高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 1月23日(木)
 寮連合は要求の貫徹のために封鎖をやり、クラス討論が数多くなされ、
 全共闘準備会の動きに対して、大学側と一部学友会・二部学友会(代々木系)は各クラスのクラス討議を進めた。
 クラス討議の中で大学側は大学自治や総長選挙についてのパンフレット(討議資料)を配ったほか、一部学部では、教授会の見解として「全共闘準備会は非合法組織であり、大衆団交を拒否する」旨を口頭で説明した。
 そして封鎖解除の「クラス決議」をしたクラスもあった。
☞1969年1月17日

 全学集会も開かれ、学生も教職員も活発に動いている。
 1月20日(月)正午、大学主催、五者共闘会議(教職員組合・生協労働組合・生協理事会・一部学友会・二部学友会)(代々木系)参加による全学集会「封鎖解除・学寮委員解放・正常な話し合いを実現する全立命館一万人集会」が広小路キャンパスで開かれ、学生・教職員ら約5,000人が参加した。
 集会では、末川博立命館大学総長が寮連合に対して呼びかけを行うとともに、封鎖の即時解除が決議された。
 続いて午後4時すぎから、集会に参加した学友会・教職員・生協職員ら約2,000人が封鎖解除をめざして中川会館へ向かった。
 しかし、会館前にバリケードを築いて固めていた全共闘準備会(反代々木系)の学生によるゲバ棒と投石の抵抗を受けた。さらに体育会などの学生が間に入り、封鎖解除には至らなかった。

 ヘルメットに角棒をもった民青行動隊と全共闘がぶつかったりしている。
民青行動隊と全共闘中川会館封鎖 1月22日(水)午後11時15分ごろ、一部学友会・二部学友会(ともに民青系)が、500人強の勢力で、実力によって全共闘準備会の封鎖を解除しようとした。
 しかし、反発する一般学生や体育会所属の学生によって防がれる形となった。

 「大学当局から黄色ヘルメット500個が配給され」「ゲバ棒部隊約200人が封鎖された中川会館に突撃した。
 すじ向かいから中川会館を見下す存心館屋上には、援護射撃のため数百人の投石部隊が配置され、京大と同様、放水もおこなわれた。しかし、中川会館は陥落しなかった」(鈴木沙雄『特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃』「朝日ジャーナル1969年2月9日号」(朝日新聞社、1969年))
 「日共系が中川会館のバリケードをとりこわしにかかっているとき、いつの間にか数をふやしたノンセクト集団が日共系学生の背後を襲い、実力排除を阻止するとともにゲバ棒やヘルメットを取り上げてしまった」 (『ニュースの裏話─険しい〝新しい大学〟への道』「夕刊京都昭和44年1月27日」(夕刊京都新聞社、1969年))からである。

 「黄色いヘルメット姿に角材を持った学友会の〝行動隊〟約300人が突然、研心館から中川会館に向って出発、同夜の実力解除の動きを心配していたノンセクトの学生約1000人が「われわれは封鎖には反対するが、あくまで話合いで解決すべきであり、実力解除には反対だ」と叫びながらスクラムを組んでこれを阻止しようとした。
 これに対し〝行動隊〟の数十人は角材でノンセクトの学生になぐりかかり、中川会館バリケードの近くまで接近した。ノンセクトの学生たちは「暴力はやめろ」と叫びながら〝行動隊〟を存心館わきに追いつめた。しかし〝行動隊〟はなおもノンセクトの学生になぐりかかったため、ノンセクトの学生たちは素手で〝行動隊〟の角材を奪い、次々に校庭の外へ投げ捨て〝行動隊〟の学生2、30人を学外へ押出した。23日午前1時現在、残りの〝行動隊〟の学生たちは存心館の中に追込まれ、ノンセクト学生とにらみあっている」(『封鎖解除派の実力行使、一般学生が押出す─立命館大』「朝日新聞(大阪本社)1969年1月23日」(朝日新聞社、1969年))

