民主制度の限界
(30)「べき」と「である」の思考傾向
<市場経済は自生的秩序> 資本論で「商品価格はこのように決まるべきだ」と主張していることと、普通の経済学で「商品価格は需要と供給のバランスで決まっている」と説明することとの違い、 この違いが社会主義経済と市場経済の大きな違いになる。そしてそれが民主制度と他の制度との違いにもなる。 経済学者は、「市場には見えざる手に導かれた秩序がある」と考え、その秩序を発見しようとする。つまり、「市場の秩序はどうなっているのか?」を問題にする。それに対して社会主義では「市場はどうあるべきか?」を問題にする。そして、あるべき状態にするために、どのような政策をとるべきか?を議論する。 そこには、政府の政策次第で市場の秩序・状態を思い通りに変えられる、との思い上がりがある。 こうした点が経済学とマルクス主義との違いになる。
 経済学では市場をどのように捉えているのか?ハイエクの見方を通して市場の特性を説明している文章があるので、その一部を引用しよう。
 ハイエクによれば、市場経済は自生的秩序 (apontaneous order) の一つである。「自生」という言葉は、誰かが意図や計画したわけではないのに、プリミティブな種が枝分かれしながら成長して、最初には思いもかけなかったような壮大で複雑な機能を有する自律的存在に発展するという事態を表現するのに適した表現である。 原始的な交易から始まった市場経済はそのとおりのものである。秩序という言葉も、市場経済が無秩序なものとして見下され社会主義が称賛されたハイエクの生きた時代には、市場経済の持つ法則性を公衆に印象づけるために適した表現であったろう。しかしながら、ハイエクが意図して避けた表現ではないかと思われる。古い用語の自然状態という言葉で市場経済を私はあえて表現したい。
 自然状態という言葉は、ハイエクが批判し続けたT・ホッブズの社会観との関連で有名である。自然というもは人為(政府)によって意図的に人間社会に秩序が敷かれていない状態を意味する。常識的には、また第一直感では、第1章で引用したホッブズの有名な叙述のように、自然状態は人間の人間に対する闘争が間断なく続く、人間が極端に悲惨な生活を送らざるをえない、無秩序・混迷といった言葉で適切に特徴づけられる世界のように思われる。 だから、ハイエクは自然状態という言葉を避けたのではないかと思われる。それにもかかわらず市場経済が自然状態であると表現すべきと思うのは、ハイエクや市場経済の理論の創設者と普通されるアダム・スミスも考えていたように自然状態は無秩序ではなく、市場によって秩序づけられているという、常識的な第一直感には反する。第1章第1節ですでに述べた逆説的な事実を強調すべきであると思うからである。つまり、
特性1:市場経済は自然状態である。自然状態は無秩序ではなく、そこには市場による秩序付けが存在する。
 日本的市場主義者のなかには白紙の上に絵を描くように経済社会を構想したいという人がいるが、社会経済に白紙の状態はないというのが特性1の含意である。 (「現代日本の市場主義と設計主義」から)
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<主義とは反証可能なものなのか?> このシリーズ28でも書いたように、エコノミストは次のように考えている。「エコノミストは、人々にこうすべきだと告げることはできない。しかし、民主社会における市民がより良い政策選択をなしうるよう、さまざまな代替案(選択肢)を課し、その結果どれぐらいの便益をもたらすかという点を明らかにすることはできる」 (「経済学で現代社会を読む」から)。
 科学的であろうとするエコノミストは市場の秩序がどうなっているのか、事実を調べ、反証可能な仮説を立てようとする。マルクス主義者は白紙の上に絵を描くように、思い通りの市場秩序を創り上げようとする。その主張は、反証可能なものではなく、そのためマルク種主義者は、時には宗教のような原理主義者に思えることもある。 「現代日本の市場主義と設計主義」の著者は、日本のエコノミスト数人を名指しで「日本的市場主義者」と呼び、「市場主義者と言われているが、市場の秩序を思い通りに変えられると考えている」と批判する。
 「商品価格は市場での需要と供給との関係で決まる」ということは例を挙げて説明することも、そうならない例を探し出して来て反証することも可能だ。しかし「商品価格は、費やされた労働の量を考慮した原価に、適正な利潤を上乗せしたのもであるべきだ」との主張は反証可能なものではない。 反証可能なものではないから、ソ連、東欧の経済が破綻しても隠れコミュニストとして生き続ける。そして十分な総括がされないために、「市場の秩序が思い通りに変えられる」との考えが、マルキスト以外にも浸透している。そうした「市場の秩序が思い通りに変えられる」との考えを、「設計主義」と呼び「市場主義」と区別する。
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<市場はどちらに向かうのか?> 市場経済が自生的秩序ならば、進化するに従ってどちらの方向に進むのか分からない。そのことについては次のように考えられる。
 人間が意図的に作った組織・社会(人工社会)には、当然その作られた目的がある。たとえば、企業は利潤を獲得することを目的としている。一方、誰かが意図して作ったのではない、自然にできあがった秩序(自然社会)である市場経済には、意図された目的はない。
 市場経済が誰も意図しなかった機能を果たすことはありうる。第1章で述べたように、誰かが作成したものでない市場が、構成員の誰も意図しないような目的に資する。これが、アダム・スミスでは比喩的に(Hyek,"Law Legistration and Liberty" 1973.P.9 の表現を使えば anthropomorphic に)市場経済の説明に神という概念が引き合いに出される理由である。
 エコロジーとの類比は特性3についても成り立つ。人間が目的をもって作った田・畑・花壇等々とは違って、エコロジー秩序も何ら意図的に与えられた目的は存在しない。 (「現代日本の市場主義と設計主義」から)
 市場とは昔から自然に成立していた、と考えるとこのような結論になる。著者は市場をエコロジーに例えている。TANAKAはこのシリーズで度々引用しているのが、生物学・進化論だ。進化とは、環境の変化に対応して生物が変化していくことで、それ以外の目的はない。もっとも進化とは、必ずしも「進歩」とは言えないこともある。 深海魚は目が退化しているし、現代人のホモ・サピエンスはアウストラロピテクス・アファレンシスのルーシーやミトコンドリア・イブ、あるいは今は亡きネアンデルタール人よりも運動能力は退化しているに違いない。
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<民主制度はどちらに向かうのか?> 市場が「市場経済は自生的秩序の一つである」と理解できると、「民主制度は自生的秩序の一つである」ということも理解出来る。 市場経済は、その仕組みやルールは理解出来るが、その向かう方向を断言することはできない。株価の予想は外れることが多いし、好不況も完全にはコントロールできない。民主制度もその仕組みやそのルールは理解出来るが、誰がアメリカ大統領に当選するかは断言できない。エコロジーとか進化論と違って人間が参加し、一人ひとりが自分の考えで行動しているにも関わらず、全体としてどちらに向かうかは断言できない。 従って、誰かが向かう方向をコントロールすることはできないし、官僚や大臣や大金持ちの資本家が望んでも民意に反した方向へ市場を持っていくことは出来ないし、民意に反した政策を実行することはできない。 このため「人にコントロールすることの出来ない市場が暴走する」と市場経済を非難する人もいる。 この場合「民主制度」と考えるから言えるのであって、「民主主義」と訳すと変わってくる。「民主制度」は「市場経済」と同じように「自生的秩序の一つ」であるが、「民主主義」は「資本論」で示されたような「べきである」という目的を持った主義になる。 「デモクラシー」を目的を持った主義と捉えるか、「目的を持たない、自生的秩序の一つ」と捉えるかで、考え方は違ってくる。TANAKAはデモクラシーを「民主主義」ではなく「民主制度」と捉え、「目的を持たない、自生的秩序の一つ」と考えるのがいいと思う。
