高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月30日(金)
 朝「怒りを日々の糧に」の中島の文をよむ。
怒りを日々の糧に 朝は、5月29日(木)朝のことである。
 栗原達男・中島誠「怒りを日々の糧に─学生闘争の記録・栗原達男写真報告」(冬樹社、1969年))は、東大闘争と日大闘争に関する写真集である。
中島は、中島誠のことである。当時580円。
☞1969年5月29日「まさしく長沼がいうように」

 十二時頃京大着。一時になっても十五、六人しかおらず。二時ぐらいから広小路にて愛知訪米阻止の立命集会を行う。
 立命館大全共闘が間借りしている京都大学教養部(京大Cバリ)で準備してから、広小路キャンパスに向った。立命集会は存心館前で開かれた。
京都大学教養部から立命館大学広小路キャンパス

 京大に帰って文闘委の集会。その後、京大、同志社、立命全共闘の集会。
 29日午後4時すぎから京都大学本部時計台前で、愛知外相訪米阻止・全京都労学総決起集会に向けた京大全共闘の集会が行われ、立命館大全共闘も参加、代表が決意表明を行った。


 届け出の不注意で、円山まで五月雨デモ。
 京大本部からデモで京都市東山区円山町の円山公園に向おうとしたが、申請の不手際で、デモ隊は隊列を解いた形で、東大路通を通って円山公園に向った。
京大本部から円山公園東大路通

 円山で愛知訪米阻止労学総決起集会。すわっての参加二〇〇名ほど。
 愛知外相訪米阻止・全京都労学総決起集会が、29日午後6時すぎから円山公園で開かれ、反戦青年委員会の労働者や京大全共闘、同志社大学学友会、立命館大全共闘の学生などが参加した。

 全金の畑鉄、
 京都市の製薬用機械メーカー・畑鉄工所では、1969年春闘で全国金属労働組合(全金)傘下の組合側のストライキ戦術に対して、4月22日に会社側は「団交中に外で安保反対等のシュプレヒコールをしないよう改めるべき」などとして団体交渉を拒否。
 さらに組合59人のうち15人が脱退して同月29日に第二組合を結成、会社側は第二組合との交渉に応じる一方で、(第一)組合に対してロックアウトによる締め出しを行う事態になった。
 (第一)組合側は4月30日、京都地裁に対して就労妨害排除と団交再開促進の仮処分申請を行い、地裁は5月1日に団交の速やかな再開を命令したが、就労の妨害排除については5月19日、就労請求権の問題として申請を却下した。
 また(第一)組合側は京都府地方労働委員会へ団体交渉促進のあっ旋も申請、4月30日に労使双方に団交再開の勧告が行われたが、団交は再開されていない状況で、労使の対立が強まっていた。
 後の国会審議では、会社側のロックアウトについて、「「松木組」の2、30人が組合事務所に泊まっている組合員を便所も水道もないところに軟禁をしてバリケードをつくった」という指摘が出たが、政府は「松木組が従業員を監禁、軟禁したとかについて、事実を把握していないので、その点に関してはよくわからない」と答えている(第61回国会参議院社会労働委員会1969年6月26日議事録参考)

 文英堂の反戦、
 「シグマベスト」シリーズで知られる京都市の教育図書出版社・文英堂では1968年、京都印刷出版産業労働組合(現・全印総連=全国印刷出版産業労働組合総連合会京都地連)文英堂分会(現・出版ユニオン京都)の分会長が人事異動で課長職から係長に降格となり、組合側が京都府地方労働委員会に救済を申し立てた。
 また同社東京支社で、出版労協=日本出版労働組合協議会(現・出版労連=日本出版労働組合連合会)加盟の文英堂労働組合(現・出版ユニオン京都)の組合員が「愛社精神がない」としてけん責処分となり、その処分撤回を求める組合側と労使対立が強まっていた。

 反帝全学連、全学連(中核)、プロ学同、
 反帝全学連は、三波全学連の流れを組む新左翼各派のうち中核派以外の連合体であり、中心は社学同だった。歌手・加藤登紀子の夫、藤本敏夫(1944-2002)が委員長を務めたことでも知られる。
 この集会で決意表明したのは反帝全学連の京都府学連からの代表である。
☞1969年2月6日「社学同が入試阻止をもちだす」
 全学連(中核)☞1969年2月17日「十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモっており」
 プロ学同は、全共闘を構成する新左翼各派のうち構造改革派のグループ。

 そして現地派遣団を代表して京大全共闘が決意表明。
 現地とは、愛知外務大臣の訪米阻止のための東京・羽田での5月31日朝の現地闘争のことである。
 集会で京大全共闘の代表は、学園闘争から政治闘争を闘う部隊の代表としての決意を述べた。

 そののち京都駅までデモ(四条─河原町七条─本願寺前)
円山公園から京都駅 集会は午後7時半すぎに終了した。デモ隊は円山公園を出発し、祇園石段下でジグザグデモをした後、四条通を西に進み、河原町通から南下して、東本願寺前に達した。

 京都駅までデモをしたのは、東京・羽田などでの現地闘争に参加する学生を送り出すためである。これら現地闘争に参加する学生は国鉄京都駅から29日夜の夜行急行列車で上京した(本項全体について「京都大学新聞昭和44年6月2日」(京都大学新聞社、1969年)参考)
 昼休み、広小路のキャンパスにぼんやりと坐っていた。
 5月30日(金)昼のことである。
 立命館大学広小路キャンパス☞1969年1月5日

 「今年1月からの立命館闘争は、5月20日の機動隊導入(恒心館封鎖解除)以降、まったくの新たな段階に入ったといえる。それは」「全共闘運動にかかわったほとんどすべての学生に見られるやるかたない無気力、脱力感である」(『立命闘争、運動論への一視点』「立命館学園新聞昭和44年6月23日」(立命館大学新聞社、1969年))

 五月雨デモのとき東大路通りを下りながらヘルメットにふくめんという私達学生を見るオジサンオバチャン。ふとすれ違うときに、避ける人たち。
 前日の五月雨デモのことである。

1969年 5月31日(土)
 きのう東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。
 父母からは、西那須野に戻ってくるよう説得された。
 高野悦子は「もうお話しすることはないです」と言い残して、自分から飛び出した。このあと高野悦子は所持金がないために、姉の下宿に再び戻ったが、両親とは再び会っていない。
 したがって父・高野三郎と会ったのは5月30日(金)が最後になった。


 八・〇〇PM京都につく。
 5月30日17:20東京駅─東海道新幹線(超特急・ひかり39号)─20:10国鉄(現・JR東海)京都駅

 九・三〇PM
 日記の記述。以下、「家族との訣別」に続く。この段落以下は31日(土)の夜に書かれている。
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