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INDEX版(概略を知りたい方は、こちらからどうぞ)
第五章
第40日目 2003.6.17 ろんどん荘旅館(伊予三島市)泊
65番札所 三角寺
苦しい峠越えにあった、接待所の大西さん
冷たいお茶や果物をご接待していただいた
番外14番 常福寺
今回、番外では唯一納経したお寺
手厚い接待を受けた
自画像
民宿 岡田のおやじさん
第41日目 2003.6.18 民宿岡田(池田町)泊
いよいよ難関、雲辺寺へのお遍路道へ
66番札所 雲辺寺 五百羅漢
果てしなく続く、下りの遍路道
「雲辺寺を下りてきたお遍路さんは、みな 喉が乾いてるはずジャが、水を飲む場所も 自動販売機もない。
まあ、ここに座ってコ−ヒ−でも飲んで行け。」
「ここで、お遍路さんが下りてくるのを待ってるんじゃ」
67番札所 大興寺
遅れたおやじさんが、大興寺へ向かう
第42日目 2003.6.19 藤川旅館(観音寺市)泊
68番札所 神恵院
69番札所 観音寺
同行二人。
弘法大師が一緒にいてくれる。
そんな風に聞いてたが私の後ろには、常に誰かがいて、励まし、守ってくれていました。
辛い、寂しい、怖い山の中でも、常に後押しをしてくれていた人。
観音寺を離れて行くときに、寂しい気持ちで去りがたかった時、
ぐんと押してくれた。
何故か、涙が止めどもなく流れて、道を歩きながら汗と一緒に拭いていた。
観音寺市は、今は亡き父親が特攻隊の訓練を受けた場所。
どうしても行きたかった地。
孝太郎君には「悪いが、一人で歩かせて欲しい」と言い、先に出発してもらった。
70番札所 本山寺
71番札所 弥谷寺
72番札所 曼茶羅寺に向かう
73番札所 出釈迦寺にて波多野さんと電話
73番札所 出釈迦寺
72番札所 曼茶羅寺
第43日目 2003.6.20 民宿門先屋(善通寺市)泊
74番札所 甲山寺への道
74番札所 甲山寺
75番札所 善通寺(真言宗善通寺派総本山)
大きすぎて、通過するのが精一杯
76番札所 金倉寺
「善根宿 まんだら」の住人と
77番札所 道隆寺
井出さんと合流
78番札所 郷照寺
坂出の民宿松竹旅館の前で
第44日目 2003.6.21 松竹旅館(坂出市)泊
坂出の松竹旅館を出て、すぐに
貝のお守りをご接待下さいました
79番札所 高照院
80番札所 国分寺
今村さんと
第45日目 2003.6.22 せと国民旅館(国分寺町)泊
81番札所 白峰寺
81番札所から 82番札所根香寺に向かう遍路道
82番札所 根香寺
第46日目 2003.6.23 旅館百々家(高松市)泊
83番札所 一ノ宮寺
84番札所 屋島寺
角度21度もある遍路道を一気に登って来た
第47日目 2003.6.24 ささや旅館(高松市)泊
85番札所 八栗寺
何故か、一人で涙している人が多かった
86番札所 志度寺
86番札所 志度寺を出て、すぐの喫茶店でご接待を受けた
87番札所 長尾寺
「藤原さん撮るのは勘弁して下さい」
いよいよ明日、88番札所でこの旅も終わり
第48日目 2003.6.25 あずまや旅館(長尾町)泊
長尾寺の前の民宿 あずまや旅館の女将さん
ここが、最後の宿となった
女体山を目指して
山道に入ってはじめての、水
ここからが、本当に遍路道、難所だった
最終日は、広島から旬遊の発行人である杉川さん
陶芸家の香山さんも福山から駆けつけた
途中、車道に出た。
このまま車道を行くか、難所の遍路道を行くか相談した
すでに
女性の今村さん、岸本のおやじさんは、遍路道へ入って行った。
息子の孝太郎君は、もう女体山の頂上を過ぎた頃