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<鉛筆の作り方を知っている人はいない> 鉛筆君は、「私をどうやってこしらえるのか、知っている人は一人もいない」と、われわれにはとても信じられない宣言をする。そして、たとえば数年前のベビー・ブームのため、小学校進学児童の数が急増した、といったような、なんらかの原因によって、とにかく鉛筆に対する需要が急に増えた、と想像してみよう。鉛筆に対する需要が急増すれば、ランドセルや通学カバン、ノート、靴などの需要も急増する。 市場に頼らずにこれらの供給を満たすにはどうしたらいいだろうか?かつてハイエクとミュルダール(Gunnar Myrdal)が論争して、こうした需要に対する供給体制は政府には出来ない、とのハイエクの主張に対して、ミュルダールは可能だと主張した。 そうした論争に対して、1974には2人に対してノーベル経済学賞が贈られた。しかし、今では政府にそのような計画を立てて実行するのは不可能だ、ということは常識になっている。
 しかしこうした問題に対して政府は予測し、対策を立てるべきで、政府にはそれが可能だ、との主張は多い。かと言って「政府には何も出来ない」と合理的期待形成のように言うと、「政府には景気対策もなにも出来ないのか?」との論争になるので、ここではこれ以上突っ込まないことにしよう。
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<日本の不況は市場が望んだからかも?> 長引く不況に対して多くの分析・対策が提案されている。それらの多くは「政府の政策次第で景気が回復する」「それをやらない政府は怠慢だ」というものだ。それは「政府は景気を左右できる」との考えからで、合理的期待形成とは違うし、「市場の自生的秩序」を重視しない見方だ。 「改革なくして成長なし」とのスローガンも「改革すれば成長する。だから小泉内閣は改革を押し進めるのだ」ということで、景気に対する政府の影響力の大きいことを前提としている。では改革を進めると本当に成長するのだろうか?市場のメカニズムがもっと有効に働くと経済は成長するのだろうか? 答えは「必ずしも成長するとは限らない」だろう。と言っても「規制緩和は経済成長に効果がない」と言って、規制緩和反対を唱えるのではない。
 市場のメカニズムが十分に発揮されると、資源の有効利用に役立つ。そして、人々の利益を増大する方向へ向かう。では人々の望む利益とはどのようなことだろうか?すぐ出てくる答えは「豊かな社会」だろう。それを実現するには高い経済成長が必要だ。しかし、もしそれとは違ったことを望んでいたら? 例えば「日本は戦後高い経済成長を遂げて豊かになった。これからは物質的な豊かさではなくて、精神的な豊かさ、つまり余裕ある生活実現を目標にすべきだ」と多くの人が考えたとしたらどうなるか?「収入は多くならなくてもいいから、働く時間を少なくしよう」がスローガンになったら、経済は停滞するだろう。 市場主義に徹すると、このような見方もできる。
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<設計主義の犯した罪> 市場経済が自生的秩序を保っているように、民主制度も自生的秩序を保っている。デモクラシーを民主主義と訳すと違ってくる。崇高な目標に向かって進むイデオロギーとなる。この場合は自生的秩序という概念はない。社会は思い通りに設計し、作り替えることができる、と考えることになる。 これを設計主義と呼ぶならば、社会主義は設計主義と言うことになる。設計主義はあるイデオロギー、権力集団が一般人や市場を無視して都合のいいように作り替えようとする。その悲惨な結果は旧ソ連や東欧諸国の破綻をみれば明らかな事だとわかる。 すべての国民ができるだけ平等な機会を得るべきだという考え方で、社会主義という制度を取り入れた国がどのようなことになったのか、「はじめての経済学」から引用しよう。
 社会主義の考え方は、本来は弱者にも配慮したものであったはずです。富や所得が一部の特権階級に集中することを排除し、すべての国民ができるだけ平等な機会を得るべきだという考え方です。しかし、現実に社会主義を導入した多くの国では、弱い国民を迫害するような結果になりました。 現在の北朝鮮の飢餓の現状を見れば現実の社会主義がいかに矛盾に満ちたものであるかわかると思いますが、かつてのソビエト連邦や中華人民共和国でも多くの国民の命が経済体制の問題点の犠牲になりました。文化大革命の中国で多くの知識人が迫害にあったこと、そして経済運営の失敗から多くの中国人の命が犠牲になったことはいろいろな形で報告されています。 ある調査によれば、社会主義体制の下で犠牲になったソ連国民の数は、第二次世界大戦によって亡くなったソ連国民よりもはるかに多い数になるということです。 (「はじめての経済学(上)から)
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<民主制度と他の制度との違い> かつて多くの政治制度が試みられてきたし、提案されてきた。それらを列挙してみよう。王様や皇帝や貴族など支配者が世襲制である社会、歯医者が虫歯を治療するように経済の病根を治療できると専門家に期待する社会、プロレタリア独裁という名の官僚政治、法律ではなく大衆の感情で裁く文革時代の人民裁判、議会の決定よりも市民運動の主張を重視する直接民主主義、管理責任者不在のアナルコサンディカリズム、 マネーゲームを極端に規制する国家社会主義、国家が公定価格を定めても実際はヤミ価格が横行する統制経済、ネズミを捕るのが白い猫か黒い猫かが問題なのであって国家イデオロギーを守るためには国民に餓死者が出てもかまわない社会、先に豊かになれる者から豊かになるのではなく国民すべてが平等に貧乏になる結果平等主義、話せば分かる善意の人たちばかりの社会と思い込んでいる空想平和主義、汗水流して働くよりも社会保障や他人の博愛心に頼った方が楽だと考える人が多くなる福祉国家…………
 「日本版財政赤字の政治経済学」ではつぎのように書いた。「民主制度は、自己責任こそが最も尊重されるという点でどの制度よりも優れている。市場経済と民主制度を育てるために多少のムダは我慢するとしよう。これは「衣食足りて礼節を知る」人々の社会にこそ適した、けっこうコストのかかる贅沢な制度のようだからだ」
 民主制度はコストもかかるし、欠点だらけの制度だ。しかしこれに勝る制度は現在のところ提案されてはいない。
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<主な参考文献・引用文献>
『現代日本の市場主義と設計主義』                       小谷清 日本評論社   2004. 5.20 
『経済学で現代社会を読む』            ダグラス・C・ノース他 赤羽隆夫訳 日本経済新聞社 1995. 2.20
『はじめての経済学』 上                          伊藤元重 日本経済新聞社 2004. 4.15
( 2004年11月22日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(31)民主制度の手直し案は?
