A SPOOKY GHOST 第一話 アザと共に迎えた朝

 窓の外が白ばむのを感じながら、一睡も出来ないままに朝を迎えた。奈緒は無理やり閉じていたまぶたを開き、天井を睨みつける。
 ――― あたしは、やれる。
 ゆっくりと体を起こし、深呼吸をした。腫れは引いたようだが、右目の周囲に指先で軽く触れると鈍い痛みが走る。顔を歪ませながら蒲団から抜け出し、部屋を出た。
 階段を下りて洗面所に行くと、奥のガラス戸の向こうから、お湯の噴き出す音が聞こえた。妹の千登勢がシャワーを浴びているのだろう。
 構うことなく奈緒は洗面台の鏡に向かい、身を乗り出した。
(うわ……)
 目を囲むように、赤や青の混じる黒いアザが、くっきりと円形に広がっていた。
(学校を休むワケにもいかないし)
 洗面台の縁に手を置いたまま、ため息を吐く。
「ナニそれ! 奈緒ちゃん、そのアザひどくないっ?」
 音が止み、風呂場から姿を現した千登勢は素っ頓狂な声を出した。
 奈緒はわずかに首を傾け、バスタオルをつかんだまま、まじまじと自分の顔を見つめる妹を一瞥すると、何も答えないまま洗面所を出た。
 台所では母親がお椀にみそ汁をよそっていたが、やって来た奈緒に目を向けた途端、小さな悲鳴をあげた。
「何があったの? どうやったら、そんな酷いアザができるのっ?」
 畳みかけるように訊いてくる彼女の背後をすり抜け、ダイニングへ行き、食器棚からマグカップを取り出した。
「ちょっと、お父さんっ。奈緒を見てちょうだい!」
 奈緒の後ろでテーブルを挟み、新聞を広げながら朝食をとっていた父親は、甲高い母の声に顔を上げた。おお、と意味不明な呻き声を出し、「今回はまたこっぴどくやられたな。まるで漫画みたいなアザじゃないか」とだけいい、再び新聞に視線を落とす。
「冗談じゃないわよ。近所の人が見たら何ていうか」
「いいから、さっさとみそ汁を出せ。ご飯とおかずが冷めるじゃないか」
 怒鳴る父の前に急いでお椀を置いた母は、台所へ戻る奈緒を憎々しげに見た。
 自分に対する父親の無関心と母親のヒステリーに慣れっこの奈緒は、気にすることなく冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップへなみなみと注ぐと、一気に飲み干した。
「やだわ。腕にもアザが……」
 皮肉めいた母の独り言を聞きながら、カップを流しへ置くと、足早に台所を離れ、二階の自室へ戻った。
 蒲団を押し入れに仕舞い、部屋の隅に丸めてあった赤いマットを広げ、その上でストレッチを始めた。念入りに時間をかけて体のあちこちを曲げ伸ばしすると、最後に呼吸を整え、まぶたを閉じる。
(あの動きは基本中の基本だ)
 ジム独特の匂いまでもが記憶に甦る中、ランナ・コムウットの一挙手一投足を思い出す。ガラ空きの顔面を狙って出したはずの右が、ヘッドスリップできれいにかわされ、反対にストレートを入れられた。
(ノーモーションからのカウンター……)
 ぱっちりと瞳を見開き、奈緒は立ち上がった。
(でも、あたしは耐えた)
 ロングスリーブTシャツに腕を通し、赤いランニングハーフパンツを穿くと、上にダークグレーのVネックウィンドブレーカーを着込んだ。
 部屋から出て階段を下りたところで、洗面所から出てきた千登勢と出会(でくわ)し、「毎日よくやるね」と声をかけられた。
 あごの長さに切り揃えた髪の先を、彼女は見事な内巻きにしていた。おまけにグレーのブレザーとチェック柄のスカートを合わせた、名門校である北章(ほくしょう)学園の制服に身を包んでいる。俗に底辺校といわれる公立高に通う奈緒は、妹のこの姿を見るたびに、軽い苛立ちを覚えた。
 通っていた地元の公立中学校で、奈緒が問題を引き起こしたことがきっかけだった。親は千登勢を私立中学に入れようと決め、みっつ年下の妹は両親の期待に応えるべく、小学生の時から中学受験専門の大手塾で猛勉強をした。結果、去年の春から電車で片道二時間もかけて、北章学園中等部に通学している。
 時を同じくして奈緒も戸波高校に進学したが、受験に際して、入学試験の日はおろか合格発表の日さえ親は知らなかった。合格したことを伝えると喜んではくれたが、千登勢が北章学園に受かった時のように、あちこちへ電話をして自慢するはずもなかった。
 そのことを恨んだり妬んだりしたことは、一度もない。あるのはふがいない自分に対する怒りとあきらめだ。
 千登勢から顔を背け、玄関の上がり口に座り込むと、ランニングシューズに足を入れた。
 家を出て、近くの相良川(さがらがわ)へ向かう。堤防沿いには遊歩道があり、そこを毎朝十キロほど走るのが習慣となっている。
