日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論
(13)在来種への思い入れ
消費者に気に入られる野菜とは
<日本における品種改良の伝統> 明治以前には品種改良のための公共の機関はなかった。すべて民間の人たちの手で――文字通り「手」で推進されてきた。その民間の意味だが、植物の栽培も動物の飼育も、2つのまったく別個の流れがあった。1つはいうまでもなく、農村で営まれた農業、もう1つは都会の趣味として発達した。観賞用および愛玩用の生物の栽培と飼育であった。江戸時代にはそれぞれの流れから、多くの研究書が生まれた。農村と都会では扱われる植物と動物の種類がまったく違っていた。しかし品種への関心はどちらも高く、それぞれたくさんの品種が作りだされていた。
 江戸時代都市の近郊で、その土地にあった野菜が栽培された。近郊農村の名前がそのまま品種名になった例が多い。江戸だと、滝野川、三河島、練馬など。京都だと、聖護院や鹿ヶ谷。野菜は新鮮さが必要で、昔は長距離輸送が難しかった。そこで大きな消費地である都会のすぐ近くに、栽培の中心地があったわけで、そういう土地ごとに特色をもった品種が成立した。これに対して工芸作物は、加工によって長期保存がなされ、遠く離れた場所へ運ぶことができた。このためどこか1カ所または数カ所に、全国を対象にした特産地、名産地が成立した。 山形のベニバナ、岡山のイ草、徳島のアイ、国分のタバコなどで、それぞれを代表する有名品種があった。
 これらの品種は、どのようにして作り出されたのか?育種方法についてはほとんど記録がない。しかしイネについて1つ、注目すべき書物がある。江戸時代半ばを過ぎた寛政年間(18世紀末)に、羽後国(秋田県)南部で書かれた「羽陽秋北水土録(うようしゅうほくすいどろく)」で著者は釈浄因(しゃくじょういん)という僧侶だった。 この本は農書ではなく、地元を中心に周辺地域一帯の自然から民間習俗まで、きわめて幅広い内容を扱った本で、その一部として農業を論じて、イネの品種について相当詳しく書き残している。この中で、品種に変異性があること、環境が変わると異変が生じること、突然変異に当たる事態を知っていたこと、管理をしないと品種が劣悪になること、などが実際に指摘されている。
 こういう事実と、のちに明治初めごろの民間育種の記事などから類推して、次のように推定される。まず作物の品種は、ときどきひとりでに変化すると信じられていた。いまからみると、イネなどは突然変異、野菜では自然交配が原因として多かったと考えられる。熱心な農民がこれを見いだし、その子孫を分離して大切にそだてた。こうやって新品種が作りだされた。もちろんそれは非常に根気のいる作業であった。 しかし多くの品種が実際に存在していた史実は、根気づよく忍耐づよい農民が、各地に少なからずいたことを証明していよう。
 農民たちは、伊勢参り、善光寺参り、金比羅参りなどの名目で旅をした。神社仏閣への参詣もさることながら、それはめったにみられない他国の農業の様子を、現地で見聞し勉強するまたとない機会でもあった。その途中で良さそうな品種を見かけると、たねをこっそり手に入れて──多くは密かに盗んで──持ち帰ったという。特定の藩の産物を、無断で他領へ運び出すのは、どんな小さな物であれ、禁止されていた。それをあえて破ったのである。品種の伝播も、極端にいえば生命がけであった。だが実際そうやって、品種が普及していったことが、これも各地の伝承などからわかっている。 (日本人が作りだした動植物」品種改良物語 から)
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<在来種> もともとその値域に土着していた生物種のことを言う。この定義は必ずしも明確ではなく、一般に歴史時代に入ってから、人類が外地から持ち込んだ生物種を導入種とか帰化生物といい、それ以前に土着した生物種を在来種という。しかし、近年では、たとえば新種の雑草が持ち込まれた場合に、それ以前に土着していた雑草を在来種という。 (平凡社「大百科事典」)
 「在来種」をキーワードに検索すると、馬・ミツバチ・川魚・草花・雑草・昆虫などがヒットする。そして「在来種」の反対語として、「外来種」が対応する。しかしここでは「野菜の在来種」を対象に、「品種改良」と「在来種」とを対峙した言葉として扱う。
京野菜 昔から守られてきた野菜・「在来種」というと、「京野菜」がまず頭に浮かぶ。どのような野菜があるか列挙してみよう。
聖護院ダイコン・辛味ダイコン・青味ダイコン・茎(中堂寺)ダイコン・桃山(大亀谷)ダイコン・時無し(藤七)ダイコン・佐波賀ダイコン・鶯菜・聖護院カブ・スグキ菜・松ヶ崎浮菜(八頭)カブ ・佐波賀(天神)カブ ・大内カブ・舞鶴カブ ・ミズナ・ミブナ・畑菜・もぎナス・賀茂なす・山科なす・鹿ケ谷カボチャ・ 伏見トウガラシ・田中とうがらし・桂ウリ・聖護院キュウリ・柊野(3尺)ささげ・エビイモ・タケノコ・堀川ゴボウ・京うど・九条葱・京セリ・京ミョウガ・クワイ・じゅんさい・花菜(準)・万願寺トウガラシ(準)・鷹峯トウガラシ(準)・・絶滅 ・・郡(コオリ)ダイコン・東寺カブ(カブ)・・ブランド京野菜・・紫ずきん(エダマメ)・金時ニンジン ・ヤマノイモ・
聖護院ダイコン 京野菜の一つ「聖護院ダイコン」がどのようなものか、ネットから引用しよう。
淀ダイコンは、正式には聖護院ダイコンといい、大きさ直径15〜20センチ、重さ1〜2.5キロの丸ダイコンです。 淀ダイコンのルーツは古く、今から170〜180年前の文政年間に尾張の国から黒谷(京都市左京区)の金戒光明寺に奉納された長ダイコンをもらい受け、栽培を続けているうちに形の丸い、味の良い淀ダイコンが生まれたといわれています。 もともと聖護院一帯が主産地でしたが、大正末期頃から久御山町でも栽培されるようになりました。最初は、丸い形ができませんでしたが農家の努力と品種改良などによって現在では、久御山町の東一口一帯が大きくて丸い淀ダイコンの主産地となっています。 淀ダイコンは、早場米を収穫した後の8月末から9月上旬に種が撒かれ、寒さが厳しくなる12月から1月にかけ収穫されます。 淀ダイコンの特徴は、甘くて苦みが少ないため豊潤で、その上きめがこまかく煮くずれがないためおでんや煮物に最適です。
練馬大根 大根の練馬か、練馬の大根かと言われるほどに名をはせた練馬大根は、元禄の江戸時代から栽培されるようになりました。当時すでに人口百万をこえる江戸の需要にこたえる野菜の供給地として、練馬大根の栽培も発展していきました。よい大根を作るための肥料は、江戸の下肥(人糞)が用いられ、野菜を納める代わりに受け取る貴重なものでした。 明治の中頃から東京の市街地が拡大していくのに伴い、練馬大根の生産も一層増大していきました。 その練馬大根は、たくあん漬けとして製品にされ出荷しました。また、干し大根としても販売され、一般家庭ではたくあん漬けが作られました。 その後、昭和の初めのころまで盛んに栽培され続けますが、 昭和8年の大干ばつや、何回かのモザイク病の大発生によって大きな痛手を受けました。その後も、食生活の洋風化・急激な都市化による農地の減少などにより、昭和30年頃から栽培が衰退し、練馬大根が出回ることがほとんどなくなってしまいました。 練馬大根の栽培が激減していくなかで、キャベツ栽培が主になり、現在の主要生産物はキャベツになっています。 (東京豊島区のホームページから)
大根の種類 大根はアブラナ科のキャベツなどと共に遠く地中海沿岸からシルクロード経由で日本に渡来してきた外来植物であった。それはコーカサスからパレスチナにかけての地域が原産とされ、1200年以上も前に、インド、中国、朝鮮を経て日本に入ってきたといわれている。そんな外来種であったが、日本人の嗜好に合わせ、日本の気候に合わせて交配を繰り返しているうちに、世界でも類のない変貌を遂げて、太さ、丸さ、長さ、大きさにびっくりするほどの変化を見せ、色や味、蒔きつけ収穫の時期にもそれぞれの特徴を見せるような豊富な変化をその地方地方に残してきている。いわゆる「地大根」として、各地に特産の味をもたらして来たのであった。 どのような品種があるのか、名前を列挙してみよう。ねずみ大根、戸隠地大根、灰原辛味大根、親田辛味大根、信州地大根、上平大根、小林系地大根、大田原地大根、大門大根、辛丸、練馬大根、聖護院大根、辛味大根、時無大根、三河島大根、宮重大根、守口大根、穎割れ大根、桜島大根、砂糖大根、二十日大根、山葵大根。源助だいこん。
 沢山の品種があるダイコン、現在では青首があまりにも普及してしまっているので、青首以外を地大根と呼ぶようになっている。
奈須比 なすの原産地はインド東部で、有史以前に作物化されたといわれている。中国へは5世紀以前に伝わり、広い範囲で栽培され、品種が分化した。日本へは8世紀頃までに伝わっていたとされている。奈良時代の正倉院の古文書にも記述があり、すでに1000年以上にわたって親しまれてきた。もともと熱帯性の野菜だったにもかかわらず、よほど日本人の嗜好に合ったのか、品種や栽培の改良により、北の地域でも作られるようになった。 ヨーロッパへは13世紀頃に、北アメリカへは16世紀頃に伝わったといわれている。なお、「なす」というよび名は宮中の女房言葉からきたもので、初めは「奈須比」とよばれていた。
 なすは沢山の種類があって、長卵形なす、卵形なす、丸なす、長なす、大長なす、米なす、小丸なす などに分類できる。品種を列挙してみよう。 青なす(涼風なす)、賀茂なす、民田なす、窪田なす、真黒なす、津田長なす、博多長なす、久留米長なす、仙台長なす、南部長、川辺長なす、ヘタ紫なす、千両なす、白なす、小布施なす、もぎなす、 このように多くの品種が栽培されていたが、最近では栽培が容易で色がよい長卵形の一代雑種が全国的に広く栽培され、地方色豊かないろいろな形のなすはしだいに姿を消している。
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<在来種への思い入れ> 日本のお百姓さんが大切に育ててきた野菜、選抜育種法で、その地方、その時代、消費者の好みに合わせて品種改良してきた。交雑育種法とか一代雑種法に比べれば短期間で劇的な改良が行われたわけではないが、ゆっくりと変化してきた。 食べる人たちの好みに合わせて変化してきた。その変化に合わない品種は「選抜」されてきた。劣性遺伝子のホモ接合体は子孫を残せず消え去って行くように、時代が変わることによって食べる人の好みが変わる、その変化についていけない品種は消えていった。 遠く、地中海やインドからはるばる日本にやってきた野菜が、日本の気候・風土・日本人の好みに合うように品種改良されて「在来種」として生き延びてきた。 その変化が大きくなってきた。一代雑種の普及がその要因になっている。こうした傾向に対して「在来種を守ろう」の動きも出てきた。その主張にも耳を傾けてみよう。
野菜は近くで獲れたものを食べる 人間が食べてきたものは、長い間、自分が生きているその地域に存在していたものに限られていた。生理機構はその食べものに合わされているから、食の基本は自分の身のまわりで獲れたものを食べるということである。 そこに住んでいる人間はそこにあるものを食べてきて、体質・嗜好もそれに合わされきた。日本人が日本にあるものを、もっと限定すれば、一日歩いて往復できるくらいの範囲の中のものを食べて生きるというのが原則である。 地球の彼方のどこからか食べものをもってくるなど、流通コストがかかるからというものではなく、もともとは考えられもしなかったことだ。よそにあるものを持ってきて食べるというとき、それを珍しがって食べてみる程度であれば問題はないが、もともと自分のまわりで獲れたのでないものを食べつづけるのは非常に危険な場合がある。その人の生理機構に合わない場合が起こりうる。
そんなにいい野菜なのに消えていく 固定種・原種の野菜栽培は手間がかかるのと、出荷が一定しない(旬のみですから)、形が不格好であまり売れない(有名なブランドものは別)、農業人の高齢化問題、など、前途多難なのです。
当然、出荷量はあまり多くないのでスーパーには出ない。あっても高額(笑)
となりの畑でF1品種の作物がどんどん成長して大きな実をつけていて、自分の畑では成長がまばら。で、農協の買い入れでも大きな差が出る。(とにかく見栄えが優先されていますから)
それでも、固定種・原種を作り続けていくことができますか?