<「デモクラシー」は「民主制度」と訳すべきだ> このホームページではチャーチルとハイエクの言葉を巻頭に引用している。どちらも「デモクラシー」との言葉を使っている。これを日本語に訳すとどうなるか? 「民主制度」と訳して使っているのだが、これを「民主主義」と訳すと、このHPの内容のピントがずれてくる。 「市場経済は自生的秩序を保っている」を理解すると「民主制度も自生的秩序を保っている」が理解できる。しかしデモクラシーを「民主主義」と訳すと、様子が違ってくる。「民主主義は自生的秩序を保っている」と言うと反論が出そうだ。 日本語で「民主主義」と訳すと、「民主主義とは民意が政治に反映される仕組みだ」「国民一人一人を幸せに出来るシステムだ」「直接民主主義でない限り、本当の民主主義ではない」「日本では民主主義が機能していない」「アメリカは自国の民主主義を他国に押しつけようとしている」などのように「民主主義」という言葉が使われる。 これらは「民主主義は理想の社会制度で、この理想に近づけるために政府も国民も努力しなければならない」のように、「熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義」と捉える傾向になる。 同じようなことでも、ちょっとした言葉の違いで扱い方が違ってくる。例えば「生物学」。「自然環境」とか「絶滅しそうな生物の保護」をテーマにすると、「政府は対策をとるべきだ」「一般市民は関心を持つべきだ」「捕鯨は禁止すべきだ」といった「べき論」になる。 同じ「生物学」でも「進化論」では違う。「動植物はどのように進化したか?」「ルーシーやミトコンドリア・イブはどのような道具を使って、どのような生活をしていたのか?」「恐竜はなぜ滅んだのか?」など、反証可能な仮説を提示することになる。ここでは「である論」になる。
 「民主主義」と訳すと、「現在は理想の民主主義とは違っている、直さなければならない」との主張がもっともらしく聞こえてくる。ではどう手直ししたら「熱狂的な崇拝の対象なるような完全無欠な主義」に近づくのだろうか?「日本の民主主義は行きづまっている」と主張する人たちは「直接民主主義」とか「首相公選制」を主張する。そこでこうした主張にも少し触れてみよう。
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<直接民主主義はどうだ?> 思想・言論・出版・結社の自由、三権分立、代議員制、多数決、こうしたことを基本にした民主制度、これに代わるより良い政治制度は提案されていない。 多くの欠点がありながらも、これに優る制度がない以上、とりあえず民主制度を信頼するしかない。それでも「すべての人が不満を持ちながらも、この程度なら諦めるか」との妥協点を見つける民主制度では、必ず不満を言う人が出てくるのはしようがない。 そうした不満を持つ人が主張する一つが「直接民主制度」。つまり「重要法案は国民投票にかけろ」との主張だ。「それによって有権者の意思がより公平に反映される」との考えと思われる。はたしてそうだろうか?例えば、「予算案は国民投票によって成立する」とか「自衛隊の海外派兵に関しては、国民投票を要する」とすると、より有権者の意見が反映される、と言えるのだろうか?
 そうではなさそうだ。国会議員を選ぶ選挙の投票率が低い。予算案の信任投票や自衛隊の海外派兵に対する信任投票だったら、もっともっと低い投票率になるだろう。自制的秩序は正確には予測できない。法案が信任されるかどうか、必ず事前に予想出来るとは言えないが、不安な場合は提案者は国民投票にはかけないだろう。政府案が国民投票で信任されなければ総辞職しなければならない。 そうした大きな賭けは避けるに違いない。もっとも現在の日本では国民投票にかけるような、かつての60年安保や日韓条約のような国論を真っ二つにするような重要案件は考えられない。ではなぜこのような「直接民主制度」が主張されるのだろうか?国会審議で十分ではないか。屋上屋を重ねるような制度がなぜ必要なのか?
 こういうことなのだろうと思う。「政府はこんなに無茶な法案を提出した。それに対して野党は十分な抵抗を示さない。だらしない。国民投票にかけて、いかに政府に対する不信感が強いかを示すべきだ」と一部の人は思っているに違いない。ところがこれは、ごく一部の人なのであって、もし多数ならば野党も十分な抵抗を示す。つまり「自分は正しい。しかし政府はもちろん、野党さえも理解していない」と思っている人が、せめて国民投票にかすかな望みを託して、直接民主主義を主張するのだと思う。 つまり、その人たちの意見は一般には見向きもされない少数意見で、「自分は正しい判断をしているが、ほとんどの国民はマスコミなどに惑わされている」と思い上がった人か、もしかしたら「とてつもない天才」なのだろう。
普天間基地移転先を国民投票にかけたら?
もう少し具体的な問題を考えてみよう。例えば「沖縄県宜野湾市にある普天間飛行場の施設を、神奈川県座間市に移転する」との提案がなされたとしよう。これを国民投票にかけるとどうなるだろうか?TANAKAは圧倒的多数の賛成で可決されると思う。沖縄県の有権者は全員賛成。神奈川県の座間市では反対。でも横浜市や横須賀市あるいは小田原市もあまり影響がないので、賛否両論。 三沢、岩国、佐世保など候補地として名の上がっていた所では「座間市に決まればこちらに来る恐れはない。早く決めてもらおう」と賛成票を入れる。その他の地方では極端に投票率が低くなる。 こうして嫌なことを座間市に押しつけることになる。皆でスケープゴート(生け贄)を決めることだ。バトルロイヤルとも言える。 座間市の有権者はどうしたらいいのか?地元出身の国会議員に言っても、政府・所轄官庁に行っても「日本国民が決めたことです。当方では如何ともしがたいことなのです」とけんもほろろ。不満の持って行き所がない。
成田空港建設を国民投票にかけたら?
2004年4月1日、成田国際空港株式会社法が成立・施行され、空港を管理する新東京国際空港公団が成田国際空港株式会社(Narita International Airport Corpration)と名称を変え民営化(特殊会社化)され、これに合わせて、空港の名称もそれまでの「新東京国際空港」から、一般的に呼ばれていた「成田国際空港」に改称された。この成田国際空港、これに反対する「三里塚闘争」は終わっていない。 首都圏の空港は羽田がこれ以上拡張するには手狭なので、政府は新しい空港候補地を捜していた。当初、現在の成田空港より南の富塚が候補としてあがっていたが、地元の反対運動が2年間も続き、この案は潰れる。 そこで茨城県の霞ヶ浦を埋め立てて、ここに空港を作ろうとの案が出たが、これも漁民、農民の反対のために潰れる。このように幾つか出る案はすべて地元の反対のために潰れる。 そうこうしている内に、佐藤内閣の1966年6月、新しい空港予定地を三里塚に閣議決定してしまった。このため反対運動が起き、その経過は多くの資料を見る通り。
 ところで、この成田空港、閣議決定ではなくて国民投票にしたらどうなっていただろうか?「新しい国際空港を成田につくる。賛成・反対を問う」として国民投票にかけたらどうなるか?普天間飛行場の場合と同じ、賛成多数で決まるだろう。 反対闘争は誰に対して行うのか?決めたのは日本の有権者、目標には定めにくい。この場合後ろを向いて、ペロッと舌を出して笑う者がいる。担当する役人、議員、政府関係者だ。「これで反対運動を気にしなくて、計画がどんどん進められる」と喜ぶ。 国民が直接民主主義との名目でスケープゴート(生け贄)をつくり、有権者のバトルロイヤルが始まり、「万人の万人に対する闘争」が始まる。政策実行者は遠くからこれを眺めて、ほくそ笑んでいる。直接民主主義は、「一般国民に利益があるのではなく、政権担当者にこそメリットのある」制度として機能する。 直接民主主義とはこのような怖ろしい制度になるかも知れない(所得問題に関しては多数決による所得再分配▲を参照のこと)。TANAKAは直接民主主義に反対です。
ゴミ焼却場建設地を住民投票にかけたら?
