まず、食料を自給自足している日本人はいないことに注目しよう。コメ、小麦、そば、キャベツ、長ネギ、椎茸、大豆、オレンジ、サンマ、鯖、エビ、牛肉、豚肉、鶏肉、塩これらすべてを自給自足している日本人はいない。
小さな集団、小さな自治体、都道府県、そして日本国全体、どの単位を取っても食料を自給してはいないのだ。
強いて言えば、「地球単位で言えば自給している」あるいは、ごく一部の発展途上国に、閉鎖的な少数民族の集団があるかもしれない位だ。個人として自給自足しているのは小説上のロビンソンクルーソーとフライデーくらいだろう。
「東京都民はコメを自給すべきだ」という公約で都知事が当選したらどうなるだろうか?当選するかどうかは読めないが、「自分達の食い分は最低限自分達で確保すること」と信じている有権者は多いようだから、案外立候補者は出るかもしれない。
都知事の公約を実行するには、東京都の行政単位「区」と「市」に「食糧自給委員会」を設置する。委員会はそれぞれの区で 100%自給を目指す計画を立てる。収穫時期になって 100%が達成できなかったら、東京都の他の区か市から買うことができる。
ただし他府県からはダメ。従って余剰生産で自治体の利益を出してもかまわない。そうすればその区の住民の地方税が安くなる。委員会の下に地方公務員が実際の稲作運営を進める。ボランティアや児童、学生、PTA、それにサラリーマンも一時的に作業に参加する。
計画時点では積極的な賛成者はあまり多くはないが、宣伝が行き届くにつれて参加者は多くなる。
「自分の食べる物は自分で作ろう。これが自己責任だ」「誰が作ったか分からない食材よりも、自分たちで作った食品が一番安心だ。作った人の顔が見える食料を食べよう」「人任せの食べ物は信頼できない」「一粒のコメも大切にしよう」「贅沢は敵だ」「都会の人間関係は冷たい。
コメ作りを通じて価値観を共有できる共同体をつくろう」
「東京でも「地産地消」を広めましょう」等、多くのスローガンが町に溢れる。
批判は出なかった。反対者は何も言わずに静かに東京を去って行ったのだった。
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さてこのように東京都でコメを自給するようになると、どのような変化が起こるだろうか?
まず、東京中のコメ屋が廃業し、スーパーからコメ売場が消える。東京都民がコメを買わなくなると、他県のコメ作り農家の収入が激減し、生活が苦しくなる。産業としてのコメ作りがなくなり、儲からないから品種改良や技術革新への投資が行われない。「コメ作りは日本の貴重な伝統文化だ」と元気に言う人がいなくなる。「自分の食糧は他人が作った物を金で買うのではなく、自分で手当すべきだ」と言うより「いくら金があっても商品としてのコメがないので、自分で手当しなければ、ひもじい思いをすることになる」となる。
東京が経済の中心でなくなり、実質的に地方の時代となる。経済成長は止まるが、デフレで物価が安くなるので国民から非難の声は挙がらない。国民すべてが平等に貧しくなり、統計上もジニ係数は低下するのでエコノミストのなかにも「国民の所得格差が縮まった。とてもいいことだ」と支持する声も挙がってくる。一度お蔵入りした「くたばれGNP!」に流行語大賞が贈られ、「スモール・イズ・ビューティフル」も候補に挙がる。省エネが叫ばれ多くの迷案が出た。「深夜は一般家庭には送電ストップすべきだ」との提案は、全日本ローソク製造業組合からだった。選挙でどの政党が政権を取っても、NGO,NPO、市民運動、住民運動、自然保護運動家の主張が尊重され、「東京都民はコメを自給すべきだ」の政策は続行されることになる。
東京都に住み税金を払っていれば、家族に必要なだけのコメが支給される。外で食事をするときは外食券食堂を利用すれば良かった。これで問題は解決するはずだったが、その外食券食堂のコメをどうするか?が問題になった。これには都知事も困った、あくまでも自給自足に徹すべきか?それとも外食に関しては他県米を認めるか?都民を納得させる政策が見つからない。そうこうするうちにヤミ米が摘発された。少しくらいなら、と目をつむっていた検察も、目に余るヤミ米についに動き出した。「食糧自給委員会」も動き出す。東京の地方テレビMXTVも「反ヤミ米キャンペーン」に乗り出した。