さらに「F1品種」の章で、ほんとうの固定種・原種を育てていくには、半径20K圏内に他の同品種が栽培されていないことが条件と書きました。
となりの畑で、同じ品種のF1種を栽培していると、風や虫たちでF1種と固定種が交配してしまうんです・・・。
・・・そうして固定種・原種の種がなくなっていくのだろうか・・・
有機農法にピッタリ合うのは、もともと有機農法で栽培していた、固定種・原種なのです。
・・・次の世代に残す種は、バイオテクノロジーで改良された不自然な種しかなくなってしまうのだろうか・・・
そして農薬漬けの野菜しか残らなくなって、地球の生態系、人の体も崩れていくのでしょうか。
見た目と経済追求の、F1種 「僕は、F1種の問題は、交配の方法、目的にあると思うのです。交配自体はすごく古くから行われいるんですよ。でも、昔は美味しいものがたくさん採れればいいな、ということが目的だったんです。その目的には何も悪いことはないし、「美味しい」ということは栄養があるということでしょう。」 「ミネラルが多ければ多いほど美味しい。自分の体に合っていればあっているほど美味しい。そうであれば、その交配の目的は正しい気がします。それなら良いんだけれどもF1種は味よりも、食べる人の健康よりも、とにかく見た目と経済追求。店頭で萎びないとか、サイズが揃うとか。そして、いかに毎年種をかってもらうかといった売る側のメリットばかりを考えて開発されています。」
会津の伝統野菜を守る会 地産地消のうごき・・・地元の農産物を地元で消費していこうという呼びかけで、食品の安全性が問題化する中で注目を集めています。 地元産品や地域資源を住民が再発見することで、地域産業・観光に結び付け、地域経済の活性化に結び付けようとする取り組みです。
 地産地消を促進し、土産土法へ・・・その地域で採れた農産物をその地域独自の調理方法で食べるもので、地域の先人の知恵が凝縮しています。 会津の気候・風土の中で育まれてきた会津伝統野菜を会津ならではの調理方法・味付けでおふくろの味を守ります。 食文化を継承するとともに、新しい商品開発を試み新しい伝統をつくりあげます。
ふるさと野菜生産振興協議会 このような中で、全国的に日本型食生活見直しムードと併せて、こだわりの食材として地域伝統料理の見直しが行われています。更に、京野菜、加賀野菜をはじめとして、全国的に伝統野菜の振興を地域の活性化に結びつけようとの動きがあります。 また、こうした伝統野菜は、オンリーワン産品であり、本県が進めるオンリーワン・ナンバーワン農林水産物の生産・販売振興施策に合致しています。 このため、県内各地で昔から栽培され物語が存在するものや、法事、祭事地域食文化と関係するもの、全国流通している品種とは異なり在来種である野菜を「ふるさと野菜」と位置づけ、掘り起こしを行うとともに、調理方法の把握等も行い、地域の伝統的な野菜に対する県民の皆様の意識を高めるとともに、食材供給や地域食文化の発展を図ろうとするものです。 本年度は、関係者による「ふるさと野菜生産振興協議会」を設立し、「ふるさと野菜」の選定や調理方法の把握を行うとともに、シンポジウムの開催を予定しています。
F1、私は食べたくない F1種は、子供を作れない種です。そう、果実が沢山採れても、その子供が生まれないように操作をされた種なのです。多くは、ホルモン処理がされています。その果実を食べることによる、人への影響はまだはっきりしていないのが現状ですが、どうも少子化やメス化現象と関係がある様です。 F1種の種は、生産性と見栄えが在来種に比べて飛躍的に良くなっています。沢山とれるし、かたちもきれいだからその種を使うって訳です。そして、子供が出来ないから毎年買う訳です。そうです、大きな種子会社の営業戦略です。その裏には、アメリカの国家戦略も垣間見れる様です。例えば、代表的な京都野菜の種が、アメリカで作られていると言う現実がすでにあります。 できれば、私は食べたくないな。 味も違います。本来持っていた味が無くなってしまっています。普通、有機野菜だから美味しいと言いますが、それよりもこのことのほうが味を左右するのです。 試しに、種の袋を見て下さい。F1、一代交配、(タキイ)交配などの種子会社の名前が書いてあるのは、すべてF1種子です。みなさんもぜひ一度見て下さい。ほとんどがそうだから。できれば、在来種、固定種の野菜を食べてみて下さい。
一律化する味 昔から地方に伝わる伝統的な野菜が各地で見直されるようになってきています。 こうした伝統的な野菜は、栽培に手間がかかるとともに、形がそろわないことなどから減少傾向にあります。 一方、全国流通している野菜では栽培が少数の品種に集中し、味も一律化してしまっています。
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<野菜作りが産業になる> 一代雑種という消費者の好みに敏感に応えられる品種改良方法が普及して、野菜作りが産業になってきた。今普及している品種と違った味が好まれるなら、種子会社はそうした品種を販売するだろう。「消費者はこのような淡い味ではなく、もっと渋い味を望んでいる」「形や、味はむしろ不揃いの方が消費者に好まれる」と判断したら、種子会社はそのような種子を開発するだろう。 「売れる品種が普及する」ということは「消費者に好まれる物が普及する」ということだ。
 遠く、中南米・地中海・インドで生まれた野菜が日本に入ってきて、品種改良され日本人好みの野菜に変わっていった。お百姓さんは、日本の中でもその地方の気候・風土・消費者の好みに合うように品種改良をかさねてきた。それは食べる人の好みに合わせていくことであった。平和な時代=江戸時代に野菜作りは産業として、その性格を確立していった。現代ではさらに品種改良の技術が進んだので、多様化する消費者の要求に応えられる体制ができている。 そうした現代、「多くの人が好む現代的な味ではなくて、今は消え去ろうとしている野菜を味わいたい」という贅沢が言えるほど日本は豊かになったようだ。
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<主な参考文献・引用文献>
「日本人が作りだした動植物」品種改良物語   日本人が作りだした動植物企画委員会編   裳華房       1996.4.25
( 2003年11月17日 TANAKA1942b )


(14)外来種が定着し在来種となる
野菜の原産地・導入育種法
<植物を作物と変えた人類> 人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。 このように文明が発祥した時代、その食糧増産の技術とは、野生の植物を栽培作物と変えたことだった。自給自足の神話
 農耕が始まったころの祖先たちが利用していた原始の作物は、現在の私たちには想像できない、まったく異なる姿・形をしていたと思われます。たとえば、イネの起源になったインド・ベンガル地方の野生イネは、穂がつくと、すぐに実がぽろぽろと地上に落ちる雑草のようなものでしたし、南米・ペルーが原産地のトマトの野生種は、小指の先ほどの大きさにしかならない、ちょっぴり毒を持った緑の果実でした。
 私たちの主食のイネで少し詳しく述べてみましょう。イネの栽培種と祖先種の比較については、遺伝学研究所の岡彦一博士(1962年)の研究が有名です。博士はインドの山奥に祖先種「オリザ・ペレニス」を見出し、その調査から、野生イネは、(1)休眠が深く、発芽や出穂が不揃いであり、(2)穂は貧弱で、種子は小さく、脱粒しやすい、(3)肥料を与えても葉が繁るだけで子実の収穫は上がらない、と記載しています。この事実から、栽培イネが長年月の改良によって、(1)発芽や出穂が均一になり、 (2)食用になる子実や穂が大きく、たわわに実っても実が落ちず、(3)肥料による増収効果もある作物に変身したことがわかります。
 ここに示したイネの例と同じように、他のすべての作物にも祖先種があって、今の栽培種があるのですから、私たちが日頃なにげなく食べている作物はすでに、「人間に都合の良いように改良された」植物の姿なのであり、「自然のままの」植物なのではありません、山野草を除けば、私たちの日常の食材は1万年にわたる人間の手の加わった「奇形」植物なのです。
<作物になって多様になった>  自然の中で生き抜く逞しさが減少した作物は、しかし、人間との係わりを持つことで、べつの能力が引き出されてきました。それは、作物になって多様になったことです。
「人間の手が加わって、植物本来の多様性が失われた」と主張する人もいますが、実際はどうでしょうか。人間の手が加わらない祖先種には、たしかに特定の条件下で生き抜く逞しさがありましたが、多様性は多くありませんでした。彼らは生き残るために姿・形を作りだし、それ以外の性質はそぎ落として生きてきたからです。例えば、地中海原産のアブラナ科植物ケールは、ブロッコリーやキャベツ、カリフラワー、コールラビ、コモチカンラン、ハボタンなどの祖先種ですが、人間とともに、多様な地域に適応したからこそ、これだけ多様な作物になったと言えそうです。
 バビロフ博士の作物の起源中心地を見るとわかるのですが、どの植物も今では世界各地で、人々の好みや風土に応じた品種が誕生し、それぞれの食卓を飾っています。明治政府が「コメを作るのは無理」と考えた北海道が、今では日本一のコメの生産地です。しかも、「ほしのゆめ」などのおいしいコメの品種が誕生しています。人間の手が加わることで作物の多様性は無限に広がっています。
 このような人間の手による作物の適応能力の拡大や多様性は植物にとっては迷惑なことだったのかもしれませんが、作物は人間とともに生きることで繁栄を確保し、環境適応能力の高い植物を作物にしてきたのではないでしょうか。作物は今後とも、それぞれの地域の人々の手によって、ますます多様性を増すことになるでしょう。
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<作物が発祥した8つの地域>  イワン・パビロフ博士は12年にわたって世界中を回り、膨大な数の栽培植物(作物)とその近縁植物を収集し、それを種ごと、属ごとに厳密に分類しました。その結果、それぞれの作物について、性質が異なる多様な栽培種のタイプ(変異)が集中的に発見される特徴的な地域のあることがわかり、彼はその地域をその作物の発祥地だと考えたのです。栽培される過程では、いろいろな性質をもった栽培種が生まれるに違いありませんから、古くから栽培されているところ、つまり、作物の発祥地の近くには、それだけで多くの異変が保存され、蓄積されていると考えたのです。 この作業仮説をもとに、バビロフは、それぞれ独立して発達した8カ所の「作物の起源中心地」を明らかにしました。
 この8地域はちょうど古代文明が栄えた地域とほぼ重なっていました。このことは「農耕」を始めることができた人々が、その後の文明の誕生を可能にしたことを物語っています。それぞれの作物は、この「作物の起源中心地」から世界各地へと伝播し、今では世界の隅々に広がっています。
 このバビロフの「起源中心地」に、わが国は空白のままです。博士は1929年に来日して、温州ミカンと桜島ダイコンに強い印象を持って帰ったと記録されています。ちなみにわが国がルーツの代表的な作物には、クリ、フキ、ワサビなどがあります。
(「食の未来を考える」から)
<バビロフ博士による作物の起源中心地>
中米・メキシコ トウモロコシ、サツマイモ、日本カボチャ、インゲンマメ、トウガラシ
南米 ジャガイモ、ワタ、トマト、西洋カボチャ、ラッカセイ、イチゴ
中国 ダイズ、ソバ、アズキ、ハクサイ、モモ、ネギ
インド・マレー サトウキビ、イネ、キュウリ、サトイモ、バナナ、ココヤシ、ナス
中央アジア ブドウ、タマネギ、ホウレンソウ、リンゴ
中近東 コムギ、オオムギ、エンドウ、ソラマメ、ニンジン
エチオピア高原 モロコシ、オクラ、コーヒー、ゴマ
地中海 オリーブ、レタス、キャベツ、アスパラガス、サトウダイコン、ダイコン
