認められる。しかし、事故歴ないし修理歴のあることにより商品価値の下落が見込まれることは否定できず、右評価損としては修理費の三割をもって相当と考える。」
また、平成20年12月15日東京簡易裁判所判決も、つぎのように判示して事故歴による評価損が発生することを肯定している。
「評価損については、@修理によっても技術上の限界等から外観や機能に回復できない欠陥が残存する場合と、A外観や機能は特に問題ないが、事故歴があるという理由で当該車両の交換価値が下落する場合が考えられ、いずれの場合についても、評価損として判断される損害を賠償すべきであると考えられる。そして、Aのような、車両の交換価値が下落したことによる評価損は、車両の所有者が事故によって評価損に相当する損害を潜在的に被っており、将来転売する可能性が考えられる場合には、当該車両を売却し損害として顕在化していない場合であっても、事故による損害を被っていると解するのが相当である。」
保険会社の事故担当者は、民法の基礎的知識である「物」と「財産」の区別が身についていない。有体物としての車と財産としての車はどこがどう違うのかが、まったく理解できていないのだ。
有体物の侵害と財産の侵害とはおのずと異なり、別個独立の損害となる。法理論上当然の道理を判例が追認したのが格落ち損害の問題といえるだろう。この両者の違いも理解せずして評価損の実務を取り仕切る担当者。その実態はお寒い限りで、多くの時間と労力が費やされる結果、迷惑を被るのは他でもない自己の財産を侵害された車の所有者ということになる。
このコラムがマンネリ化しないためにも、たまには趣向をこらしてみなさんにクイズ問題を提供したいと思う。
有体物としての車が「財産」と呼ばれるようになるのは、次のどれと結びついたときか。
@人 Aお金 B車検証登録
答えは、ほけん村HP「保険業界に横たわる諸問題ーその43」をご覧あれ。
結局のところ、新車登録1ケ月の軽乗用車格落ち損害。修理費の何%請求を保険会社は認めたのかというメ-ル問い合わせがきたので、これに答えておきたいと思う。根拠資料となる判例資料を提示してくれとのことであったので、これを提示したところ、保険会社は、対物総賠償額を提示し、この金額を支払うと意思表示してきた。その金額の中に、修理費30%の格落ち損害分が含まれていたことは言うまでもないことである。
うそみたいな話ですが、学界の権威者といわれている多くの学者の民法教科書のどのべ-ジを開いても、「物と財産との違い」やこの両者の関係等について分かり易く解説したものは見当たりません。
これでは、大学で法律を学ぶ学生はうかばれないな。こんな法律の基礎的重要事項を身につけることなく卒業ということになるのだから。
このような基礎的なことは司法試験をはじめとする各種国家試験には出ないし、実社会に出ても何の影響もないやネン。こうのたまわれる人も結構いると思いますが、基礎のできていない各種スポ-ツがすぐに限界が来るように、基礎が根底にない思考力及びその発展としての社会に対する洞察力というものもまた、何の奥行きもない薄っぺらい表見的なものに終わってしまうのではないのかな。
こんなことを考えてみたことはないですか。われわれが当たり前のごとく無意識に吸っている「空気」。
空気は誰のものでもありませんね。どうしてだと思いますか。それは吸うに任せても奪い合いの可能性がないからなのです。
ということは、奪い合いの可能性あるものは例外なく誰かのものにしておく必要があるということを意味するわけです。なぜだと思いますか?奪い合いの可能性があるものを国が放置しておくということは、必ず力による争奪合戦がはじまり、結局は腕力の強い者が全部奪い取ってしまうということを結果として国家自身が認めるということを意味するからです。
近代法は、すべての人間を独立・平等・自由な人間として把握し、個人の持つ自然的な力(腕力)というものを法的に認めないということを大原則としたので
す。自然的な力を認めれば、力の強い者が勝つに決まっているから当然独立が侵され、その結果平等性がくずれ、自由がうばわれることになるからです。
だから争奪の可能性あるものは一つの例外も認めず、必ず誰かのものとし、そのものを自然的な力で奪い取ることを国家的犯罪としたのです。あくまでも、Aさ
んの「もの」をBさんの「もの」にするという帰属換えは、AとBとの自由な話し合いによる合意のみによって可能となるようにしたのです。
日本一の山「富士山」だって争奪の対象となります。したがって必ず誰か所有者が存在するわけです。この誰かに属している「もの」を、その人の「財産」というわけです。
ところで、いままで、あえて「物」とは書かず意識して「もの」と書いてきました。
そのわけは、「もの」とは、有体物(固体・液体・気体)だけでなく、債務関係(特定の人に何かをさせること)や特許・商標・著作等の無体財産権である無体物をも含んだ意味で使ったからで、これらの無体物も立派な財産となりえるからです。
たとえば、あなたが、今現金100万円を持っていて、甲さんから先月働いた賃金10万円を支払ってもらえるということになれば、あなたは、現金100万円と支払ってもらえる賃金10万円の合計110万円の財産をもっているということになるのです。
現金は有体物、支払ってもらえる賃金は無体物というわけです。
ちなみに、下図の八百屋の親父さんが抱えている、人参・大根・なす・ネギなどは、親父さんの「財産」としての人参・大根…なんです。
(参照文献・沼正也著作集)
(平成16年2月28日)