高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)

映画「二十歳の原点」

 原作(新潮社版単行本)は大森健次郎(1933-2006)監督、角ゆり子(1951-)主演、東京映画(現・東宝)製作で映画化され、1973年10月27日東宝系で公開された。89分。
 東京では千代田劇場(日比谷、現・シアタークリエ)、渋谷東宝(現・TOHOシネマズ渋谷)、新宿コマ東宝などで封切り上映された。熊井啓監督、仲代達矢・関根恵子(現・高橋惠子)・北大路欣也出演の映画「朝やけの詩」と2本立てだった。

解説(セールスポイント)
 全国大学生のベストセラー、青春のバイブルと云われる人気小説(高野悦子著・新潮社版)の映画化。「虚飾につつまれた現代の繁栄の中に生きる若者たちのために…」と大森健次郎監督は第1回作品に意欲を燃やしています。
 脚本は重森孝子と森谷司郎監督の共同執筆。原作者である高野悦子役には新人の角ゆり子が抜擢され、映画初出演に体当り。
 若いスタッフ。若い俳優たちが、彼らの無限のエネルギーと知恵をぶつけて製作する青春文芸大作です。
 製作は金子正且。東京映画製作。東宝配給。カラー作品。スタンダード。

スタッフ
映画の看板 製作…金子正且
 企画…小林八郎
 原作…高野悦子(新潮社版)
 脚本…重森孝子
 脚本…森谷司郎
 監督…大森健次郎
 撮影…中井朝一 美術…樋口幸男 録音…原島俊男 照明…羽田昭三 音楽…小野崎孝輔 整音…西尾曻 編集…山地早智子 監督助手…松沢一男 製作担当者…内山甲子郎 製作宣伝…鹿野英男

 大森健次郎監督
 1933年11月3日中国・青島生まれ
 1957年 3月東大経済学部卒
 1957年 4月東宝入社
 主な助監督作品…天国と地獄、赤ひげ、どですかでん、潮騒、首、二人の恋人、初めての旅
 「この作品に対する彼の言葉─「真剣に、真面目に一瞬一瞬を生きてきた高野悦子さんの青春には強い感動を覚えた。その青春は短い。駆け去ったという感じだ。僕は彼女の鎮魂歌としてこの作品を撮りたい」」(『監督・大森健次郎』「二十歳の原点」パンフレット(東宝、1973年))

キャスト
映画の広告 高野悦子(20)立命館大3年…角ゆり子(新人)
 高野昌彦(父)…鈴木瑞穂 高野妙子(母)…福田妙子 高野芳子(姉)…高林由紀子 高野昌男(弟)…丹波義隆
 渡辺(立命大生)…大門正明
 鈴木(国際ホテル・食堂主任)…地井武男
 中村(京大生)…富川澈夫 牧野(悦子の友人)…川島育恵 松田(悦子の友人)…津田京子 下宿の小母さん…京千英子 「ろくよう」のマスター…北浦昭義 国際ホテルのウェイトレスA…渡辺ふみ子 国際ホテルのウェイトレスB…八木啓子 国際ホテルの外人客…モーデン・ティム 眼鏡屋の女店員…三戸悦子

 角ゆり子
 1951年 5月7日東京都目黒区生まれ、姉弟の長女
 1970年 9月SOSモデルスクール入学
 1970年11月SOSアーティスト所属、演技、モダンダンス、日舞、殺陣、歌のレッスンを続ける
 1972年 3月東京女学館短期大学卒業
 「映画は今度が初めて、しかも全篇出づっぱりの大主役で本人は無我夢中だったというけれど、撮影現場では意外と淡々と落着いていて大物新人の風格があった」「「20歳の原点」では天神踏切りの場面を撮る前の晩は眠れなかったという。製作者、監督から“存在感がある”という理由で悦子役に選ばれた」(『新人女優・角ゆり子』「二十歳の原点」パンフレット(東宝、1973年))

物語
映画台本検討稿 昭和44年6月24日付「京都新聞」夕刊に〝娘さん、線路で自殺〟の記事。
─24日、午前2時36分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線、天神踏切西方20㍍で、上り貨物列車に線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。西陣署で調べているが、女は15~22才、身長1.45㍍でオカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明─。
 自殺した若い女性は高野悦子さん。20才で、立命館大学文学部史学科の3年だった。遺書はなく、大学ノートに10数冊の横書きの日記が遺された。

 1月2日、悦子は郷里の宇都宮で20才の誕生日を迎えた。母親が作った成人式の晴着も、何となく、おしきせがましく感じ、イライラした毎日を過す。三カ日を過ぎて間もなく、悦子は京都の下宿に戻ってきた。時を同じくして悦子の親友でもあり、学生闘争の闘士、牧野も京都に帰って来ていた。
 その頃、東大、京大と学園紛争は連鎖反応的に日本全国に拡がり、悦子の立命館大学にも紛争の波は押しよせていた。バリケード、機動隊、赤ハタ…。機動隊の棍棒で殴られ眉間から血を流しながら連行された、渡辺委員長の美しい顔を目前に見て、悦子は「何カヲシナケレバ…デモ何ヲシタライイノダロウ」と思う。
 下宿でタバコを吸う悦子。20才の記念にメガネを買う悦子。本当の自分をかくし、メガネをかけた自分の存在の滑稽さを演じている意識を楽しむ。
 カミソリで指先を切る悦子。自分にも赤い血が流れている。でも、一人で何が出来るのか。両手を出して、飛び込んでいける恋人が欲しい。

