高野悦子「二十歳の原点」案内 › 序章1967年6-12月 ›
1967年 9月15日(金)
きのうの学振懇は、総括(主に昨年五月以降の)を中心に十時間にもわたって行なわれた。
学園振興懇談会(学振懇)は、立命館大学にあった各学部長(理事)、学友会(自治会)、大学院生協議会、教職員組合による協議機関である。立命館大学にあった学生参加の協議機関としては上から2番目にあたる。
☞二十歳の原点1969年1月23日「研究室会議、五者会議、学振懇、全学協議会、補導会議」
1967年度第4回学園振興懇談会は9月14日(木)午後7時から広小路キャンパス中川会館総長公室で開かれ、約130人が参加した。
議題はいわゆる同和教育問題をめぐって、立命館大学がまとめた「同和教育の総括と今後の方向」(立命館大学大学協議会、1967年7月26日)についてである。
同和教育問題
同和教育問題は、立命館大学の教職科目である「同和教育」担当の非常勤講師だった東上高志が雑誌「部落1966年4月号」(部落問題研究所出版部、1966年)に掲載した「ルポ東北の部落」をめぐり、1966年5月、部落解放同盟京都府連合会京都市協議会から、“東上ルポは許し難い差別であり、講師としている立命館大学に善処を要求する”という抗議を受けたことに端を発する問題である(「立命館大学総長宛て申入れ書」(部落解放同盟京都府連京都市協議会、1966年5月23日)参考)。
解放同盟京都府連内部の対立や施設の帰属をめぐる文化厚生会館事件などと同時期に起きたこともあり、同和教育問題は実質的には東上寄りの共産党・民青系とそれに対する反共産党・反民青系の党派的な紛争の色合いも有していた。同時にそれは立命館大学の自治会活動での争点にもなった。
大学側としては10月から始まる後期に先送りしていた教職科目「同和教育」の開講を控えて早急な決着を図る必要があった。
同和教育が議題になった学振懇に高野悦子が参加したのは部落研(民青系)に所属していたためで、日記の記述も民青系の立場と軌を一にしている。
部落研は「学内外からの圧力、干渉が」「事実だとすれば、大学の自治・学問の自由にとってきわめて重大な攻撃である」
(「立命館大学当局宛て公開質問状」(立命館大学一部部落問題研究会・二部部落問題研究会、1967年5月12日))として、大学側と独自に交渉を行っていた。
※本問題はその経緯や決着をめぐって議論があるが、ここでは高野悦子の日記に沿った事実関係についてのみ触れる。
部落研☞1967年5月10日
学校側はあたらずさわらずといった平穏な総括をのべるし、
学振懇ではまず大学側が「同和教育の総括と今後の方向」に至る経過と内容を説明した。
内容は、教学担当常務理事名の前文で同和教育に「大学としての主体的積極的な取り組みに欠けるところがあった」としたうえで、第1章「総括」が①総括にあたっての出発点、②同和教育に対する教職員の取り組み、③同和教育の諸方策、④同和教育の体制からなり、第2章「今後の方向」として①差別意識の克服、②部落問題の研究の充実、③学生への教育体制の改善などが盛り込まれている
(『「同和教育の総括と今後の方向」について』「教学時報25号」(立命館大学、1967年8月27日)参考)。
文自を中心とする分裂主義者達は差別キャンペーン、差別キャンペーンとがなりたて、差別者は自己批判せよというし、
文自は、一部文学部自治会(反民青系)のことである。文学部が「同和教育」の担当講師を推薦する仕組みになっていたことから、同和教育問題は文学部で特に大きな議論になっていた。文学部自治会は執行部が反民青系の立場で、この問題について大学側と学友会(民青系)を追及する形となった。
学振懇で文学部自治会執行委員長は「差別拡大に終止符を打ち、差別に対する正しい共通認識に達するためには各パートの自己批判的な総括が必要である」としたうえで、文学部自治会自身も「部落研を中心にした運動の誤った展開に巻き込まれ差別拡大の役割を果たした」と述べながら、部落研(民青系)を批判した。
分裂主義者☞1967年5月2日「よく言われる〝分裂主義者〟について」
出身学生同盟(途中ですてゼリフを残して出ていった)も例のキンキラキンとした調子でがなりたて、
出身学生同盟は、「差別キャンペーン糾弾立命館大学部落出身学生同盟」のことである。
立命館大学の解放同盟京都府連系学生により1967年6月30日(金)に結成された。同和教育問題について「差別キャンペーンを学生の手で徹底糾弾しよう!」というA3版4ページの文書を出し、7月1日と3日に計25,000枚を立命館大学の各キャンパスで学生や教職員に配布するなどの活動を行っていた。
出身学生同盟は、部落研が反解放同盟、差別活動の中心的役割を果たし、解放同盟メンバーの学生をサークル活動から排除したと主張、部落研側と対立していた
(『差別キャンペーン抗議運動起す─部落出身学生同盟結成』「解放新聞1967年7月25日」(解放新聞社、1967年)参考)。
「この学振懇は差別キャンペーンの延長でしかない」と述べて退席した。
その上またもや武藤氏という学外者が入り暴力もふるった。
武藤氏(仮名)は解放同盟京都府連の役員。
それを関は暴力の事実があったことを認めながらも、現象をとらえて本質をとらえないという論法で、暴力をも擁護する言葉をはいており、
関(仮名)は一部文学部自治会執行委員長(3年生)。「これは暴力事件を民主主義という一般化する問題ではない。暴力事件の事実確認ではなく、基本的人権を脅かす差別キャンペーンを行った事実を追及すべきだ」と発言した。
学校側は暴力事件の事実確認さえもさけようというビビリ方、
暴力事件の事実確認をめぐって、大学側は意見調整が必要だとして休憩を求めた。
学振懇は徹夜となり、混乱したまま9月15日(金)午前5時30分に散会となった。当時9月15日は敬老の日の祝日で休日だった。敬老の日は2003年から9月第3月曜日になった。
※本項全体について『共通認識深まらず─第4回学振懇』「立命館学園新聞昭和42年9月21日」(立命館大学新聞社、1967年)、『同和教育の一連の経過と問題』「立命館学園新聞昭和42年10月11日」(立命館大学新聞社、1967年)、『六七年「同和教育」問題』「立命館百年史通史二」(立命館百年史編纂委員会、2006年)参考。
1967年 9月17日(日)
晴
京都:曇・最低19.3℃最高27.0℃。日中は晴れ間があった。
十六日の一時からの講演会で板橋さんの力強い声を聞いて、
同和教育に関する講演会は、9月16日(土)午後1時から広小路キャンパス存心館16号教室で開かれた。学園振興委員会主催、一部学友会、法学部自治会、産業社会学部自治会後援(いずれも民青系)のイベントである。
存心館☞二十歳の原点1969年2月15日
高校時代、バスケットの試合のとき、インターハイ出場をきめる作新との試合に負けたときのくやしさがあるのに、
作新は、栃木県宇都宮市の作新学院高等部(現・作新学院高等学校)。
☞二十歳の原点ノート1965年8月24日「二十三日─作新との試合」