 昨夜の帰り際、トレーナーの高口から今日一日は体調に気を付けるよう、いい含められた。様子見も兼ね、普段より遅いペースでの走りを心掛けた。
 晴れて気持ちがいい四月の朝は、奈緒の憂鬱な気分をすぐに取り払ってくれた。心配していたような頭痛もなく、快調に飛ばし、国道が通る大きな橋の下をくぐり抜けた。
 左手にキャンプ場が見えてくると、木のベンチがいくつも並んでいる。犬を連れた人達のたまり場となっていて、いつも五人前後の知った顔がおしゃべりをしていた。
 ベンチの後ろには階段があり、下りて行けばキャンプ場の駐車場に出られる。そこで毎朝のようにジムの先輩である橋野が、体を小刻みに揺らし、拳を次々と前へ突き出す、シャドーボクシングに勤しんでいた。
「よっ、奈緒!」
 彼は目ざとく奈緒を見つけ、駐車場から階段を上がり、走り寄って来た。黒いサウナスーツを着込み、手にはバンテージを巻いている。
 いかにもボクサー然としているが、二重まぶたの下からのぞく大きな瞳や、形良く剃った眉毛は女性的だ。わざと不揃いに刈り込んだ髪も、金色に染められていて、長い。垢抜けた印象が強く、どこかのアイドルかモデルが不良を演じているかのように見えた。
「おはようございます」
 リズムを崩さないよう軽く頭を下げ、奈緒は挨拶をした。橋野が合流すると、折り返しも近い。
「派手なアザだなー。誰かとスパーした?」
 並んで走る彼から話しかけられた。
「うん。あとで話したいんだけど……時間ある?」
 逆に小声で訊ねると、彼は口の端をあげ、もちろんだといわんばかりに大きく首を縦に振った。
 砂利の遊歩道が白いコンクリートの堤防へ繋がり、途切れると、二人は道を引き返す。二人が合流したベンチのある所まで戻り、奈緒は足を止めた。階段を下り、途中で腰を下ろす。
「珍しいじゃん。奈緒が朝のロードワークに休憩を挟むなんてさ」
 隣り合わせに座った橋野から人懐っこい笑顔を向けられ、奈緒も照れ笑いを返した。
「スパーの話がしたくて」
 でも橋野さんは大丈夫? と気が付いたように彼女は訊いた。
「戻ったら、バッグやるんだよね」
 ランニングから帰ったら、家で所有しているサンドバッグを打つのが橋野の日課らしい。だから、すぐにグローブがはめられるようバンデージを巻いて走っているのだと、以前に聞いたことがある。
 白いテープがぐるぐると巻かれた両手を握り締め、「かまわねーよ。そういやこのところ毎朝顔を合わすだけで、話もしてなかったしさ」と、彼はナックルを軽く胸の前で打ち合わせた。
「あたし……朝走るだけじゃなくて、橋野さんとはいつか、ジムの練習も一緒にしてみたいな」
 嘘偽りない気持ちが、すらすらと口を突いて出た。世界チャンピオンになりたいと常日頃語られる橋野の願いが、今の彼女には現実味を帯びて感じられるからだ。
「奈緒は学校が終わったらジムにソッコー顔出して、七時前には帰っちまうもんな。オレは仕事が終わんの遅いから、八時過ぎじゃねえとジムには行けねーし」
「橋野さん、土日も行ってるんだよね。あたしもバイト休んで、顔出してみようかな」
「土日は混んでっからなー。オンナのコは平日の夜と同じくらい、入りづれえぞ。まっ、そのうちジムで顔を合わせるコトもあるさ」と曖昧に言葉を濁し、彼は話題を変えた。
「それにしたって早えーよな。奈緒が中倉ジムに入って、もう一年かあ」
「うん。ここで橋野さんに会えたおかげ」
 中学を卒業して間もなく、陸上部に所属していた頃の習慣そのままに朝のジョギングを続けていて、橋野と出会った。あまりにも馴れ馴れしい彼の態度に最初は戸惑ったが、次々と質問され、答えているうちに、不思議と打ち解けてしまったのだ。
「何か毎朝見かけんなーって思っててさ。カワイイし、ちょっかい出してみたくなったんだ」
「まさかボクシングを勧められるとは、思わなかったけど」
 奈緒はぎこちなく笑い、前方に広がるキャンプ場へ目をやった。周囲には桜の木が何本も植えられている。白っぽいピンク色の花びらも残り少なくなっていて、代わりに若葉が、目にも鮮やかな緑色を放っていた。
「だってよー、もったいねえじゃん。中学校で三年間も長距離の選手として頑張ってきたのにさ、高校入ったら部活はやんねーっていうからさー」
「そうかな。親も妹も、あたしが陸上を辞めるっていっても、何もいわなかったけど」
 不思議な話だが、奈緒をのぞいた誰ひとり、家族は体を動かすことに興味がない。彼女がスポーツを始めたのは、近所に住んでいた篤志という、同い年の男の子に影響されてのことだった。