それまではコメの配給状況を毎日報じていたが、キャンペーンが始まるとさらに詳しく報道し、繁華街には多くのテレスコープを設置し、時には一週間ぶっ通しで「反ヤミ米キャンペーン」を放送するようになった。放送が始まると「憎悪週間が始まった」と言う人もあった。「検挙された者は、三角帽子をかぶせ町中を引き回せ」との提案もあったが、これは採用されなかった。
違反者が出ないようにと、農作業の始業時に大声で誓いを唱和するようになった。「われら東京都民は自分達の主食であるコメを自給することを誓います」この時全員赤いネクタイをすることになっていた。そしてこの誓いを「われら」と呼ぶようになった。こうした中で都知事は忙しくタフに仕事をこなしていた。睡眠時間は3時間だ、との噂も流れた。このため都知事のニックネームは「ナポレオン」となり、若い人は「ナポレ」と略して言った。識者はこうした言い方を「ニュースピーク」と名付けた。市民運動が活発になり、目黒にある幼稚園の片隅から始まった消費者運動が全国展開したり、本郷の「自主講座・公害原論」では沖縄からの講師の話に学生・市民が耳を傾けていた。 東京が1984年の社会になった。
東京の産業構造は少し変わり始めた。製造業、情報産業などが元気なくなり、代わりに観光業が伸び始めた。武蔵野台地で蓄えられた豊かな地下水が湧き出るところ、洗足池、井の頭池、三宝寺池、豊島園、六義園、三四郎池、不忍池、こうした所が観光地として賑わい、新たな東京の産業として注目を集めている。
もう少し東京の変化を見てみよう。都内各地で田圃が開墾される。新宿では歌舞伎町の一角にも田圃が出現し、コマ劇場も今はその跡形もない。戦後間もないとき新宿駅からビルもなく、そこにあったなにやら恐竜のモニュメントのような見せ物が見通せたときのような光景になる。当然近くの大久保小学校、大久保中学校の校庭の一部は田圃になり、ツツジの里も様変わりした。それでも年に2回、銀座とともに学生で賑わう風習は失われてなかった。観光地でさえコメ作りに参加する。三宝寺池から上石神井駅までの一帯は若い稲が成長し豊かな実りを予感させる。その地域の学校では生物の授業時間に、周辺地域の動植物の観察だけでなく、稲穂作りに参加する。生徒はそれを誇りに通学する。
Rachel Carsonの報告にある通り、
東京の中心部から少し離れたところ、方位で言うと北西部に、この町はあった。生命あるものは皆、自然と一つだった。町の周りには、豊かな田畑が碁盤の目のように広がり、穀物畑の続くその先は丘が盛り上がり、斜面には果樹が茂っていた。春が来ると、緑の野原の彼方に、白い花の霞みがたなびき、秋になれば、樫や楓や樺が燃えるような紅葉のあやを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。
春は沈黙していなかった。
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それでは「自分達の食い分は最低限自分たちで確保すること」が神話になったのは一体いつの頃からなのだろうか?そうして何故神話になったのだろうか?
人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。初めのうち必要な物を入手する方法として「贈与」「略奪」が多かったが、やがて市場での「交換」が主流になる。それは「取引費用」の安さに気づいたからだろう。20世紀になってアメリカで論文が発表されるよりずっと以前に、人類は「交換の正義」「取引費用」の大切さに気付いていたのだ。
このように自分が必要とする食糧を、自分で作らない人が現れたとき、人類の文明が発祥したのだ。人類の多くが自分では食糧を作らなくなり、それでもまだ類人猿に近かった頃、部族のみんなで食糧を探し求め、みんなで分け合った頃の記憶がDNAの記憶素子に組み込まれていて、時々そのファイルが開かれて懐かしく思うときがある。精神的なショックや、ストレスがたまり自我を押し潰そうとしたときにファイルが開いてしまうようだ。まだ神話になる前の時代、その頃人類は食糧を求めることだけに神経を使っていればよかった。天災や病気は人間の想像を超えた存在、「神」の意志であって、悩み考えてもどうしようもないことだったので、ストレスがたまることもなく、精神的には豊かな生活をしていた。その頃の懐かしさが高まって、「自分達の食い分は最低限自分たちで確保すること」と遺伝子が言わせているのだ。という説はいかがでしょうか?
