過失の本質を知らずして過失を語る保険業界の滑稽さ
正直言って、私はこれまで、「過失」というものにつきその意味内容を十分に理解したうえで、自らの言葉で語りかけてきた業界関係者に出会ったことがありません。
民法という法律が、昨日まで赤の他人であった相手方に対し、一方的に自らのこうむった損害を権利として請求できる条件として、相手方に「過失行為」があったことを、最低限要求したわけですね。
逆に、損害を請求される側からすれば、この決まりがあることによって、むやみやたらに他人様から損害を請求されることはないのだという、ある程度の予測をして社会の中で行動ができるというメリットがあるわけですね。こういう一定のル-ルのもとで互いが人と交わり社会生活を営んでいく。そうすることによって、社会全体が発展していくことが可能となる。こういう流れになっているわけですね。
あるベテランの代理店に「過失」について質問したところ、こういう答えが返ってきました。
過失とは、不注意・過ちのことであり、故意ではない。わざとではないということだよ。これ以上でもこれ以下でもない。
いまさら俺にこんな基本的なことを聞いてどうするんだよという顔をしていました。
そもそも「不注意」とはどういうことなのか。「わざとではない」ということはどういうことなのか。この点についての掘り下げた認識がまったくないんですね。
何故、この過失の本質的内容を理解することが重要となってくるのか。
「過失」の中身を知らないということは、過失ではない行為(=非過失行為)との厳格な区別(峻別)ができないということ。
つまりは、損害賠償の対象となる行為とならない行為との峻別ができないということを意味することになるからです。
強制力の適用という法特有の世界では、どちらにもダブって属する・どちらにも属しないなどという甘い分類は許されないんですね。いずれに属するのか、白黒はっきりとしなければならない世界なわけです。
余談になりますが、この法における分類の重要性を早くから指摘している学者は、私の知る限り、現中央大学名誉教授「沼正也」ただ一人だけです。
沼教授は、次のように述べています。
「財産関係を規律する法の領域と身分関係を規律する法の領域とに民法の規律対象を分けることは、断じて分類の論理にかなったものではない。
たとえば人間は性という分類基準からして男と女とに分ければ分類の論理にかない、分類の論理にかなえば、人間という認識対象のいっさいが男・女にという分別せられた両域のいずれか一方にのみ脱落することも重複することもなくして捉えられ、そのことによって両者に対立的な法の効力を付与せしめうる。
もし男と女に対立的な効力を付与すべきでないならば男・女という分類は法の世界では許されず、男・女の統一次元である『人』概念で把握されねばならない。
財産に関する法、身分に関する法という捉え方では、人間を男と悪人とに分けるようなもので男たる悪人はこの分別の両域いずれにも重複的に属し女たる善人はこの分別の両域いずれにも属せずらち外に追いやられてしまう。
民法を財産に関する法・身分に関する法に分かってあやしもうともせず、分類と無媒介的に非統一的・非対立的あいまいに法の効力を付与する教授(筆者注:我妻榮教授のこと)の法の操作にぼくはどうしてもついていけなかった。」(沼著作集18巻・103頁)
「法の世界では、ほんらい的には区分できないものをさえも明確な二つの領域に分けざるをえないのです。この具体的に明確な二区分ということが、他の学問の世界に類のない法の世界の分類の特色をなすものであることをここで強く指摘しておきます。
たとえば、文学の世界ではおとな・子供とだけ表現すれば足りるのに、法の世界ではだれが見てもおとなであるか子供であるかはっきり一線を画したものとされていないわけにはいかないのです。
子供は酒を飲んではいけないと法が規定するとき、あの酒を飲んでいる男は、ある人の目からすればりっぱにおとなになっていると見え、他の人の目からするならば柄ばかり大きいがまだ子供だというふうであっては、飲酒を止めさせるという『強制』の出る幕がないことになります。