 ある日、迷いの中から、悦子は目覚めた。学生闘争から坐折していった牧野ら友人。目の前で逮捕された時の渡辺の目。荒れ果てた教室の中で、悦子が見たものは、自分自身の姿であり、戦う相手が自分であるということだった。
 長い髪の毛を切り、友がいなくなった下宿を出て、ホテルでウェイトレスのアルバイトをする決心をした。一日働いて疲れ果てて、宴会場にあるグランド・ピアノの前に坐るときだけが、悦子が以前の素直な悦子でいられる時である。
 下宿に帰ると突然来訪した父が待っていた。授業料を下宿探しに使った事、髪を短くカットした事を責められた。父を送っての帰途、深夜の河原町通りを歩く悦子は淋しかった。その夜、スナック〝ろくよう〟ではじめてお酒を飲んだ。そこのマスターは、アルバイト先きの鈴木主任と同級生であった。彼との会話の中に自分が鈴木に恋をしていることを意識した。

 悦子は学校への、親へのささやかな自分自身の抵抗として、試験を放棄、授業料の不払いを決意する。
 お酒の楽しさ、自分は独りであることの確認。
 鈴木への激しい想い。

 4月、新入生を迎えて、大学のキャンパスは正に平和そのものである。その中に立ちつくしている悦子。
 「コレハ、イッタイドウイウコトナノダ。アレカラ3カ月モタタナイノニ、コノ平和ナ姿ハ。ニセモノノ平和、アノ渡辺ノ残シテイッタモノハ、ドコヘ行ッテシマッタノカ。ニセモノノ平和ニハ負ケナイ」
 悦子は、自分独りでも戦おうと思った。授業料不払いという形での両親との訣別、孤独との戦い、未熟であることの認識…。
 メーデーの日、偽りの平和に甘んじる人々の表情を見て悦子は絶望した。この日、鈴木への激しい思慕を胸に抱きながら、バイト先の京大生中村とデイトをした。
 酒、タバコ、中村との生活、遠くなってしまった家族との対話、学生闘争への没入…。 しかし、悦子は、空っぽの満足の空間にさまよう。
 すべての奴を忘却し、どんな人間にも、悦子の深部に立ち入らせてはならないと思う。沈黙あるのみ。でも淋しい。
 暗い夜だけが、悦子のただ一人の友となる。酒、睡眠薬。
 悦子は永遠の旅に出る―。
 ※映画紹介は東宝の広報宣伝用資料(1973年)によった。

映画への見方
映画二十歳の原点パンフレット 脚本の重森孝子は「御両親は“あと数ヶ月も保ちこたえてくれたら”と、今は跡形もなくなった大学の騒乱を前に口惜しがっておられます。それは、親として当然のことです。しかし、ここであなたの味方をするなら、人間が創造する動物であると発見した時、すでに数ヶ月先の事も見えていたことでしょう。その平和な世の中に生きていくことがいかにつまらないことか分ってしまったのかも知れません」(重森孝子『死に急いだあなたへ』「二十歳の原点」パンフレット(東宝、1973年))としながら、「女の自殺なんて、つきつめれば何かへの〝あてつけ〟か、偶然の事故が重なったものとしか考えられない。論理的に自殺するのもやはり男のわがままの一つだろうと思う。こんな考え方ではとうてい、〝二十歳の原点〟なる日記も、死を賛美する風には描けなかった。ただ生きたい生きたいと願いながら、ずうずうしくなれなかった女として描いてみるより方法がなかった」(重森孝子『終末論と女達』「シナリオ昭和48年12月号」(シナリオ作家協会、1973年))と振り返っている。

 東宝は当時、この映画について「青春文芸大作と一言でいえる東宝らしい作品であり、これからも東宝路線の基幹となる作品系列のものです」としていた。
 ただ「学園闘争は70年代初頭の青春映画の背景として強く意識された題材だったが、その敗北と感傷的な死を綴った本作をもって、東宝青春映画もひとつの終息点を迎える。映画界は大作主義に陥り確たる会社カラーを保った小品ドラマが成立し難い状況となり、73年に山口百恵が映画デビューを飾って、かろうじてアイドル映画が明朗青春映画を継承するばかりであった」(山下慧『1966年~1973年東宝青春映画作品紹介』「東宝青春映画のきらめき」(キネマ旬報社、2012年))と位置付けられている。

 母・高野アイは「二十歳の原点」の本は読んでいないが、この映画は見ている。周辺には「そっと人に隠れて行きました。日記とは内容が違っているようです」と話していたという。
母・高野アイさんと会って
高野悦子「二十歳の原点」案内