「一般生活から出るゴミは、各自治体で処理すること」に反対はできない。では自治体はゴミ焼却場を何処に作るか?どのように候補地を決定するのか? 各地で担当部署の地方公務員は悩む。そこで担当者へのプレゼント。直接民主主義で決めることだ。例えば東京都渋谷区、「渋谷区東1-35-1 、東急東横線とJR山手線に3方を囲まれた場所に、渋谷清掃工場を建設する案件」に対し、渋谷区民にその賛否を問う、と提案する。渋谷区民の住民投票を行えば、間違いなく可決され、スムーズに焼却場が建設される。 この件は、一時反対運動があって、NHKテレビでその反対運動が大きく取り上げられていたが、2002年8月1日、本稼働となった。
 地元住民がイヤがるような施設の建設、道路拡張、日照権を侵すかも知れない高層ビルの建設など、デウス・エクス・マキナ(Deus ex Machina)ではないにしても、行政側にとって「住民投票」は伝家の宝刀となる。もしも行政側に対する市民側の発言力強化を望むならば、ハートだけでなく、頭も必要になる。
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<首相公選制はどうだ?> 政権党6割、野党4割の議席数の場合、首相は政権党から選出される。ではその人物は政権党で絶対的な支持率なのだろうか?多くの場合いくつかある派閥の代表同士の選挙になり、党内で6割の支持があれば当選する。 ということは、全国会議員の36%の支持で当選したことになる。つまり不支持率64%、支持する議員よりも支持しない議員の方が多いということだ。
 正式に選ばれた首相であっても、「別の人間が首相になった方がいい」と思っている有権者がいっぱいいる。とすれば「別の方法で選べば、別の人間が首相になるかも知れない」と、淡い期待をもって「首相公選制」を主張しているのだ、と考えられる。
 もし首相公選制が実施されたら、どのような過程でどのような人が首相になるだろうか?立候補者は自民党の総裁と民主党の代表になるだろう。アメリカのようたっぷり選挙運動に時間をかけるとしたら、選挙運動費用がイッパイかかり金権政治家が立候補者なる。それはマズイと、選挙資金が少なくても立候補出来るようにすれば、 「これはいいチャンス」とばかり、泡沫候補が立候補する。勝手連が活動しても地方選挙ではないので、勝てる見込みはない。
 現在の政治情勢から見れば。自民党の総裁が立候補し、当選するだろう。これは誰も疑わない。選挙をやる前から結果が分かっていたら、投票に行く意味があまりない。と言って投票率がうんと低くなって民主党の代表が当選してしまう、なんてこともないだろう。自民党の立候補者を国民が選ぶとしたら?これまたおかしな事だ。 自民党員でもなく、自民党を支持しない人が自民党の立候補者を選ぶなんておかしな事だ。結局、今と同じような経過で自民党の立候補者が決まる。
 これは現在の与野党の勢力分布からの分析。では与野党の勢力が拮抗して、政権交代が起きそうな情勢になったらどうだ?これを望んでいる人は多いかもしれない。 総選挙では自民党が勝った。しかし民主党の代表に個人的魅力をもった人がなった。このため首相公選で民主党の代表が当選した。首相は民主党、議会は自民党多数。政情不安定。マスコミ、評論家は発言する機会が多くなり、少し無責任な事を言っても許される情勢になり、大喜びだ。 ちょうどフランスで過去4回あった「コアビタシオン」と同じ政治状況になる。このように考えると、与野党拮抗した場合の首相公選は日本の政治がダッチロールを始めることになり、あまり喜ばしいことではない。
 首相公選制も直接民主主義と同じように、現在の制度を改善するものとはならない。多くの人が「この程度なら諦めよう」と妥協したことに満足できない一部の少数派が、かすかな望みを託す制度のようだ。
首相は国家の象徴か?
日本とイギリスは多数党の党首が議会で首相に選出される。これに対してアメリカとフランスは大統領を国民が選挙で選出する。日本は天皇が国の象徴としての国事行為を行う。外国との皇室外交は重要な仕事と言える。アメリカとフランスは皇室がないので、こうした国事行為を大統領が行う。皇室外交をやらなくていい、首相は政治家・実務家でいいが、大統領はそれに加えて国家の象徴としての国事行為を行う。 国家の象徴としての行為と政治の実務家としての仕事と、この2つを皇室と首相に分けているのが日本とイギリス。この2つの仕事を一人の大統領がこなすのがアメリカとフランス。 当然選ぶときにこうしたことがを頭に置いて選ぶ。つまり首相は政治の実務家、大統領はこれに加えて国家の象徴としてのイメージに合うかどうか?が選択の基準になる。大統領選挙は一種の「人気投票」でもある。国家の象徴である以上、イメージの良さ、見た目の良さも選択の基準になる。
 ところで「首相公選」とは、首相を国民が選ぶのだから、実務家としての力量だけでなく、見た目の良さ、イメージの良さも投票の参考にするだろう。しかし国家の象徴としての国事行為は皇族が行う。日本の首相はアメリカやフランスの大統領とは違って政治の実務家であればいいのだが、公選制にすると象徴としての適正も判断の基準になってしまう。
 こうしたことを考えると、首相公選制と天皇制破棄、大統領制と皇族なし、皇族が象徴としていて首相は議会で選出、こうした組合せが自然で相性がいい。従って、天皇制をそのまま維持する以上首相は現在のような議会での選出がいい。「首相公選」を唱えるなら、「天皇制破棄」まで考えて主張すべきだ。
日本を会員制の国家クラブと考えると
「日本民族」「大和民族」などと民族を中心に考えるとこうした発想は生まれないが、ちょっと発想を変えてみよう。ゴルフクラブやスポーツクラブのような会員制のクラブとして国家を考えてみる。「日本国憲法・法律の遵守し日本国民として生活したい人は、一定の審査を経て日本国民として日本国籍を得ることが出来る」のように定めたとする。 そのように国家を考えるのも面白いだろうと思う。入会金が必要であり、自衛隊への3カ月の体験入隊かボランティアを入会条件・国籍獲得条件とし、年会費は所得税と消費税と定額のコミュニティー・チャージとする。会の運営は「政府」と呼ばれる事務局内の、「官僚」と呼ばれる事務員・事務方と「国会議員」と呼ばれる事務局評議員によって運営される。事務局長は「首相」と呼ばれ、各部門の部長は「大臣」と呼ばれる。 こうした会員制の国家クラブ、アメリカやフランスでは国民に選ばれた大統領が会長になるのだが、日本では「天皇」が「名誉会長」になる。そのような国家クラブが実現可能かどうかは別にして、抽象的なイメージとして、「天皇制」「首相公選制」「国家」を考えるのも面白いと思う。といった型破りなことを考えられるのも、好奇心と遊び心を大切にするアマチュアエコノミストの特権なのであります。
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<それぞれの国に合った制度があるのか?> 日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、それぞれの先進国にあって、民主制度は少し違っている。それはそれぞれの国にもっとも適した制度なのだろうか?歴史的な背景があって、その国独自の制度なのか、あるいは偶然そうなっただけで大した理由もないのだろうか? こうした問題になると、アマチュアエコノミストの守備範囲を超えそうなので、経済問題から似たような問題を引用して参考にすることにする。それは産業立地ということ。 そして、ここでは「アメリカの製造業はかなり地域集中化されているが、その源泉をたどると、一見何でもないような過去の出来事にたどり着くことが往々にしてある」という例をあげてみよう。つまり「たまたま偶然にこうなった」という例だ。
なぜジョージア州はカーペット産業の中心地なのか?