かくて、民法第3条は、『満二十年ヲ以テ成年トス』とぴしゃりと万人を対蹠的に二区分しているのです。
20歳に達した者は法的おとな、20歳未満者は法的子供というわけです。
ご承知のように、満20歳に達すると肉体的突然変異が生じておとなになるという、そんなふうに人間は生理的にできてはいないのです。じわじわと、おとなになっていくのです。
それを無理無体に二区分して、一方は酒・煙草の飲み放題、他方は一滴も罷り成らぬ一服も罷り成らぬとするのです。」(同198頁)
すこしでも、法における分類の重要性を理解していただければと思い、引用が長くなりましたが、
多くの法律学者ですら、いまだにこの分類の重要性に気づいていないという有様ですから、無理からぬ話といえばそれまでのことなのですが、この根源的な問題について、いまの保険業界は、なんらの問題意識も持ち合わせていないといってよく、低いレベルに甘んじて事足りるとしているわけです。
この業界に身をおけば、「過失」という言葉を聞かない日はないにもかかわらず、その本質的内容を理解せず、過失行為と非過失行為との峻別すらできない状態で業務を遂行しているという摩訶不思議。その摩訶不思議はいったいどうして可能となるのか。
この辺のところは、他のところで詳しく述べておきましたが、要するに、過失の本質を知らなくても日々の業務に支障が生じることはなかった。だから知る必要もなかった。こういう相互関係にあるのでしょう。
われわれは学者ではない。過失の本質を理解することは学者の領域であり、われわれ実務家は、過失とは過ち・不注意であると理解しておけば何ら不都合をきたさない。ということなんでしょう。
だから、保険会社発行の資料にも、「過失」とは「社会的に通常人に要求される注意を欠くこと」と簡明に説明されているだけ。それだけで事足りるという姿勢が示されているだけで、それ以上の説明は不必要というわけです。
「社会的にみて」「通常人に要求される注意を欠く行為」とは、具体的にはどういう行為をいうのか。また、どのような物差しで客観的に判断することになるのか。
この点についての問題提起がなされたことがないんですね。
このような業界関係者の過失に関する表見的な底の浅い理解の影響が、まともに契約者側に跳ね返ってくる。だから、事は重大となるわけです。
いま、保険会社は、日常茶飯事に大量発生する事故の「簡潔」「迅速」処理による保険金の早期支払いという社会的使命を全うするため、その手法として、いわゆる「判例タイムズ」という過失割合判定マニュアル本を使用し、この業界本を共通の土俵として、機械的流れ作業による事故処理を行っているわけです。
「判例タイムズ」。この本は、一民間の出版会社から発売されたものではあるが、保険業界においては、過失割合認定の権威書として不動の地位を築いています。
裁判官等が私人の立場で、過去の多くの判例をもとにして作成した事故類型ごとの基本過失割合及びその修正要素を記載した集大成本であり、実際の事故をこのマニュアル本に機械的に当てはめることによって、過失割合が即座に導かれることになっているのです。
この保険会社側の論理に基づく、判例タイムズマニュアル本への機械的当てはめ行為。
この最大の問題点は、実際に発生したほとんどの事故を、登載されている事故類型に無理にでも当てはめて、過失割合を認定していこうとする保険会社の姿勢そのものにあるのです。
なぜなら、このタイムズ事故類型は、事故当事者双方に何らかの道交法違反あり、よって事故回避行為義務違反=過失ありとの前提に立ったものであるからです。
だから、そもそも一方の当事者に過失なき場合は、このマニュアル本に当てはめることじたいが許されないことなのです。
にもかかわらず、「なんとかと味噌いっしょくたに」で、全ての事故をこのマニュアル本に当てはめて処理しようとする保険会社の事故解決姿勢。
その前提として当然に行わなければならない作業工程。賠償義務が発生する過失行為と発生しない非過失行為との峻別作業工程が見事にスッポリと抜け落ちているわけです。
この無条件な機械的当てはめ作業に終始する過程において、もはや保険会社は、過失行為と非過失行為との峻別機能能力を失ってしまったのではないのか。