アマチュアだからこのような乱暴な、反証不可能な仮説が立てられるのであって、専門家はこのような遊びはできない。(カール・ポパーに叱られる)「これこそアマチュアの特権なのだ」ということで、みなさんにアマチュアエコノミストをおすすめする次第なのであります。(これでやっと、タイトル通り「アマチュアエコノミストのおすすめ」ができます。ただし、「自給自足は神話」は経済学の常識であり、「経済学の神話」にはいずれ力を蓄えてから挑戦します。)
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除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べ、行く年来る年に思いをはせる日本の文化、中国産のそばとカナダや東南アジアのえびの代わりに、国産品を使ったら、とても価格の高い物になって、いずれこのよき習慣は廃れていくだろう。平賀源内が宣伝して日本の食習慣として定着した、土用のウナギ。ウナギを日本で自給するとなったら、庶民の味ではなくなる。戦後日本人の食生活は動物性タンパクの洋食に変わりつつあるとのことだが、それでも納豆・豆腐・味噌・醤油はガンバっている。それも国内消費量のほぼ 100%を外国の安い大豆に頼っているからで、これも国産だけにしたら、庶民の食卓から消えるのは間違いない。経営的には大変苦しいと言われる日本の酪農、それでもアメリカから安いトウモロコシやグレーンソルガムを輸入することによってやっていけるのであって、「飼料も国産を使え」となったら廃業続出間違いない(国内消費量の95%が輸入品)。ビールは原料に国産品を使わなくてもいいとなったら、もっと安くなる。
食糧ではないが、日本の得意技術金型。この技術と製品の輸出を制限したら、世界中の加工業者が悲鳴を上げる。そして日本の金型技術は需要が少ないから衰退し、職人の腕が鈍り、得意産業ではなくなる。ブッシュ政権が主要同盟国に理解を求め推進しようとしているMD、多くの電子部品を必要とし、その中でも主要なDRAM。その生産は日本企業4社と韓国企業1社で全世界の半分以上を生産している。1995年1月17日の阪神大地震、その直後に、ある日本の家電メーカーに世界中から電話とファックスが入った。「工場の被害はどうか?」「生産は続けられるのか?」なにしろこのメーカー1社だけで世界の大半の液晶ディスプレイを生産しているのだから、この工場が生産停止となれば世界のPCメーカーの生産に影響が出る。PC以外でも影響が出て、ハイテク産業全体に影響が出たかもしれない。
超微粒子研磨剤というものがある。半導体のシリコン・ウェファーを磨く粉で、その一番細かいものは、横浜にある企業で世界の9割が作られていて、もし横浜に大地震が起きこの工場が操業不能になると大変なことになる。かつてベトナム戦争の頃アメリカ軍がTV爆弾を使い、これにソニーのTVが使われているのではないか?とニュースになったことがある。アメリカ政府は否定し、それ以上真相究明はなされなかった。
東芝の子会社がソ連に工作機器を輸出した。これがココム輸出禁止製品にあたり、ソ連はこの工作機器を使い原子力潜水艦のスクリューを製造し、その工作機器によって作られたものは音が静かで潜水艦探知機に引っかかりにくいとのことだった。つまり「ソ連の原潜は日本製の工作機器によって作られたので性能がいい」と言えるのだ。これには後日談があって、子会社の不始末を親会社の東芝社長が記者会見で謝っていた。東芝の子会社は未成年者が多く、親会社の社長が後見人として保護しなければならない会社なのかもしれない。
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さて、こうしたことを書き出したのは、こうしたハイテク安保に比べれば、食糧安保も、自衛隊の問題も、それほど深刻に悩むほどの問題ではなく、多少利権が絡み政官業のトライアングルが知恵を絞り、腕を振るうにしても、いずれはしかるべき落とし所に落ち着くだろう、と言えるからだ。しかしハイテク安保はそうではない。ノーベル賞はノーベルが発明したダイナマイトの特許、その使用料によって運営されている。しかし日本の中には「人類共通の財産とすべき発明には特許を与えるべきではない」との主張がある。「遺伝子科学を応用した発明は人類共通の財産とすべきで、民間企業1社が独占するのはよくない」だ。そして「特許を取らず、オープン・ソース、ネット上での無料公開。このLynaxこそ新しい時代の科学技術のあり方だ」と言うことになる。「遺伝子銃を使った組み替え食品は1社で独占するな」と言う主張も出るだろう。
こうした主張が大勢を占めるようになると、「どうせ発明しても、他の企業が無料で使うなら研究開発費を投資しても回収できないからやめよう」となり、進歩は停止する。企業は「特許を取って儲けよう」「そのためにこそ投資しよう」と考え、金融機関・投資家は資金が回収できそうだと判断して投資する。この資本主義のマネー・ゲームのルールを変えたら、経済成長はない。世界中が「東京都民はコメを自給すべきだ」の社会になる。