<導入移植法> 海外などからいろいろな変わりものの系統を集め、その中から、これはと思うものを見つけて品種にするのが導入育種法。コロンブスのアメリカ到着から南北アメリカから多くの野菜がヨーロッパに持ち込まれて、ヨーロッパの気候・土壌に適応するように改良された。それには多くの時間がかかった。それらが中国や東南アジアを経由して日本に持ち込まれた。そして素直に日本の気候・土壌に馴染んでいった。 日本国内でも嵐嘉一の「近世稲作技術史」にあるように、九州の早稲種が東北で晩生種として栽培されたのも、導入移植法と言える。またお百姓さんがお伊勢参りで他藩の稲を持ち帰って自分のところで栽培したのも導入移植法と言える。
 地産地消や身土不二に拘っていると導入移植法は利用されない。野菜が地産地消に拘って地元だけで栽培・消費されていたらこれほど豊かな野菜を楽しむことはできなかった。南アメリカ大陸アンデス山脈の麓で小指ほどの青い実を付けたトマトがひっそりと生息していただろう。トマトにとってもさびしい生き方に違いない。 江戸時代のお百姓さんも旅に出て珍しい品種に出会い、育てる楽しさはどうなっていただろう。好奇心が旺盛な人たちが新しい品種を導入改良し、人々の食卓が明るく、楽しく、豊かになる。現代でも韓国・東南アジアの食材・料理が普及されつつあり、南米ペルーの人たちが見向きもしなかった魚、ペルー近海でとれるウミヘビの一種が日本の回転すしで「アナゴ」として食されている。日本産のコシヒカリがタイで好評なことはこのシリーズのトップで書いた。 好奇心と、物事に拘らない遊び心が日本の食卓を豊かにする。
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<護るべき自然とは石器時代の自然なのか?>  「農業の多面的機能を重視すべきだ」との主張がある。その主張には「農村にこそ護るべき自然が残っている」との思いがあるようだ。 前回<在来種への思い入れ>で取り上げた意見には、「品種改良により、従来の野菜が変わってしまった」「特に、一代雑種は種子会社の利潤追求の道具になっている」「遺伝子組み換えは自然を征服できるとの思い上がりだ」 こうした思いがあるようだ。そこには「自然を破壊するな」との主張がある。「農村にこそ自然が残っている」「都市化が自然を破壊する」「経済効率だけを追求して、農業が自然と共生する面を無視している」こうした主張が叫ばれる。ではその場合の「自然」とは何なのか?どのような状況なのか? 人類の文明が発祥したときから「自然破壊」は始まったのではないのか?だとすると「自然を護れ」との自然とは「石器時代の自然を護れ」ということになる。
 自然とは「天然のままで人為の加わらないさま」であり、哲学用語として「人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態(広辞苑から)」とされる。だとすると、いわゆる原始自然こそ、本来の自然であって、いまや私たちのまわりには、真の「自然」はみるべくもない、となる。 農業問題を扱っていくと次のような論法に出会うことになる。一代雑種⇒種子会社のタネ支配⇒種子会社による農業支配、農業効率化追求⇒農業の多面的機能無視⇒自然環境破壊。「農業は先進国型産業である」というテーマから、さらにもう少し突っ込んで考えて見よう、と思うようになる。次の文は品種改良の歴史を調べようと「文明が育てた植物たち」を読んでいる内に見つけたもの。 視野狭窄にならないように、たっぷりの遊び心で、好奇心を満足させるよう、こうした方向からも考えてみようと思う。
 文明の恩恵を受けたからだろうか、ヒトは考えることに興味を持ち始め、そのうちに、考えることの迷路に立つことに歓びを見いだすようになってきた。すぐには役に立たないことのうちにも面白くて止められないことがいろいろあることを知るようになったのである。言葉で情報を伝達するようになると、知的な蓄積量が増えてくる。知的好奇心を刺激する機会も増えるのは当然である。 アルタミラの洞窟に絵を描いても腹の足しになると誰も期待していない。それでも、最低限の意志を伝達するという実用だけでなく、絵によって美しいものを創造する歓びを知るようになる。
 知的好奇心は、なぜ、どうして、という問にも促される。地球上になぜこんなにさまざまな生物が住んでいるのだろう。どれくらい多様な生物が地球上のは生きているのだろう。あれもこれも、役に立ったり、害になったりと、実用に関わりもあって生物に名前が付けられ、どれのことを言っているのか容易に情報交流ができるように、たくさんの生物をなんらかの規準によって分類整理する試みも始まってくる。 利害関係のあるものを識別し、伝達するための命名、分類をするという実用に促されて始まった行為かもしれないが、ヒトにとってはなんの役にも立たない生物がこんなにも多様に分化しているとすれば、それが生きているのにはなにかの意味があるに違いないと考える人も出てくるだろう。なぜ、という問いかけには、意味を見いだすための観察や、やがては解析も行われるようになる。 しかし、役にも立たないと言われることに全力を尽くすようになったヒトの生き方に、ほかの生物には見られない特性が創られたのである。それこそ、文化であり、科学や芸術の始まりである。新石器時代に入って、ヒトははじめて文化と呼ばれるだけの知的活動を始め、それが動物とはひと味違った知的存在としてのヒトを創りだしたのである。 (「文明が育てた植物たち」から)
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<白菜は日本の基本食?>  新米の飯を、一箸つまむ。見たところは、いつもと、そう違いはない。冷夏に見舞われた北の方の産で、出荷はかなり遅れたらしい。その地で、心労と勤労とを一瞬思い浮かべながら、かむ。▼白菜漬けを、少しつまむ。ご飯のほのかな甘みを、ほどよい酸味が引き立てる。飯をもうひとつまみし、みそ汁をすする。栄養のことはともかくとして、晩秋の「日本の基本食」だけで、ほぼ満ち足りた。 (2003年11月24日朝日新聞朝刊「天声人語」から)
 「ハクサイ(結球白菜)が日本に初めて導入されたのは比較的新しく、1875年であった。……明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていたので、栽培は広がらなかった」(平凡社「大百科事典」から)
 天声人語にあるように、白菜は日本のご飯食にピッタリの食材と言える。でもその白菜が日本で栽培されるようになったのは、比較的新しい。清国の原種に頼ることなく国内でハクサイのタネをとることができるようになったのは、沼倉吉兵衛が1916(大正5)年に他の十字科植物の花粉がまざらないようにして、タネをとることに成功してからだった。これは宮城県の松島でのこと。一方、そのころ愛知県の野崎徳四郎も1919(大正8)年にハクサイのタネを取ることに成功した。 1922(大正11)年には宮城県農事試験場から、育種業者として独立した渡辺穎二が新しい白菜の品種を育てることに成功した。1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国から大量のハクサイのタネが輸入されていたとのことだが、この時期以来だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネに取って代えられるようになっていった。
 板倉聖宣著「白菜のなぞ」は中学生でもわかるやさしい文章で、白菜が日本で定着する経緯が詳しく書かれている。品種改良に関するおすすめ本の一冊です。
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<主な参考文献・引用文献>
文明が育てた植物たち           岩槻邦男          東京大学出版会   1997. 5.15  
食の未来を考える             大澤勝次・今井裕      岩波書店      2003. 6.27 
白菜のなぞ                板倉聖宣           仮説社       1994.11. 1 
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉       裳華房       1998.11.25  
花の品種改良入門             西尾剛・岡崎桂一      誠文堂新光社    2001. 6.15
植物の育種学               日向康吉          朝倉書店      1997. 3. 1
( 2003年11月24日 TANAKA1942b )

(15)日本人に適した品種改良
好奇心と遊び心
<芥川龍之介「煙草と惡魔」> 煙草は、本來、日本にはなかった植物である。では、何時頃、舶載されたかと云ふと、記録によって、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあったり、或は、天文年間と書いてあったりする。 が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行はれてゐたらしい。それが文祿年間になると、「きかぬもの たばこの法度錢法度、玉のみこゑに げんたくの医者」と云ふ落首が出來た程、一般に喫煙が流行するようになった。――
 そこで、この煙草は、誰の手で舶載されたかと云ふと、煙草は、惡魔がどこからか持って來たのだそうである。そうして、その惡魔なるものは、天主教の伴天連がはるばる日本へつれて來たのだそうである。
 このように始まる、芥川龍之介の短編「煙草と惡魔」。原文の味を損なうことを承知のうえで、少し引用しよう。
 天文十八年、惡魔は、フランシス・ザヴィエルに伴(つ)いてゐる伊留滿の一人に化けて、長い海路を恙(つつが)なく、日本へやって來た。所が、日本へ來て見ると、西洋にゐた時に、マルコ・ポオロの旅行記で読んだのとは、大分、様子がちがふ。 第一、あの旅行記によると、國中至る處、黄金がみちみちてゐるやうであるが、どこを見廻しても、そんな景色はない。キリシタンの信者も出來てないので、誘惑する相手もいない。さしあたり退屈な時間を、どうして暮らしていいか、わからない。───
 そこで、惡魔は、いろいろ思案した末に、先(まづ)園藝でもやって、暇をつぶさうと考へた。フランシス上人は、それは至極よかろうと、賛成した。惡魔は、早速、鋤鍬(すきくわ)を借りてきて、道ばたの畠を、根気よく、耕しはじめた。
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 それから、幾月かたつ中に、惡魔の播いた種は、芽を出し、莖をのばして、その年の夏の末には、幅の廣い緑の葉が、もう殘りなく、畑の土を隠してしまった。が、その植物の名を知っているものは、一人もいない。フランシス上人が、尋ねてさへ、惡魔は、にやにや笑ふばかりで、何とも答へずに、黙ってゐる。
 或日の事(それは、フランシス上人が傳道の為に、数日間、旅行をした、その留守中の出來事である)、一人の牛商人(あきんど)が、一頭の黄牛(あめうし)をひいて、その畑の側を通りかゝった。見ると、紫の花のむらがった畑の柵の中で、黒い僧服に、つばの廣い帽子をかぶった、南蛮の伊留滿が、しきりに葉へついた蟲をとってゐる。 牛商人は、その花があまり、珍しいので、思はず足を止めながら、笠をぬいで、丁寧にその伊留滿へ声をかけた。
 ──お上人様、その花は何でございます。一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依して居りますのですから。
 ──この名だけは、御氣の毒ですが、人には教へられません。これは私の國の掟で、人に話してはならない事になってゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きっとあたります。あたったら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。 なに今日でなくっても、いゝのです。三日の間に、よく考へてお出でなさい。誰かに聞いて來ても、かまいません。あたったら、これをみんなあげます。この外にも、珍陀(ちんだ)の酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利(はらいそてれある)の絵をあげますか。
 牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。
 ──では、あたらなかったら、どう致しませう。
 ──あたらなかったら、私があなたに、何かもらひませう。賭です。あたるか、あたらないかの賭です。あたったら、これをみんな、あなたにあげますから。
 ──よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有るものを、差上げませう。
 ──よろしい。よろしい。では、確かに約束しましたね。
 ──確に、御約定致しました。御主エス・キリストの御名にお誓い申しまして。
 ──では、あたらなかったら──あなたの體と魂とを、貰いますよ。
 かう云って、紅毛は、大きく右の手をまはしながら、帽子をぬいだ。もぢやもぢやした髪の毛の中には、山羊のやうな角が二本、はえてゐる。牛商人は、思はず顔の色を変へて、持っていた笠を、地に落とした。日のかげったせゐであらう、畑の花や葉が、一時に、あざやかは光を失った。牛さへ、何におびえたのか、角を低くしながら、地鳴りのやうな聲で、唸ってゐる。………
 ──私にした約束でも、約束は、約束ですよ。私が名を云へないものを指して、あなたは、誓ったでせう。忘れてはいけません。期限は、三日ですから。では、さやうなら。
 人を莫迦にしたやうな、慇懃な調子で、かう云ひながら、惡魔は、牛商人に丁寧なおじぎをした。
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 牛商人は、うっかり、惡魔の手にのったのを、後悔した。このまゝ行けば、結局、あの「ぢゃぼ」につかまって、體も魂も、「亡ぼることなき猛火」に、焼かれなければ、ならない。それでは、今までの宗旨をすてゝ、波宇寸低茂(はうすちも)をうけた甲斐が、なくなっていまふ。
 牛商人は、とうとう、約束の期限の切れる晩に、又あの黄牛をひっぱって、そっと、伊留滿の住んでゐる家の側へ、忍んで行った。 そこで、牛商人は、毘留善麻利耶(びるぜんまりや)の加護を願ひながら、思い切って、豫(あらかじめ)、もくろんで置いた計畫を、実行した。計畫と云ふのは、別でもない。──ひいて來た黄牛の綱を解いて、尻をつよく打ちながら、例の畑へ勢よく追い込んでやったのである。
 牛は、打たれた尻の痛さに、跳ね上がりながら、柵を破って、畑をふみ荒らした。角を家の板目(はめ)につきかけた事も、一度や二度ではない。その上、蹄の音と、鳴く聲とは、うすい夜の霧をうごかして、ものものしく、四方(あたり)に響き渡った。すると、窓の戸をあけて、顔を出したものがある。暗いので、顔はわからないが、伊留満に化けた惡魔には、相違ない。氣のせゐか、頭の角は、夜目ながら、はっきり見えた。
 ──この畜生、何だって、己(おれ)の煙草畑を荒らすのだ。
 惡魔は、手をふりながら、睡むそうな声で、かう怒鳴った。寝入りばなの邪魔をされたのが、よくよく癪にさわったらしい。
 が、畑の後へかくれて、容子を窺ってゐた牛商人の耳へは、悪魔のこの語が、泥烏須(でうす)の聲のやうに、響いた。………
 ──この畜生、何だって、己(おれ)の煙草畑を荒らすのだ。
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 それから、先の事は、あらゆるこの種類の話のやうに、至極、圓満に完(をは)ってゐる。即(すなわち)、牛商人は、首尾よく、煙草と云ふ名を、云ひあてゝ、惡魔に鼻をあかさせた。そうして、その畑にはえてゐる煙草を、悉く自分のものにした。と云ふやうな次第である。
 が、自分は、昔からこの傳説に、より深い意味がありはしないかと思ってゐる。何故と云へば、惡魔は、牛商人の肉體と霊魂とを、自分のものにする事は出來なかったが、その代わりに、煙草は、洽(あまね)く日本全國に、普及させる事が出來た。して見ると牛商人の救抜が、一面堕落を伴ってゐるやうに、惡魔は、ころんでも、たゞは起きない。誘惑に勝ったと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。
 その後の惡魔のなり行きは、豊臣徳川兩氏の外教禁遏(ぐわいけうきんあつ)に會って、始めの中こそ、まだ、姿を現はしてゐたが、とうとう、しまいには、完(まった)く日本にゐなくなった。──記録は、大体こゝまでしか、惡魔の消息を語ってゐない。唯、明治以降、再、渡來した彼の動静を知る事が出來ないのは、返すがえすも、遺憾である。………
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<タバコの伝来と普及> 喫煙の習慣が日本へ紹介されたのは天正末年〜文禄年間(1570-1590)ごろで、タバコ種子が伝来し、栽培が始まったのは慶長年間(1596-1615)の初めごろと言われている。当時、どれだけの品種がどのように伝来したかは明らかでないが、鎖国体制が敷かれた寛永16(1639)までは外国船の来航も多く、それらの船によってタバコの種子が伝来したことは確かである。 そして、たばこの喫煙の習慣やタバコの栽培は、再三出されたたばこ禁煙令(禁制令)にもかかわらず、武士、僧侶、あるいは廻国修験者らによって各地に急速に拡散されて、伝来からわずか70年あまりで全国にある程度まとまった多くのタバコ産地が形成されていたことや、江戸時代の末期にはきわめて多くの品種が栽培されていたことは史実として残されている。(「日本人が作りだした動植物」から)
<好奇心があって、お人好しで、知恵のある日本人>
 「煙草と悪魔」に描かれた日本人、牛商人は好奇心があって、伊留滿が何かしていると興味を持って話しかけてくる。お人好しで、伊留滿が提案した賭にのってしまい、悪魔だと気づいても取り消せない。それでもせっぱ詰まると黄牛を使って「煙草」の畑だ、ということを見破る。この「好奇心」「お人よし」「知恵もの」というキーワード、日本人にピッタリだと思う。導入育種にしてもヨーロッパの人たちは警戒心が強かった。 なかなか在来種にしていない。日本人のように「好奇心」があって、「お人よし」で警戒心のあまりない日本人、「知恵もの」ぶりを発揮して、品種改良に取り組めば、好奇心いっぱいで財布の紐の緩い消費者が多い日本、いいものはすぐに普及する。とにかく古いもの、伝統を守ろうと言う人は一握りだから、品種改良は日本人に、そして日本の社会にピッタリだと思う。
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<沙漠緑化に命をかけて=遠山正瑛> このシリーズで取り上げる品種改良は農業関係、コメ、野菜、果物を扱っている。品種改良については、「沙漠緑化に役立つ植物の品種が改良されるといい」と思う。世界各地で日本人が沙漠緑化に取り組んでいる。 遠山正瑛(せいえい)氏の活躍はNHKテレビ「プロジェクトX」(第99回 2002年10月15日放送「運命のゴビ砂漠」〜人生を変えた三百万本のポプラ〜)でも取り上げられた。その遠山正瑛の著書「沙漠緑化に命をかけて」から、「ブドウ近代化モデル園」の計画から一部引用しよう。
 遠山正瑛氏は中国・内モンゴル自治区で砂漠緑化活動を評価され、2003年「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞(平和・国際理解部門)を受賞されました。喜ばしいことです。
 私は中国科学院蘭州沙漠研究所と覚書を交わし、緑化事業に向けて双方の協力を確認しあった。中国側は、この研究所に私たちの拠点を設置してくれた。 私は最初に事業地として沙波頭(サボトウ)実験站(テン)のある騰格里(トングリ)沙漠を選んだ。沙波頭実験站は、中国の沙漠研究の中核を担う存在である。それだけに、ここでの事業に成功すれば、他の実験站に影響を与えるのは必至だ。私はその波及効果を期待したのだ。 その沙波頭実験站の隣接地域に「ブドウ近代化モデル園」を作るのが私の計画であった。ブドウを選んだのは、いわばブドウが中国の停滞した農業を象徴する存在であったからだ。先にも触れたが、紀元前 300年にブドウ栽培が定着し、中国を代表するブドウ生産地である吐魯番にして、その栽培法は古典的としか言いようのないものであった。他の地域のブドウ栽培も私は視察したが、差はないと言えた。 中国のブドウ栽培は2000年来、ほとんど改良されていなかったのだ。
 私はそのブドウ栽培に日本の技術を導入し、立派なブドウ園を作りたかった。私がいくら「日本の技術をもってすれば緑化は簡単だ」と繰り返しても説得力は弱い。何より、実証しなければならない。ブドウ園を成功させることで、その後に控える沙漠の緑化事業に弾みがつこことを私は期待したのだ。 私のブドウ園計画に同意した中国側は、5ヘクタールの土地ならぬ沙漠を提供してくれた。私はこのブドウ園で、品質の高い、すなわち商品価値の高いブドウ栽培を目指した。私の目標は、経済的に自立した農業を作ることにある。今はともかく、いつかは中国のブドウが世界の市場に進出できるまでに成長して欲しいと考えている。そのためには、高品質で商品価値の高いブドウを作る、つまり栽培の近代化が欠かせないのである。
 3年後、農薬は使わず、肥料には家畜の排泄物を施したブドウは見事に実ってくれた。何より私を驚かせたのは、糖度の高さだった。日本のブドウの糖度は18度が最高だが、ここでは23度から30度にもなるブドウが採れたのだ。沙漠特有の昼と夜の温度差が、功を奏したのである。 このモデルブドウ園には海外から多くの研究者が視察に訪れた(ただし、日本からは一人もこない)。中国国内でも注目の的となった。とりあえず、当初の目的である「近代化モデル園」として位置づけは、間違いないものにできたと思っている。 (「沙漠緑化に命をかけて」から)
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<好奇心か恐怖心か=未知との遭遇にどう対処するか?> NHKテレビ「プロジェクトX」で遠山正瑛氏は「とにかくやってみること」を繰り返していた。未知との遭遇にどう対処するか?好奇心を持って向かうか?恐怖心のために逃げ出すか?遠山正瑛氏の態度はとにかく前向き。伊留滿に対して牛商人も状況から逃げ出しはしなかった。 文明が発祥し、野生植物を農作物に変え、自然環境を変えた。森林を切り開き農地を開拓した。こうして自然破壊を始めることになった。自分では自分の食糧を生産しない人が出てきて「自給自足」が神話になった。かつて緑一面の森であったヨーロッパは農地になり、レバノン杉は古代王権の権力争いのために今は見る影もない。 自然界では弱いオスは子孫を残すことができない。劣性のホモ結合体は選抜されていく。しかし人類のヒューマニズムは弱者もその遺伝子を子孫に伝えるようになってきた。
 品種改良とは自然界の秩序を変えることになる。人類が生活しやすいように自然破壊を行う。それを嫌って神の定めた秩序を護ろうとすれば中世ヨーロッパのような暗黒の時代にしなければならない。それは誰も望まないし、バチカンも望んではいないはずだ。 人類が自然を改良したために外部不経済=公害というしっぺ返しを受けている。これに対して恐怖心を露わにして現代風ラダイト運動を起こす人もいる。これに対して好奇心いっぱいの人間は外部不経済を内部経済に取り込み、それを消却する方法を試みる。失敗を重ねながらも「とのかくやってもよう」とチャレンジする。 選抜育種法中心のゆっくりした時の流れの時代から、交雑育種法、一代雑種育種法と技術を進歩させてきた。導入育種法という地産地消に反することも積極的にしてきた。細胞育種法は期待したほどの成果をあげていないが、遺伝子組み換え育種法には期待が集まる。インスリンなど医薬分野で結果を出し、農作物に応用されようとしている。 好奇心か恐怖心か=未知との遭遇にどう対処するか?先進国型産業である農業分野でどのように対処するか、決断が迫られている。