実際、現実の問題として、各保険会社の事故担当者は、原点に帰って、つまりは、民法709条に帰っての「過失」の存在そのものを検証する作業は、一番の苦手とする分野となっているのです。
事故交渉過程において、ダイレクト自動車保険の事故担当者が言った「タイムズによらなければ、何を基準にして解決を図ろうとするのか」ということばは、もはや原点に帰ることすらも忘れてしまっていることを如実に物語っています。
まさしくこの部分に光を当てた業界関係人が一人も存在しないという摩訶不思議。これはけっして大げさな誇張的表現ではないのです。
過失行為と非過失行為との峻別作業を前提としないマニュアル本への無条件的当てはめ行為。
その結果は、実質的には非過失行為であるはずの一方の当事者に対して、過失行為有りとの強制認定を無原則に行っていることを意味しているわけです。
実質無過失当事者に強制的賠償義務を課す矛盾。これが表見化してこないのは、自らの身銭をきることなく、保険で填補するという実態があるからなのです。
民法709条に規定する賠償義務の発生要件となる「過失行為」とは、一体いかなる内容の行為であるのか。
そもそも、この過失の内容を分かりやすい平易な言葉で、しかも奥深く説明している民法学者等の書物は意外と少ないという事実。
このことも見逃してはいけないことだと私は考えています。何故もっと分かりやすい具体的な言葉での説明ができないのか。
あえて生意気なことを言わせてもらうならば、大学教授。その専門分野においてすら、その本質を見極めることもなく、また独自の理論をも展開しえず、多岐にわたる各説の内容を単に羅列説明するだけの解説者の域を一歩も出ていない学者が存在しているという事実。
真にその本質を見極め理解している学者は、町のおじいちゃん・おばあちゃんにでも理解してもらえるような分かりやすい言葉を使って説明ができるはずのものなのです。
民法709条の不法行為。その成立要件の一つである「過失」について解説した書物をいくつかここでご紹介しておくことにしましょう。
◆「民法2・債権法」(一粒社刊)(我妻榮・有泉亨著、水本浩補訂)
「不法行為が成立するためには、第一に、損害が故意・過失ある行為によって加えられることを要する(709条)…過失とは、法律上要求される注意を怠ったことである。不法行為の成立要件としては普通人ないしは標準人に要求される注意を怠った過失(抽象的軽過失)でよいと解されている。
…ある種の不法行為たとえば詐欺や強迫は故意を要件とするが、たとえば、財物や身体を傷つけた場合などは一般的に故意と過失の間に差異がない。そこから両者を含めて過失責任主義の原則といわれることがある。しかし、近時故意・過失は単純な心理状態ではなく、違法性を含む概念であるとする説が主張されている。この考え方によれば故意と過失の間、あるいは過失の態様の異なる場合などに、責任の有無や損害賠償の範囲について差異が認められることになろう」(409〜410頁)
この本は、通称「ダットサン」と呼ばれ、司法試験受験者にも愛読されているかなり売れ筋の書物ですが、
この本がいうように、「過失とは、法律上要求される注意を怠ったこと」といくら暗記しても、
「法律上要求される注意」とは一体どんな注意なの?「その注意を怠る」とは、具体的にはどういう場合をいうの?「過失は単純な心理状態ではなく、違法性を含む概念である」と説明がされているけど、具体的にはどういうことなの?といったことについては、一切明らかにされていませんね。
正直言って、この説明の程度ではよく理解できないな。なにかの試験を目指すため、意気込んでこの本に取り組もうとした人は、ここでパタッと止まってしまうことになるんではないでしょうか。
ごく普通の人間が、この本を読んで一気に過失の実質的意味内容を理解する。それははっきりいって無理ですね。そういう意図で書かれているとは到底思えない記述内容といわざるを得ません。
以下の書物は、原文のままご紹介します。その記述内容を素直に読んだとき、どれだけ無理なくみなさんの頭の中に「過失」概念のイメ-ジが湧いてくるのか。お楽しみというところです。
◆「民法W」(有斐閣刊)(早稲田大学法学部教授・藤岡康宏他共著)
