高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和40年)
宇都宮で1965年
宇都宮広域図1965

1965年 3月14日(日)
 金曜日には県立体育館を使って練習をした。
栃木県体育館
栃木県体育館 栃木県体育館(地図上参考)は、栃木県宇都宮市中戸祭にある栃木県立の体育館である。
 1965年に本館がオープンした。バスケットボールコートなら2面として使う。

1965年 5月 9日(日)
 関東大会県予選中部地区予選が、中央女子高体育館で行われた。
栃木県立宇都宮中央女子高等学校
栃木県立宇都宮中央女子高等学校 栃木県立宇都宮中央女子高等学校は、栃木県宇都宮市若草町(現・若草二丁目)にある高等学校。

1965年 6月 2日(水)
 今、この日記を書いている所は、宇女高近くの矢野さん宅だ。やっと今日から下宿、でもハッキリ言えば無理に下宿させてもらったのだ。
 矢野さん宅は、宇都宮市内の大島宅のことである。建物は建て替えられ、現存しない。
☞二十歳の原点巻末高野悦子略歴「昭和四十年六月、クラブ活動と進学勉強の板ばさみで宇都宮の大島宅に下宿」
「矢野さん」(大島宅)ご家族の話
大島宅下宿跡 本ホームページ編集人は、当時を知る「矢野さん」(大島宅)ご家族に直接取材し、当時の話をうかがった。ご家族はとても上品な方だった。高野悦子についてのご家族の話は次の通り。
 「当時、ウチでは宇都宮女子高校の生徒を賄い付きの下宿として預かっていて、その一人だった。母屋に通じる離れがあり、高野悦子さんはその離れの部屋で暮らしていた。そこで、いろんな本を読んでいたんじゃないかなと思う」。
 「高野悦子さんはきれいなかわいい人だった。二十歳の原点(大学生時代)の写真よりは幼かったけど」。
 また、ご家族は上を見つめ記憶をたどりながら「いろいろ会話をしたのは間違いないが、はっきりと思い出せるものがなくて」と申し訳なさそうな様子で語られた。取材にうかがった当方も恐縮してしまった。
☞1965年6月4日「朝食が七時半くらい」「八時十五分(二十分でもよいが)に下宿を出発する」「夕食は七時四十分くらい」
☞1966年1月12日「部屋(下宿)には、ストーブもこたつもないのでガクガクです」「狭いながらも楽しきわが家」
☞1966年2月8日「「お風呂にお入り下さい」「ハーイ」」
宇女高バスケット部同級生「一生懸命なカッコ」

1965年 8月24日(火)
 二十日─国立病院に行く。
国立栃木病院
国立病院 国立栃木病院(現・独立行政法人国立病院機構栃木医療センター)(地図上参考)は、栃木県宇都宮市中戸祭にある国立の総合病院。2013年に現在の名称に変更した。
 栃木県には1974年4月に自治医科大学附属病院ができるまで大学病院がなかった。

1965年 9月 3日(金)
 生徒会誌第9号を読んだ。
生徒会誌
 生徒会誌は宇都宮女子高校生徒会の機関誌である。
 毎年2月に主に2年生と3年生を編集委員として発行していた。前年(暦年)の動きやクラブ・クラス紹介、文芸作品、特集記事などで構成。生徒会発行では最もメインの出版物だった。高野悦子が在学した3年間に発行されたのは第9号(1965年)、第10号(1966年)、第11号(1967年)になる。
生徒会誌表紙第10号表紙第11号表紙
 「生徒会誌第9号」(栃木県立宇都宮女子高等学校生徒会、1965年)では、グラビアや生徒会長、学校長の文章に続いて、「わたくしたちの主張」「読書感想文」「職員寄稿」。さらに「特集:「母」─その姿を考える」「随想」「研究(クラブによる発表)」「昭和39年度のあゆみ」「欧米見聞記」などが掲載されている。

 写真と共にこの文がのっている。文は赤津孝司先生だ。
 グラビアページを指している。写真では1964年に完成したばかりの新館南校舎と古い講堂が一緒に写っており、その下に文が添えられている。
生徒会誌グラビア写真随想・自分を生きること
 赤津孝司先生(仮名)は大町雅美のことである。
 大町雅美☞宇都宮で1964年