つまり常に最先端のハイテク技術は民間企業1社に独占されているという状況になりやすいわけだ。こうした市場経済のルールを変えることはできないが、それだけにこうしたマネー・ゲームを批判する人は後を絶たないだろう。何しろ「核兵器を廃絶しよう」「環境破壊を防ぐために資源・エネルギーの無駄使いはやめよう」「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」のようにいつまでも達成できない目標なので、いつまでも同じスローガンを唱えていられるからだ。
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TANAKA1942bのネット上でのシリーズ、コメ自由化への試案、日本の安全保障、「すべての人が不満を持ちながらも、この程度なら諦めよう」と言う妥協点が見つけられる。コメの場合は、産地と流通経路を多くすることによって、リスクを分散できる。しかしハイテク安保はそうはいかない。研究開発の成果を1社で独占できるから投資するのであって、これを認めないと技術は進歩しない。そして1社での独占を認めるからこそ、その1社に不測の事態が起きたらどうなるか?の不安がつきまとう。このように現代は常に不安な状態で科学技術が進歩して行くことになる。
「自分達の食い分は最低限自分達で確保していた」頃の人類 が経験したことのない、将来に対する不安を抱えながら、現代人は生きていかなければならないのだ。
このようなアマチュアにしかできない、誇大妄想教のような話に迷い込んだとしても、自由貿易は発展させなければならない。「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」との発想から生まれる保護貿易がどのような結果を招くか?1920年代、世界の先進国が保護貿易に走り1929年10月(暗黒の木曜日)、NYウォール・ストリートの株価暴落に端を発した世界恐慌、そして後発植民地主義国=大日本帝国の首根っこを押さえようとして仕組まれたABCDラインと、これに対抗して考えられた大東亜共栄圏で「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」とした「最終戦争論」からはずれたあの無謀な戦争。この教訓は先進諸国の政策担当者ならすべて心得ている。たとえ一部の圧力団体の機嫌をとるために、長ネギ・椎茸で間違いを犯しても、それ以上のことは過ちは犯さないだろう。
大東亜戦争について言えばこうなる。自給自足にはその範囲が広ければ広いほど可能性が高い。大久保さん一家より、大久保2丁目より、新宿区より、東京都より、日本国より、それに加えて、朝鮮半島、満州国、大東亜共栄圏、それも広ければ広いほどいい、となって侵略地を広げていったのだ。当時の選択肢は(1)自由貿易か?(2)自給自足地拡大か?の二者択一でしかなかった。しかも先進諸国は「自給自足の神話」の見えざる手に導かれて、保護貿易への道を走りだしていた。遅れて先進国の仲間に入った大日本帝国がこの流れを止めることはできなかった。むしろ一緒になって「自給自足」を促進せざるを得なかった。
国を挙げて「自給自足の神話」を守ろうとした例は他にもある。スターリン指導のネップ(新経済政策)・ソホーズ・コルホーズ、毛沢東指導の大躍進・文化大革命・人民公社、エンベル・ホジャ指導のアルバニア、ポルポト指導のカンボジア、そして・・・
そしてこれらの悲惨な状況は当時外部に正しく報道されてなかった。1930年代ヨーロッパのマス・インテリは、ソ連の悲惨な状況を知り得たであろう著名な文化人もNEPを礼賛する発言をしていたし、日本でも文革当時の報道はジャーナリストも文化人も四人組の宣伝係りに嬉々としていた。そして「地上の楽園」。これらに共通のキーワードは「平等」と「自給自足」であった。(一国社会主義、自力更正など)「自給自足の神話」を国家公認のイデオロギーとするとどんなことになるか?これらの悲惨な結果を見れば明らかである。その教訓を生かすためにガットが、そしてその発展的機構、WTOが機能している。先進諸国があのような過ちを繰り返すことはもうないであろう。※ ※ ※
食糧安保の視点から「日本人の主食であるコメを輸入に頼るのは良くない」とか「食料自給率が下がっている、自給率を上げるように努力すべきだ」との主張がある。しかし「食糧安保」の視点から言えばこの2つの主張は正解ではない。正解は「産地や流通経路を多くすること」。「幸い日本の食糧自給率は37%と低いので、消費者への影響は少ないかもしれない。農家が団地などでの産地直売、生協や市民団体の共同購入、大手スーパーの農家からの直接仕入れ等農協を通さないルート、それに輸入品等、産地や流通経路の多さが安定供給を保証する。食糧の安定供給のポイントは、自給率を上げることではなく、産地や流通経路を多くすることなのです。」このシリーズ=その1=では「では食糧の安定供給のためにはどうすればいいのか?結論==「世界各地から輸入し、供給地・輸送ルートを多くすること」言い換えると「安定供給のためには、自給率を下げること」なのである。 この考えは変わらない。
この考えからすると、「自給自足の神話」に拘るのは、スローガンに酔っていて問題の本質をみてないのか?あるいは自分の利益を守ることと国民の利益とを一緒にしている,公私混同だとみる。危機管理に徹すれば問題点は別にある。