「過失も、故意と同じように、行為者の主観的な意思の態様として、結果発生を知るべきであったのに不注意のためそれを知りえないこと、あるいは知りえないままある行為をするという心理状態として説明され、それがかっては通説的理解とされていた。このことは、意思の緊張の欠如に、過失責任の帰責根拠が求められていたことを意味する。」
「判例は、過失について右のような通説的理解をふまえた判断をしていたわけではなく、そこで問題とされていたのは主に、損害発生の防止に必要にして十分な注意義務を尽くしたかどうかという、客観的(行為=注意)義務違反の有無であった。
過失の重点が、行為者の意思の態様ではなく、行為の態様、すなわち、客観的義務違反の問題に転ずることを、過失の客観化という。」
「過失の客観化に異論はないとすれば、過失概念に対しては、それをふまえた定義が与えられればよいわけである。これについて学説では結果回避義務違反ないし損害回避義務違反といった言語的表現が用いられているが、これは、結果(損害)回避という注意義務の目的に重点を置いた定義の仕方であり、義務違反の態様を中心に据えるならば、(法的)作為不作為義務違反(有力説)を過失と呼ぶことも可能である。」
「過失における客観的義務違反は、…結果回避義務違反ととらえることができるが、過失の有無は、この結果回避義務違反のみで判断されるわけではない。
結果発生について予見可能性がなければ、当事者には、具体的状況において講ずべき回避義務の内容がわからず、またそれを要求するのも妥当とはいえないから、過失ありとされるためには、予見可能性のあることが当然の前提とされている(通説・東京地判昭53・8・3…)。
つまり、予見可能性があるにもかかわらず適切な措置を講じなかったがゆえに損害賠償責任を課すのが、過失責任の特徴である。…結果回避義務違反説は、このように、予見可能性プラス結果回避義務違反を過失とみている…」(243〜248頁)
◆「1000字式合格論文」(自由国民社刊)
「過失-自己の行為により『権利侵害』という結果の発生を認識すべきであるのに、不注意のため、その結果の発生を認識しないで、その行為をするという心理状態が過失であると説明されているが、実務では注意=行為義務違反を過失の中核にしている。また、学説は予見可能性、予見義務を重視するが、実務では結果回避可能性、結果回避義務を重視する」
◆「デバイス民法W」(早稲田司法試験セミナ-刊)
「結果回避のために適切な措置をとるべき注意義務に違反して損害を生じさせたときに、過失が認められると解する。なぜなら、結果予見は結果回避のために要求されるが、予見可能か否かで過失の存否を判断すると、現代社会での有用な行為はほとんど過失があるものとされてしまうからである。過失の認定は結果の回避可能性を中心に行うべきである。」
◆「民法(7)」(有斐閣双書)
「(過失とは)不注意すなわち注意を欠くこと、注意を怠ることであると学説上説明されている。もうすこし詳しい説明によれば、自己の行為により『権利侵害』という結果の発生することを認識すべきであるのに、不注意のためその結果の発生を認識しないでその行為をするという心理状態である、という。」
「Bが、横を通ったミニ・スカ-トの美人に一瞬気をとられて、ハンドル操作をおろそかにしたため、Aの店に突っ込んだとしよう。このとき、Bはハンドル操作という意思行為について、意思の緊張を欠いたわけであり、この点をとらえて、故意行為の場合とは異なるが、行為者の意思に非難すべき点があるとして、(過失責任ありとするのである)」
「裁判の上で、『過失』がどのようにとらえられているかを見てみよう。…
過去の代表的ないくつかの…裁判例…の判文から『権利侵害』の結果を回避するための処置をしなかったこと、しかも、それが義務違反としてとらえられていること、すなわち、『権利侵害』という結果回避の『注意=行為』義務に違反することが過失とされていることが読みとれる。」
「実務上は、予見しうべきものを予見しないという心理状態よりも(それも前提としているようだが)加害者の行為と法の命ずる行為との間にそごがあるということを「過失」としていることがわかる。