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<主な参考文献・引用文献>
芥川龍之介全集 1 <小説1>                            岩波書店      1954.11. 6
日本人が作りだした動植物           日本人が作りだした動植物企画委員会編  裳華房       1996. 4.25
沙漠緑化に命をかけて             遠山正瑛                TBSブリタニカ  1992. 7.17
沙漠緑化への途                村井資長                早稲田大学出版部  1995. 7.25 
沙漠よ緑に甦れ ジュブティ共和国10年の戦い  高橋悟                 東京農業大学出版会 2000. 5.18
砂漠化防止への挑戦              吉川賢                 中公新書      1998. 4.25
砂漠緑化の最前線               真木太一ほか              新日本出版     1993. 7.25
レバノン杉のたどった道            金子史朗                原書房       1990.12.12
古代文明と環境 文明と環境T         梅原猛・伊東俊太郎監修         思文閣出版     1994. 8. 1
古代文明の隠された真実            竹内均                 同文書院      1997. 3. 8
( 2003年12月1日 TANAKA1942b )

(16)細胞育種法
ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ
<品種改良の方法を分類すると> 植物の品種改良の関連していろいろな言葉が登場する。このHPでは品種改良の方法を分かりやすくするために、次のように分類して話を進めてきた。 実際はさらに詳しく分類した表示、あるいは別の分類の仕方もあるので、それらをまとめてみた。
「選抜育種法」 メンデル以前の品種改良方法。江戸時代には武士、町人が花の品種改良を道楽としていた。ポイントはいいものをさらに育て、いらないものを捨てていく。この捨てることができず、もったいないと思っていると品種は改良されない。 分離育種法、集団選抜法、循環選抜法などの言葉がこれに関係している。
「交雑育種法」 コメの品種改良はこれ。コシヒカリもこの方法によって生まれた。交配すること、その後の選抜育種がカギになる。突然変異利用、純系選抜法、系統育種法、集団育種法、派生系統育種法、合成品種育種法などの言葉がこれに関係している。
「導入育種法」 ただよそから持って来ただけだ、として育種法として取り上げてない文献もある。南北アメリカからヨーロッパに導入され、それが日本にまで伝えられた作物は多い。白菜のようにまるで日本に古くからあるように馴染んでしまった野菜も多い。アブラナ科の野菜には、露地栽培しているとミツバチなどによって他のアブラナ科の植物と自然交配され、代が進むごとに野生種に近くなり、野菜としての商品価値がなくなるものが多い。
「一代雑種育種法」 F1ハイブリッドという言葉によって全く新しい、アメリカから導入されたハイテクのように思う人もいるかも知れない。しかしメンデルの法則の第1実用化者は日本人、外山亀太郎博士が1915(大正4)年に蚕のハイブリッド品種を実用化し、 そのとき育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く市域された。 野菜の一代雑種は埼玉県農試の柿崎洋一が大正13年に、埼交茄と玉交茄の2品種を育成し、その種子を農家に配布した。これが日本で最初で世界で最初の野菜の一代雑種だった。
 私たちが日頃食べている野菜はアブラナ科の野菜――だいこん、ラディッシュ、かぶ、クレソン、はくさい、キャベツ、芽キャベツ、ケール、こまつな、きょうな、カリフラワー、ブロッコリー ――を始め、そのほとんどがハイブリッドになっている。もしも農家が種子会社に頼らず、消費者に喜ばれる野菜の種を取ろうとしたら、とてつもなく大変な作業で、このためには種子会社と生産農家との分業しか方法がない。「種子会社に支配されるのは良くないので、F1をやめて、在来種などの種子を農家が採るべきだ」などと農家にとって無茶な要求をしないこと。
「細胞育種法」
葯を培養する方法と細胞を培養する方法がある。花よりも野菜に多く利用されている。組織培養技術利用、半数体育種法、胚培養、花粉培養、細胞融合、バイオテクノロジーなどの言葉が関係している。
「遺伝子組み換え育種法」 他の品種からとった遺伝子のDNAを染色体に導入し、その遺伝子を働かせ、品種改良を行う方法。@アグロバクテリウム感染法、Aパーティクルガン法(遺伝子銃法)、Bエレクトロボーレーション法(電気穿孔法)、などの手法がある。
<「ポマト」止まりのバイオテクノロジー> 自然界にある品種を組み合わせて新しい品種を生み出そうとしてきた、そうした試みをして行く内に積極的に突然変異を利用しようと、放射線の平和利用の一環として、ガンマー線の照射や突然変異誘起物質による「突然変異育種法」が行われるようになった。 1964年に誕生した放射線育種場(茨城県大宮町)がその中心になった。ここでは20世紀ナシの黒斑病抵抗性の突然変異品種「ゴールド20世紀」、低アミロースイネ「はやぶさ」や「ミルキークィーン」などが生まれた。人為的な変異誘起は不利な方向への発生も多いため、方向性を明確にできる品種改良方法が求められていた。 そこに登場したのが植物の細胞操作を主体としたバイオテクノロジーであった。ここでは細胞育種法をオールドバイオとニューバイオとに分けて考えてみる。
オールドバイオテクノロジー 動物の細胞は細胞壁を持たない。それに比べ植物は細胞壁があるため扱い難いとされていた。しかし、植物の無菌操作が可能になり、作物の改良に用いられるようになった。
 植物のバイオテクノロジーの第1歩は、トマトの野生種の持つ、病気に強い性質を栽培種に導入しようとした胚培養(1944年、アメリカ)だった。その後、ダリアの成長点培養によるウイルス病の除去技術(1952年、フランス)、ラン(シンビジウム)の大量増殖技術(メリクロン)(960年、フランス)が誕生して、植物の細胞培養技術が大いに注目を集めた。
 1940〜50年代に始まった植物培養技術は、今ではオールドバイオテクノロジーと呼ばれ、ニューバイオテクノロジー(細胞融合や遺伝子組み換え)と区別されている。 この技術は1980年代に入ってから実用的な成果をあげた。現在ジャガイモの95%はウイルスフリー苗で、イチゴも75%がそうなっている。サツマイモやニンニク、山芋などにもウイルスフリー苗の利用が広がっている。橙色のかわいいミニカボチャ「プッチーニ」はペポカボチャと日本カボチャの胚培養によって誕生したものだ。
ニューバイオテクノロジー 品種改良は胚培養によっていくつかの成果をあげた技術をさらに発展させていった。細胞壁を除去した裸の細胞(プロトプラスト)を融合処理すると、植物の種類が違っても細胞は融合する。その融合細胞は分裂をし、うまくいけば、融合細胞起源の新しい植物が誕生する。 こうして1978年にドイツの研究者G・F・メルヒャース等によって「ポマト」が生まれた。これはナス科ナス属のジャガイモとナス科トマト属のトマトを細胞融合によって両方の性質を持つ植物で、地上にはトマトが実り、地下にはジャガイモができた。トマトの実にジャガイモの芽の毒素が溜まることがわかり、食用にはできなかった。 また次世代の種子の獲得は困難だった。植物体はジャガイモやトマトに接ぎ木することによってかろうじて維持されている状況だった。、双方の葉肉細胞を酵素処理して裸の細胞(プロトプラスト)化し、細胞融合剤・ポリエチレングリコール(PEG)で融合させるものだった。
 ポマトの誕生によって細胞融合技術は世界中から注目された。このため世界中でこの研究に取り組んだ結果、細胞同士の融合は幅広い植物種間で可能だが、その後の細胞の分裂と、雑種植物の再生は、遠縁植物の間ではなかなかうまくいかないことがわかってきた。さらに、再生植物体を得ても、次世代の種子の獲得は困難であった。 ポマトにしても結局種子は得られず、ジャガイモやトマトに接ぎ木することによってかろうじて維持されている状態だった。20年に及ぶ膨大な実験の結果、細胞融合技術は、縁の遠い組合せの関係を克服する技術には成り得ないことがはっきりした。両者の縁が遠ければ遠いほど、今まで存在しなかった新しい生物が誕生すると期待されたが、そのような「自然の摂理」に反した植物は誕生し得ないことがはっきりした。そしてそのことによって、品種改良の限界もはっきりしてきた。 品種改良で、できること、できないことがはっきりしてきたのだった。
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<バイオテクノロジーによる稲品種改良> コシヒカリをはじめ、イネの品種改良は交雑育種法を中心に進められてきた。その交雑育種法にバイオテクノロジーが応用されるようになった。ここではバイオテクノロジーによるイネの品種改良について調べてみた。
葯培養 葯(やく)とは、おしべの先についている花粉の詰まった袋のことで、花粉から直ちに固定した系統を作り出す育種法。「半数体育種法」とも呼ばれている。 日本では道県の農業試験場を中心に葯培養が行われ、1995(平成7)年の資料では6品種が奨励品種として作付けされている。葯培養で普及に移された第1号は上育394号(1988,昭和63年)であった。しかしその後の育成品種も作付け面積は伸びていない。
 葯培養によって育成された水稲の奨励品種   1995(平成7)現在
品種名育成年育成機関1994(平成6)年作付面積(ha)
上育394号1988(昭和63)北海道上川農試37
吉備の華1989(平成元)岡山県農試2784
ひろひかり1990(平成2)広島県農試536
白雪姫1990(平成2)岐阜県農試185
越の華1991(平成3)富山県農試1660
彩(あや)1992(平成4)北海道上川農試92
  (「続 図説・米の品種」から)
 上にあげた「ひろひかり」、1999年の作付面積は14haまでに減少している。吉備の華は1999年は3,200haで岡山県の稲作面積のわずか7.7%でしかない。品種改良の実績はあがっていない。
組織培養 (1)培養異変
寒天培地上で稲組織を培養するために2,4-D、NAAなどの植物ホルモンを添加する。すると細胞は盛んに分裂してカルスとよばれる白色で不定形の組織をつくる。 これを細かく切って、2,4-D、NAAを添加しない培地に置床し明所で培養すると発芽、発根して植物体が復元する。しかし、復元した個体には原品種とは異なる形質が生じることがある。これを培養異変(ソマクローナルミュテーション)とよぶ。 これを育種に応用するのが組織培養育種法。幾つか種苗登録されているが、普及に移された品種はない。培養異変は交配と採取が容易な稲よりも、栄養繁殖性の強い作物に適した育種法であると言われている。
(2)増殖
栄養繁殖性の作物では増殖にコストがかかる。そのため、組織培養による増殖は定法として実用化されている。成長点を培養し植物に再生させると、ウィルスに汚染した植物からウイルスをもたない(ウイルスフリー)種苗を生産できる。イチゴのウイルスフリー化は1974年に成功し、収穫量の向上に貢献している。
(3)胚培養 遺伝的に遠縁になると交配が困難にばる。種は交雑が可能な個体の集団と捉えることができる。育種を進める上で、種内に目的とする遺伝子がない場合には近縁種源を求めることになる。しかし、あまり遠縁だと種子が結実しない。胚培養はこのような時、交配後の胚珠を培養して雑種植物を直接獲得する方法と言われている。
