本光山妙福寺 - 福島県会津坂下町にある日蓮正宗寺院


妙福寺の基本データ


山号・寺号


正徳6年(1716年)4月16日の年月日が刻まれた地蔵堂の喚鐘銘に、「細工名村 本光山妙福寺 第十八世通玄院日達」と見られるのが寺号・山号の最古の史料である。


住所


福島県河沼郡会津坂下町海老細


寺蹟


①本堂・②庫裏・③地蔵堂・④表門・⑤宝蔵

① 本堂
御堂式で、昭和12年7月10日に建立された。それ以前には元禄年間に建立されたものがあったらしい。

② 庫裏
本堂とともに昭和12年に建立された。

③ 地蔵堂
慶長18年(1613年)に建立されたという言い伝えがあるが詳細は不明である。

④ 表門
嘉永年間に建てられた。正面上部に掛けられた山号の書かれてある板札の裏面に「嘉永2己酉 施主葛岡休徳 塚原佐蔵」とある。

⑤ 宝蔵
昭和12年本堂再建の際に、それまで境内にあった宝蔵を本堂の奥に移し、それを内陣とした。現在御本尊が御安置されている所である。従って現在宝蔵はないが、境内にある歴代の石碑の中に「本山三十一世日峰上人 文政五午三月八日 題目三百部供養 宝蔵造立」とあり、文政5年(1822年)に建てられたものであることがわかる。


寺宝


御本尊 
四十八世日量上人御書写「嘉永四辛亥太歳三月大吉日(英師の加筆あり)」貞宥坊日晝授与の御本尊が本堂に安置されている。それ以外には第60世日開上人の御本尊がある。(計二幅)

御影 
天保5年(1834年)日誠上人御開眼になるもので、御体内の札に「造営信教主 貞宥日畫野州黒羽内得最初之尊像也」とある。当時の壇越で郷土史を研究されている井関敬嗣氏の話によると、幕末に目黒某なる者が百箇寺参りをし、野州黒羽で修行した結果住職としての認可を受け妙福寺住職となったという言い伝えがあるそうでそれが貞宥坊日晝師ということも考えられるということである。
地蔵(子安地蔵)地蔵堂に祭られている。天文5年(1536年)6月に当地を襲った阿賀野川の洪水で流され、像の裏書などは一切不明である。井関氏の話によれば千年以上前のものということであるが、「新編会津風土記」には「運慶作と云伝ふ」と記され、もしそうであれば鎌倉時代のものになってしまい時代に食違いが起こる。今日では体内に第62世日恭上人の御本尊が収められ、また第56世日応上人花押のある袈裟が懸けられている。


開山 


日尊上人(史料はなく、同寺の言い伝え)


開基壇那 


真言宗寺院を改宗させたためなし。


建立年月日


嘉元3年(1305年、史料はなく、同寺の言い伝え)


沿革(蓮華・寺院紹介より)


本光山妙福寺の開山が日尊上人であることもまた建立年月日にしても、正史料があるわけではなく、「家中抄」にも全く見られない。しかしながら同寺に残る地蔵堂やその中の地蔵菩薩像を見ていると、中世からの古い寺院であるということも十分納得がいくようである。
伝説によれば日尊上人が嘉元の頃同地方に赴いた時、それまで真言宗の寺院だった当寺を改宗したということで、「新編会津風土記」には地蔵の化身である少年が村の疫病の平癒を願って日尊上人を地蔵堂の前まで招いた伝説が記されている。
その時以来今日に至ってもなお地蔵堂や地蔵菩薩堂が境内に残され、地蔵の体内には日恭上人の御本尊が収められており、更に日応上人御染筆の袈裟が懸けられたままで村の壇越の人々の信仰の対象となっているということは、いかに村人の地蔵菩薩に対する執着が強いかということを示すものであり、これが昭和28年の妙福寺謗法払事件の根本原因になったともいえよう。
また同寺には日尊上人によって刻まれたといわれる題目碑があったようで、これは「大日本寺院総覧」にも記載されている。昭和12年本堂再建の際、内陣に安置したが、昭和28年に当時の住職久保川法章の手で取り払われたということである。
日尊上人と妙福寺の関係は以上の如くであるが、その後中世末から近世にかけての同山はこれを知る記録・伝説ともにほとんど残っておらず、境内にある歴代住職の石碑のみに多少の手懸りが掴める程度である。その中で、寺蹟欄の宝蔵のところで文政5年の本山日峰上人の名が刻まれた石碑の史料を紹介したが、「本山三十一世」とは会津実成寺歴代日峰師のことである。この石碑によって文政5年頃の実成寺妙福寺の本末関係が知られ、実成寺日峰師の手によって妙福寺の宝蔵が造立されたこともわかり貴重な資料といえる。
こうして開創以来妙福寺は興門派の寺院でありながら同一境内に本堂と地蔵堂とを並立させるという本宗寺院としては特異な形態のまま現代に至ったが、昭和28年になって、時の住職久保川法章の手で地蔵堂内にあった三十三神及び前述した尊師の手になると伝えられた題目碑が取り除かれたことにより、村人達の間でつくられていた題目講との仲が不和となり、いわゆる妙福寺謗法払事件が起こった。
抑々題目講とは以前真言宗であった村人達が尊師の手で寺院が改宗したのとともに当寺が当宗に帰依したのに源流があり、その当時まで本堂で月に1回の講を開いていたということで、古来からの信仰対象としていた地蔵堂への執着は深く、これに対して創価学会が住職久保川法章を支持して問題は更に大きくなった。
今日においてもなお、地蔵堂とその前面の境内は正式には「地蔵寺」と称され、妙福寺とは別箇のものとなって、題目講の流を引く村の壇越達の管理するところとなっている。
妙福寺については以上の如く、一貫した寺史というものが甚だ掴みにくく、それは片田舎にある小寺院ということにも関係があろう。
しかしながら当寺は今後とも住職は置かれず、ただ中世からの古い寺院ということで寺跡のみ村人の管理に任されて残されるということで、このような記録が書かれるのもこれより後はほとんどないと思われ、この記事が後世のために寸分なりとも参考になることを祈って筆を置く次第である。

兼務住職は会津若松市実成寺


matunokaze0000さんからの情報


① 妙福寺の隣の地蔵堂は「地蔵寺」といって独立した単立の宗教法人になっています。境界線は、妙福寺の本堂と地蔵堂の中間点だそうです。

② 妙福寺では、お盆など年に数度、管理も兼ねて実成寺様が読経されます。無住のお寺ですが、管理は行き届いています。

③ 実成寺に戻っている妙福寺の元檀家さんもおられるそうです。

④ まだ、新潟県内に日蓮正宗寺院がない頃(昭和20年代)、妙福寺で御授戒を受けたという信者さんがいます。


 富士年表における記録


昭和28年(1953年)1月20日 福島県河沼郡妙福寺にて謗法払い事件起る(聖教67)
4月30日 (第64世)日昇(上人)、妙福寺の謗法檀徒を離壇(聖教74)