このように、学説でいう『過失』と実務でいう『過失』との差は、どうして生じたのだろうか。まず、学説は『結果の予見』を問題とするのに、実務では『結果の回避』が問題となる。
たしかに、われわれの日常の感覚からすれば、『過失』があるというのは、『こういうことをすれば、このような結果が起こる』ということをついうっかりして考えおとすといった場合である。しかし、そのような『結果の予見』ということが要求されるのは、結果を発生させないようにするためであるから、むしろ、端的に、結果回避ということを問題とする方が、適切であるというのが、実務の感覚なのであろう。さらに、『認識ある過失』も、『過失』のなかに入れるのだから、実務の扱いの方がよいということになろう。
さらに、予見可能性で過失の有無を判定するならば、われわれのまわりの行為は、ほとんど、『権利侵害』の危険性をもっているので、ほとんど過失ある行為ということになってしまうだろう。」
「学説は、『心理状態』を『過失』の核心とし、実務では『注意=行為』義務違反が核心とされる。このような差のできた理由は何か。…いくつかの推測が成り立つ。
…行為者の内心的な心理状態の立証は、非常に困難である(その立証責任は、…原則として被害者が負っている)。したがって、被害者保護のため、立証の容易な外的態度が、過失の中心になるということである。
…裁判というものは、相争う当事者に対し一定の結論を与えるもので、その結論を当事者に、特にその結論を不利益とする当事者に納得させなければならない。そこで、過失について、被害者が、『加害者は、あのとき意思の緊張を欠いて、ボンヤリしていた』と主張したとき、加害者が、『いや、私は、意思を緊張させて、結果発生防止のためこのような処置をちゃんとしていましたよ』と反論したとき、裁判所としては、『いや、加害者は、ボンヤリしていた』というだけでは、説得力がなく、『いや、その上に、このようなもっとよい他の処置もしなければならないのだ』という必要がある。ここで、行為義務ということが前面に出る。
…今日、われわれの生活は、他人の生活と非常に密接に結びついており、われわれの一挙手一投足が、他人に影響を及ぼす。そのような社会生活を円滑に行うためには、たんに『心的に緊張しておれ』というだけでは成果をあげられず、むしろ、『これこれの状況下では、こみのような行為をせよ』という、行為基準を示すことが有効であり、法の使命となる。そして、一方その行為基準を守っておれば、損害賠償責任は負わされることはないことになる。この法の使命が、…過失を通して果たされているのではなかろうかという推測である。」(106〜114頁)
◆「民法U・債権各論」(東京大学出版会)(東京大学法学部教授・内田貴著)
「主観的過失-過失とは何だろう。日常用語の過失とは不注意のことである。…では、不注意とは何だろう。
たとえば、寿司屋でアルバイトをしている法学部の学生Aが、自転車で出前に出たが、商店街の中を走りながら試験の成績のことを考えていて、ついハンドルを持つ手元が狂い、瀬戸物屋の店先にぶつかって茶碗が1個転がり落ちて割れた。この場合が、典型的な過失(不注意)の例だろう。」
「そこでいう不注意の内容は、ぼんやり自転車に乗っていたということであるが、誰もいない高原でぼんやり自転車に乗ることは不注意ではないから、正確にいえば、『狭い商店街で荷物を持って考えごとをしながら自転車に乗っていれば事故が起きることくらい分かりそうなものなのにぼんやりしていた」ということである。
これを法律的に表現すると、『結果の発生を予見しえたのに(予見可能性があったのに)、注意しなかったという心理状態(精神の緊張を欠いた状態)』ということになる(『ぶつけてもいいや』と思って乗っていたら『未必の故意』である)。」
「かつては『過失』がこのような心理状態として理解された(主観的過失)。このため、今日でも、過失は故意と並んで主観的要件に分類されている。しかし、このような理解に限界があることは容易に分かる。」