 胚培養を応用した品種改良としては1957年にハクサイとキャベツとの雑種「ハクラン」(品種名「シャイングリーン」)が生まれている。1967年には試験官内受精により種間、属間雑種が試みられている。種間、属間雑種の多くは不稔を伴うので、穀物での直接利用はできないが、野菜や花など子実を目的とせず、栄養体での増殖が容易な場合には有力な育種法と考えられている。
(4)細胞融合 生殖核は融合して雑種を作る。植物細胞は硬い細胞壁をもつので不可能であったが、1968(昭和43)年にタバコの葉肉細胞の細胞壁を酵素で溶かし、原形質膜で囲まれたプロトプラストを作り、これをポリエチレングリコール、電気刺激などで融合させる方法が開発された。タバコの種間雑種が細胞融合で作られた最初の雑種(1972、昭和47年)であるが、 一般にはポマト(ポテトXトマト、1972年)やオレタチ(オレンジXカラタチ、1978年)の方が知られている。稲ではヒエや近縁属のアシカキ属との細胞雑種が試みられているが、品種改良としての成果は上がっていない。
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<バイオテクノロジーを利用した植物の品種改良の例>  農林水産技術会議のホームページから引用しよう。
技 術 作物名 系統名又は品種名 登録年月 育成者(機関)
組織培養 イチゴ
イチゴ
サトイモ
すいか
トマト
ひまつり
スマイルハート
福頭
天鈴
華ロマン
1995. 8
1998. 7
1992. 7
1992. 9
1998. 3
東海大学
(株)四国総合研究所
佐賀県
タキイ種苗(株)
日華化学(株)
胚培養 小麦
カボチャ
かんきつ
なたね
ユリ
トレニア
もち乙女
プッチィーニ
おおいた早生
はなっこりー
アフロ
サンレニディブ
2000.10
1998. 3
1996. 8
1999. 8
2001. 2
2000. 7
東北農業試験場
(株)サカタのタネ
大分県
山口県
岡山県
サントリー(株)
葯培養 イチゴ
イネ
イネ
イネ
ブロッコリー
アンテール
さわかおり
来夢36
まなむすめ
スティックセニョール
1994.12
1999. 9
2000. 2
2000.12
1994. 3
茨城県
高知県
富山県
宮城県
(株)サカタのタネ
プロトプラスト培養 イネ
イネ
ジャガイモ
ジャガイモ
 
はつあかね
夢ごこち
ジャガキッズパープル90
ホワイトバロン
 
1990.12
1995. 9
1994. 8
1997.12
 
三井東圧化学(株)
三菱化学(株)
三菱商事(株)
麒麟麦酒(株)
ホクレン農業協同組合連合会
細胞融合 カンキツ
カンキツ
ナス
ヒラタケ
オレンジカラタチ中間母本農1号
カンキツ中間母本1,2,3,4号
ナクロス
農林総研P01号
1996. 1
1997. 7
1997.12
1993. 3
果樹試験場、キッコーマン(株)
果樹試験場、キッコーマン(株)
奈良県
森林総合研究所
遺伝子組換え カーネーション
カーネーション
(ムーンダスト)ヴィオ11
ヴィオリン
2000. 6
2000. 6
サントリー(株)
サントリー(株)
 農林水産省生産局種苗課調べ
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<主な参考文献・引用文献>
花の品種改良入門 初歩からバイテクまで   西尾剛・岡崎桂一          誠文堂新光社    2001. 6.15
図説・米の品種               大里節・丸山清明          日本穀物検定協会  1995. 6.30
イネの育種学                蓬原雄三              東京大学出版会   1990. 6.20
日本の野菜 青葉高著作選T         青葉高               八坂書房      2000. 6.30
日本の野菜 産地から食卓へ         大久保増太郎            中公新書      1995. 8.25
( 2003年12月8日 TANAKA1942b )

(17)自家不和合性と雑種強勢
農業経営組織・制度の品種改良は可能か?
<近親結婚はしないよ> 「直系血族又は親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」という定めがある。これは、民法第743条の「近親婚の制限」である。私たちは法律で、近親間の結婚を禁じられているのだ。その理由は、「同じ性質を持つ近縁なもの同士の有性生殖は、性質の組み換えが起こりにくく、生物には利益がない。利益が無いばかりでなく、隠されていた悪い性質が発現する可能性があり、生物種にとっては、むしろ害である場合が多い」からである。
 多くの植物の花の中には、オシベとメシベがある。オシベとメシベはそれぞれ、オスとメスの生殖器官である。だから、自分の花粉を自分のメシベにつけて、一人で生殖することができる。しかし、植物が自分の花粉を自分のメシベにつけ、一人で生殖することは、近親結婚の典型である。 この場合、個体数は増えるが、親のもつ性質の分身が生じるに過ぎない。「暑さに弱い」「寒さに弱い」「病気になりやすい」などの遺伝的な性質がまったく変化することなく、親から子へ伝わるだけである。生物にとって、これは好ましくない。 生物が子孫をつくる意義は、個体数を増やすことだけではない。オスとメスという2つの個体の性質を混ぜ合わせ、多様な性質の子孫をつくり出すことである。同じ性質のものばかりでは、それらに都合の悪い環境変化が起きた場合、その生物種は全滅してしまう。
 いろいろな性質の個体がいれば、いろいろな環境に耐えて、その中のどれかが生き残る可能性がある。つまり、多様な性質の個体が存在すれば、その生物種の環境への適応能力が幅広くなる。その種族が生き残るのに役立ち、地球上に存続していくことができる。 子孫が多様な性質を獲得する方法が、性の分化に基づく生殖(有性生殖)である。有性生殖では、オスの精子とメスの卵が合体する。その結果、オスとメスの遺伝的な性質が混ぜ合わされる。親の性質が混ぜ合わされ、組み合わせが変えられ、生まれる個体は、それぞれの親とは異なった性質を身につける。 植物にもオスとメスに分かれているものがある。メシベのない雄花だけを咲かせる雄株、オシベのない雌花だけを咲かせる雌株が別々の植物がいる。イチョウ、サンショウ、キーウイ、アスパラガスやホウレンソウなどである。これらは、動物と同じように、オスとメスの区別があることになる。この場合、自分の花粉が自分のメシベにつくことはない。 しかし、多くの植物は、一つの花の中にオシベ、メシベをもっている。このような植物たちも、自分の花粉を自分のメシベにつけて、種子を残すことを望んではあない。だから、植物たちは、工夫を凝らし巧妙はしくみを身につけて、自分の花粉が自分のメシベについて子孫(種子)ができることを避けている。
 花を見れば、オシベとメシベは離れている。「もっと仲良く、くっついていればいいのに」と思うが、1つの花の中で、オシベはメシベを避けるように、そっぽを向いている。そっぽを向くだけでなく、高さ、長さを変えているものも多い。オシベがメシベより長かったり、逆に、メシベがオシベより長かったりする。花を1つの家族とすれば、夫婦が接触することを避けあっている「家庭内別居」の状態といえる。 もっと、巧妙なしくみを身につけた植物もいり。1つの花の中にあるオシベとメシベの熟す時期をずらすのだ。たとえば、モクレンやオオバコのメシベは、オシベより先に熟し、オシベが花粉を出すころには萎えてしまう。逆に、キキョウ、ユキノシタやホウセンカのオシベはメシベより先に熟して花粉を放出する。メシベが熟すときには、まわりのオシベに花粉はない。だから、同じ花の中で、種子はできない。その性質は、「雌雄異熟(しゆういじゅく)」というむつかしい語で呼ぶが、私たち人間でいえば、「すれ違い夫婦」の様な状態である。 
(「ふしぎの植物学」から)
 このシリーズのテーマは品種改良。これは日本人が得意とする分野だ。江戸時代には庶民も花の品種改良を楽しんでいた。その方法の1つの「選抜育種法」、このポイントはダメなものは捨てていく、子孫を残さない、自然界の自然淘汰を行うことだ。産業で言えば、「生産性の悪いものは撤退していく」となる。農業が不向きならば他の産業に転職しやすい環境を作ることが必要になる。農業が世襲制である必要はない。転職の資金を農地を売った代金で賄えるならそれもいいのだが、現在は農地の売却はし難い制度になっている。資金の十分ある株式会社は買い手として名乗りをあげられない。
 農業が世襲制であるために、自然界の植物とは違って、自家授粉する傾向にある。交雑育種法は有性生殖を積極的に行うことだ。ここに引用した<近親結婚はしないよ>は、「交配」とか「一代雑種」の基本的な考え方を理解するために引用した。日本の農業が発展して行く過程で品種改良は大きな役割を果たしている。その基本的なことは<近親結婚はしないよ>ということだ。そうでありながら日本の農業経営組織・制度は実質的な近親結婚をしている。外部者の意見に耳を傾けず、外部の資本導入を嫌い、外部の経営組織体の参入を拒む。日本人は農産物の品種改良の多くの分野で立派な貢献をしてきた。 これからはこの経験を生かして、農業経営でも多くのオシベとメシベとの交配で今までの親とは違っ
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<自家不和合性 self-incompatibility> 雌雄同花で正常な機能をもつ雌雄両配偶子が同時に形成されるにもかかわらず、受粉が行われても花粉の不発芽、花粉管の花柱への進入不能、花粉管の伸長速度低下または停止などにより、自家受粉が妨げられる現象。この現象は高等植物に広く見いだされ、明らかに他殖性 allogamy を維持、促進する繁殖様式の一つと考えられている。(以下略) (平凡社「大百科事典」から)
アブラナ科の植物には、自家不和合性と呼ばれる性質をもつものがあります。これは、受粉したときに雌しべと花粉のあいだで自己と非自己の認識反応がおきて、自分でない(=非自己の)花粉で受精して種子をつくります。いろいろな植物がこの自家不和合性の性質をもっており、アブラナ科植物や野生のタバコ、野生のペチュニアなどを使って最近に研究が展開されています。(「花粉からのたより」から)
他家受粉では種子が出来るが、自家受粉では種子が出来ない特性。自家不和合性を示す植物は多く、近交弱勢による子孫の生存力低下を防いでいる。(「花の品種改良入門」から)
自家不和合性をもつ植物では、それを利用してF1採種ができる。自家不和合性とは自己と非自己の花粉を識別し、非自己の花粉で受精する性質である。自家不和合性といってもその性質が強いものや弱いもの、条件によって変動する系統もあるので、その性質を充分に吟味しながら使わなければならない。アブラナ科の野菜では、自家不和合性を利用したF1採種がわが国で実用化された。 雌雄異株のものではF1採種が簡単なように考えられるが必ずしもそうではない。植物では、両性花が同一個体に混じることがよくあるから、完全な雌系統を育種必要がある。ホウレンソウでは、雌性系統に雄花をつける条件を見出して自家受精させ、完全雌性系統を育成し、それを母胎として用いることによって成功した。(「植物の育種学」から)
19世紀、アメリカで、セイヨウナシのある品種が2万3000本も植えられた大果樹園がつくられた。ところが、花は咲いたが、不思議なことに、ほとんど実がならなかった。調べてみると、果樹園の一部分にだけ、実がなっているところがあった。そこには、別の品種のセイヨウナシが1本だけ誤って植えられていた。そこで、「同じ品種の花粉では実がならず、別の品種の花粉がつくと実がなるのではないか」と考えられた。 さっそく、別の品種の花粉をメシベにつける試みがなされた。すると、果実が実った。