農水省HPその他多くのHPで確認できる、主要穀物の輸入量。これらの輸入率を見てもらいましょう。輸入量/需要量。小麦88%、大豆 100%、トウモロコシ99%、塩85%、砂糖64%。さらに、アメリカからの輸入量/需要量。小麦61%、大豆74%、トウモロコシ96%。これは誰でもアクセスできる数字。「自給自足の神話」を信じている諸氏がなぜ問題にしないのか?たった一つの真実見抜く、名探偵コナンの推理は「農水省事務方の苦悩」▲で明らかにした。
本題はこれから。アメリカ政府がこれら3品目の日本への輸出規制を提案したらどうなるだろう?危機管理の担当者は当然研究していなければならない。対策は?日本政府はどのように対処すればいいのか?消費者は?消費者は高くても買うだろうから、日本の農家はこの時とばかり増産するのか?「お前はそれを願っているのだろう」とか「そんなことを言うと、アメリカは本当にそうするかもしれないから、黙っていた方がいい」とは「言霊信者」の発言になり、政治経済問題ではなくて、宗教問題になってしまう。では政治経済問題としては、どのような対策が必要なのだろうか?アマチュアエコノミストTANAKA1942bの考えはこうなる。「対策案は考える必要なし」「演習問題としてはおもしろいテーマだ」となる。そこでこれを1つの演習問題として取り上げてみよう。
「日本はアメリカへの乗用車の輸出を数量規制すべきだ。さもなければわが国は小麦、大豆、トウモロコシの輸出を規制する」と要求してきたら?しばらく様子を見ることだ。しばらくすると、アメリカでの日本車が値上がりし、アメリカのディーラーが売り上げ不振から政府に文句を言い始める。しばらくすると小麦、大豆、トウモロコシの生産者も地元の議員に働きかける。「輸出規制をしたら代わりに政府が買ってくれるのか?そうでなかったら輸出規制はやめてほしい。さもなければ、今度の選挙で違う候補者を応援するから」と圧力をかける。市場経済では消費者が神様、民主制度では有権者が神様、この点は日本もアメリカも同じ。という訳でアメリカ政府は交渉では日本に対し強硬であっても、規制はできない。そしてその決定はアメリカ経済にとっても正解なのだ。アメリカは日本より、食料、エネルギーなどの自給率が高い。しかし世界経済のリーダーたるプライドがある以上、自由貿易の仕組みは壊せないのだ。
農作物3品に関して心配ない、との考えはTANAKA1942bの見通し。しかし「コメを輸入に頼ると、外交交渉に利用される」との懸念を持つならば、こちらの方こそ心配すべきだ。コメは自由化されてもアメリカ一辺倒ではなく、オーストラリア、タイ、中国も日本への売り込みを図るだろうし、さらにその他の国の中からも売り込みがあるだろうからだ。(これに関しては=その1=▲を参照。)つまり「尊農攘夷論者」は「食糧安保」ということについては、「真剣に考えてはいないな」と思えてくる。答えの出しにくい順から言えば、「ハイテク安保」「軍事面での安保」「農産物3品安保」の順になるのだろう。
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食糧安保・ハイテク安保という言葉を使った。問題を正確に理解するには言葉を少し変えてみる。どういうことか?コメ安保、小麦安保、大豆安保、トウモロコシ安保、ネギ安保、椎茸安保、い草安保、塩安保、液晶ディスプレイ安保、超微粒子研磨剤安保、テポドン安保、日本海不審船安保、尖閣諸島海域外国漁船安保・・・さらに細かく分類してみよう。93年のように日本産のコメが不作の場合の安保、自由化して輸出国が共同で輸出規制する場合の安保、アメリカ政府がコメ市場開放を求めて強硬姿勢の場合の安保。「食糧安保」と呼ばれているのは「コメ自由化して輸出国が共同で輸出規制する場合の安保」だけだ。大きなタイトルのようだが、実際はその一部しか考えていない。日本産が不作の場合の他国への協力要請はどうなのか?小麦は?トウモロコシの場合日本の畜産業への安保は?「コメは一粒も入れない」のための安保しか研究されないのか?
「自給自足」を考えるとき、単位地域をどうするか?によって評価は違ってくる。東京都、新宿区、大久保町、大久保2丁目町内、大久保さん一家、あるいは首都圏、関東地方、本州、日本国、大東亜共栄圏、東アジア地区、ASEAN諸国、地球の北半球、地球。地球単位で言えば自給していると言えるのだろう。たとえ地球外の太陽エネルギーを利用しているとしてもだ。
自給率の基準範囲は日本列島だけなのか?それならばある地域ではコメを作るが、ある地域では全く食料を生産しない人がいてもいいのか?大久保さん一家が自給してなくても、新宿区で自給していればいいのか?新宿区で自給してなくても東京都で自給していればいいのか?東京都で自給してなくても日本列島で自給していればいいのか?それなら日本列島で自給してなくても大東亜共栄圏で自給していればいいだろう。それができなくてもアジアで自給できればいいだろう。それも無理なら地球で自給できればいいだろう。それなら「自分達の食い分は最低限自分達で確保すること」の趣旨に反する。「自分達」とは日本列島の住民のことなのか?それならば朝鮮半島、満州国、大東亜共栄圏はどのように考えたらいいのか?