「客観的過失-たとえば、そば屋でアルバイトをしている学生Bは、出前に遅れそうだと思い、混み合った商店街の中をざるそば片手に猛スピ-ドで駆け抜けようとして、幼児に衝突して怪我をさせたとしよう。この場合も学生は不注意であったといえるが、不注意の内容は異なる。
Aの場合と違い、Bは、衝突を回避すべく精神を十分緊張させていた。それにもかかわらずBが不注意だと評価されるのは、混み合った商店街をそば片手に猛スピ-ドで自転車を走らせること自体が、不注意だったからである。」
「Bに過失があるとすれば、その内容は一定の心理状態のことではなく、すべきではない行為をしたという行為義務違反と理解することができる。
法律的な言い方をすれば、『損害の発生は予見可能であり、それを回避すべき行為義務があった(混み合った商店街を猛スピ-ドで自転車を走らせるべきではなかった)。それにもかかわらず、それを怠った』ということが、過失と評価されている。猛スピ-ドで走るBが内心でどのように精神を緊張させていようと問題ではないのである。これが、客観的過失である。」
「過失概念の変容-人々の社会活動に伴う危険性が増大するとともに、それぞれが自分の能力に応じて精神を緊張させていただけでは十分ではなく、むしろ通常人ならその程度の注意を払うだろうという水準の行動が要求されるようになる。すなわち、たとえ当該加害者が自分の能力のレベルで十分注意深く行動していても、通常人の基準で不注意と評価されるなら、過失があり、責任が発生することになるのである。こうして、過失の判断に客観的な基準が導入されるに伴い、精神の緊張の欠如という心理状態として捉えられていた過失概念は変容を始めることになる。」
「予見と結果回避-今日の不法行為が極めて高度な企業活動をも含んでいることを考えると、内心の心理状態を問題とする主観的過失概念ではとうてい対応できず、客観的過失概念が適合的であることは明らかである。
このため、一般に『過失』は、損害発生の予見性があるのにこれを回避する行為義務(結果回避義務)を怠ったこと、などと定義されている。」
「今日の過失概念 …過失とは損害の発生を予見し防止する注意義務を怠ることだという言い方がなされることが多い。たとえば、次のようにいわれる。
すなわち、過失とは『その終局において、結果回避義務の違反をいうのであり、かつ具体的状況のもとにおいて、適正な回避措置を期待しうる前提として、予見義務に裏づけられた予見可能性の存在を必要とするもの』である(東京地判昭和58年8月3日 スモン判決)」(312〜315頁)
◆「債権各論」<第2版>(三省堂刊)(元日本大学法学部教授、水辺芳郎著)
「(イ)過失とは、不注意のため、違法な結果の発生を認識ないし予見せず(認識のない過失)、または、それを認識しても認容しないまま(認識ある過失)、その行為をなす心理状態をいう、とされる(通説)。
過失について、通説の設定した概念に関しては、問題がある。とくに、過失責任主義から無過失責任主義のところで前述したように、過失責任主義自体が事宜即さなくなっている。したがって、@過失責任主義の理論を基礎とする過失に関する心理状態説(通説)の妥当性が問われ、行為義務違反説が有力な主張となる。A行為義務違反説の立場にたつと、注意の対象は、『結果の予見』か、『結果の回避』なのかが争われる。そこで、この二点にそって過失の内容を検討する。
(ロ)過失の理論的意義
(a)過失は心理状態か行為義務違反か
(@)…通説は、過失は故意と同様に心理状態と解した(…)。通説がかように解したのは、@不注意、すなわち、意思の緊張を欠くという点に非難可能性があり、それは故意と同様であるとみたこと、A近代民法の私的自治の原則のもとでは不法行為性の過失責任も意思の媒介なしには責任もないと考えるのが自然なものであるとみたこと、B民法制定当時、客観的要件(権利の侵害と損害の発生)と主観的要件(故意・過失)とを明確に区分されたドイツ民法第一章案の影響などによるものとみられている。
しかし、判例は、民法制定の当初から、過失とは、ある状態のもとで、通常人なら、結果(損害発生)回避のため一定の行為(作為・不作為)をなすべきであったのに、それをなさなかったこと(行為義務違反)である、と一般に判示している(…大阪アルカリ事件)。