いよいよ最後の難関である、鎖場を登り頂上を目指す
88番札所 大窪寺
終わった
二人は、ここから
1番札所にお礼参りに行く
そして、和歌山経由で高野山をめざすことになる
88番札所で結願し山門を出た処
2003年6月25日(49日間)結願
2003年7月4日高野山 納経
同行二人(どうぎょうににん)
こんな杖は邪魔だなと思いつつ1番札所を出発した旅。
88番札所に着いた時、この杖は、身体の一部になっていた。20cmも短くなった杖。
「奉納して帰らないの?。」
とんでもない、人生の大きな節目に一緒に歩いてくれた杖
なんで、ここに置いて帰らなくてはいけないのか人生の終わりまで、そばにいて欲しい。
同行二人。
孝太郎君へ
四国八十八ヶ所を歩いて廻りたいとふと思い、旅だった私でした。
歩くことと写真を撮ることの難しさ、何を撮ったらいいのか判らない出発。
そんな中で偶然知り合った孝太郎君達親子。
アルコ−ルを断ち切る決心をして、足を引きずりながら歩くおやじさん、そして遅れてくるおやじさんを待つ息子・・・。
「アルコ−ル依存症の父親を立ち直らせようとする息子」
そんな風に見えて、私はおやじさんと孝太郎君あなたちふたりを撮り始めました。
しかし、本当は違っていました。
私も含めお遍路仲間の多くは、自分に置き換えて二人を見ていました。
自分のふるさとに帰れば、家族が待っている人もいる。すでに亡くなってしまっている人もいる。
それぞれが家族を思いだしていました。
誰しもがあの親父さんの結願は無理なのではないかと思いました。どこまでもつだろうかと思いました。
しかし、みんなが疲れて休んでいるときでも、一時も休まず亀のように、歩き続け追いついてくる親父さんの姿に感動を覚え、
その姿は、遍路仲間・宿の人たちの思いを一つにしました。
「うらやましい」と思いました。
そこには、親子の葛藤や人間の弱さ、もろさ、そして強さ、人生の縮図を見たように思います。
そんな二人と後半は一緒の宿でした。
孝太郎君、いろんなことがありましたね。
いつも2時間以上遅れて、ぼろぼろになって宿に着く親父さんが、
ある日、いつものように私もへとへとになって宿を探しているとき、浴衣を着てさっぱりした姿で
「こっちだ!こっちだ!」と大声で呼んだときは、唖然としました。
落胆している孝太郎君を見るのが忍びない思いでした。
こんな孝太郎君に、私は「若い孝太郎君は、潔癖主義だろうが、私の年になるとベストでなくてもベタ−もあることを考えるんだ。
おやじさんも、考えているはずだから。目的を達成することを最優先に考えて、目をつぶっては」といいました。
そしてとうとう、お酒の臭いがし始めたおやじさんに「親父、車はしかたない。
しかし、酒はやめろ」と遍路仲間の前で君は言いましたね。
でも、私はおやじさんを軽蔑する気持ちはおこりませんでした。私の中にもある弱さを鏡で見るような思いでした。
他の遍路仲間の人たちも同様です。
あのひたむきに歩く親父さんを見ている人は、同じ気持ちで見ていて、車に乗ったり・お酒を
飲んだりということが判っても変わることはありませんでした。
なんとか最後まで行ってくれと願うような気持ちでした。
広島に帰って来て、礼状と写真を送った汐浜荘の女将さんから、電話を頂いたときに、
まず聞かれたのは、「あの親子はどうなりましたか」でした。
「無事、結願されました」と伝えると「私は、お父さんは絶対無理だと思った。よかったわ。」と本当に喜んでいました。
87番札所でおやじさんが「藤原さん、明日はお友達が一緒だから、今日が最後だね。ほんとうにありがとう。」
「私こそありがとう、そばに二人がいなかったら、私こそ結願できたかは判りません。」