 この現象は、「自分の花粉が自分のメシベについても、受精が成立せず、種子ができない」という性質を示している。この性質を「自家不和合性」と呼ぶ。自分の花粉を自分のメシベにつけて種子をつくることを避ける工夫である。セイヨウナシだけでなく、多くの果樹や、アブラナ科、キク科、ナス科やマメ科などの植物も、この性質を持っている。 この性質を持つ植物では、メシベに自分の花粉が付着しても、受精が成立しない。しかし、同じ仲間の他の植物体の花粉がついた場合には、受精が成立し、種子ができる。植物たちは、自分の花粉と他の花粉を識別する能力があるのだ。(「ふしぎの植物学」から)
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<雑種強勢 hybrid vigor> ヘテローシス heterosis ともいう。生物の種間または品種間の交雑を行うと、その一代雑種はしばしば両親のいずれよりも体質が強健で発育がよいという現象がみられる。これを雑種強勢といい、農作物、家畜の品種改良にしばしば利用される。最初トウモロコシで発見され、ついで動物でもモルモットで認められた。
 一方、異なった個体間の受精のよって繁殖することを常態とする他殖性作物(トウモロコシなど)を、強制的に自殖(同一個体内で受精させる)させたり、近親間の交配を繰り返したりすると、子孫(後代)の生育がしだいに劣ってくる例が多い。これを自殖劣勢といい、雑種強勢と逆の関係になる。また、特定の遺伝子的な効果によって雑種第1代の生育がまれに弱勢化することがある。こらは雑種弱勢 hybrid weakness といわれる。 (平凡社「大百科事典」から)
雑種が純系よりも生育が旺盛なこと。両親の組合せによって雑種強勢が強く現れる場合と、そうでない場合があり、種内では一般に、特性が大きく異なる両親間で雑種強勢が顕著である。(「花の品種改良入門」から)
多くの作物の種子は自家受粉によってつくられ、純系と呼ばれる。これに対して父親と母親が別の個体から由来したものは雑種(ハイブリッド)と呼ばれる。かつては農産物を均一にするという観点から純系をつくることが中心に行われてきた。一方、雑種のなかには両親よりはるかに優れた性能を示すものがしばすば見られる。このような現象は昔から雑種強勢と呼ばれている。特にこの現象はトウモロコシで顕著に見られ、純系に比べ背が高く収量がはるかに多くなる。 現在世界で取引されているトウモロコシの種子の大半が雑種である。ダイコン、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン、トマトなどその他の多くの作物でも雑種強勢を利用した種子が利用されており、この雑種強勢の性質は両親の関係が遠いほど出やすいという傾向がある。
 イネでは従来この雑種強勢の性質は利用されていなかった。その最も大きな理由は、現在利用されているイネは確実に種をとるために、野生種のもっている他家受粉受粉する性質を捨て自家受粉する性質を強くもっているため、雑種を作りにくいことにある。そして、それゆえ雑種強勢の性質があることは一部で知られていたが、あまり注目されなかった。(「夢の植物を育てる」から)
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<カブXハクサイ=???> ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ。では同じアブラナ科のハクサイとカブの雑種をつくったらどうなるだろうか?そんな文章があったので引用しよう。
 「ハクサイとカブは簡単に雑種をつくるのか。そしたら、ハクサイとカブの雑種をつくれば、地上部がハクサイになって、地下部がカブになり、一石二鳥ではないか?」と言われるかもしれません。実際に雑種をつくってみると、残念ながら、地上部はカブで地下部がハクサイになってしまいます。葉を巻く性質も、根が太る性質も、劣性の遺伝子が集積してできたもののようで、雑種にするとその性質はすぐには現れてこないようです。
 雑種をつくった、その後代から上手に選べば、葉が巻いて根が太るものもできるかもしれません。しかし、葉の巻く性質に関係する遺伝子群と根が太る遺伝子群の両者を動じに選び、そして同時に品質がよく、それぞれを堪能できるものに仕上げるには、相当の努力と資金が必要でしょう。しかも、葉も根もそれをつくる物質は太陽エネルギーと土中の無機物質が元ですので、葉の大きさも根の収量も半減することになります。こんなことをするよりは、葉が巻いて美味しいものと、 根が太って美味しいものを別々につくって、口の中や胃袋のなかで混ぜた方が利口だという判断があったのかもしれません。 (「菜の花からのたより」から)
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<主な参考文献・引用文献>
ふしぎの植物学 身近な緑の知恵と仕事      田中修             中公新書      2003. 7.25
大百科事典                                   平凡社       1984.11. 2
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉            裳華房       1998.11.25  
花の品種改良入門 初歩からバイテクまで     西尾剛・岡崎桂一        誠文堂新光社    2001. 6.15
植物の育種学                  日向康吉            朝倉書店      1997. 3. 1  
夢の植物を育てる                鎌田博・堀秀隆         日本経済評論社   1995. 7. 1
( 2003年12月15日 TANAKA1942b )

(18)日本人が切り開いたハイブリッド技術
外山亀太郎の蚕・柿崎洋一のナス
<蚕で世界初のハイブリッド種を育成> 一代雑種はメンデルの法則によっているので、メンデル以前には行われていない。一般的には1940(昭和15)年ころ、アメリカでのトウモロコシのハイブリッド種が文献ではよく登場する。しかしその10年以上前に日本で実用化されていた。 ただし野菜など農作物ではなく、蚕であった。こうしたことを平凡社「大百科事典」から引用しよう。
 農業に一代雑種を利用するときときは大量の交配種子が必要であるが、自殖性作物では大量に他殖させる工夫が難しい。そこで、他殖性でしかも大量の交配種子のとれる動植物について、この方法がよく利用されてきた。 日本ではカイコ(家蚕)について外山亀太郎が1906年に一代雑種の有利性を提唱、31年には実際の飼育の99.9%が一代雑種となった。作物でもトウモロコシの研究がアメリカで発達した。現在は多くの野菜類で一代雑種が用いられている。交配するときにはそれぞれの野菜の植物学的特性をうまく利用している。 たとえばハクサイ、キャベツ、ダイコンは自家不和合性、キュウリ、すいか、カボチャ、メロンは雌雄異花、タマネギ、ニンジンは雄性不稔を利用している。コムギ、オオムギなどの自殖性作物でも雄性不稔をうまく利用して一代雑種の実用化が図られている。 (平凡社「大百科事典」から)
 遺伝子組み換え食品に関係する話題を追っていくと、政府の後押しを受けてアメリカ企業が攻撃側に立って、日本とヨーロッパ諸国は受け身になっているかのように見える。アメリカではベンチャー企業が開発した技術を大手企業が買い取り、その技術特許を武器に攻めてくる。 その攻め手は大手化学品メーカーだったり種子メーカーだったりする。こうした情勢なので、「F1ハイブリッドや遺伝子組み換え植物で、アメリカ企業が種子を独占する」との非難の声があがる。そうしてあたかも品種改良の先端技術はアメリカ企業が世界制覇を目論んで、開発を進めた結果だ」となる。 この考えには、「品種改良の先端技術はアメリカ企業に握られていて、アメリカ政府はそれを守り、企業が独占利益を上げられるように自由貿易を主張する」との自虐的・敗北的技術観がチラチラ見えるようだ。こうした見方にはいくつか反論したい点があるのだが、ここでは「品種改良の技術、日本はその先端を行っている。自虐的になるのは事実を見ない、視野狭窄なためだ」と主張し、その一例としてF1ハイブリッド=一代雑種など品種改良の先駆者を取り上げた。
外山亀太郎 1915(大正4)年の帝国学士院賞はアメリカで活躍中であった野口英世博士と蚕の品種改良に貢献した外山亀太郎博士に贈られた。絹は戦前、日本の主要な輸出産業であった。それには外山博士の蚕の一代雑種による品種改良の貢献を忘れてはならない。
 1902(明治35)年当時、東京帝国大学助教授であった外山はシャム(タイ)国に出張した。ちょうど、その2年前の1900(明治33)年に、メンデル遺伝法則が再発見されて、世界中の関心が寄せられていた時期である。早速、外山はシャムで実験を行い、この法則が蚕でも当てはまることを明らかにした。帰国後の1906(明治39)年に「家蚕の雑種について、特にメンデル遺伝法則を論ず」と題し、東京帝国大学の学術報告に発表する。 メンデル法則が再発見されて6年目、この法則が動物でも適用されることを世界で初めて立証した歴史的な報告である。彼の名前は世界中に知れわたった。
 もっとも彼の最高の業績はメンデルの法則の追認ではない。この時に白まゆ種と黄まゆ種を交配し、一代雑種が両親より多収になることを認め、これを蚕種製造に応用することを提唱したことである。1911(明治44)には原蚕種製造所(現・蚕糸・昆虫農業技術研究所)が新設されるが、外山は招かれて品種改良の指導に当たる。ここからハイブリッド品種の育成が始まった。
 原蚕種製造所は1914(大正3)に蚕業試験所と改称されるが、この年にハイブリッド品種は普及に移された。外山の仕事ぶりをみた、加賀山辰四郎場長の英断によるものである。ハイブリッド品種はその後急速に普及が進み、昭和のはじめには国内の全蚕種がハイブリッド品種に置き換えられていった。とくに1915(大正4)年に育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く飼育された。 
 農業におけるハイブリッド品種の利用は1940(昭和15)年頃、アメリカで飼育されたトウモロコシのハイブリッド品種が世界で最初であるとよく言われる。その10数年前に、日本では外山がハイブリッド品種を実用化していたえわけだ。外山の功績はもっと高く賞賛されてもよいだろう。
 神奈川県厚木市上古沢、小田急線厚着駅から北へバスで30分あまり、そろそろ丹沢の山にかかろうという辺りが、外山の故郷である。外山家はかつては甲斐武田に仕えたという土地の旧家。小高い丘に鎮座する氏神の諏訪神社を背に、後代な門構えの生家があったという。今では杉が植林され、往時を忍ぶ縁もない。「正五位農学博士外山亀太郎」と記した背の高い墓だけが、杉木立に囲まれて立っていた。 (「農業技術を創った人たち」から)
「絹の文化誌」から 1866年に発表されたメンデルの法則は、当時の遺伝学者には受け入れられなかった。ドフリース、コレンス、チェルマックの3人が、メンデルの実験結果の正しかったことを明らかにしたのが、1900年である。これをメンデルの法則の再発見というが、その6年後1906(明治39)年に、蚕の一代雑種(F1ハイブリッド)の利用が提唱された。 国立原蚕種製造所の外山亀太郎が、日本在来の品種(日本種)と中国大陸に在来する品種(中国種)とを掛け合わせて得られた一代雑種の蚕がそれぞれの親よりも常に強健で、しかも絹の生産量も多いことを見いだし、提唱したのである。
 外山は1902(明治35)年2月から約3年間、シャム国(現在のタイ)に政府顧問として滞在して、蚕糸技術の指導にあたった。彼は、帰国してわずか1年後に一代雑種の利用を提唱したことになるが、実は、このシャム国滞在中に、日本種とシャム種の一代雑種を作り、それがシャム種の2倍の絹を生産するという結果を得ていたようである。シャム国滞在中に、既に一代雑種のすばらしさを確認していたに違いないと思われるのである。
