2006.07.12…【喜捨】(再) [ 心を磨く ]


私が学んでいる倫理の教えの中に【尊己及人】という言葉があります。

己を尊び人に及ぼす

という意味なのですが、私は以前から、この学びの中でもう一つのキーワード

他人の喜び、我が喜びに


という、一見相反する言葉に戸惑っていました。


自分の為にか、他人の為にか、、、、



ある時、私の知人からこんな質問をされました。


ボランティアやってる人で、傍から見てて、

あんた他人のことより自分のことでしょう!と感じれる人もいるし、

一生懸命ボランティアやってる人でも結果、会社をダメにしてしてしまってる経営者

っているんじゃない?それってどう説明できる?

私がその時にその彼に答えた回答は


「・・・してあげてるレベルでやってるからじゃないかな?」

と応えるのが精一杯でした。



自分自身、今学んでる法人会は、正に自分自身の為です。

昔の日記に書いたことがありますが、時折顔を出す、

「なんでこんなことせなあかんねん?」

という思いはまだまだ私が未熟な証拠。。。


で、他人の喜び我が喜びに。。。


これって究極なもんですから、よく質問受けるわけです。


己を尊び人に及ぼすの章にこんな言葉がありました。


『己の、大きな向上、躍進、完成は、己を空しくすることである』


今まで〜してあげてるという視点でやっていたことが実は自分の為だったんだという視点で捉えることができるようになった時、何かが変わるんではないでしょうか。。。


とても素敵なお話を小林正観さんからいただいて、はっとしたことがありました。



みなさんは道端で托鉢をされているお坊さんを見かけたことはありますか?

その昔お釈迦さまが托鉢を考えついた時、弟子達にこうおっしゃったそうです。

「お金持ちの家を回ってはいけない。貧しい人々の家を回って托鉢をしてきなさい」と。


最初、聞き間違いかと思ったお弟子さん達は聞き返したそうです。


「なぜですか?」


お釈迦さまの説明は

「貧しい人たちというのは、今まで自分が貧しいと思って他人に対して施しをしてこなかった人たちである。

その故に貧しさという苦界の中に沈んでいた。私たちが喜捨をいただきに行くのは、その貧しい人を貧しさという苦界の中から救ってあげるためなのだから、貧しい人の家を回って来なさい」ということでした。


托鉢に来てくれている僧というのは、お金を頂きに来ているのではなく、施しをさせてあげるために来ているというのです。


この話に出会う前の私も、どこか お布施してあげてる といった感覚でした。

このお話で今までの考えが未熟だったことに気づけました。



ありがとうございます。


と言わなければならなかったのは私の方だったんですね。。。


〜してあげてる から 〜させていただいてる

自分の為 と 他人の為



同じ事をやっていても心の在り方でその意味が大きく変わってしまいそうです。。。




・他人の喜び、我が喜びに

・尊己及人



私にとっては、これからも追求していきたい深く、大きなテーマです。


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