高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月24日(土)③
 五・二三 労学総決起集会。機動隊乱入。投石してつかまるが帰される。 

京大に機動隊

京大付近での動き この日の動きを時系列に整理する。以下の動きには基本的に立命館大学全共闘も関係しているが、高野悦子がどこから最前線で参加したかどうかは確認できない。
06:00 京都大学当局は、ジープで東大路通と今出川通を巡回、奥田東総長の録音テープで本部および教養部構内の学生に対し「私は京都大学総長です。本学を封鎖・占拠している諸君、すみやかに学外に退去しなさい」との放送を約30分間行った。
06:35 百万遍付近に機動隊約500人が集結、京都府警の「5・23警備本部」も川端警察署長名で〝大学の警告〟を知らせて退去を命じたが、学生は応じなかった。
06:52 京都府警の機動隊は、不退去罪の疑いで、まず今出川通に面した北門バリケードを排除、大型電算機センター付近のサクを乗り越えて構内に入った。
 学生らはクモの子をちらすように離散し、機動隊は無抵抗のうちに文学部前のバリケードなどを撤去した。
06:57 学生が京大時計台前に集まり、投石で抵抗したが、機動隊は構内を制圧。学生はさらに正門のバリケードを火炎ビンで放火しながら本部構内から逃走した。火はすぐに消え大事に至らなかった。
07:12 機動隊はガス弾数十発を発射して応戦、6分後に正門バリケードを解除した。
 このあと約50人の機動隊員は構内西側の学生部(15日から封鎖中)に向かい、2階から子供の頭大の石やコンクリート片を落として激しく抵抗する学生にガス弾20数発を発射したあとハシゴをかけて踏み込み、約40分後に、立てこもっていた8人全員を逮捕した。

 本部を出た全共闘約500人は吉田参道(東一条通)で本部の機動隊に投石を行い、また東山東一条交差点にいた機動隊50人を西に200メートルほど後退させ、簡単な路上バリケードを築いた。
07:30 装備を持つ機動隊はジリジリと前進し、全共闘を教養部構内に押しこめ東一条通は機動隊で埋まった。
 このころ近衛通電停付近で全共闘約50人は東大路通に路上バリケードを構築し始め、道路をマヒさせていた。
08:45 正門前で東一条通をはさんで石とガス弾の応戦が続く中、機動隊員約100人が吉田グラウンド北西スミの垣根を破って教養部に突入した。
 抵抗をくり返してい学生たちはヘルメットを脱いで、垣根の破れ目などから脱出、逃げ遅れた数人が逮捕された。

 教養部を南下してきた全共闘は近衛通電停付近の学生たちと合流し東大路通の南北及び東の近衛通の三方に路上バリケードを築いて抵抗したが、機動隊の一隊は教養部の東、近衛通を通って近衛通電停付近に集まり、装甲車とともに東大路通を南下してきた。
 ここで学生と機動隊の間に激しい市街戦が行われ、機動隊は多量のガス弾を撃ち込み、それに応戦する学生も激しい投石を行った。
けさ京大に機動隊出動09:00 学生たちが京大病院構内に入ったので機動隊は東大路通のバリケードを歩道にどけ、一時的に全ての機動隊が東大路通を北上した。このため学生たち約500人は近衛通電停付近で激しいジグザグデモを行い始めた。
 少しのち教養部に入っていた機動隊約100人が校内を南下し突然吉田寮から東大路通に飛び出してきてジグザグデモの中央部に突入、デモ隊を真二つにした。
 このためデモ隊の一方は医学部構内に入ることができたが他方は東大路通において、はさみ打ちの状態にされ混乱に陥り、9時45分には20数名の学生が逮捕された。

10:00 教養部構内も全共闘学生が排除され、混乱が一応収まり、全共闘は医学部構内に、機動隊は東一条交差点付近にまとまった。
11:00 機動隊は全員構内から退去した。
12:00 教養部に入った機動隊は、全共闘を追って西門の東大路通へ向ったが、その後に民青系の学生多数が教養部に入り、教養部A号館の封鎖解除などを行った。
12:30 全共闘の学生が本部構内に戻り、約200人が本部時計台前で集会をはじめた。
13:00 京大五者連絡会議が「大学立法粉砕」の全国統一行動の一環として、教育学部と図書館の間の広場で“京大一万人集会”を開き、京大職員組合や同学会(民青系)各自治会の代表が、全共闘糾弾、「大学立法の強行をたくらむ政府・自民党の策動抗議の行動を展開しよう」と呼びかけを行った。
13:30 全共闘は京大医学部付属病院で隊列を組み直し、再び教養部のバリケード封鎖を決め、約1時間ほどで正門のバリケードを築いて再封鎖した。また本部構内の文学部本館・東館、工学部電気総合館なども再封鎖した。