「自分達の食い分は最低限自分達で確保すること」とのスローガンは信仰宗教に近い精神的な目標と考えるがいい。具体的な政策にしようとすると、「食料」の具体的な品目、「自給」の地域など煮詰め始めると先へ進めなくなる。一人ひとりの心の中にしまっておく、精神的な目標、あるいは「信仰宗教」と理解するのがいいのだろう。
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「自分はしてないが、自給自足をすべきだ」と言う人と「自分は自給自足している。他の人もそうすべきだ。」と言う人がいるだろう。少なくとも「自分達の食い分は自分達で確保している」と自負する人はいるだろう。しかし残念ながらそれははずれ。自給しているのは「食い分のうちのコメだけ」「食い分のうちの野菜だけ」「肉だけ」。納豆・豆腐・味噌・醤油・パンそして塩。これらの原料は輸入に頼っているのだ。自給を目標にするには絶望的な量を輸入に頼っている。誇りを持って食料を生産している方々にも、この点少し意識して頂くとして、もう一つあまり意識していないだろうことを一つ。「消費者・お客様は神様だ」ということ。メーカー、生産者が新しい商品を開発し、宣伝広告し、消費者に売り込みを図る。それは知恵を絞り、金をかけた戦略=すさまじいサバイバル・ストラテジーだ。テレビ、新聞、雑誌,街頭での宣伝は激しい生き残りを賭けたもので、「メディアはイメージ操作している」と非難する人も出るくらいのものだ。
確かに企業イメージアップと商品を買ってもらうためには、ありとあらゆる手を尽くす。好感度タレントを起用し、商品の優れた面を強調し、マイナスイメージにつながることはさけ、商品名を連呼し覚えさす。確かにイメージ操作していると非難したくなる人が出るかもしれない。それでも神様がプイと横を向いてしまったら、作戦を変えなければならない。神様はなぜ気に入らないかも教えてくれない。その研究も大切な仕事の一つになる。ちょうど選挙で「なぜその人に投票したのか?」と言う必要がないので、どのようにしたら自分に多く投票させられるか?を研究するのと同じなのだ。
なぜコメの消費量が減っているのか?「我が社の主力商品の売り上げが伸び悩んでいる、何故だろう?」となると全社上げての対策が検討される。この疑問に答えられなければ会社の売り上げは鈍り、社員のボーナスは期待できず、放っておけば倒産の危険性さえある。いくつかの対策が打たれるに違いない。有効な対策が見つかるまで試行錯誤が続くだろう。その時つくづく思うに違いない「お客様・神様に気に入られるのは大変なことだ」と。それは大企業でも・中小企業でも同じ。製造業でも、情報産業でも同じ。テレビで言えば視聴者が神様。視聴率が下がったら、視聴者に気に入られるように内容を変えていく。その時「視聴者は現状を正確に把握していない。この番組を見て理解すべきだ」などと説教しても始まらない。その姿勢とは「我々情報提供側=サプライ・サイドは一般国民より賢くて、善悪・損得の判断ができるが、多くの国民はその能力に欠ける」と思い上った考えだ、ということになる。
パン業界も、インスタント食品の業界も、調味料も、ソフトドリンクも、業界内でのシェア争いと他業界との競争に力を注いでいる。そうして売り上げを伸ばしている。それは神様に気に入られるための努力なのだ。それに比べてコメはどうだろうか?
食管法の下、お客様は政府・議員だった。議員に働きかけ、議員を説得し、議員を動かし、政府に圧力をかければそれで良かった。消費者は神様ではなかった。地元議員に働きかけ、政府に消費者を説得してもらえば良かった。あるいは政府に代わって、政府の言葉として消費者を説得しても良かった。日本の食糧政策はどうあるべきか?政府とサプライサイドで決定し、消費者を納得させれば良かった。資本主義経済では珍しいケースだった。しかしそれに慣れ親しんだ人たちは異常とは思わなかった。実は旧社会主義国での食糧政策はこのようであった。そしてサプライサイドの近くにいて、この人たちを応援していたグループに社会主義に共感を覚える人たち・隠れコミュニストがいて、この人たちは「お客様は神様」ということを理解しないか、あるいは反感を持っていた。このためサプライサイドは未だに「お客様は神様」に気づいていない。
神様は結構冷たい。「コメは日本の文化だ」と言われれば、なにも反論せず頷いて、それでいて反対の行動をとることがある。それも理由を言わずにだ。神様を非難するのはたやすい。ただし、神様に嫌われ、コメ離れを覚悟してならいいだろう。これが資本主義経済・市場経済で、政治の世界の民主制度・デモクラシーも神様の態度は同じだ。従って日本ではほとんどの政治家、企業、生産者、商売人は神様を大切にする。メディアでさえ経営を考えているポストはそうだ。
個人がどのような信念で生きるか?これは自由だ。しかしその個人の生き方と社会のあり方は必ずしも一致しない。一人ひとりの人間にとって真理であることが社会全体にとって真理でない場合がある。「自給自足の神話」は人類の文明が発祥した時から、個人にとって真理でも、社会にとって真理ではなくなってしまったのだ。そして「自給自足」を神話としたことによって、人類の文明はさらに発展し続ける。ハイテク技術の「進歩」と「安保」のトレードオフの不安を抱えながらも、この進行を止めることはできないのだ。