 これをきっかけに理事会など大学側内部でも一部学友会・二部学友会に対する批判の声が出ることになる。
 当時、立命館大学における共産党(立命館大学ブロック委員会)のトップだった学友会幹部は、学友会の実力行使が「失敗するや否や、『実力行使が間違いであった』との意見が学園内に一気に噴き出した。学内のあらゆる場所で『実力行使をしたことの是非』が大激論になった。そして広小路キャンパスでは誰が持ち込んだかわからないが、いくつものドラム缶や石油缶に薪を入れ火を焚き、その周りで幾重にも学生が集まり深夜まで『封鎖』を巡って激論が交わされた。そしてその間をヘルメット、ゲバ棒姿の全共闘がデモをするという異様な光景が毎日見られた」(鈴木元『立命館の大学紛争とは-経過と時代-』「立命館・大学紛争の五ヵ月・1969」(文理閣、2013年))と述懐している。

民青☞1967年12月13日

 師岡問題が起り、北山さんが二十二日に辞表を出し、今日からの試験も二十五日に延期になった。
 師岡問題とは、大要以下の通りである。
 「文学部日本史の師岡佑行非常勤講師が、教壇で「民青は非暴力主義を唱えながら、隠微な暴力をふるってサークル活動を圧殺する。学生諸君はすべからくヘルメットとゲバ棒でやれ」と講義したのをとらえて、代々木系の文学部二部学友会が、教授会に、師岡講師の言動は立命館の「平和と民主主義」という教学理念に反するという公開質問状を出した。
 教授会では師岡講師に説明を求め、師岡講師は事情説明の文書を教授会に提出したが、教授会で代々木系であるとされる岩井忠熊教授が、「暴力肯定である」と発言、師岡講師は1968年度限りで講義を委嘱されないことになる。…中略…
 非代々木系の突き上げの中で、調査に同意した北山茂夫教授(非代々木系)」「が辞任」(鈴木沙雄『特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃』「朝日ジャーナル1969年2月9日号」(朝日新聞社、1969年))した。
 この記事に対して教授の岩井忠熊が抗議し、朝日ジャーナルは「岩井忠熊教授の発言以下を「思想、研究の自由の立場から、事件が師岡講師の進退問題に及ぶことに反対したが、大学紛争の混乱から毎年一月に決められていた講師委嘱が決定されなかった」と改めます」(「朝日ジャーナル1969年3月2日号」(朝日新聞社、1969年))と訂正している。
 ただ発言の内容以前に、二部学友会の質問状に(師岡発言は)「暴力肯定」とあり、この質問状は二部学友会から二部協議会を通じる形で文学部教授会に出されている。その二部協議会に文学部から選出されていたのが岩井だったことから、岩井が本問題と無関係だったとは考えにくい。

 1968年度後期試験は、一部では23日(木)からの予定だったが、延期になった。
☞二十歳の原点序章1968年4月12日「北山先生の史学史をムリしてとることにした」

 門を入れば存心館があり、中川会館があり、大学院建物、学館がある。それを自明のものとしてみていたが、大学院校舎が建てられた時は、清心館や研心館は建てられていなかった。
立命館大学広小路キャンパス
 広小路キャンパスで校舎が完成したのは、存心館が1928年(1954年増築)、中川会館が1936年、大学院棟が1950年である。研心館は1953年、清心館は1957年に完成した。

 「産社」は私が高二の一九六五年に講義開始である。
 産業社会学部は、広小路キャンパスの敷地内ではなく、河原町通りをはさんで南東にあたる恒心館を校舎として主に利用していた。
 恒心館☞1969年3月8日

 研究室会議、五者会議、学振懇、全学協議会、補導会議……それらの会議で何が行われているかもあまり知らない。
 当時の立命館大学には学生参加の協議機関が上から3段階あった。
・全学協議会…理事会、教授会、学友会、教職員組合
・学園振興懇談会…各学部長(理事)、学友会(自治会)、大学院生協議会、教職員組合
・学部五者会談…学部長、教学主事(教務担当教員)、補導主事(学生担当教員)、事務長、学部自治会代表
 また文学部では独自に各専攻別に研究室会議があった。
・研究室会議…教授以下教員、大学院生、学部学生
 一方、補導会議は総長・学部長がメンバーである学生補導関係の大学側の機関である。
☞二十歳の原点序章1967年9月15日「きのうの学振懇は」
高野悦子「二十歳の原点」案内