ポール・クルグマンが「産業の地域集中化」について書いているので、そこから一部引用しよう。
 1895年、ジョージア州の小都市ダルトンに住むキャサリン・エヴァンスという十代の少女が、婚礼祝いにベッドカバーをつくった。それはタフトが施されて (tufted) おり、当時では珍しいベッドカバーだった。というのも、タフトの手工業は18世紀から19世紀初頭までは数多く見られていたが、その頃には消滅しかけていたためである。 この婚礼祝いが発端となって、ダルトンは第二次大戦後、米国のカーペット産業の中心地として名を馳せるようになった。今でも米国カーペット産業の上位20社のうち、6社がダルトンに集中している。残りの14社も1社を除けばみなダルトン近隣にあり、ダルトンとその近郊のカーペット産業に従事する人々は1万9000人にのぼっている。
 キャサリン・エヴァンスの話はまた触れることにするが、ひとまずここで明らかにしておきたいことは、カーペット産業の例は興味深いが、地域集中化の例としてはべつだん珍しくないものだということである。実際、米国内の製造業はかなり地域集中化されているが、その源泉をたどると、一見何でもないような過去の出来事にたどり着くことが往々にしてある。(中略)
 ビードモンド地域の繊維産業のうち、地域集中化が高度に進んでいるのはカーペット産業だった。私の助手がこの産業について引き続き分析し、こそ産業が歴史的偶然によって地域集中化が進んだ古典的なケースであることを発見した。それでは、キャサリン・エヴァンスのベッドカバーの話に戻ることにしよう。
 本講義の冒頭でも触れたとおり、1895年、当時十代の少女だったエヴァンス嬢はベッドカバーをつくって贈り物にした。そのベッドカバーを贈られた人とその近所の人たちはたいへん喜び、その後数年間エヴァンス嬢はタフトの施してある (tufted) 小物を数多くつくり、1900年にはタフトを裏張りに固定する技術を発明した。そしてバッドカバーを販売するようになり、友人と近所の人々と協同して小さな手工場を営み始め、近隣以外にも製品を販売するようになった。 
 この手工業は1920年代には半機械化されるようになった。シェニール (chenille) セーターの需要が増え続けており、それを満たすためにタフトの技術が使われるようになったためである。しかし、その後製造はあいかわらず個人に家庭で行われていた。
 第二次大戦直後、タフトのカーペットが生産できる機械が発明された。それまでは、機械製のカーペットはただ織ってつくられていたのだが、新しい機会によって、ずっと安くタフトの技術が使えるようになった。そして、タフトの技術に精通しており、その将来性にもすぐ気がついた人たちが、1940年代の終りから1950年代初頭にかけて、ダルトン周辺に小規模なカーペット製造工場を数多く建設した。 同時に、裏張りや染色といった関連産業も集中していった。従来のカーペット製造業者は、織ってつくることに固執するあまり、ついには急成長したダルトンの企業に駆逐されて仕事がなくなったり、あるいは長年拠点にしていた北東部からダルトンへと工場を移転せざるをえなくなった。こうして、ジョージア州の小さな町が、米国のカーペット産業の中心地となったのである。 ( 『脱「国境」の経済学』から)
シリコン・バレーの誕生
「産業の地域集中化」と言うとシリコン・バレーがよく知られている。シリコン・バレーがどのようにしてハイテク産業の中心注地になったか?それについては 「ビル・ゲイツの面接試験」に詳しく書かれているのだが、引用するには長すぎるので、やはりポール・クルグマンから引用しよう。
 前世代で、地域集中化の有名な例は変わっていった。以前のモータウン、アイアン・シティ、あるいはアパレル産業地域などほとんど話題にものぼらなくなった(そうした産業はいまだに細々と存続しているのだが)。かわって登場したのが、シリコン・バレー、128号線沿い、あるいはリサーチ・トライアングルといったハイテク産業である。こうした新しい産業群はこれまでの地域集中化している産業とどう違うのだろうか?
 まず最初に言えることは、こうしたハイテク産業群誕生の話はあまりロマンティックなものではないということである。新しいハイテク産業群は果敢な個人が作り出したものと言うよりは、ビジョンを持った経営の管理者(形容が矛盾していなければ)の産物なのである。しかし、この点を除けば、成立の過程の話は似たものとなっている。
 シリコン・バレーの成立には、スタンフォード大学副学長のフレッド・ターマン (Fred Terman) がイニシアティブを取ったことが大きく関わっている。彼のイニシアティブで大学がヒューレット・パッカード社にリッチの優先権を与え、同社は粉後の核となった。また、大学の敷地内にかの有名な研究施設を建設し、まずヒューレット・パッカード社が、続いてたくさんのコンピューター会社が稼働し始めた。 ここでは、大学そのものを通して顕著な集積過程が見られた。つまり、研究施設から得られた収入は大学の科学技術を世界レベルに押し上げるのに役立ち、また大学の地位の向上がシリコン・バレーをハイテク産業における魅力的な拠点とすることに役立ったのである。 ( 『脱「国境」の経済学』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『脱「国境」の経済学』      ポール・クルーグマン 北村行伸・高橋亘・妹尾美紀訳 東洋経済新報社 1994.10.13
『ビル・ゲイツの面接試験』         ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     2003. 7.15 
( 2004年11月29日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(32)「とりあえず、これで行こう」との主義
<功利的な制度とは?> 「デモクラシーとは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく、政治的・経済的な個人の自由を保証するための 功利的な制度なのである」と言う場合の「功利的」とはどういうことか。「功利主義」というと「最大多数の最大幸福」と言われる。 つまりこの場合は「功利主義とは、最大多数の最大幸福を理想として目指す主義である」となる。しかし「民主制度」とは「熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な目標を掲げた主義」などではなくて、「政策選択のための便利な制度」と考えた方が正解に近い。 そこで、ここでは「功利的」とは「理想的とは言えないが、他にもっと良い制度が考えられない以上、とりあえずこの制度でやっていこう」ほどの意味と考えることにする。
 思想・言論・出版・結社の自由、三権分立、代議員制、多数決、を基本とする民主制度、欠点も多い。多数決が総意を表現しているとは思われない場合もある。「多くの自由があるが制度が上手に運用されていない」、あるいは「結果が民意とはかけ離れている」と非難する評論家がマスコミ界で幅を利かす。 民主制度の欠点をあげて、閉塞感を煽ったり、手直し案を提案したり、理想論をぶち上げたりする。はたして民主制度に替わる、より良き制度は考えられるのだろうか?あるいは有効な手直し策はあるのだろうか?
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<デモクラシーというひどい政治制度> ウィンストン・チャーチルは言っている「デモクラシーとはひどい政治制度である」と。ではどのような点で「ひどい政治制度」と言われるのだろうか?
「多数の暴力」と非難される「多数決」
「国会で十分な時間もかけずに強行採決するのは、『多数の暴力』だ」、とマスコミが非難するときがある。 この場合、国会審議に時間をかけたなら、この法案に賛成なのか?と言うとそうではない。本当は反対なのだが、反対する論拠が弱かったり、賛成者からの批判を受けたくなかったり、と言って黙っているわけにもいかず、「十分な審議を」との曖昧な批判をする。 制度上、最終決定は多数決で決めることになっている。90対10の賛成でも、51対49の賛成でも、成立した法律の有効性に差はない。それでも「多くの反対票があったことを忘れてはならない」等と書くこともある。
 さてその多数決。「多数決のパラドックス」のように「本当にそれで決めていいのかな?」と思うこともある。しかし、これに替わる方法はない。「全員一致を原則とする」となると、もっとおかしなことになる。結局「完璧ではないが、他に良い方法がないので、とりあえず多数決を原則としておこう」となる。
有権者の意見代表である限り、レントシーキングはなくならない
ジェイムス・ブキャナンをはじめとする「公共選択」の人たちは「レントシーキング」を批判する。市場のメカニズムを生かさず、所轄官庁に圧力をかけ、利益を獲得しようとする。そのために「族議員」が生まれ、「ロビー活動」が活発に行われる。しかし、だからと言って国会議員が有権者の意見を無視したら、民主制度では政策が実行されない。 あるいは国民の意見を無視した「独裁政治」になってしまう。せいぜい規制を緩和して、ルール功利主義に徹して行政府の自由裁量権を狭めることぐらいしか対策はない。「国民が意識を持って、政府と業界の癒着を監視するように」とは、「国民の意識が変わらなければ」と意識革命を望んでいることで、別の言い方をすれば「国民をマインドコントロールしよう」との発想でもある。 それは、ときには「自分は正しく政治を見ているが、一般国民は正しく判断できないでいる」との思い上がりにもつながる。有権者が投票で国会議員を選ぶ制度では、「有権者は神様です」が国会議員の基本になる。このため国会議員は有権者の利益誘導を政策目標とすることもある。 しかし、これがダメだと言うならば、別の方法で議員を選ばなければならない。独裁者が指名するか?、王族・貴族の互選で選ぶか?、司法試験のような試験を実施するか?、ロースクールのような特別な学校を出た者に資格を与える(日本の司法制度はこれを採用し、入り口を狭くし、自由な競争が起きないようにし、司法関係者の既得権を守ることになった。 法曹関係者のレントシーキングが功を奏した)か、地方区をなくし全国区だけにする(それでも業界代表としての族議員は残る)か?いろいろ考えても今より良い制度は考えられない。
もっと「自由を大切にする制度」はどうか?