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日本で「自分は、自分の食い分を確保している」と胸を張って言う人も実は自分の食い分の一部だけを確保しているにすぎない。では残りの分は誰が確保しているのだろうか?「ハイテク産業に従事している人たちが、残りの食い分を確保している」それは小麦の88%、大豆の
100%、塩の85%になる。日本国民の食糧の多くは、意外なことに農家ではなく、ハイテク産業が確保しているのだ。ハイテク産業が稼ぎ出す外貨=ドル。アメリカやその他の外国にあったドルが、ハイテク産業の輸出と同時に、日本にきて為替業者・金融業者・貿易商社の手を経て、もう一度アメリカその他の外国へ行くことにより、小麦・大豆・塩などが日本に入ってきて消費者の手元へ届けられるのだ。(実際はコルレス契約があるので、現金は動かさず情報のやり取りだけで処理する。)日本の食糧自給率が40%程度ということは、残りの60%は農家以外の業者が確保していることになる。
人類が自分達が必要とする以上の食糧を生産するようになってから、その生産性は向上し、日本では必要量の60%を食糧以外の商品で確保するだけの高い生産性を確保している、とも言えるのだ。ここは一つ食糧の60%を手当しているハイテク産業に感謝しなければならないのだろう。
そして動物性タンパクの摂取量が増えているのだから、牛・豚・鶏を殺してくれた人(かつては士農工商の他の階級だった人)にも感謝しなければならない。
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ところで「東京都民はコメを自給すべきだ」の公約で当選した都知事、再選は果たしたが三選はできなかった。他県のコメ作り農家が動いたからだ。東京がコメを自給し始めたため、いくら減反しても追いつかなくなり「都民にはコメ作りはやめてもらって、わたしらの作ったコメを買ってもらおう」と動き出したからだ。スローガンを受け入れ、「われら」を唱和していた東京都民は都知事選挙で「神様」の力を発揮した。さてそうなると東京はどうなるだろうか?元の東京になる。ということは?「自分達の食い分は最低限自分達で確保しよう」とする人が少なくなる。(全滅ではない)その分他県のコメ作りが盛んになる。東京では製造業と、それ以上にサービス業が盛んになる。一部のマネーゲームの勝利者が高額所得者名簿に名を連ね、その他大勢が後に続き少しづつ豊かになる。
高額所得者は自分の財産を有効に使おうとする。社会福祉に寄付したり、音楽・スポーツ・美術・工芸等のイベントに協賛したり、松方コレクションや大原美術館に匹敵するものを目指す計画も生まれる。下町だけでなく山の手でも「連」が開催される。
「金を儲けて、それを使うのが趣味だ」と言っても非難されなくなった。「趣味の経済学」だけでなく「趣味の金儲け」も市民権を得たようだ。経済成長に伴い税制が改革される。「累進課税をフラットに近づけ、法人税・相続税を軽減し、消費税を10%にし9%を歳入に、1%は国連に贈与する」という法案が可決される。教育バウチャー、負の取得税、コミュニティー・チャージは前向きに検討する、ということで継続審議になった。
猥雑な都市、マネーゲームの競技場としてのTOKIOが戻ってきた。有閑階級の恋愛沙汰や贅沢三昧がTVのモーニング・ショーの話題を独占する。一部の知識人が苦虫を噛みしめたような顔で批判する「マスメディアは国民を政治的アパシーになるように、イメージ操作している」と。そんな批判をものともせず、情報消費者・神様のご機嫌を取ろうと猥雑な情報をせっせと販売する。都民は情報産業に「正義の味方」を期待せず、販売される情報を消費し、それを楽しむ。
主要な盛り場では怪しげな商売が目立ち始めた。若者相手のキャッチセールス、新しいタイプの出会いサイト、高利の町金融、昔からあるピンク産業、夜の蝶とそれを追う殿方のための各種商売、どんな効果があるのか飲んでみなければ分からないドラッグ、一時自粛していたノーパンしゃぶしゃぶ、およそ日本に今まであった怪しげな商売がこの都市に集中し、表に出しにくい札束が飛び交っていた。時には警察の手入れもあった。現場の盛り場では野次馬が群がり、手入れの内容をあたかも見てきたかのように講釈する者もいた。まるで蜂の巣をつついたような騒ぎだった。この私悪の集まりはしかし、東京全体で見ると確かな繁栄への道でもあった。このように各部分は悪徳に満ちていたが、全部そろえばまさに天国であった。
田圃の跡地にはマンションが建ち、野鳥が少なくなる。しかし自然がなくなったわけではない。コメ作りをやめた分、製造業、サービス業、その他ソフトサイエンスに特化しただけ、都民の生活が豊かになり、人々が近隣効果に関心を持つようになり、環境保護への投資が増大した。かつて田圃だった土地が住宅地となり、その周辺には緑の公園が点在する。自然とは手つかずのままがいい、との考えもあるだろうが、手入れをしてこそより良き環境が保たれるのだ。1920年から始まった明治神宮の杜、80年経った今見事な森に育ち、日本の造園技術の高さを世界に誇れるものになっている。新しい東京では桜公園、ツツジ通り、ポプラ並木が高層マンションと共存している。中小河川が整備され、雨水の利用と地下への誘導技術の進歩により、田圃のダム効果を強調する人は少なくなっている。