 この蚕の一代雑種の提唱は、メンデルの法則を、生産を目的とした動植物に応用した最初の事例である。アメリカで、トウモロコシやブロイラーの一代雑種が利用されるようになったのは、さらに後のことである。稲で一代雑種を利用したハイブリッド米が話題になったのは、ごく最近のことである。
 一代雑種は、蚕の強健性や絹の量(繭層量)などが原種(親)に比べ優れている。両親の平均よりも優れた形質の発現を示すことを雑種強勢というが、この雑種強勢は、それぞれの原種を交配した1代目(1代交雑種)に最も強く現れ、強健性や絹の量をはじめ多くの形質が、両親のいずれよりも優れていることもしばしばある。一代雑種の蚕が優れているのは、このためである。しかし、この雑種強勢は、2代目、3代目と代を重ねていくと次第に弱化を起こす。 つまり雑種強勢の効力は、1代限りで、いつまでも維持することはできない。一代雑種を利用するには、常に両親原種を維持しておき、それらを交配して毎回雑種を作らなければならないのである。蚕種は、この一代雑種法の導入によって着実に改良され続けてきた。主にこの蚕種改良により、生糸の生産効率は大きく向上し、生糸1俵(60Kg)の生産に要する蚕種量は、明治30年代には92.3箱(184万6千粒)であったが、昭和50年代には9.5箱(19万粒)に減少した。つまり、その生産効率は10倍近くに向上したのである。
 しかし、外山が一代雑種を提唱した明治39年ごろは、まだ交配すべき適当な蚕種もなく、一代雑種の実用化がすぐに進んだわけではない。小学校教師の長谷川五作は、大正2年郷里の埴科郡杭瀬下(くいせげ)村(現・更埴市)で蚕種家を集めて、自身のトウモロコシの遺伝実験例を示して、遺伝学が蚕種家にとって有望なことを説いたが、同席の蚕種家は賛成しなかった。それどころか、必ず遺伝学を必要とする時代がくると断言した長谷川に対し、蚕種家の中には、反感をもつ者さえいたという。 一代雑種の実用化を懸念し、ちゅうちょしていた蚕種家が多かった大正3年に、松本商工会議所会頭をしていた片倉の今井五介は、国立原蚕種製造所で一代雑種の普及を望んでいることを知ると、南安曇、東筑摩の有力蚕種製造家たちと共に、直ちに「大日本一代交配蚕種普及団」を結成し、これを普及奨励しようとした。今井の熱心な態度は注目の的となり、まもなく交雑種万能時代を生み出した。大正8年には全国の蚕種製造高の80%が一代雑種となった。 (「絹の文化誌」から)
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<柿崎洋一のナスが野菜一代雑種の世界初> 近年果実をとる野菜(果菜類)では一代雑種でない、いわゆる固定種はほとんど見られない。一代雑種のさきがけはナスであって、埼玉県農事試験場の柿崎洋一氏が1924(大正13)年に埼交茄(巾着X真黒)と玉交茄(白茄X真黒)の2品種を育成し、その種子を農家に配布した(埼交、玉交茄は最初は試験場のあった地名に因んで浦和交配1号、同2号と呼ばれた)。 これは日本で、というよりは世界で初めての野菜の一代雑種で、この品種は草勢が強くて栽培しやすかった。そして柿崎氏は当時、埼玉県の農家の人たちから「ナス博士」と呼ばれた。
 これが契機となって、その後多くの府県でナスの一代雑種が育成され、またスイカやトマトなど多くの果菜類でも一代雑種時代を迎えた。一代雑種はたいていの場合草勢が強く、品種として優れているばかりでなく、採種業者としては親品種を確保しておけば毎年同様な種子を販売できる利点があり、この点からも一代雑種が多くなったと思われる。 (「日本の野菜」青葉高著作選 T から)
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<「緑の革命」に貢献した日本の「農林10号」> ムギはイネ、トウモロコシ、ジャガイモとともに4大作物の一つであり、世界の多くの国々で栽培されている。数十年前には、日本でも、多くの人々がムギを食べていた。いや、お金持ちに人は食べなかったかも知れない。「貧乏人は、ムギを食え」という、当時の首相の放言が話題になったこともあるのだから。 現在のわが国では、ムギは穀物として忘れかけられている。「緑の革命」とは、1960年代に、イネ、コムギなどの多収穫品種が開発され、インドやパキスタンなどの発展途上国の飢餓を救ったものである。コムギの生産量の飛躍的な増加をもたらす品種を育成した、アメリカのノーマン・ボーローグは、1970年のノーベル平和賞を受賞した。 その収量の増加を陰で支えたのは、日本生まれのムギ、「農林10号」である。この品種は、穂が多く大きい上に質が良いという性質に加えて、背が低く頑丈であった。「背が低く頑丈である」ということは、作物の収量を伸ばすために大切な性質である。たくさんの実をつけても倒れないために、この性質が役立つと考えればよいだろう。
 戦後、日本にきた種子の専門家、アメリカのサーモンが、「農林10号」に目をつけた。背丈はアメリカ小麦の半分近くしかないのに、頑丈で、穂が大きく、多くの実ができる特性に驚いた。そこで、1945年、この種子をアメリカに持ち帰った。以後、「農林10号」は「ノーリン・テン」と呼ばれる。 ノーリン・テンの特性は、アメリカからメキシコへわたる。メキシコ在来の小麦は、背丈が2メートル近くもある。ノーリン・テンの背丈はその半分以下である。ボーローグは、ノーリン・テンの特性をメキシコ在来の小麦に導入した。その結果、ノーリン・テンと背丈が変わらない頑丈で収量の多いメキシコ小麦が次々と生まれた。 この中に、収量を飛躍的に高めて「奇跡の小麦」と言われた「ソノラ」もあった。「奇跡の小麦」の中に、日本生まれの「ノーリン・テン」の性質が生きているのだ。
 「農林10号」が日本で栽培されていたころ、ムギは、イネの裏作として、秋に種子を蒔き、春に収穫された。そのころ、「ムギ踏み」という言葉があった。私たちの生活の中から、ムギが忘れられ、この言葉は死語になりつつある。 (「ふしぎの植物学」から)
<稲塚権次郎の農林10号>  それでは、この「緑の革命」のきっかけとなった半矮性の遺伝子はどこからきたのだろう。終戦後日本に進駐した連合国軍の総司令部(GHQ)にはアメリカ合衆国農務省天然資源局の小麦専門家(S・C・サーモン)も加わっており、彼は当時京都大学の木原均の案内で、小麦24種をはじめとする作物遺伝資源をアメリカに持ち帰った。この中に「農林10号」という、草丈が低く、穂が大きい系統が含まれていた。 これは日本の育種家稲塚権次郎が、草丈低くずんぐりした草型の日本在来種「達磨」交雑後代から選抜したものである。この農林10号に注目し、積極的に育種に利用したのがワシントン農業試験所のO・ボーゲルで、彼は多くの育種材料を作り出すとともに、画期的多収性品種「ゲインズ」も育成した。このボーゲルの育種素材がボーログに受け継がれ、さらに亜熱帯品種の多様性を加えてCIMMYTのネットワークで世界各地に提供され、 現地での選抜で各環境に対する適応性を獲得して、それぞれの国の多収性品種となった。日本の小麦は、気候条件や作付け体系、それに価格の点で外国産小麦に太刀打ちできず、農林10号も国の経済に直接貢献することもなかったが、日本の育種家が見つけ出し、育種素材にまで育てた農林10号の半矮性遺伝子が、多くの人の手と国際協力を経て、世界的貢献を果たしたわけである。(「自殺する種子」から)
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<ブロッコリー種子のシェア80%> 自家不和合性を利用してハイブリッド品種を育成するには、たくさんの技術的な問題を解決しなければなりませんでした。ひとつは、純系に近い両親の系統をどうやってつくるかということです。純系の種子をつくるには自家受粉しなければならず、ここで自家不和合性がかえって邪魔になります。この問題は、蕾の雌しべには自家不和合性がないという性質を使うことによって解決されました。 ただし、この蕾受粉の方法は大変な労力を伴いなす。 また、両親の系統を同時に開花させなければならない、より強い自家不和合性の系統を選ぶ必要がある、さらに雑種強勢を示しながら高品質で耐病性に富むものを探さなければならない、などなまざまな問題があり、戦時中これらの点についてさかんに検討されました。
 そして、自家不和合性を利用したハイブリッド品種は、キャベツでは1949(昭和24)年に、ハクサイでは1950(昭和25)年に、日本で初めて市販されました。
 その後、これらハイブリッド品種の優良性が認められ、現在のわが国のアブラナ科野菜のほとんどは、ハイブリッド品種として育成・市販されるようになりました。日本の種苗会社の育成したハイブリッド品種が、世界にも多量に輸出されるようになったのです。たとえば、ある会社の育成したブロッコリーは、アメリカで80%のシェアをもっていると言われます。 (「菜の花からのたより」から)
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<甘熟トマト桃太郎> 国内における野菜の品種改良は、世界に先駆けて始められた一代雑種(F1)の開発と普及によって飛躍的な発展を遂げました。トマトにおいても、世界最初のF1品種として福寿が12年に育成され、継いで23年に福寿2号が市販されて以後は、ほとんどF1品種が使われるようになりました。育成された数多くのF1品種も入内の推移に伴って変化してゆくトマトの栽培に大きく寄与しましたが、一方では、それまで作られていた地方品種や固定種が次々と姿を消してしまい、国内での育種素材は、40年代には使いはたしてしまったと思われます。 しかし、このことが積極的に育種素材を野生種や海外から求めるようになり、トマトの耐病性育種や品種育種が進んだ大きな要因として挙げられます。桃太郎の育種素材の一つとして使われた Florida MH-1 も米国で育成され、導入された品種です。 (「歳時記 京の伝統野菜と旬野菜」から「甘熟トマト桃太郎」住田敦・タキイ種苗研究農場長記から引用)
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<主な参考文献・引用文献>
大百科事典                                   平凡社       1984.11. 2
農業技術を創った人たち           西尾敏彦              家の光協会     1998. 8. 1  
絹の文化誌                 篠原昭・嶋崎昭典・白倫       信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
日本の野菜 青葉高著作選 T        青葉高               八坂書房      2000. 6.30
ふしぎの植物学               田中修               中公新書      2003. 7.25
自殺する種子 遺伝資源は誰のもの?     河野和男              新思索社      2001.12.30
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉            裳華房       1998.11.25  
京の伝統野菜と旬野菜            高嶋四郎              トンボ出版     2003. 6.10 
( 2003年12月22日 TANAKA1942b )
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日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論
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