ロバート・ノージックは、その著書「アナーキー・国家・ユートピア」で自由を大切にする政治哲学を展開している。政治哲学の分野では大きな影響を与えた、と言うのだが、非現実的であり、視野狭窄な見方であり、「素人さんお断り」の文章で一般人は読者の対象としていないこともあって、実現へ向かう可能性はない。特に「最小国家」は決して理想的とは言えない。
もっと「平等を大切にする制度」はどうか?
20世紀、政治哲学の分野で「アナーキー・国家・ユートピア」と並んで大きな話題を呼んだのが、ジョン・ロールズの「正義論」と言われている。 こちらは「弱者にとって有利な制度が、『正義』と言える」ということで、アメリカでは一時「公民権運動」に影響を与え、いくつかの「アファーマティブ・アクション」が成立した、と言われる。日本でも「厚生経済学」分野や「所得格差」を問題とする人たちは「正義論」の考え方を支持している。 しかし、こちらもノージック同様「素人さんお断り」の文章で、庶民感覚を受けつけない。高い授業料を払って、大学で専門課程で訓練を受けた人だけが議論に参加出きる仕組みになっていて、高級知的クラブへの参加費が高く、参加者養成教育に従事して生計を立てている人たちの既得権を守る仕組みができている。この仕組みで生計を立てている人は、新規参入によって自分の生活が脅かされることのないよう、「素人さん、お断り」の文章を守る。 むしろ一般庶民が理解して、これを支持したら「議論参加者養成講座」を受ける人がいなくなって、「正義論」を教えることが職業として成り立たなくなってしまう。ということでこれからも大きな影響力を持つことはない。
手直し策はあるのか?
デモクラシーを「民主主義」と訳すと「熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義」として考え、「そのためにはどうしたら良いのか?」「日本人は民主主義を理解すべきだ」などの「べき論」や自虐的な意見が蔓延する。そして、閉塞感を打開するためには「直接民主主義」や「首相公選制」が叫ばれる。 しかし、それらは「自分の考えが認められない」との不満を持つ一部の少数派の「ぼやき」で、よく考えると決して手直しにはならない、「負け犬の遠吠え」でしかない。
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<「とりあえず、これで行こう」との主義> 多数決が必ずしも多数の意見を表現しないときがあり、レントシーキングという多数決と反対の、少数者に特別な利益を与えるような政治活動が起きたり、全体の36%の支持で首相になったりと、民主制度には欠点が多い。にもかかわらず、これに優る制度は考えられない。
 そこで、自由とか平等とか正義などという言葉を中心に置いて、民主主義に代わる理想社会を実現する制度を考えようとする人たちもいる。「現実には存在しないところ(理想郷)」という意味で「ユーロピア」を書いたサー・トマス・モア、さらに理想を実現させようと実験社会に取り組んだロバート・オーエン、さらにそれらを「空想社会主義」と批判して「資本論」「共産党宣言」を書いたカール・マルクス、このように理想社会の追究は途絶えることはない。 そして現代では、「アナーキー・国家・ユートピア」「正義論」が政治哲学の分野だけではあるが一部の人に影響を与えている。これらの実験はみな失敗に終わっているのだが、もしも参加者すべて、そしてその社会に大きな影響を与える人たちが同じ価値観をもってその理想を信仰していたら成功したと思う。 つまりその社会の人たちがマインドコントロールされていたら成功したに違いない。日本人すべてがオウム真理教の信者になっていたら、日本は平和な国かもしれない。旧ソ連も国民すべてが共産主義を信仰していたら成功していただろう。 しかし強制収容所まで作ってみたけれど国民すべてを共産主義に洗脳することはできなかった。ジョージ・オーウェルの『1984年』のウィンストン・スミスとは違ってあくまでも自分の考えを守ろうとした人が、権力者が想像し、望んでいたよりも多かったわけだ。 それでも中世ヨーロッパはキリスト教が社会制度すべての基本になっていた、変化の少ない安定した社会ではあった。
 「すべての不満を持ちつつ、それでもこの程度なら我慢しよう」との妥協点を見つける民主制度では、常に不満を言う人がいる。マスコミはそうした意見を、ときに面白く、ときに真剣に取り上げる。「不満があるということは健全な社会の証拠だ」が理解できない人は、そのため「社会の閉塞感」とか「民主主義が行きづまる」などと悲観的な感傷にに浸る。一部の評論家がそうした人たちのために自虐的な意見を発表する。しかし大衆は結構賢くて、そうした意見とは論争はせずに、まともな、あるいは普通の感覚の政治家に投票する。 体制を批判しても、それに替わる制度がないことを知っている国民は冷静に判断する。六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなどまるで考えていないかのように言われるお姉ちゃんも、結構まともな判断力を持っていたりするものだ。これは本当ですよ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『世界SF全集10』 1984年 すばらしい新世界  ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳 早川書房    1968.10.20
( 2004年12月6日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(33)民主制度と市場経済の話のまとめ
<政治的パレート最適> 経済学の専門用語として「パレート最適」という言葉がある。「他の誰かの効用を悪化させない限り、どの人の効用も改善することができない状態」と説明されている。 これは経済学の言葉、そのイメージを政治の世界に適応させると、「民主制度」となる。沢山ある選択肢のうち、一番悪いところの少ない選択肢、反対意見の弱いもの、無難な道、を選択するとこの「民主制度」となる。 経済で、パレート最適の状態であっても「もっと自分に有利な状態になるといい」と考えている人はいる。ただし、その人の希望を叶えようとすると、誰かの利益を大幅に害することになるので、変えない方が良い。 経済の分野では市場のメカニズムがパレート最適を実現することが多い。自生的秩序が働いているからだ。政治の分野では民主制度のもとで「政治的パレート最適」が実現される。 「すべての人が不満を持ちつつも、この程度なら諦めよう」との妥協点を求める民主制度では、それでも「もう少し自分にとって利益のある政策が選択されると良いのに」と思っている人はいる。しかしその希望を叶えようとすると、他の多くの人の利益を損なうことになる。 独裁政治は統制経済と似ている。宗教政治は「贅沢は敵だ」の経済と似ていて、禁欲がルールの基本になる。直接民主主義はルールのない経済と同じような混乱を招く。 「正義論」の政治は大きな政府が価格統制する経済だ。「最小国家」の世界は「地産地消」の保護貿易の経済と同じ状況になる。
 パレート最適とはすべての人が完全に満足する状態かと言うと、そうではない。多くに人は「もっと自分に有利な状態になるといい」と考えている。しかし、それを叶えようとすると、他人の利益を大きく害するので、その状態をヨシとする。 経済学で発達した考え方を政治学の分野で応用すると、複雑な政治の世界・政治哲学の世界が分かりやすくなる。このHPで以前に扱った政治哲学、この分野の専門家が経済学を応用するともっとアマチュアにもわかる理論になると思うのに、残念なことだ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<市場経済との相性の良さ> 人類が土地を耕し、野性の植物を栽培し、自分が必要とする以上の食物を生産するようになって、自分では食料を生産しない人たちが現れた。食料以外の物も分業で生産するようになって、文明が発祥し、交換の場としての市場が生まれた。 こうして市場経済が始まった。
 それに比べると民主制度の誕生・普及は遅かった。21世紀にあっても民主制度を採用していない国がある。民主制度はけっこうコストのかかる贅沢な制度でもあり、発展途上国が経済を成長させるためには、いわゆる開発独裁の方が効果的だ、との考えもあって、採用しない国も多い。
 市場経済と民主制度はその誕生から現在までの経緯は違うが、制度上似たところがあり、相性はいいようだ。先に豊かになれる国から豊かになり、その他の国も豊かになるに従って民主制度を採用する国が増えてくるだろう。 自生的秩序が保たれている市場と、民主制度の社会は、グローバリゼーションという方向へ向かってゆっくりと、そして時には劇的な早さで向かうだろう。 その環境の変化についていけない人は「反グローバリゼーション」を叫び、「民主主義の閉塞状態」とか「市場経済が破綻する」と吠える。すべての人が平等に貧しい社会では、食べること、生活費を稼ぐことで頭がいっぱいで、そういうことを言う余裕がなく、豊かになった社会でそうした声が聞こえるようになる。その場合、自分たちの社会のことではなく、貧しい社会の人に替わって発言している、と善意のつもりで主張する。 そうした声を聞きながらも、市場経済と民主制度は、グローバリゼーションという環境の変化に対応するように進化していく。