投石の現場にいた立命館大生「一生懸命に石を作ってくれた彼女」
 当時、高野悦子の1学年下にあたる立命館大学文学部史学科日本史学専攻の2年生(1968年入学)で、この日に投石の現場にいたYさんと会って話を聞いた。

 Y:京大に機動隊が入った日だった。高野悦子の姿が印象深かった。
 その時、僕は東大路通の東山東一条交差点より少し北にいた。通りの西側。塀と車道の間で段差がある歩道部分だった。
 東大路通の北の百万遍の方から来た機動隊とにらみ合う距離になり、歩道から機動隊に向って投石をした。
東山東一条1969年高野悦子が石を作っていた場所
 近くにいた彼女は白いヘルメットをかぶっていたが、タオルは口元までしていなかったと思う。本当に真剣な顔で、一生懸命に投石用の石を僕らのために作ってくれた。
 あれは歩道の敷石を剥いだものだったんだろうか。大きな石を道路にぶつけて割ったりして、だまって一心不乱に投石の石を作っていた。それを僕らは投げていた感じだった。投げることに専念していた。
 彼女とその場に居合わせたのは偶然だった。付近で女の子は彼女だけだったと思う。
 火炎ビンが飛んだとされているが、僕のいた周辺では見えなかった。天気が良くて、5月にしては結構暑い日だった。

 5月23日京都:晴・最低15.4℃最高28.7℃。朝からほぼ快晴で気温が上がった。

 われわれは機動隊に追われて東大路通を東山東一条を越えて南に下がり、僕は途中で通りの西側の塀を乗り越えて京大病院に逃げ込んで運良く無事だった。
 彼女が警察に連行されたシーンは見てない。彼女も追われて東大路通を南に逃げたはずで、たまたま遅れて取り残されちゃったんじゃないかと思う。

 この時点で僕はまだ高野悦子という名前を知らなかった。でもはっきりと彼女だとわかった。
 実は以前に恒心館のバリケードで彼女を見かけたことがあった。僕は日本史学専攻だけど基本的に寮、学思寮の部屋に泊まり込んだりしていた。たしか下の階に日本史闘争委員会の部屋があって、彼女はそこに出入りしてたと思う。
 恒心館の廊下とかで2度くらいすれ違ったというか…。硬い表情で会話することはなかった。
 日本史は結構女子学生も多くて、彼女は僕とは学年が違うけど、小柄でキュートな感じじゃない。だから言われれば“あの子だね”ってすぐ思い当たる感じで、それまでデモとかで一緒になったこともないのに、東大路ではっきりわかった。

 恒心館☞1969年3月8日
 学思寮(がくしりょう)は、京都市北区鷹峯南鷹峯町にあった立命館大学の学生寮。1964年完成で学生寮の中では設備等も新しかった。建物は現存せず、現在は住宅が立ち並んでいる。

 このあと京大のバリケードで再会することもないまま、6月9日、僕はASPAC粉砕闘争で現地に行って、国鉄・小田原駅で警察に逮捕され、8月まで拘置所にいた。
 彼女が亡くなった話を聞いたのは、9月5日に東京・日比谷野外音楽堂で開かれた全国全共闘結成大会の会場だった。
 「高野さんという人が亡くなったよ、日本史だよ」。
 瞬間、“あっ、高野さんって、あの時の彼女だよな”って、東大路での投石の時を思い出した。本当にその時初めて名前と一致したんだ。そのことは今でもはっきり覚えている。(談)
 6月、「アジア・太平洋協議会(ASPAC)閣僚会議に反対して8日、伊東市内で警官隊と衝突したあと、同夜、横浜市の慶応日吉校舎に引きあげていた反代々木系の一部学生約320人は9日朝、また東海道線で伊東に向ったが、途中、辻堂、小田原両駅で二度にわたって警備に当った神奈川県警の警察官と衝突、学生144人が公務執行妨害、凶器準備集合罪などの現行犯で逮捕され」(『今度は列車内で激突─ASPAC開幕日』「朝日新聞(夕刊)1969年6月9日」(朝日新聞社、1969年))た。