いろいろ変化があるだろうが、沢山ありすぎて書き切れない。その他いろいろは、みなさんに想像して頂くとして、何が言いたいのか?そう、「東京都」を「日本」と置き換えて、「他県」を「アメリカ、オーストラリア、タイ、中国、その他コメ輸出国」と置き換えて考えて頂きましょう。日本がコメ市場を開放する、ということは、「東京がコメの自給をやめる」ということ。海外のコメ生産者が日本に輸出する、ということは「他県の農家が東京都民にコメを売る」ということ。東京のコメ市場を開放することによって、消費者としての東京都民と、生産者としての他県の農家、双方に利益があるのが理解できるだろうし、同時に、日本がコメ市場を開放することによって、日本国民と海外のコメ生産者に利益がある。ということが言いたくて、東京都民にしばらくの間コメ作りをやってもらった訳である。
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日本国民がコメ自由化を決断するとどうなるか?TANAKA1942bは1994年10月に「タイ米を買うことは、タイに迷惑か?」を書いた。さらに=その1=では「売り手と書いては平等だ」と書いた。しかし「外国がいつも売ってくれるとは限らない」との不安もあるようだ。そしてそれは、日本の生産者側にこそあるようだ。つまり「コメは売り手市場だ」との意識があるのだろう。市場ではどちらが「神様」なのか?しかし国際貿易という市場での「交換の正義」では売り手と買い手は平等だ。日本の売り手は認めたくないかもしれない。今まで政府をバックに売り手市場に甘えていたのだから。
「東京都民はコメを自給すべきだ」の政策が放棄されると、日本国内のコメ生産者にその恩恵がくる。同じように日本国民がコメ自由化を決断すると、外国のコメ生産者が喜ぶ。そして日本への売り込みによって豊かになる人が出てくる。このように自由貿易は双方に利益がある。決して「ゼロサム・ゲーム」ではないのだ。強いて名付ければそれは「プラスサム・ゲーム」なのだ。そこで日本国民はどのような態度をとるべきか?答えははっきりしている。「自由貿易を促進する政策をとるべきである」。かつて戦後の苦しいときに自由貿易で力を付けた日本経済、これからは周辺諸外国にも力を付けてもらい、せいぜい日本のハイテク商品をいっぱい買ってもらって、日本の食糧自給率を下げられるよう、政策を方向づけるべきだ、と主張するものである。
ところで、諸外国の立場を考えるなら、もう少し突っ込んで考えてみよう。それは=その2=で提案した、関税率の工夫、「全てのコメ輸入に10%の関税を上乗せして、それを国連に贈与する。」という試案だ。=その1=で書いたように、ふだんは「買わないよ」とけんもほろろ、それが突然「売ってください」とは、礼節を失ったわがままな態度だ。日本人らしくない。そう思いたい。あのようなことはもうナシにしたい。そろそろノブレス・オブリージェということを意識したいと思う。民主制度と市場経済が根付き、衣食足りて礼節を知る、私たち日本国民、それがふさわしい国民になったと自負しているのだが、諸氏の感想はいかがなものでしょうか?
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趣味としての家庭菜園が定着したのは何時の頃からだろうか?日曜大工が普及したのは何時の頃からだろうか?戦前でも、戦争直後でもなく、高度成長が終わりに近づいてからではないだろうか?
人類は「自分が必要とする」以上の食糧・日用品の生産を可能とする技術を手に入れ、「自分が必要とする食糧・日用品」のほとんどを他人に頼る生活を始めた。先進諸国では飢餓の恐怖から解放され、生活に必要な日用品は十分手に入り、これらを選ぶ基準は「必要度」から趣味・センス・カッコよさといったことに変わりつつある。一方「先端技術の進歩」とその「安全保障」がトレードオフの関係にあることがはっきりしてきた今、未来に対するはっきりしない不安が増大し、それ以上にこうした不安テーマを解説し、不安を煽り、救いを売り込む、解説業・著述業・宗教業が職業選択自由の保証の上に業績を上げてきた。
こうした状況が「自給自足の神話」を復活させているのかもしれない。このように考えると、ハイテク時代・高度情報化社会での生き方に対するヒントが見い出される。高度に分業化され、生活用品の多くを他人・他の社会に頼るようになった生活で、それから生じるストレスを解消する方法、それは家庭菜園・日曜大工・キャンプファイアー・サバイバルゲームなど文明発祥以前の生活を体験することかもしれない。幸い市場ではそれを意識してかどうか分からないが、消費者に選り取り見取り、多数の商品が提供されている。ここでも巧妙な市場メカニズムに感心させられるのだ。
さて、「自給自足の神話」、これが神話であることは証明できたのであろうか?「自給自足の神話」と「先端技術の進歩とその安全保障とのトレードオフ関係」これらについてはまだまだ議論はつきない。しかし 「自由貿易こそが国民を豊かにする」という常識だけはしっかり押さえていなければならない、と主張するものである。
私の個人的趣味につき合って、最後まで読んで頂いたことに感謝いたします。有り難うございました。
( 2001年7月9日 TANAKA1942b )