高野悦子の母、高野アイが6月17日(火)、一人で高野悦子の下宿(川越宅)を訪ねた。
「「あんたが正しいと思うならやりなさい。ただし体には気を付けて」。悦子は安心したような表情を見せた。それは確かに自分の知っている悦子の顔だった」(『大学のある街─今出川にわたる風8』「朝日新聞(大阪本社)京都版2006年1月10日」(朝日新聞社、2006年))。
高野アイは「悦子の下宿に2泊し、魚を焼いて食事をつくったりした」(臼井敏男「叛逆の時を生きて」(朝日新聞出版、2010年))。また「後でわかったことですが、亡くなる1週間前、訪ねていった私と朝ご飯を食べたのを最後に、あの子はほとんど物を食べてなかったんです。疲れ果てていたんでしょうね」(桐山秀樹『夭折伝説』「Views1995年9月号」(講談社、1995年))と話している。
川越宅☞1969年4月4日
☞1969年6月14日「今日、中村はビヤガーデンにきていた」
屋上は、ビヤガーデンを開設していた京都国際ホテルの屋上のことである。当時は京都国際ホテルの周辺は高い建物がなく、住宅(いわゆる町家)が密集していた。
京都市中心部は実際には南をのぞく三方から山に囲まれている。四方というのは、たとえである。
☞1969年5月8日「バイトが終ったあとで屋上にいってね」
☞1969年1月2日「未熟であること、孤独であることの認識はまだまだ浅い」
☞1969年1月15日「「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である」
ビヤガーデン☞1969年6月14日
屋上から眺めるマッチ箱のような家々☞1969年6月17日「屋上から町並を眺めると」
大石良蔵作詞・なかにし礼補作詞・鈴木邦彦作曲で、黛ジュンの歌「雲にのりたい」を受けた詩である。
同曲シングルは、東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)で1969年6月1日発売され、売上30.5万枚、オリコン最高4位。
☞1969年5月4日「二十七日、中村氏と呑みに出かける以前と以後では、」
☞1969年6月2日「中村とのリレーション。四・二七、五・一三、五・一九、御所で二回あい、テレを数回」