過失の重点を、心理状態説が行為者の意思においたのに対し、行為義務違反説は行為の態様、すなわち、通常人という規範的基準においている。これが『過失の客観化』とよばれるところである。
学説は、過失の客観化を一般に承認するようになった。その理由は、第一に、不法行為法の存在理由に基づくものである。すなわち、科学技術の進歩とその活用による施設からの危険性が増大するに伴い一般市民の立場からは、意思の緊張の欠如よりも、損害発生に対する回避措置を講じたかどうかが問題とされるべきであり、第二に、訴訟上の理由があげられる。
すなわち、損害賠償訴訟において、被害者が、行為者の内心の心理状態を照明することは不可能に近いことが認識されるに至り、結局、行動にあらわれた行為態様により判断されることになり、過失は、法秩序の命ずる一定の注意義務に違反することであると概念づけられるに至った。なお、第二の理由は、第一の理由をバックアップする作用をなしている。
(中間省略)
(b)過失は結果回避義務違反か、予見義務違反か
過失は行為義務違反であると解すると、注意の対象は『結果の予見』なのか、『結果の回避』なのか(行為義務は予見義務か、結果回避義務か)が問われる。
過失を行為義務違反とすると、結果の発生を回避することが可能であり、かつ、その回避を義務づけることが社会的に妥当視される限度において回避すべき義務を負う、という説(結果回避義務説・回避可能性説)が主張される。
これに対し、心理状態説の立場では、過失は、結果の発生を予見すべきであったのに不注意で予見しなかった心理状態として、予見可能性を過失の中心に据え、心理状態という枠をはずし、その趣旨を拡大して、予見義務を怠った場合に過失があると認定する説(予見義務違反説・予見可能性説)が主張される。
回避可能性説の論拠は、@結果の予見だけでは意味がなく、予見の後に、発生させないようにする義務を設定する方がより重要であること、A『認識のある過失』も『過失』とされているのであるから、回避義務違反を過失とするのが便宜である。B現代社会においては、大抵の社会的行為がなんらかの権利侵害の可能性をもっているので、ほとんどの場合に過失となる。しかし、それは社会の常識にあわない、などをあげる。
しかし、それでは、企業の操業の自由と操業しながら場合によって地域住民に損害を自由を保障することになり、産業保護に偏すると批判をする。近年産業公害が大きく取りあげられるに及んで、予見可能性説が注目をひくに至っている。
判例は、回避可能性説であり(大阪アルカリ事件)、形式的には現在も踏襲されている。もっとも、回避可能性説を採りつつ、防止措置なるものの水準を具体的に高く・厳しく認定して、過失を認めた判例が多いので、実質的には、予見可能性説と変わりがないとみることもできる。したがって、結果的には両説にあまり差異はないことになる」(320頁〜322頁)。
いかがでしたでしょうか。だいぶ引用が長くなってしまいましたが、同じ民法学者等が「過失」の意味内容について解説を試みても、ずいぶんと表現が異なることがお分かりいただけたと思います。
保険会社事故担当者にしばしば見受けられるのが、「過失」そのものについての理解不足とタイムズへのかたくなな固執態度です。
担当者には、判例タイムズというマニュアル本へのあてはめ作業に専念する作業過程において、過失の概念を真に理解しなければ適切な過失相殺はなしえないという認識がまったく欠如してしまっているということです。
このことが、契約者側にとって看過できない大きな問題として残されているのです。
「過失」概念そのものの真の理解及びそれを前提としての実務的適用がなされない限り、賠償義務の発生する行為(過失行為)と発生しない行為(非過失行為)との峻別そのものが不可能となるのであって、適切な過失相殺はありえない、
という根源的な問題提起を保険関係業界人は、もっと真摯に受け止める必要があるのではないか。私はそう考えているのです。(平成16・10・28
)
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