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<終わりにあたって> <グー・チョキ・パーの迷走>と題した「多数決のパラドックス」から始まった「民主制度の限界」は今週が最後です。ゲームの理論、レントシーキング、政治哲学、利己的な遺伝子ミーム、グローバリゼーション、資本論と話題を広げてきた。 「視野狭窄にならないように」と「素人さん、お断り」の論理にはならないようにと、気をつけて書いたつもりだった。振り返って見ると、実に常識的な話の終わりになったようだ。 このシリーズをうんと短く表現すると「市場経済も民主制度も自生的秩序を保って進化していく」という、きわめて常識的な結論になりました、というのが最後のメッセージです。
 最後までつき合って頂いた方々に感謝します。このシリーズで参考にしたり、引用した文献を書き出しました。何かの参考にしていただければ幸いです。ありがとうございました。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『社会的選択と個人的評価』                  ケネス・J・アロー 長名寛明訳 日本経済新聞社 1977. 7.25
『ゲームの理論入門』 チェスから核戦略まで     モートン・D・デービス 桐谷維・森克美訳 講談社     1973. 9.30
『民主主義の破産』 ”公正のシステム”は存在するか       ダン・アッシャー 竹内靖雄訳 日本経済新聞社 1982. 8.24
『経済倫理学のすすめ』                               竹内靖雄 中公新書    1989.12.20
『マクロ経済学を学ぶ』                              岩田規久男 ちくま新書   1996. 4.20
『ゲーム理論入門』                                 武藤滋夫 日本経済新聞社 2001. 1.19
『戦略的思考とは何か』  アビナッシュ・ディキシット、バリー・ネイルバフ 菅野隆・嶋津祐一訳 TBSブリタニカ1991.10. 4
『入門 経済学』                                  伊藤元重 日本評論社   1988. 1. 5
『囚人のジレンマ』 フォン・ノイマンとゲームの理論 ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     1995. 3.10
『ゲームの理論と経済活動』      フォン・ノイマン、モルゲンシュテルン 宮本敏雄ほか監訳 東京図書    1972.10.25
『はじめてのゲーム理論』                              中山幹夫 有斐閣ブックス 1997. 9.10
『徳の起源』 他人をおもいやる遺伝子       マット・リドレー 岸由二監修/古川奈々子訳 翔泳社     2000. 6.14
『ミクロ経済学』 第2版                              伊藤元重 日本経済新聞社 2003.11.25
『「ゲーム理論」の基本がよくわかる本』                       清水武治 PHP研究所  2003.10.17
『ゲーム理論で勝つ経営』      A.ブランデンバーガー&B.ネイルバフ 嶋津祐一・東田啓作訳 日経ビジネス文庫2003.12. 1
『つきあい方の科学 バクテリアから国際関係まで』    ロバート・アクセルロッド 松田裕之訳 ミネルヴァ書房 1998. 5.20
『利己的な遺伝子』      リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店  1991. 2.28
『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』                    梶井厚志・松井彰彦 日本評論社   2000. 2.25
『ダーウィン・ウォーズ』             アンドリュー・ブラウン 長野敬+赤松眞紀訳 青土社     2001. 5.15
『ダーウィン以来』 進化論への招待    スティーブン・ジェイ・グールド 浦本昌紀・寺田鴻訳 早川書房    1995. 9.30
『ソシアル・ジレンマ』 秩序と紛争の経済学        ゴードン・タロック 宇田川璋仁他訳 秀潤社     1980. 2. 1
『経済学の正しい使用法』ー政府は経済に手を出すなー     ロバート・J・バロー 仁平和夫訳 日本経済新聞社 1997. 7.14
『経済学の考え方』 ブキャナン経済学のエッセンス         J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10
『公と私の経済学』 ブキャナン経済学のエッセンス         J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10
『自由の限界』 人間と制度の経済学                J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 秀潤社     1977. 7.15
『公共選択の理論』 合意の経済理論    J.M.ブキャナン、ゴードン・タロック 宇田川璋仁監訳 東洋経済新報社 1979.12.20
『レントシーキングの経済理論』    ロバート・トリトン、ロジャー・コングレトン 加藤寛監訳 勁草書房    2002. 7.15
『コンスティテューショナル・エコノミックス』           J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 有斐閣     1992.12.10
『赤字財政の政治経済学』           J.M.ブキャナン、R.E.ワグナー 深沢実、菊池威訳 文眞堂     1979. 4.25
『財政赤字の公共選択論』      J.M.ブキャナン、C.K.ローリー、R.D.トリソン 加藤寛監訳 文眞堂     1990.11.10
『入門公共選択』  政治の経済学                          加藤寛編 三嶺書房    1999. 1.25
『ハンドブック 公共選択の展望』 第V巻        D.C.ミューラー 関谷登、大岩雄次郎訳 多賀出版    2001. 9.15
『行きづまる民主主義』 公共選択の主張T          J.M.ブキャナン、G.タロック 加藤寛 勁草書房    1998. 6.20
『農業は「株式会社」に適するか』                          宮崎俊行 慶応義塾大学出版2001. 4.20
『自由のためのメカニズム』 アナルコ・キャピタリズムへの道案内  D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房    2003.11.25
『9.11 アメリカに報復する資格はない』          ノーム・チョムスキー 山崎淳訳 文芸春秋社   2002. 9.10
『チョムスキー、世界を語る』 ノーム・チョムスキー、D.ロベール、V.ザラコヴィッツ 田桐正彦訳 トランスビュー 2002.10. 5
『正義論』                          ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『ロールズ「正義論」とその批判者たち』     Ch・クカサス Ph・ペティット 山田八千代ほか訳 勁草書房    1996.10.14
『アナーキー・国家・ユートピア』               ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1992. 8. 6
『ノージック 所有・正義・最小国家』        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『現代の法哲学者たち』                               長尾龍一 日本評論社   1987. 8.10
『岐路に立つ自由主義』 C.ウルフ、J.ヒッティンガー編 菊池理夫、石川晃司、有賀誠、向山恭一訳 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『ミーム』 心を操るウィルス                 リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『ミーム・マシーンとしての私』     スーザン・ブラックモア R.ドーキンス序文 垂水雄二訳 草思社     2000. 7.18
『アマルティア・セン』 経済学と倫理学                 鈴木興太郎、後藤玲子 実業出版    2001. 9.26
『ビル・ゲイツの面接試験』             ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     2003. 7.15
『ベッカー教授の経済学ではこう考える』   G.S.ベッカー G.N.ベッカー 鞍谷雅敏・岡田滋行訳 東洋経済新報社 1998. 9.17
『進化とゲーム理論』闘争の論理           J・メイナード・スミス 寺本英・梯正之訳 産業図書    1985. 7.12
『グローバリズムという妄想』                   ジョン・グレイ 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 1999. 6.25
『自由主義論』                          ジョン・グレイ 山本貴之訳 メネルヴァ書房 2001. 7.30
