水車のお話

このお話は、私が尊敬する大正15年生まれのPC友達が、メールで送ってくれました。
今では貴重な資料と言っても過言ではないでしょう。
何かの参考になればと思い、したためます。

水車小屋は
戦後農機具が普及して精米が動力で出来るようになるまでは、
農村の必要欠くべからざるインフラの一部でありました。
そして今は懐かしい文化遺産です。

私の生まれた村は、所帯数30戸程の小さな村でしたが、
水車小屋は3棟ありました。

上から水を受けるのが2棟、中ほどから水を受けるのが1棟ありました。
そして、そのうちの2棟の株をもって精米や製粉に利用していました。

うす
臼は確か3個あったと思います。

水車に近い方から、元臼、中臼、えぼ臼と呼んでいました。
そして、それぞれ米なり麦なりを入れる量が違っていました。

水車に近いほど、エネルギーの伝達量が大きい為に、
同じ量を入れた場合は、元臼が一番早く搗き上がります。

そして、各自の利用する順番は、
え と
その家の所帯主の生まれた干支で決めていました。

           とりどし    
私の父は酉年生まれでしたので、酉の日になると米の袋を
  ちょうちん
背負わされて、母について、時には提灯をぶら下げて
家からは、どちらも500メートル位離れた所の水車小屋通いをした
思い出があります。


それから年1回株主が集まって、掃除やらメンテナンスをしていましたが、
ネズミが沢山いて、それを捕まえて焼いて食べていたのが
すごく印象的でした。

「里芋の皮むき水車」も懐かしい道具です。
            い で   かんがいよう
私の所は井手(灌漑用の水路)を利用して回していました。

わら
藁ぐろも最近は殆んど見かけなくなりましたが、
昔懐かしい農村の風物詩の一つです。

稲こぎも、藁ぐろを作る段階になると1日の作業が終わって、
やれやれと思える瞬間でした。

だらだらと、取り留めの無いことを書きましたが、最後までお読み頂き
有難うございました。

貴重な資料を有難うございました。忙(せわ)しない今の時代には、こうした昔の良さを見直して、
ゆっくり心にゆとりを持つことが、大切なことではないでしょうか?


残念なことですが、平成27年10月2日 90歳にてご永眠なされました。
ご生前のお姿を偲び、ここに謹んで心からご冥福をお祈り申し上げます。合掌