 『「自分を生きること」三年六組 萩原博子』を読んで。
 「生徒会誌第9号」46頁の随想コーナー冒頭に掲載されている3年生の文章である(写真上参考)。高野悦子からみると2学年上で、この時点では高校を卒業している。部活のバレーボールクラブでの体験を通じて自分のスタイルでの生き方を大切にしていくことを考えている。
 「つい先日6月27日、全日本高校男女バレーボール大会県予選がありました。準々決勝で須賀高校に勝ったあの時の気持、忘れることができません」「全日本県予選大会に出場するにあたって、みんなでこんどの試合の目標をたてました。去年優勝したことがあるのに、今年は一回戦チームになり下がってしまって、是非とも準決勝に出ようと話し合いました」「そして勝ったのです。目標を達成する喜びは気持のよいものです」。
 「すべての物に甘さはないように思われます。すべての物に、世の中すべての事に…」「人が見ているからといって、固くなってはだめなのです。萎縮してはだめなのです。のびのびとせい一杯やればよいのです」「体裁にこだわることなく自分に忠実に、自分を生活の中に出していきたいと思います」(『自分を生きること』「生徒会誌第9号」(栃木県立宇都宮女子高等学校生徒会、1965年))
 また文章の中で筆者は武者小路実篤の「もう一息」の詩が好きだとしている。
☞1964年11月22日「もう一息」

1965年11月27日(土)
 帰りに三人で、フードセンターでおでんを食べた。
みさおフードセンター
 みさおフードセンターは、栃木県宇都宮市大寛二丁目にあった食料品・軽食店である。
宇女高前通り当時のフードセンター
 宇都宮女子高校の正門を出て正面の通り沿い南側にあった。木造2階建てで1階部分が店舗だった。食料品店からスタートし、後に店内の一角にカウンター席を設けて、おでんや焼きそばなどの軽食を出した。店は家族経営で朝から午後7時くらいまで営業していた。
 宇都宮女子高校は弁当持参が多く校内に売店もあったため、平日の昼食で来る生徒はいなかったが、土曜日の午後や部活後の帰りに自宅が遠い生徒が食事で立ち寄った。学校の休み期間中に補習や自習で登校する生徒も利用した。
 高校の正面の通りは1965年当時はバスが行き交うなど通行量が多く、生徒たちの主な通学路にもなっていた。
 みさおフードセンターは軽食専門となり、店名も焼きそば・みさおとなって、夏にはかき氷が人気となった。建物は建て替えられた。現在は休業している。
焼きそば・みさお
 付近の路上で女性に尋ねたら、偶然その方が当時店を切り盛りしていた奥さん本人で、「『フードセンター』は店の昔の名前で、私がやってたの」と大変喜ばれた。
 奥さんの長男は「本に登場するのがうちの店だということはすぐわかった。宇女高生が学校近くで出入りする店は少なくて、『フードセンター』という名前が付くのはここしかなかった」。
 「私は高野悦子さんより年下だが、それでも比較的年代が近かったこともあり、中学から高校時代にかけて出た「二十歳の原点」シリーズの3冊は全部買って読んだし、映画も見に行った。同じ世代では周りでも本を読んでいる者が多く、大きな存在だった。そのころの地元では宇女高は高野悦子の母校というイメージもあったくらいだった」と話している。

1965年12月12日(日)
 キリスト教会にいった。
福音伝道教団宇都宮キリスト教会
 福音伝道教団宇都宮キリスト教会は、栃木県宇都宮市戸祭町(現・昭和三丁目)にあったプロテスタント系団体の教会である。
教会の地図周辺の空撮
 福音伝道教団は来日したイギリス人女性の宣教師が1919年に栃木県足尾町(現・日光市)でスタートした伝道を始まりとし、主に北関東で活動が行われ、1927年に福音伝道協会として組織、1951年に現名称に改称した。
 宇都宮キリスト教会では1965年当時、高校生らを対象とした集会が毎週開かれ、聖書の学習や祈りなどが行われていた。クリスマスの集会などもあり男女別学の高校生にとっては男女の出会いの場にもなったという。
 福音伝道教団宇都宮キリスト教会は宇都宮市内で移転して活動を続けている。
 当時の建物は取り壊され、現在は駐車場となっている。
宇都宮キリスト教会跡

1965年12月26日(日)
 明日から七時に起き、七時半の汽車で宇都宮へ。自民会館でのアルバイト。七時間労働、五百円。三十日まで。
 私は、私の労働を栃木新聞社に売った訳だ。
自民会館
 自民会館は、栃木県宇都宮市本町にある自由民主党栃木県支部連合会の施設。栃木新聞社は、南側の道路をはさんだ向かいにあった。
自民会館地図自民会館
高野悦子「二十歳の原点」案内