『自由の倫理学』 リバタリアニズムの理論体系  M・ロスバード 森村進・森村たまき・鳥澤円訳 勁草書房    2003.11.25
『徹底討論 グローバリゼーション 賛成反対』      S・ジョージVSM・ウルフ 杉村昌昭訳 作品社     2002.11. 2
『利潤か人間か』 グローバル化の実体 新しい社会運動                北沢洋子 コモンズ    2003. 3.15
『自由論』                       アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                       ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
『道徳情操論』                          アダム・スミス 米林富男訳 未来社     1970. 4.25
『サバイバル・ストラテジー』                ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社     1983. 4.20
『マン・チャイルド』 人間幼稚化の構造   ダビッド・ジョナス、ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社  1984. 7.10
『農業は人類の原罪である』 シリーズ「進化論の現在」      コリン・タッジ 竹内久美子訳 新潮社     2002.10.20
『ユートピア』                           トマス・モア 平井正穂訳 岩波書店    1994. 9.16
『自由への決断』                 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 村田稔雄訳 広文社     1980.12.25
『選択の自由』 自立社会への挑戦                M&R.フリードマン 西山千明訳 日経ビジネス文庫2002. 6. 1
『政府からの自由』                   ミルトン・フリードマン 西山千明監修 中央公論社   1984. 2.10
『日常生活を経済学する』                     D.フリードマン 上原一男訳 日本経済新聞社 1999.11.17
『自由・公正・市場』                                大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵 現代を生きる経済思想』                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学 現代社会の倫理を考える』 第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『中国2020年への道』                               朱建栄 日本放送出版会 1998. 6.25
『現代中国の経済』 現代中国叢書3                          王曙光 明石書店    2004. 4.30
『図説 中国産業』 2005年の巨大市場を読む             日本興業銀行調査部編 日本経済新聞社 1999. 6. 1
『ベーシック アジア経済入門』 新版                    日本経済新聞社編 日本経済新聞社 2000. 1.14
『中国経済の数量分析』                           大西広・矢野剛編 世界思想社   2003. 5.15
『現代中国経済』 7 所得格差と貧困                         佐藤宏 名古屋大学出版会2003. 9.10
『アジア経済ハンドブック』 2003                   江橋正彦・小野沢純 全日出版    2002. 7.25
『日本の経済格差』所得と資産から考える                       橘木俊詔 岩波書店    1998.11.20
『平等主義は正義にあらず』                             山口意友 葦書房     1998. 3.10
『はじめての経済学』                                伊藤元重 日本経済新聞社 2004. 4.15
『蜂の寓話』私悪すなわち公益               バーナード・マンデルビル 泉谷治訳 法政大学出版会 1985. 6.24
『経済学の巨人たち』                                竹内靖雄 新潮選書    1997. 2.25
『恋愛と贅沢と資本主義』                 ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫 2000. 8.10
『有閑階級の理論』                   ソースティン・ヴェブレン  高哲男訳 ちくま学芸文庫 1998. 3.10
『入門経済思想史 世俗の思想家たち』       ロバート・L・ハイルブローナー 八木甫他訳 ちくま学芸文庫 2001.12.10
『隷従への道』 全体主義と自由     フリードリッヒ・A・ハイエク 一谷一郎・一谷映理子訳 東京創元社   1992. 7.30
『ロバート・オウエン』 イギリス思想叢書9                     土方直史 研究社     2003. 3.20
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』      ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2002. 5.31
『それでもグローバリズムだけが世界を救う』      チャールズ・レッドビーター 山本暎子訳 ダイヤモンド社 2003.10.30
『レクサスとオリーブの木』           トーマス・フリードマン 東江一紀・服部清美訳 草思社     2000. 2.25
『裸の経済学』経済学はこんなに面白い           チャールズ・ウェーラン 青木栄一訳 日本経済新聞社 2003. 4.23
『グローバル経済の本質』 国境を越えるヒト・モノ・カネが経済を変える        伊藤元重 ダイヤモンド社 2003. 5. 9
『人間が幸福になる経済とはなにか』         ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2003.11.30
『株仲間の研究』                                  宮本又次 有斐閣     1958. 3. 5
『江戸の市場経済』                                 岡崎哲二 講談社     1999. 4.10
『経済学で現代社会を読む』                ダグラス・C・ノース他 赤羽隆夫訳 日本経済新聞社 1995. 2.20
『経済科学の根底』                ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 村田稔雄訳 日本経済新聞社 2002. 6.28
『経済学の正しい使用法』  政府は経済に手を出すな     ロバート・J・バロー 仁平和夫訳 日本経済新聞社 1997. 7.14
『競争はなぜ必要か』市場システムの論理                       竹内靖雄 日本経済新聞社 1978. 6.15
『やさしい経済学』                             日本経済新聞社編 日本経済新聞社 2001.11. 1
『スッキリ!日本経済入門』                            岩田規久男 日本経済新聞社 2003. 1. 6
『寓話で学ぶ経済学』自由貿易はなぜ必要か         ラッセル・D・ロバーツ 佐々木潤訳 日本経済新聞社 1999. 7.12
『現代経済学の回想』                 ジョージ・J・スティグラー 上原一男訳 日本経済新聞社 1990. 9.20
『テラスで読む経済学物語』                 T・G・バックホルツ 上原一男訳 日本経済新聞社 1991. 6.13
『資本論』                           カール・マルクス 岡崎次郎訳 大月書店    1972. 3.10
『資本主義は江戸で生まれた』                            鈴木浩三 日本経済新聞社 2002. 5. 1
『現代日本の市場主義と設計主義』                           小谷清 日本評論社   2004. 5.20
『脱「国境」の経済学』          ポール・クルーグマン 北村行伸・高橋亘・妹尾美紀訳 東洋経済新報社 1994.10.13
『世界SF全集10』 1984年 すばらしい新世界    ジョージ・オーウェル他 新庄哲夫訳 早川書房    1968.10.20
( 2004年12月13日 TANAKA1942b )

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民主制度の限界 完         
  
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