 高野悦子が身柄確保された場所の特定は極めて困難だが、京都市左京区東大路通近衛上ルの近衛通電停付近の可能性がある。
高野悦子が身柄確保された場所
川端署地図

京都府川端警察署
 高野悦子が連行されたのは、京都市左京区東大路通冷泉下ルの京都府川端警察署である。
 任意の事情聴取を受けただけで終わり、逮捕されることはなかった。
 聴取後、高野悦子は川端警察署を後にして、全共闘が再封鎖した京大教養部に戻った。

京都府警川端署連行後の動き
振り切られた・宮原さん「斜めのヘルメットでべそをかいてた彼女」

全関西学生総決起集会京大本部から円山公園
 全関西労学総決起集会は、午後7時から京都大学本部時計台前で開かれ、京大全共闘、立命館大全共闘、関西学院大全共闘や反戦青年委員会など約3,000人が集まった。この中で各大学全共闘や職場反戦などからの闘争報告と決意表明などが行われた。
 午後9時にデモ行進に移り、2,500人が丸太町通、河原町通を通って円山公園に向った。途中、京大病院前で、学生8人が逮捕された。

 デモ隊は円山公園で総括集会を持ったあと午後10時半解散した(本項全体について「京都大学百年史資料編2」「同資料編3」(京都大学百年史編集委員会、2001年)、「京都大学新聞昭和44年5月26日」(京都大学新聞社、1969年)、「京都新聞(夕刊)昭和44年5月23日」(京都新聞社、1969年)、「夕刊京都昭和44年5月23日」(夕刊京都新聞社、1969年)、『大学立法粉砕の突破口に』「立命館学園新聞昭和44年5月26日」(立命館大学新聞社、1969年)参考)

 五・二四 京大にて文闘委の集会
 日記の記述からは、集会に行く前に下宿で書いたとみられる。
  立命館大学文学部闘争委は5月20日以降、京都大学教養部(京大Cバリ)に間借りしており、民青系の力が及ぶ立命館大学広小路キャンパス周辺ではすぐには集会を開けなくなっていた。
 このため京大教養部バリケード内で開かれたもので、5月20日の恒心館への機動隊出動以降の一連の動きを批判するとともに、新しい闘争への決意宣言などが出たとみられる。

 大学臨時措置法案が「朝日」に出る。大学機能正常化のための紛争処理法と称するが、
大学立法朝日記事  「朝日新聞(大阪本社)1969年5月22日」(朝日新聞社、1969年)である。
 「大学立法をめぐる政府、自民党の意見調整は21日から本格的に動きだしたが、佐藤首相は同日午後、坂田文相、根本政調会長ら関係者との会談で「こんどの立法は大学正常化のため、当面の紛争処理に最小限必要なものに限りたい」との基本的な考え方を改めて明らかにした。
 この首相発言は、法案づくりの大詰で焦点となっている「管理運営面の改善措置」について、党側の主張をできるだけ押え、あくまでも紛争処理を中心とした立法内容に限りたい意向をはっきりさせた事実上の〝裁断〟だと政府、自民党首脳は受取っている。
 こうした情勢から、こんどの立法内容は文部省案に近い線に落着く見通しがにわかに強まってきた」(『大学立法は紛争処理中心─ほぼ文部省案通り』「朝日新聞(大阪本社)昭和44年5月22日」(朝日新聞社、1969年))

 日記の記述では、「五・二三」と「五・二四」の間に書かれている。

 中村よ。
 日記の記述では、5月24日は文闘委の集会のあと京大に泊っている。☞1969年5月26日
 したがって、5月24日午後10時付である中村へのメッセージは、京大Cバリで書かれた可能性がある。
 中村☞1969年6月2日

 きのうも一昨日もテレしたがあなたはいなかった。
 電話をかけたのは京都国際ホテル男子寮である。
 京都国際ホテル男子寮☞1969年6月2日
☞1969年5月17日「屋上で中村さんにテレし」

 学生証という薄っぺらな紙きれに己れの存在を託すほど薄っぺらな存在ではないのだ、私は。
  中村へのメッセージ「今まで己れの存在を形づくってきたものが、いかに弱い基盤の上に立っていたかを知る」を受けて、学生である自分の決意を述べた記述である。
高野悦子「二十歳の原点」案内